「バカ殿」モデルは誰だ。


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001 2010/01/08(金) 15:21:59 ID:4zoTUh8A
落語「目黒のさんま」のモデルが、徳川吉宗や、某大名に擬せられている
ように、「バカ殿」にもモデルが居るのではないか。
幕府からの疑念を避けるため、鼻毛を伸ばし続けてバカを装った、金沢藩
初代当主前田利長が有力候補に上がりそうだが、それでは、ストレートす
ぎて面白くない。
重賢以外名君がいない(忠興の父藤孝は除く)細川家の当主は、候補にあ
がりそうだが。参勤交代の路銀が捻出できず、幕府に泣きついた宣紀や、
人間違いで殺された宗孝等だ。

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013 2010/01/09(土) 23:28:26 ID:ShPVT/rQ
今川義元じゃない
もしくは今川氏真

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014 2010/01/10(日) 00:07:40 ID:FdaEP1G.
総理大臣やってたあいつだろ

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015 2010/01/10(日) 00:31:14 ID:vbxVk4ak
織田信長

・変わり者
・新しいもの好き
・発想が奇想天外
・家臣に無理難題を押し付ける
・でも実は結構怖がり

なんだかんだ言っても面白いし、人を惹きつけるなにか魅力がある。

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016 2010/01/10(日) 08:58:54 ID:/v5RoOhw
いもと

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017 2010/01/10(日) 15:09:24 ID:31Zypk4U
加藤明成

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018 2010/01/10(日) 15:12:27 ID:31Zypk4U
>>9
たしかに、このエピソードは利常のものだった。
訂正して、お詫びします。

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019 2010/01/10(日) 19:44:51 ID:OA3rKxQc
最上義俊。

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020 2010/01/11(月) 11:01:24 ID:Ww/hKWmI
生駒高俊。
老中、土井利勝の娘を嫁にもらいながら、その自覚が無く、ホモに走ったばかりか家中の党派抗争を招き、領地没収、流刑になった(海音寺潮五郎著「列藩騒動録」より)。

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021 2010/01/11(月) 13:37:16 ID:w7x4Dbic

          



                    金正日

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022 2010/01/11(月) 14:12:07 ID:styzoULU
これだろ。

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023 2010/01/11(月) 18:04:48 ID:9ew/CfgQ:au
北条高時

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024 2010/01/11(月) 22:48:25 ID:tV7W/QAw
>>13
今川義元は栴岳承芳と玄広恵探の家督争いで北条を味方に付け、勝率こそ高くないが領地を
拡げ、三国同盟を結ぶ器量があった

不肖の子と一緒にするのは気の毒

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025 2010/01/13(水) 17:08:54 ID:h6ekS1cI
織田信雄の徳川家臣間のあだ名は、「阿呆様」だった。
家康とその重臣は、彼を「三介殿」と呼んだ。三介は信雄の幼名だが、彼は内大臣だった
ので、「内府殿」と呼ばれるのが自然のはず。

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026 2010/01/13(水) 20:40:22 ID:jgpudBMw
>>落語「目黒のさんま」のモデルが、徳川吉宗や、某大名に擬せられているように

某大名って誰!?なんでここだけ隠すのか分らん。

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027 2010/01/15(金) 16:32:06 ID:d2l/Zw.E
>>26
そもそも吉宗説からして、眉唾だ。彼は、子供のころ家臣の加納家に預けられ、
加納家の子として育ったから、極端な世間知らずだったわけがない。

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028 2010/01/15(金) 18:06:01 ID:DoBC6JRM
「バカ殿」の定義ってなんだ?
鼻毛のエピソードは「家の生き残り」のための戦略だし…。
「そうせい候」みたいのが、そうだって言う事?
維新後、長州は躍進したけどね。

「君臨すれども統治せず」みたいのは 
どこもそうだったろうし…なまじ現場に介入するとさ。

一番は幕府潰しちゃった「慶喜」さん?

