オットー・スコルツェニー
(1908年 - 1975年)
ドイツの武装親衛隊大佐。
1931年にオーストリア・ナチ党に加わり、すぐに突撃隊に入隊した。
当初から指導者としての適性を示し、1938年3月12日のドイツのオーストリア合邦
の際には、併合協定調印を拒んだヴィルヘルム・ミクラス大統領をナチ党の暴漢か
ら守った。
ヒトラーが創設を望んでいたコマンド部隊の指揮官に推挙された。
1943年に失脚して幽閉されていたムッソリーニを救出する(グラン・サッソ襲撃)の
指揮を執った。スコルツェニーは幽閉場所が山頂ホテルであることを突き止め、グ
ライダー降下し、ムッソリーニを救出。
1944年、ユーゴスラビア指導者、チトーを誘拐し、バルカン半島の共産主義勢力を
壊滅させる作戦で部隊が司令部に到達した時、チトーは数分前に脱出した後であった。
1944年ヒトラーはスコルツェニーにアメリカ軍に偽装した戦車部隊の編制・指揮を
命じた。ドイツ軍の最後の大反攻となったバルジの戦いでこの特殊部隊はアメリカ
軍を恐怖に陥れた。一部の兵士は捕らえられたが、『部隊がパリを襲撃し、最高司
令官のアイゼンハワーを誘拐または暗殺しようとしている』との噂を広めた。アメ
リカ軍の警備は強化され、アイゼンハワーは何週間も司令部に閉じこめられること
となった。この時「ヨーロッパで最も危険な人物」と呼ばれた。
スコルツェニーは1945年5月に連合国に降伏し、収容されたが1948年7月に収容所か
ら脱走。
スペイン指導者フランコから与えられたパスポートでスペインに定住し、エンジニ
アとして戦前の仕事を再開。1952年にはドイツ政府から「ナチス主義者ではない」
と宣言され、海外旅行が可能となった。
後にエジプトのナセルおよびアルゼンチンのフアン・ペロンのコンサルタントとし
て働き、元親衛隊員の互助組織とされる「オデッサ」で、友人数人を支援したと噂
された。
西側世界における有力な右翼人士としてみられ、その繋がりでアルジェリア戦争の
後半期にはスペインに亡命したラウル・サランやOAS、ロッジP2とも接触を持った
とされる。アルゼンチンで財を成し、マドリッドで死去した。
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