近代東アジアを明治年号で鑑みるスレ
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001 2023/02/22(水) 04:01:10 ID:gUqleeTtgI
069 2025/07/03(木) 00:00:23 ID:wdMDwW2ZmY

国際通貨制度の歩み 国際金本位制が成立するまで
国内取引や国際取引に,各地域の多様な金属貨幣が,金銀の純度に応じ,そのときどきの金銀比価・相場によって使われた。そのほかに政府紙幣,中央銀行券,一般銀行の預金通貨も使われるようになった。
金本位制は,まず英国で,ナポレオン戦争が終わってしばらくした1816 年,戦費増大による正貨流出の恐れがなくなってから成立した。ついで1871 年,ドイツが,普仏戦争で得た賠償金をもとに金本位制に踏み切り,ドイツと密接な貿易関係にある北欧諸国が続いた。米国では南北戦争中に停止されていた金兌換が,1879 年に再開された。日本はドイツと同じ1871(明治4)年に新貨条例によって,形式は金本位制になった。日清戦争での賠償金をもとに,ちゃんとした金本位制になったのは1897(明治30)年10 月である。そして現在までの国際通貨制度の推移は,表1 のとおりで、金本位制は,第1次世界大戦で中断された。再建されたが,世界大恐慌を生み出した。景気回復のためには,金本位制を停止して,管理通貨制度に移る必要があった。しかし各国は,輸入を抑え,輸出を伸ばそうとして,為替切り下げ,関税引き上げを競い,第2 次世界大戦を招いた。こうしたことを反省して,ブレトンウッズ体制がつくられた。国内は,景気変動の緩和と完全雇用を目指す管理通貨制度,そして国際は,ドルに固定した為替相場で管理,というわけである。ところが,ドルがばらまかれて信用を失い,変動相場制になり,再建された固定相場制も成功せず,再び変動相場制に戻って40 年,今なお為替の競り合い(関税も)やマネーの暴走などが続いている。
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070 2025/07/03(木) 18:36:55 ID:wdMDwW2ZmY
>>69 兌換性(だかんせい、Convertibility)
が最初に重要な問題となったのは、貨幣供給において紙幣が実物貨幣に取って代わり始めた時期である。金本位制と銀本位制の下では、紙幣は額面どおりの価値で硬貨と交換できたが、破綻した銀行や政府は、準備金を過剰に保有することが多い。歴史的に見ると、銀行券は西欧諸国で共通の、あるいはよく似たパターンをたどってきた。もともと分散化され、さまざまな独立銀行から発行されていた紙幣は、次第に国家の管理下に置かれ、中央銀行の独占的特権となった。その過程で、銀行券は実物貨幣(金や銀)の代用品に過ぎないという原則は徐々に放棄されていった。金本位制のもとでは、たとえばブレトンウッズ体制の下では、発行銀行は自国通貨を金地金、または米ドルに交換する義務を負い、米ドルは1トロイオンスあたり35ドルの公定レートで金地金に交換できた。金準備の増加には限界があり、ドル供給が大きくインフレしたため、米国は1974年に金為替本位制と金地金兌換bullion convertibilityを廃止した。
現代の国際通貨体制では、通貨は発行者(政府や中央銀行)の不換紙幣に基づいて発行され、有形資産への兌換は保証されていない。
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071 2025/07/27(日) 03:03:52 ID:7G4k3rN3Zw

トリスタンダクーニャ
1506年にポルトガルの探検家によって発見された南大西洋辺境の無人島で
大西洋中央海嶺上に位置する火山諸島トリスタンダクーニャ諸島の最大の島 現在はイギリスの海外領土
最初の確実な上陸は1643年オランダ東インド会社の船乗組で1656年には群島の最初の大まかな海図を作成した
徹底的な調査は1767年にフランスのコルベット艦 の乗組員によって行われた。
アメリカ独立戦争の勃発により13植民地への流刑囚の移送が停止された後、イギリスの刑務所は過密状態になり始め~島を調査が行われたがどの島も入植に適さないことを確かめた。
1816年イギリスは領有を確保するために守備隊を派遣し、諸島を併合し、南アフリカのケープ植民地の属国とした。これは、セントヘレナ島の牢獄からナポレオン・ボナパルトを解放しようとするいかなる試みにも、島が基地として利用されるのを防ぐための措置と説明された。
イザベラ・バードは富士山に望む際、本島に言及している
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