明治維新がいまいち理解出来ない・・・


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001 2014/07/09(水) 08:29:06 ID:UJRGL.Hvos
開国しようとしていた幕府に不満を募らせて、天皇を旗印にした討幕派が勝利して・・・

で、開国したの?
なんで?

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002 2014/07/09(水) 09:19:27 ID:mq7eGMAATw
>>1
めんどくせーよ、アホ

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003 2014/07/09(水) 10:31:50 ID:PYJDrNHH8U
なんだかね
元々の柱がしっかりしているから
我が儘を言えるし
真逆の活動も安心して出来るみたいなところがあるのかね・・・
しかしまあ
本気には間違いないし
なんだあな(^。^;)

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004 2014/07/09(水) 11:55:20 ID:Ly2cbEK5/Q
>>2
誰もアホに教えてほしいとは言わないだろ。

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005 2014/07/09(水) 17:51:48 ID:4uRP5n4Aco
攘夷は異人嫌いだった先帝の意向だからね
トップが代われば方針も変わる

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006 2014/07/09(水) 18:13:40 ID:ZNoqzorTBc
>>1
学生運動に参加してた奴も、しれっと官僚や公務員になった奴がいただろう?
それと同じ。
明治政府は手のひら返した、世渡りの巧いイデオロギーの無い奴の集まり。
本当に日本の事を考えていた人々は悉く命を落としたんだ。

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007 2014/07/09(水) 18:39:10 ID:s/9mWEZlEw
>開国しようとしていた幕府に不満を募らせて、天皇を旗印にした討幕派が勝利して…で、開国

天皇を無視して開国した幕府に不満を募らせて、天皇を旗印にした討幕派が勝利して…で、天皇が勅許を出して開国。
一応、筋は通ってる。

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008 2014/07/09(水) 19:22:01 ID:Xs0k2mG0y2
尊皇思想が高まっていた事が重要だろうな。
黒船来航で日本全国が揺らぐ中、政治を取り仕切ってきた幕府が開国に傾く。
長らく政治的には空気であった天皇家であったが孝明天皇自ら政治的権威を
取り戻し攘夷の意思を伝える。
それでも開国を進める幕府の専横。天皇家を無視するかのような幕府に対し
尊皇攘夷運動が高まり衝突、弾圧や暗殺、薩摩長州のように外国と戦争し
軍事力の差を知ったりと激動する。

攘夷の意志が強かった孝明天皇の崩御により、攘夷は抜け落ち尊皇だけになり
天皇の政治か幕府の政治かで勤皇派と佐幕派に別れたのだろう。

攘夷は孝明天皇の思いであり、攘夷は尊皇の証であった。ただ明治天皇として
その思いは伝わる事がなかったんじゃない。天皇家が「開国」によって
権威が貶められるというような合理的な根拠もないだろうから。
明治維新前の状況はこんな感じじゃないか。

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009 2014/07/09(水) 20:11:35 ID:yBbot4teX.
この時期の天皇の意向なんて、下からの突き上げで言わされてたんじゃねえの?神輿でしょ。
結局イデオロギーの衝突にしか思えなかったけど。

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010 2014/07/09(水) 20:26:25 ID:s/9mWEZlEw
先代から男系で7親等親等離れた光格天皇が即位後、朝廷の権威回復に努めたのも大きい。
ゴローニン事件で幕府に経過報告させるという前例を作ったために、その約50年後、
再び同じような状況に遭遇した幕府は孝明天皇にお伺いを立てなければいけなくなってしまった。

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011 2014/07/09(水) 21:17:37 ID:staH3ukjWw
外国文化を排斥しようとしていた奴らに長期的ビジョンはあったのかね。

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012 2014/07/09(水) 22:07:27 ID:s/9mWEZlEw
外国文化を排斥するとかそういった次元では動いてないよ。
超大国「清」がアヘン戦争を仕掛けられ、西欧の植民地と化してしまった
惨状を目の当たりにした当時の日本人が相当な危機感を持っていた。

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013 2014/07/09(水) 23:31:49 ID:4uRP5n4Aco
危機感だけで頭は空っぽ
勢いだけ喧嘩売って案の定ボロ負けした

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014 2014/07/09(水) 23:49:58 ID:QJIQysSatU
もう少し長いスパンで考えると
薩長が創った明治政府というか帝国体制は昭和に入ると
先祖返りして攘夷を決行する。

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015 2014/07/10(木) 11:09:07 ID:SynyAQ.UNM
詳しい奴多いな

