>>196 緒戦に限らず、交渉期間中(1595-96)秀吉軍統治区に、
朝鮮人が流出したり、朝鮮商人が往来して、
市場が賑わっていて、李氏朝鮮政府が対応に苦慮している記録もあるね。
西生浦付近の百姓らは、悉く日本の占領地に立ち返って農耕に従事し、
租税を清正に収めているばかりではなく、日本の風俗に従って起居し、
遠近の商人らが互いに往来して市が賑わっていることが、
清正の副将美濃部金太夫と要時羅の書面に依って明らかになった。
朝廷では敵の交通路を断ち、より活発に敵中の百姓らを招慰する方針を
都元帥以下諸官に密命した。
宣祖実録巻六十一 三月甲戌 懲鋆録巻四
六月二十三日、日本軍に変装した匪賊四十余人が、晋州の陽全里に押し寄せて、
伏兵将李永寿と女児二人を拉致し去った事件があった。
その頃、晋州・固城沿海の漁夫らが土賊どもと結託して、日本軍に変装して横行しながら
掠奪狼藉の限りを尽くしていたので、怯えた百姓らは、それを避けて日本軍占領地区である
咸安郡・鎮海県・漆原県地方の郷里に帰って、こ屋を建て農耕に従事する者が増えた。
略
これに対する備辺司の処置を見れば、先ず李永寿が一矢も報いずに
捕らえられたのは不当千万であるとし、晋州判官朴思斉を
巡察史軍営に呼び出し、笞刑を加えて見せしめにした。
宣祖実録巻六十四 六月甲子
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