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029 2010/01/16(土) 16:45:23 ID:d2l/Zw.E
>>26
某大名とは、松平出雲守直政、又は松平出雲守家の当主、とされる。
将軍に擬したのは、先代正蔵(彦六)だと言われている。

言動からして、そして改易されたことあって差し障りのない、里見忠義あたりではないか。

>>12に、ビジュアル的にダントツで小早川秀秋、とあるが、人生そのものが、オバカだ。
50万石の太守にしては死因もはっきりせず(小姓に睾丸をけられて死んだ、という奇説
あり)、改易後旧家臣は、(関が原での裏切りから)「小早川侍」と嘲られ、再仕官でき
た者は、一人もいなかったと言うから、相応の恨みも買ったはずだ。

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030 2010/01/17(日) 14:48:32 ID:dCD5qRJM
そういえば、談志がどこかで、「彦六師匠の『目黒のさんま』は、他の人
のとは、少し違っていた。」と書いていたな。

詳しい人名事典を見ればわかる事だが、江戸時代の大名は、夭折している
者が多い。この時代の武家の子は、脆弱に生まれ育つ例が多かった。それ
が最大の要因だったと思われる。300年弱続いた平和の時代に、大名は
機関化し、施政は重臣に委ねられた。自然、小沢一郎が海部俊樹を首相に
担いだ時の言葉、「どうせ担ぐなら、軽い神輿の方がいい。」に象徴され
る心情が、各藩の家老クラスに蔓延していたとしても不思議ではない。飾
り者にされた大名は、他にすることがなく、酒色に耽り、命を縮めたのが
第二の原因だろう。その過程で、比較的経済的余裕があり(特産物がある
藩、塩の赤穂藩等)、江戸や京都所司代から遠く監視の目が届かない藩で
は、それこそ、志村けんのコントのような事態が無かったとは言えない。
つまり、特定の一人物ではなく、複数の浮かれた大名、あるいは大身の旗
本が複合されてモデルになっているのではないだろうか。

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031 2010/01/21(木) 12:27:55 ID:NQSvNxbuFU
モデルと時代がシンクロしているとは限らないので、難しいね。
「水戸黄門漫遊記」だって、講談として成立したのは、幕末でしょう?
「赤穂浪士事件」は、幕藩体制を憚って、46年後に、時代を「太平記の
時代に置き換えて、「仮名手本忠臣蔵」として初演された。幕末になると
階級格差感が薄れ、水戸家を憚る必要も無くなったのだろう。
幕末、京都にあった徳川慶喜は、臨時職ながら、「将軍後見役」であり、
慣例なら一橋家の当主の極官は「刑部卿」なのだが、慶喜の官位は、本家
水戸家と同じ「中納言」であった。この慶喜に「一橋黄門に御目通り願い
たい。」と、申し込んだのが、久坂玄瑞である。長州藩攘夷派の領袖とは
いえ、「陪臣」で無官の平侍だ。徳川光圀は旗本達との会食を好んだ、と
と言われるが、彼等は直参である。慶喜は「無礼な。」とは思ったが、自
身の明晰さに自信のある彼は、玄瑞を論破してやるつもりで会おうとした
が、幕府の大目付に止められた。「病気」だとして面会を避けたのだが、
久坂らは、さらに数時間粘った後、放言しながら帰った。
京江戸の差はあるとして、階級間秩序が崩れていた証左となるエピソード
だろう。
モデルの在る無しは別にして、エピソードの成立時は、幕末期と見ていい
のではないだろうか。

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032 2010/03/02(火) 17:21:32 ID:APd5coO3d6
志村けんのバカ殿は高勢実乗のパクリ。

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033 2010/03/02(火) 17:24:33 ID:APd5coO3d6
034 2012/06/25(月) 03:27:12 ID:..YooFiPjA
島津は悪辣

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035 2018/06/24(日) 21:01:13 ID:BWupCxfvSo
馬鹿を装ってるのも馬鹿殿に間違われそうだなw

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