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016 2014/07/10(木) 21:35:42 ID:aEd9hKLjtA
実質的に明治の開国はロスチャイルドの工作によるもの
その目的は英米の国益のためのもの
しかし日本は開国したおかげで食糧事情が飛躍的に改善し
明治維新後は飢饉は一切起きなくなったし
人口の急増も明治以後のこと

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017 2014/07/11(金) 00:44:28 ID:RmUXjbYm3k
当時の指導者たちが西洋に倣いすぎて、何でもかんでも西洋流にしてしまったのは大間違いだった
明治や大正の時代には江戸を生きた日本人がたくさんいたが、昭和の時代になってほとんどいなくなってしまい、軍部がだんだん無能になってきたのもそのせいらしい
今の時代にも言える事だが、見習った方がいいところだけを取り入れられないのかいな?

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018 2014/07/11(金) 02:35:18 ID:gK/FNxXHw2
らしいって随分てきとうだな

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019 2014/07/11(金) 06:01:14 ID:Mo7m8ozgMc
>>17
>見習った方がいいところだけを取り入れられないのかいな?

いや勿論、それは理想だけど、岡目八目と言うモノだろう。
後になって俯瞰すればアレは良い、コレは悪いと指摘できるだろうけど、
異文化が大量に流入してくる渦中にいる人が正確に取捨選択できるかと言えばそれ極めて難しい。

影響が分からないから全体的に拒否するか、悪影響を考慮してでも受け入れるかのどちらかしかなかったと思う。
後から批判するのはさすがに非論理的だと思うよ。

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020 2014/07/15(火) 03:02:13 ID:WKuoSHbmCg
やっぱり大きいのは「黒船来航」だろう すべてはここから来ている

圧倒的な武力を背景に開国させられた と言う事への屈辱感が、日本という国家への意識を目覚めさせた訳で
天皇が治めるべきか幕府が治めるべきかは その後から議論が沸騰したもの

それまでの江戸時代の人間達は「 国家」というものは余り意識はしていなかったのでしょう
このままでは諸外国の植民地にされるのでは という危機意識がそうさせたのでしょう

だから、外国の勢力を撃てという「攘夷」が、当初は幅を利かしていたのに
いつの間にか「開国」に 変化していったのだと思う この辺が理解しにくい部分でしょう。

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021 2014/07/15(火) 04:55:23 ID:K84Lrilc5g
>当初は幅を利かしていたのに いつの間にか「開国」に 変化していったのだと思う

そこを詳しく!

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022 2014/07/15(火) 12:23:18 ID:WKuoSHbmCg
つまり、当時の武士たちが 忠誠を誓っていたのは、あくまでも「藩」であり、「国家」ではなかった
だから、当初は 藩の事情や 藩の利益などを優先してものを考えていたから、様々な思惑が交錯していた訳ですが
日本中、喧々諤々の大議論が深まるにつれて、「国家」という意識が 徐々に芽生えてきたのではないでしょうか

私もあまり詳しくは無いんですが (冷や汗) ^^;

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023 2014/07/15(火) 12:26:19 ID:i.io/aiI/c
≽≽020
≽やっぱり大きいのは「黒船来航」だろう すべてはここから来ている
いやだから、その「黒船来航」から始まっているのは論ずるまでもない事。
そもそもは開国派の幕府を倒した攘夷派であったはずの明治政府が何故開国に
転じたのかが疑問でスレヌシは明治維新がよくわからないと言ってるのね。
「黒船来航」から始まる「開国」か「攘夷」かで日本が割れたのが明治維新のきっかけ。

≽外国の勢力を撃てという「攘夷」が、当初は幅を利かしていたのに
≽いつの間にか「開国」に 変化していったのだと思う 
それは攘夷派、尊王攘夷派に限った思想変遷になるわけだよね。幕府は元々開国派だから。
ではその攘夷派の中心であった薩長が何故開国派になったのか?それは戦争によって
外国の武力を知り今の日本では攘夷が不可能であると悟ったのは明らか。

「開国」か「攘夷」と言う意見対立は倒幕のきっかけだけで、
「攘夷」が目的で倒幕運動したんじゃない。

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024 2014/07/15(火) 16:17:24 ID:WKuoSHbmCg
確かにおっしゃる通り、決して 開国した事が不満なのではなく
外国の言いなりになっていく“情けない幕府”に不満を募らせた事が 倒幕に繋がったのでしょう

