戊辰戦争


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001 2012/04/30(月) 11:51:07 ID:63eX1p73sU
戦国時代と並んで大好きな時代
語り合いましょう

まずはネタを投下
幕軍が東征軍に勝つためのチャンスはいくつかあったと思いますが、
そこはどこだと思いますか?

あと自分が個人的に好きなこの時代の人物は河井継之助です。

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※省略されてます すべて表示...
016 2012/05/04(金) 01:43:23 ID:nUUJHzZdec
慶喜は、元々胸の内にソフトランディングに寄る政権移譲を目指していた。
血気にはやる幕臣たちをなだめるために形だけの宣戦布告をやっただけ。
幕府を護ることより、国内の争乱が、拡大することで
欧米列強の付け入るすきを与える事を恐れていたからだ。

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017 2012/05/04(金) 20:39:10 ID:THNUstVS4Y
>>16
元々彼が脳裏に描いていた国家構想はルイ・ナポレオンの
フランス第二共和国の形態であったと思われます

事実、大政奉還したからといって朝廷がまた幕府(慶喜)を
頼りにしてくることは分かりきっていましたし
実際、いきなり政権を返上されても朝廷自身には何かできるわけでもなく
すぐに頼ってきましたけどね

すでに小栗忠順らによって徳川中央集権国家路線は敷かれていたものではあったけれども
慶喜は将軍になってからもそれを強力に推進させ
大君(徳川家)を政権の中心とした具体的な構想を持っていた
この大君というのは行政府の長にして上院議長を兼ね
その上院では膨大な徳川直轄領を背景に他を圧する発言力を持つものとされていたもので
このほか、旗本を再編した全国守護兵という直属軍を置く構想までもあったようでして

大政奉還による公議政体論はあくまでも幕権の温存を狙ったものと
武力討幕派の出鼻をくじくためのもので
慶喜は大政奉還でさえ自分の権力強化に利用するつもりであったかと

ですのでソフトランディングによる政権移譲を目指す〜の部分はちょっと?です
(私が勝手に政権移譲=大政奉還との前提でレスしてますが、違ってましたらすみません)
しかし、孝明帝の死によって大久保、岩倉たちが幼帝を手中にした後の
王政復古のクーデター〜鳥羽・伏見の敗戦後の彼の心境は
稲田さんの言うことに同意しますけどね

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018 2012/05/05(土) 00:47:58 ID:fneydOY0gA
>>16
徳川慶喜は誰に宣戦布告したの?

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019 2012/05/22(火) 17:16:28 ID:wDkmpY36jU
下馬評では幕府軍が圧倒的に強かったんじゃないの?

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020 2012/05/22(火) 20:35:22 ID:hHzluA00.k
数の上では圧倒的に幕府軍が上
装備の質でも互角以上 幕府には当時最新の海軍があった
しかし、肝心の総大将である徳川慶喜に戦う意思がなかった

以下wikiより
1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。
これは敵味方を問わず慶喜の敵前逃亡として認識された。
慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。
また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

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021 2013/09/25(水) 21:44:29 ID:OLUWBf5eFs
このメールが見当違いの時はご容赦ください。
この度、日本文学館より小説「渋太夫自害」を67歳で初めて書きました。
全国の書店で購入できますが、無名の新人ですので取り寄せになると思います。
内容は奥羽鎮撫総督「九条道孝」が海路より仙台に入ってから会津降伏までの約半年間、
北は「きみまち坂の戦い」から、南は「旗巻峠の戦い」、「世良修蔵事件・秋田川反事件」、
これらのかかわりなどを、パノラマ的にとらえたつもりです。
それと幕末の桜田家と「養賢堂・北辰一刀流・清河八郎・坂本龍馬」のかかわりや、
山南敬助と桜田家の関係も書いております。(販売は10月からです)

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022 2017/10/14(土) 03:13:45 ID:WRAuCHPnBY
前後関係も見てよ

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023 2020/08/29(土) 11:21:36 ID:iJOg7yw9XU
大阪や青森のある島は澳州島である。澳州島の周辺地域の旗。

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