壬申の乱
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001 2012/10/20(土) 15:48:16 ID:T3GviJzFns
002 2012/11/12(月) 09:53:35 ID:LJ7pCbHYGw
003 2012/11/12(月) 12:52:10 ID:NNLrMQWwgE
004 2012/12/31(月) 18:24:47 ID:NKYbZd7UmM
壬申の乱以降、天武系がつづいたけれど、
結局、天智系の桓武天皇が腐敗した奈良を捨てて平安時代となる。
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005 2013/01/01(火) 18:25:02 ID:qiJy6BIb5Q
天武系は歴史の敗者
一端は天智系に勝ったけど、妻である持統に裏切られて天智系復活して以降そのまま
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006 2013/01/05(土) 21:42:26 ID:kfWpTMQ8QM
大海人皇子の迂回遠征ルートを、神武東征と関連付ける向きもありますが
このあたりはどうなのだろうか?
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007 2013/01/06(日) 08:36:32 ID:XP4W2jqrrI
日本書紀を作成したのが天智系(持統天皇)。
天武(大海人)系はむしろ天皇家では負けた勢力。それを初代天皇になぞらえるのは無理がある。
単に、昔は進行可能な道・地形が限られているのだから、何かにつけ同じ道を通るのはむしろ自然かと。
天武天智の頃の決戦の場と、関ヶ原が遠くない事を考えれば、要衝は共通していると考えた方が良い。
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008 2013/01/06(日) 14:02:15 ID:fp5eyu38gs
太陽の御子が日を背にして戦うのはよくない、の件と
そこで天照の加護を受けて勝利を収めるという構図が
神武のモデルになったのではないかという説です。
これは坂本勝などが主張しています。
持統天皇は言うまでもなく天武天皇の皇后で
天武在位中から職責にあったとされていますので
天武朝の権威を高めることに否定的であるとも限らないのではないかと思います。
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009 2013/01/06(日) 14:06:05 ID:fp5eyu38gs
あ、あと補足。
神武と天武は同じルートを辿ってはいません。
神武は難波から上陸を諦め、紀伊半島を周り熊野へ上陸、
北上して吉野・宇陀に。
天武は吉野から名張、伊勢を経由して不破の道を抑え
琵琶湖東岸沿いに南下して、瀬田で決戦をします。
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010 2013/01/06(日) 18:58:43 ID:EB8zhRs0oA
>太陽の御子が日を背にして戦うのはよくない
逆でしょ。
>天武朝の権威を高めることに否定的であるとも限らないのではないかと
「限らない」と可能性を言うよりも、「権威を高めていない」と言う事実から考えた方が宜しいかと。
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011 2013/01/06(日) 19:51:03 ID:fp5eyu38gs
>>10 おっと、逆だね。これは失礼。書き損じです。
権威を高めてるってのは俺が言ってるんじゃなくて
学説として強いということだけど、このへんはどのような根拠で
「権威を高めてない」というの?
日本初期が手がけられたのは天武朝なわけだし、
それを意図的に「権威を高めてない」とする根拠が不明瞭だ。
最近の学説でそういうのがあるなら寡聞にして知らないので
教えていただきたい。
※坂本氏の説を支持するわけではないけど、きちんとした反証を聞きたいので。
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