>>16 今の世の中、「死ぬほど苦労をしているだけの人間」なら、いくらでもいる。
しかし、「常人なら100%確実に死亡する死線を潜り抜けて来ている人間」となれば、皆無である。
死ぬほど苦労をすることと、常人なら確実に死亡する死線を
潜り抜けて来ていることとは、似ているようで、全く異なる。
死ぬほど苦労をしたところで、所詮は「死ぬほど」であって、本当に死ぬわけではない。やろうと
思えば誰にでもできる範囲だけでの苦労であり、そこに確実な生産性が伴っていたりするのならまだしも、
何らの生産にも繋がらない徒労にまつわる苦労であったりするのなら、却って卑しむべき対象とすらなる。
常人並みの精神力や気力なら、100%漏れなく、確実に、完全に死亡する死線を無数に潜り抜けて来て、
なお健在でいて、しかも、それによって人々に多大なる功徳を振り向けることをも可能とならしめた人間となれば、
これは、自分などが絶対になれない人間でいて、しかも自分などが絶対に成し得ないほどもの回向を可能として
いるわけだから、どんなに尊んでも尊び尽くすことがない、無上の大偉人だということになる。
どんなに死ぬほど苦労をして来たところで、所詮は誰にでも出来る範囲の苦労でしかなく、
しかも、さほどの功績を挙げているわけでもないというのならば、そりゃあ、いくらでも対等や
それ以下の相手としてあしらえばいいわけだが、てめえごときの血筋や境遇や自助努力によって養われる
範囲だけの精神力や気力で臨んだのでは、100%、確実に完全に死亡する死線を無数に潜り抜けてきたことで、
自分なんかにはとうてい覚束ないような、莫大な回向を可能としているような相手に対して、
対等に接したりすることは失礼になるし、実際問題、対等に接したりすることが極めて危険である。
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