まあ、最初は「攘夷」を主張していた勢力は それが無理である事を痛感させられ
遠い将来において「攘夷」を果たすためには、まずは「開国」して 国力を付けなければ駄目だ
という結論に傾いていった訳で そういう意味において「攘夷」と「開国」は矛盾してはいない

欧米諸国への対抗心が 日本人の心に目覚めたのが黒船来航、劣等感と言っても過言では無い
それが富国強兵への原動力の一つになった事は言えると思う

すぐさま外国勢力を撃つべきという「攘夷」から
いつの日か外国勢力を打ち負かす 富国強兵のための「開国」へと変わっていったのでしょう

つまり、外国勢力とずっと仲良くせよ という開国ではなく、いずれ打ち負かすための開国という事
しかし、最終的には(第二次大戦で)打ち負かされる訳ですが。

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025 2014/07/15(火) 18:36:10 ID:K84Lrilc5g
>>22-24
確認したいのですが、それは貴方がた歴史通の方の「推定」ですか?それとも「史実」ですか?と言う点です。

つまり、「○○の記した文書に「遠い将来において「攘夷」を果たすためには、まずは「開国」して 国力を付けなければ駄目だ」という主旨の言葉が明記してある」という事なんでしょうか?

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026 2014/07/16(水) 00:16:09 ID:mMBKKUG4nc
>>25
大国隆正が言ってた『大攘夷論』っていうのがそれです。

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027 2014/07/16(水) 03:06:22 ID:ehoelWNiwU
>>25
そりゃもちろん、「推定」でしかありません 確定した「史実」だったら何も議論する余地など有りません

公文書も新聞記事も録音テープも ほとんど無い時代の事は 推定するしかないでしょう
例えば、嘘か本当か判りませんが 西郷隆盛の顔など 本当は別人だったなどと言われております

「今一度 日本を選択し候」 この言葉は、坂本竜馬が書いたとされる手紙にあった文句で
公文書ではないので、本当に坂本竜馬が書いたという確実な証拠にはならない訳ですが
それを言い出したらキリが無いでしょう。

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028 2014/07/16(水) 06:19:44 ID:ZqlzP7vqL2
>>26
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%98%E5%A4%B7%E8%AB%... ですね。
ありがとう。
ちなみに、この考えが「本当に明治維新の行動を方向/決定づけた」と解るような事実はありますかね?
つまり、こういう「論」があったとしても、結局決定するのはトップ(集団)ですよね?
それらがこの論に影響され舵を切ったというポイント(何年の何会談だとか何談話だとか・・・)はどこなのでしょうか。

>>27
その反応を見ると、気分を害されたようなので謝罪します。
疑うとか、個人の推定を軽んじるとかそういう意味ではないんです。

ただ、「事実」と「通説」と「個人的見解(推定)」を混ぜると、私の頭では解らなくなるので、区別したかっただけです。
>>26さんのように資料(情報)を挙げていただくと助かります。

ところで、「公文書も新聞記事も録音テープも ほとんど無い時代の事は 推定するしかないでしょう」とおっしゃりますが、そんな事はありません。
記紀まで遡らずとも、各種文書で確認(確定)できる歴史的事実はいつの時代にもあります。
そこを楔として打ち込み、論理的矛盾の無い蓋然性の高い「推定」なのか、
それとも個人的好みに立脚した根拠のない「想像」なのかの区別をつける為にはやはり事実が必要です。

私は頭は悪いのですが、何を考えるにも、足場となる「事実」が重要だという事はわかります。


たとえばこの明治維新で言えば、「鎖国していた」「黒船が来た」「外国を排除しようとした派が勝利した」「開国した」という事実は確定しています。
そこで、それを繋ぐ(愚昧な私の知らない)事実を教えてほしいという事なのです。

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029 2014/07/16(水) 12:12:07 ID:ehoelWNiwU
>>28
いや、別に気分を害してはおりませんので お気遣いなく

確かにおっしゃる通りです、どこまでが事実でどこまでが通説なのか ちゃんと弁えておくべきなのでしょうな

ただまあ、今まで事実だと思われていた事が 実は 通説でしかなかったと言う事は 良くある話みたいで
難しい所ではありますね、特に幕末維新の時代は 登場人物や物語りが多すぎて 創作の話が定説になってたり
その辺はよく考えておかないといけませんね。

(ちなみに私はただ この時期の物語が好きなだけで 決して詳しくはありません 悪しからず^^;)

