戊辰戦争


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001 2012/04/30(月) 11:51:07 ID:63eX1p73sU
戦国時代と並んで大好きな時代
語り合いましょう

まずはネタを投下
幕軍が東征軍に勝つためのチャンスはいくつかあったと思いますが、
そこはどこだと思いますか?

あと自分が個人的に好きなこの時代の人物は河井継之助です。

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004 2012/04/30(月) 13:13:33 ID:aqcNkEEJB6
チャンスねぇ

新撰組による甲府城遠征が故郷の多摩で足止めされなければ

また奥羽越列藩同盟と函館政府の軍艦は幕府海軍の残党なわけだが
あれが次々と座礁しなければよかったのだ

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005 2012/04/30(月) 14:18:01 ID:iRAOOamAII
龍馬伝

龍馬暗殺以後〜戊辰戦争に至るまでの話を大河にして欲しいな

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006 2012/04/30(月) 16:19:06 ID:1xPo4Lj0oY
戦国時代と違い、
下手すると植民地化される恐れがあったからなあ

もし幕府が勝ったとしたらその後が怖い

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007 2012/04/30(月) 18:57:32 ID:AT3LvGwbc.
そうなんだよなあ、列強の植民地にされないために、極めて微妙なバランスの上で
戦争をしていたんだよな。双方共、それを知っていたんだと思う。

武器装備は列強の輸入品。下手すりゃ列強の介入を招きかねない状況だった。
つうか普通の国なら介入されていた。少しでも自己保身や金儲けを考えているやつがいたら、即座に。

この戦争ってのは、立場の違いこそあれ、命を投げ打って「日本のために」双方戦ったものだと信じるよ。

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008 2012/04/30(月) 21:32:45 ID:K8dx9BE6Kw
会津・プロイセン同盟が成立してビスマルクが艦隊派遣してる最中に普仏戦争が勃発してたらそらーもう面白い事になっていただろうね

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009 2012/04/30(月) 22:28:52 ID:63eX1p73sU
>>7
泣けるほど同意だ
いつだったか随分前に、年末の時代劇で幕末ものをやってた
その中でたしか土方が、

「私はね、薩長の連中にこの国を思いっきり高く売りつけてやりたいんですよ
 犠牲が多ければ多いほど、この戦いの後に
 日本という国をそりゃあ良い国にしてくれるでしょうからね」

と言ってた
子供心に激しく胸に響いたな

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010 2012/04/30(月) 22:34:35 ID:ydAYGYjuE2
>>4 同意だな

榎本艦隊のダメっぷりが無ければ、蝦夷共和国の線は有り得たかもしれないが
失地奪回は無理でしょ

>>1
河井継之助の強兵中立の概念は時代に早すぎたね

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011 2012/05/01(火) 22:48:42 ID:IoV0y8AWGE
司馬遼太郎だったかな河井はスイスのような国に
しようと思ってたって書いてたの。
間違ってたら申し訳ない。

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012 2012/05/02(水) 18:22:00 ID:xbqKatMx4o
会津藩の残念ぶりしか思いつかない。

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013 2012/05/02(水) 18:54:05 ID:HppJPvuA8M
小栗忠順の献策「箱根挟撃作戦」が実行されていたら
戦争の行方はどうなっていたんだろうか?
一応、理にかなった案だったようで
後に大村益次郎は「その策が実行されていたら今頃,我々の首はなかった」
と述べているくらいだし

幕軍に挽回できる余地があるとしたら
小栗・榎本ら主戦派を退けないでいて
江戸城を無血開城をする前くらいまでじゃないかな

でも大阪城から逃げ帰る時に
将軍の旗印である大金扇の馬印を忘れて帰ってきちゃう大将だからね
部下がヤル気満々でもトップが及び腰では如何とも

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014 2012/05/02(水) 22:42:43 ID:Jbol.0RBVA
>>13
戊辰戦争時代の「戦争」で、大金扇の馬印なんぞに
こだわってるほうがダメなんじゃないかねえ?
ヤリや刀の戦国時代じゃあるまいし...

