卑弥呼の遺跡の可能性が強まってる纒向遺跡の発掘で、最近、大規模な建造物跡なんかが出てきて
構造が、大和朝廷時代に通じる配置・構造で、これが邪馬台国かはさておき
この奈良・桜井周辺の纒向遺跡が大和朝廷に連なるものであることははっきりしたといってよい。
平城京だなんだといったような、左右対象の構造になっている。但し、平城京などが中国思想を取り入れ南北に正中線を置くのに対し、東西(つまり太陽の運行方向)に正中線を置くのが特徴。
しかし構造上、これが大和朝廷に連なる遺構であると判断できるものになっている。
となると、卑弥呼や壱与が天皇位のプロトタイプということになってくる。
これは王様というより、部族合議社会において、祭祀を司る神への生贄として擁立されるような存在。壱与なんてまだ幼い少女ですからね。
本来の天皇位というのはこのような部族らの、神と対話する代表者として各部族から輩出されるようなものだったのだろう。
それが強い勢力を持つ部族が独占するようになっていき、実力上の王位と祭祀長が兼務されるようになっていって政教一致の天皇位となっていった。
部族の合議社会という政治構造は、疑う人は少ないんじゃないか。
しかし「和珥氏は一時は大和王権に匹敵するほどの勢力を持ってた」とか言われると「はぁ?」と思う。なんの証拠があってそんなことを!
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