モデルと時代がシンクロしているとは限らないので、難しいね。
「水戸黄門漫遊記」だって、講談として成立したのは、幕末でしょう?
「赤穂浪士事件」は、幕藩体制を憚って、46年後に、時代を「太平記の
時代に置き換えて、「仮名手本忠臣蔵」として初演された。幕末になると
階級格差感が薄れ、水戸家を憚る必要も無くなったのだろう。
幕末、京都にあった徳川慶喜は、臨時職ながら、「将軍後見役」であり、
慣例なら一橋家の当主の極官は「刑部卿」なのだが、慶喜の官位は、本家
水戸家と同じ「中納言」であった。この慶喜に「一橋黄門に御目通り願い
たい。」と、申し込んだのが、久坂玄瑞である。長州藩攘夷派の領袖とは
いえ、「陪臣」で無官の平侍だ。徳川光圀は旗本達との会食を好んだ、と
と言われるが、彼等は直参である。慶喜は「無礼な。」とは思ったが、自
身の明晰さに自信のある彼は、玄瑞を論破してやるつもりで会おうとした
が、幕府の大目付に止められた。「病気」だとして面会を避けたのだが、
久坂らは、さらに数時間粘った後、放言しながら帰った。
京江戸の差はあるとして、階級間秩序が崩れていた証左となるエピソード
だろう。
モデルの在る無しは別にして、エピソードの成立時は、幕末期と見ていい
のではないだろうか。
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