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015 2012/05/02(水) 23:35:54 ID:PeD9WtzoHc
>>10
榎本艦隊を出すとはワロタ
まったくその通りwww

この艦隊って、何か作戦行動を起こす度に嵐に巻き込まれて
艦が減るんだよなw
江戸を脱出して東北に向かう最中、
宮古湾に向かう最中

でも開陽と甲鉄との勝負は見てみたかった気がする
火力と速力に勝る開陽か、無敵の防御力を誇る甲鉄か

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016 2012/05/04(金) 01:43:23 ID:nUUJHzZdec
慶喜は、元々胸の内にソフトランディングに寄る政権移譲を目指していた。
血気にはやる幕臣たちをなだめるために形だけの宣戦布告をやっただけ。
幕府を護ることより、国内の争乱が、拡大することで
欧米列強の付け入るすきを与える事を恐れていたからだ。

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017 2012/05/04(金) 20:39:10 ID:THNUstVS4Y
>>16
元々彼が脳裏に描いていた国家構想はルイ・ナポレオンの
フランス第二共和国の形態であったと思われます

事実、大政奉還したからといって朝廷がまた幕府(慶喜)を
頼りにしてくることは分かりきっていましたし
実際、いきなり政権を返上されても朝廷自身には何かできるわけでもなく
すぐに頼ってきましたけどね

すでに小栗忠順らによって徳川中央集権国家路線は敷かれていたものではあったけれども
慶喜は将軍になってからもそれを強力に推進させ
大君(徳川家)を政権の中心とした具体的な構想を持っていた
この大君というのは行政府の長にして上院議長を兼ね
その上院では膨大な徳川直轄領を背景に他を圧する発言力を持つものとされていたもので
このほか、旗本を再編した全国守護兵という直属軍を置く構想までもあったようでして

大政奉還による公議政体論はあくまでも幕権の温存を狙ったものと
武力討幕派の出鼻をくじくためのもので
慶喜は大政奉還でさえ自分の権力強化に利用するつもりであったかと

ですのでソフトランディングによる政権移譲を目指す〜の部分はちょっと?です
(私が勝手に政権移譲=大政奉還との前提でレスしてますが、違ってましたらすみません)
しかし、孝明帝の死によって大久保、岩倉たちが幼帝を手中にした後の
王政復古のクーデター〜鳥羽・伏見の敗戦後の彼の心境は
稲田さんの言うことに同意しますけどね

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018 2012/05/05(土) 00:47:58 ID:fneydOY0gA
>>16
徳川慶喜は誰に宣戦布告したの?

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019 2012/05/22(火) 17:16:28 ID:wDkmpY36jU
下馬評では幕府軍が圧倒的に強かったんじゃないの?

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020 2012/05/22(火) 20:35:22 ID:hHzluA00.k
数の上では圧倒的に幕府軍が上
装備の質でも互角以上 幕府には当時最新の海軍があった
しかし、肝心の総大将である徳川慶喜に戦う意思がなかった

以下wikiより
1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。
これは敵味方を問わず慶喜の敵前逃亡として認識された。
慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。
また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

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021 2013/09/25(水) 21:44:29 ID:OLUWBf5eFs
このメールが見当違いの時はご容赦ください。
この度、日本文学館より小説「渋太夫自害」を67歳で初めて書きました。
全国の書店で購入できますが、無名の新人ですので取り寄せになると思います。
内容は奥羽鎮撫総督「九条道孝」が海路より仙台に入ってから会津降伏までの約半年間、
北は「きみまち坂の戦い」から、南は「旗巻峠の戦い」、「世良修蔵事件・秋田川反事件」、
これらのかかわりなどを、パノラマ的にとらえたつもりです。
それと幕末の桜田家と「養賢堂・北辰一刀流・清河八郎・坂本龍馬」のかかわりや、
山南敬助と桜田家の関係も書いております。(販売は10月からです)

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022 2017/10/14(土) 03:13:45 ID:WRAuCHPnBY
前後関係も見てよ

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023 2020/08/29(土) 11:21:36 ID:iJOg7yw9XU
大阪や青森のある島は澳州島である。澳州島の周辺地域の旗。

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