浄土真宗の歴史
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001 2019/05/11(土) 16:47:56 ID:fhL3mT8FF6
親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる覚如(1270年-1351年)は、三代伝持等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、本願寺(別名「大谷本願寺」)を建てて本願寺三世と称した。
こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ佛光寺七世の了源(1295年-1336年)など他の法脈は、佛光寺や専修寺などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。
この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は八世蓮如の登場までは、天台宗の末寺として存続していたに過ぎなかった。
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027 2024/06/12(水) 06:46:11 ID:8pBKCE4aPI
>>26 失礼、訂正します。鎌倉幕府が保護したのは、専ら栄西の臨済宗。
栄西は、政治的手腕にも優れた人物だった。曹洞宗も真宗も、開祖
である道元、親鸞の死後は次第に衰退し、室町時代になって中興の
祖と呼ばれる敏腕家の力によって隆盛をみるに至ったのは事実。
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028 2024/06/20(木) 09:50:17 ID:o5i86A9wfk
>>27 親鸞も道元もこの教えを広めようとか後世に残そうだなんて思ってなかったのは明らかだからね
衰退したというよりはそもそも発展させようだなんて考えてもいなかっただろう
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029 2024/06/20(木) 19:23:03 ID:DEXy9F0FSI
>>28 たとえ本人が望んでいなかったとしても、弟子たちが法を継いで布教活動に勤
しんでいる。それにそもそも、二人とも生前から弟子と共に熱心に布教活動を
行なっているし、著作も残している。道元は寺まで建立している。
「教えを広めようとか後世に残そうだなんて思ってなかったのは明らかだからね」
何の根拠があるんだ?
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030 2024/11/03(日) 09:13:16 ID:yIlzzHYqHg
031 2024/11/05(火) 14:45:39 ID:yqafC3JbqA
まあ言い方が難しいな・・・確かに広めようとは言えるかもしれないが、ただそのために弟子を多く育てようだとか女性にも声を掛けようだとか
在家信者へもっと働きかけようだとか、もっと言えば教団を作ろうだとか、積極的に信者を増やそうとは考えていなかったんじゃないかと思う
例えばキリスト教でそれをしたのはパオロであってナザレのイエスではないように
つまり真宗でいえば蓮如、曹洞宗でいえば紹瑾みたいな人が今日の隆盛をもたらしたとはいえるが、それが師の思いだったのかどうかと言われればどうだろう
阿弥陀様は極楽浄土に生まれ変わらせてくれるから何にもしなくてええんやでだとか、ごちゃごちゃ言わず全てを捨てて今すぐ出家しひたすら座禅しろだとか
それじゃあこの教えは広まらない、どうしよう・・・せや、もっと人が集まるような教義に変えるんや!みたいなことがあったんだろう
まさか親鸞は自分の血統を貴として教団ができ、戦国最強の織田軍を敵に回して戦争を繰り返し、西と東に分かれてケンカするだなんて思わなかったに違いない
ベルリンやベトナムは統一されたが、某半島と真宗は統一の気配すらないからな
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032 2024/11/24(日) 11:16:16 ID:K5V8uDGPcs
033 2024/11/24(日) 17:40:06 ID:FXd2ruSAI6
>>31 親鸞や道元が、どの程度の規模の布教を考えていたのかは知らないが、
自然な人間感情として法を広めたいと考えていたことは、その足跡に
照らして明らか。これ(
>>8)の言ってることがデタラメであること
に間違いはない。特に道元は、寺を建立して大勢の弟子を育て、著書
を著して教義の神髄について詳しく書き残している。「布教に余り積
極的ではなかったと思う」という、その根拠がさっぱり分からない。
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