元寇は鎌倉武士の実力勝ち
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001 2010/03/09(火) 10:22:30 ID:FBqpTU/2Fc
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ
八幡ノ蒙古記
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002 2010/03/09(火) 13:06:05 ID:8DCD6dE5SY
日本が中国のように長城以南は遮るものが何もない大平原だったら、
瞬殺だったと思うよ。海に浮かぶ山だらけの島だから攻める方は大変。
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003 2010/03/09(火) 13:36:18 ID:cHMob7gGh6
以下蒙古襲来絵詞と八幡ノ蒙古記、元史、高麗史など一次資料からの引用が延々と続く
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004 2010/03/09(火) 16:24:02 ID:ABJ85yvSzI
005 2010/03/09(火) 19:04:17 ID:4v/XT94I1Q
>>2 日本が中国のように長城以南は遮るものが何もない大平原だったら
ってそれもう日本とは呼べないだろ
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006 2010/03/10(水) 00:06:40 ID:K5N9FlKKH.
>>2 日本が島国だから攻めにくいというのは錯覚。
同じ島国のイギリスなんて大陸から征服されまくってるじゃん。
モンゴルは騎馬部隊を中核とする4万もの大軍を九州に上陸させながら、僅か1日の鎌倉武士に惨敗した。
元寇は鎌倉武士の方がモンゴル軍よりも強かったから勝った。
ただそれだけ。
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007 2010/03/10(水) 06:38:41 ID:gspD2ppbK2
>>6 イギリスと大陸の距離は、台湾と中国大陸より近いからな。
対馬から朝鮮半島ぐらいの距離しかない。
イギリスは日本と違って、ほとんどまっ平らな土地だし。
山だらけの日本みたいな土地に住んでると君みたいに無知な島猿が出てくるよね。
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008 2010/03/10(水) 10:14:55 ID:g2S.eW4h4s
実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。
しかし、それに対する日本からの返答は、
「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。
我が国には、水沢の地や山海の洲にも
備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません
(来るなら来いよwwwボコボコにしてやんよwwww)」
という挑発的なものであった。
当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国を返り討ちにするほどの日本に、
自分が攻め込んでも勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。
明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」
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009 2010/03/11(木) 00:37:33 ID:cl1C6R.BpI
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
<訳>
そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。
【広開土王碑】より
すべての準備が整った西暦202年10月、
この勇猛な女王は肥前の海岸から出航し、無事に新羅の海岸に上陸した。
新羅王はこの東国から来た精強な軍隊と巨大な船団を見て大いに驚愕した。
恐れおののいた新羅王は、直ちに服従の意を示した。
彼は自分の手を縛って女王に拝謁し、自分は日本の奴隷であると宣言した。
神功皇后は自分の矛を王宮の門に立て、新羅王の服従のしるしとした。
彼女は門に「新羅国の大王は日本の犬なり」と書いたとさえ言われている。
ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』より
なぜか日本から大陸への侵攻では日本海は障害になってないようで
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010 2010/03/11(木) 01:38:04 ID:ltsoWa1svA
昔から航海術に長けた民族なのかな?
日本人は
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011 2010/03/11(木) 02:29:15 ID:YxYxUoOxww
012 2010/03/11(木) 02:30:14 ID:68e9KynxwU
航海術なら、世界各地域の海洋に面した国・島ごとに発達してる。
人智にそれほど差は無いだろう。
たまたま漁師の家に生まれた若者が船に乗り、潮流に詳しくなったり、
志のある冒険家が遠洋へ漕ぎ出したり、国家として権益を広げたり、
海洋権益を他国から守ったりするために海軍力を整備し、船舶が進歩
発達してきたのだと思う。
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013 2010/03/11(木) 12:49:42 ID:cl1C6R.BpI
どちらにせよ
橋頭保も確保できず戦略目標の大宰府どころか
水城が見えるところまですら到達できず
福岡平野沿岸部をうろうろしただけ
先駆けレベルの武士団だけで返り討ち
弘安に至っては上陸すらままならず数カ月も海上を逃げ回った蒙古・高麗軍
地形が山がどうの言う以前の段階で元軍は敗北している
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014 2010/03/11(木) 15:13:51 ID:uKjpIdlB6o
南宋の軍って軍人より移住希望の農民が多かったんでしょ。
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015 2010/03/11(木) 15:52:22 ID:CvKM34av22
>>14 全員、旧南宋兵から選抜され、移住希望の農民なんて含まれていなかったよ。
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016 2010/03/11(木) 16:24:26 ID:cl1C6R.BpI
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、
海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった
14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、
沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である
元朝は日本商船の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、
しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる
中国の歴史12 第5章 王勇
単に農民失っただけならこうはならんよね
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017 2010/03/11(木) 18:34:22 ID:xvigfc6UL6
学校の歴史の授業では台風で元の船が沈まなかったら日本終了だった、運が良かったな、みたいな感じで教えられたな。
実際は陸地に拠点を築けずに海に追い落とされてさまよってる間に台風に遭遇したみたいだが。
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018 2010/03/12(金) 01:22:30 ID:hevQghXyEw
モンゴル軍とはいえ、ほとんど半島+南宋軍だったんでしょ?
負けるわけないじゃん。
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019 2010/03/12(金) 11:05:23 ID:KxnU0A.Tpk
>>18 もともと元はそういう混成軍で他国との戦いに勝ってきてるんだがw
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020 2010/03/12(金) 11:13:41 ID:KxnU0A.Tpk
そもそも東路軍の内訳のうち
高麗軍はわずか1万だ
あとは水手1万5000
のこりは元軍1万5000
ほとんど半島とはいえない
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021 2010/03/12(金) 16:05:25 ID:YpkX7v/WgY
022 2010/03/13(土) 12:49:27 ID:WdMeYCgXJQ
ところが日本史の教科書は、日本が助かったのは日本を侵略した張本人である高麗のお陰だとか書いてるんだよ。
狂ってるよね。
しかも、恐ろしいことに現代の日本人の大半は、子供のころから洗脳され続けた結果、この滅茶苦茶な歴史教育に何の疑問も持ってないんだぜ。
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023 2010/03/13(土) 15:08:59 ID:IOhR.9sAiA
それはおかしい話だね
もともと忠烈王が自身の出世のためにフビライに進言した話なのに
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024 2010/03/14(日) 02:18:09 ID:KtU7YNgnvM
025 2010/03/14(日) 02:29:13 ID:KtU7YNgnvM
026 2010/03/14(日) 11:51:39 ID:n7bIW82apc
文永の役(第1次侵攻):退却を決定して逃げている最中に遭難
弘安の役(第2次侵攻):6月上旬から約3ヶ月上陸を阻止され漂流、ついに遭難
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027 2010/03/14(日) 13:18:44 ID:n7bIW82apc
028 2010/03/15(月) 16:20:10 ID:sYDgeKgHHA
029 2010/03/17(水) 12:59:27 ID:IsP3HDR8zY
高麗史にある軍議の記述。文永の役の博多の戦闘後。
わずか1日で元軍戦意喪失。
元軍司令官「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」
高麗軍将軍「我が兵少なしといえども既に敵地に入っている。船を焼き背水の陣でまた決戦したい」
元軍司令官「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」
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