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030 2014/07/16(水) 13:45:13 ID:mMBKKUG4nc
>>28
先の大国隆正の大攘夷論は大国門下生によって王政復古の大号令につながります。
長州は下関戦争の敗北で開国派につくに加えて吉田松陰獄死や池田屋事件で禁門の変を起こして倒幕による急進的尊皇攘夷に動きます。
薩摩は公武合体を唱えて諸藩の連合を訴えますが1863年の参与会議が崩壊して公武合体論は頓挫します。
長州征伐で大打撃を喰らった長州が方針転換した結果、薩摩に近づいて薩長同盟が締結されます。
薩摩の最後の一手の四侯会議を開いて公武合体を為そうとするも徳川慶喜の横槍で崩壊、討幕運動に転換へ。
ここで大国隆正門下が合流して王政復古の大号令へと動き、戊辰戦争に続くわけです。

この流れの一つを作ったのが大攘夷論であったり水戸学であったりしますが、当初からその考えの通りでみんな動いていたわけではなく、
個々の行動が最終的に合流した結果、開国尊皇攘夷で妥協したわけです。
幕府が先に嫌われてくれたおかげで急進的攘夷派が粛清されて鎖国を訴える人がいなくなってくれたのも良い援護射撃でしたね。

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031 2014/07/18(金) 21:20:01 ID:ESRHCCJB0Q
尊皇派も、佐幕派も、どちらも国のため公のために戦ったのは事実
誰も私利私欲なんて考えてなかった
そんなヤツいたら、即座に利用されて欧米の介入を受けてたよ

実に微妙なバランスの上で戦争していた
普通の国なら、こんだけ内戦したら介入されて即座に植民地化だよ

そのことを当時の人達は知ってたんだと思うけどね


それに比べて、今の日本人は安く売国するよなあ、と嘆かわしくもなる

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032 2014/07/19(土) 00:23:08 ID:GqZ/lArk8M
私利私欲がなかったというのは、どうもね。
私利私欲と公益を巧く結び付けてたという感じかな。
大体幕末活躍した志士とか新撰組とか皆身分の低い人間ばっかり。
で新政府の役人は贅沢ばかりと、西郷は嘆いてる。

売国って簡単に言うけど、多くは公益と巧く結びついてないだけ。
昔は良くて今は駄目というのは単純すぎないか。

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033 2014/07/22(火) 06:39:49 ID:JewGGNizrM
これって結局誰が「勝った」の?

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034 2014/07/26(土) 19:11:19 ID:hLG7sLxQhs
中学の教科書に書いてあることですけど。
薩摩藩はイギリス艦隊、長州藩は4カ国連合艦隊との戦いで、攘夷の不可能なことを悟る。
以後、両藩ともにイギリスと接近して、武器購入の便を得るなどする一方、幕府に肩入れ
していたフランスを牽制する役割をイギリスに期待する。フランスに対抗心を持つイギリス
もまた、一定程度両藩の希望に答える。

教科書よりもう少し詳しい、普通の歴史の本に書いてあることを、少し付け足すと、
長州藩を代表する木戸は若い頃に江川太郎左衛門について洋楽を学んだくらいだから、
初めから、神がかり的な攘夷思想は無し。木戸よりも実年齢も精神年齢も低かった
高杉、伊藤、井上は実際に海外に行き、攘夷が無謀であることを実感する。
薩摩藩を代表する西郷、大久保は、開明的な名君といわれた島津斉彬の薫陶を最も
強く受けてたので、木戸と同様に、ナショナリズムはあっても宗教的な攘夷思想
の持ち主ではなかった。

幕末、大部分の武士は時代の風潮である攘夷気分を濃厚に持っていた。これは倒幕側も、
仕方なしに開国に踏み切った幕府側も同じ。その中にあっても、後に明治政府の重責を
担うことになる程の人物は、どこかの段階で、お祭り騒ぎの攘夷気分とは決別していた。
それから、いざ幕府を倒して、朝廷政府で、つまり自らの手で外交問題を処理する段に
なると、何人も—少なくとも責任ある立場のものは—攘夷を口にしなくなった。実際、
当事者になってみれば、攘夷の不可能なことは明々白々だから。

一個人の思想でも、壮年から晩年にいたるまで絶えず終始一貫しているとは限らないので、
ややこしい歴史の流れを正確を伝えようとすれば、もっと詳しい説明が必要でしょうが、
スレ主の基本的な疑問は、中学の教科書の説明でだいたい解決するのではないでしょうか。

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035 2017/09/12(火) 13:13:15 ID:Vh6i65XqaU
一応上から全部読んだけど、さっぱりわからん
やっぱ明治維新て難しいわ

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