神武天皇陵が元々は被差別部落だったという事実


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001 2021/02/11(木) 14:39:39 ID:lcEc83rgf6
2月11日は建国記念の日。なぜか存在していたことになっている「神武天皇」の即位の日である。

麓に神武天皇陵(ミサンザイ古墳)を見据える畝傍山の麓からやや上方にかけて、かつて洞(ほうら、大和国高市郡白橿村大字山本枝郷洞)と呼ばれる村が存在した。
この村は、神武陵の南手、ちょうど同陵を見下ろす場所に位置する、嘉永7年(1854年)の時点でおよそ120戸、大正9年(1920年)の時点でおよそ200戸を数えた、同陵墓の守戸―いわゆる墓守の集落と伝わる村で、被差別部落であった。
大正時代に入って間もない頃、国の主導による本格的な神武陵一帯の整備が始まると、その拡張の必要などにともなって、洞村は自体の移転を余儀なくされる。

初代の天皇の陵墓としてふさわしいものに整備すべきであるとしてその拡張を求める意見が出された。加えて、ミサンザイに隣接していた200戸余りの集落である洞が当時言われるところの「新平民」の集落であったことを問題視する意見が出された。すなわち、大正天皇の即位に合わせて1913年に刊行された後藤秀穂の『皇陵史稿』において神武天皇陵に面した地に新平民の醜骸が土葬で埋められて聖域である陵墓を穢していると非難し、暗に住民を神武天皇陵から一掃すべきことを述べた。こうした見えない圧迫に耐えかねた住民は土地の献納に追い込まれたとの説がおもになされる。
その後移転先の決定について難航を重ねた末に大正6年(1917年)に付近の平野部に移転した。

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002 2021/02/11(木) 14:42:00 ID:lcEc83rgf6
移転は3年間かけて行われ、他地域住民の所有地を含めた洞の全域が宮内省からの下賜金26万5千円(後に5万円追加)で買い取られる形で行われ、住民には代替地が与えられることになった。これは当時の部落改善運動と融和主義に応えた形で行われ、原則的には小作人・借地人を含めた全住民に土地と瓦葺の住宅が支給された。だが、実際に支給された土地は献納地4万坪に対して1万坪に過ぎず、しかも周辺住民からの反発により洞の元住民は更なる差別に晒されるようになった。

移転先に形成された地区はその後同和対策事業の対象地区とされ、現在も同和地区として存在している。旧洞村は雑木のうちに遺構としてその痕跡を残すのみである。

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003 2021/02/11(木) 15:27:59 ID:qX/5KQGJPc
天皇史観自体が明治政府の捏造だからな
あれこれ考証するのは無粋だわ
無理に権威付けしなくても
今の天皇陛下は日本人に敬愛されてるわけだし

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004 2021/02/11(木) 15:45:36 ID:4QFNRe1Nfg
少なくとも25代目までのテンノーは架空。
自称テンノーは15世紀くらい前に現れた詐欺師。
しかもその後も家系は捏造だらけ。

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005 2021/02/11(木) 16:37:24 ID:nInUwNGyDc
いわゆる陵戸ね。
五色の賤を定めた養老律令から被差別階層に落とされたと言われる。
古墳が仏教寺院に転換されると寺院の周辺にも被差別の群れが発生する。
さらに近世武家社会になると城の周りに皮革を扱う被差別の群れ。
近世発生説、中世発生説、古代発生説はそのどれかを起源ポイントとしてしまい、あまり信用がならない。
古墳時代にはなかったのだろうか?
たぶん、土蜘蛛とか蝦夷とか佐伯、隼人、土着先住民が被差別対象だっただろう。
支配者は基本、あまり差別はしない。ただし、移動させたり、使役したりする。
ただ、日本の場合には奴隷というほどのものがうまく育たない。
奴婢も唐に倣って拵えてみたけれど長くは存続しない。

ここからは私見であるが、用務を担わせて職分をなし、役と職を一体として管理するが時代に合わせて役目は変る。
時代が変るとその後、民衆同士の間で心理的に職能差別が発生する。
こういう時代に融通を利かせて糧を得る人々が民衆の上澄みをなすが、目に見えて数世代でころころ変るわけではない。
だが、変るときには変るのを見過ごされてもいなかったのではあるまいか。
伝統的な重みをつけた古い由緒書などを手にして権益を守る木地師、杣師などの職人層などは、安定してしまって差別もされない。
移らないもの、職能を変えないものと、変るものとの間に違和がおこり、差別の形をとる。
だから、移動移転した後に差別が生まれる感じにもなる。
解放したり、特別な保護法制を敷いた後に差別が強化されるという皮肉な結果になる。

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006 2021/02/11(木) 18:16:30 ID:nInUwNGyDc
用務、職分、役目は食い扶持であり、権益でもある。
令外官みたいなもので、宮廷外でもある。
そこが官職とはみなせないところで、租庸調や年貢からは免れつつ、扶侍を官給される訳でもない。
役得が実入りなのだ。
なおかつ、お上の都合で職務内容が変わる。
墓守かと思えば、清めに転じ、清めかと思えば門付、傀儡、芸能師、さらには死牛馬処理やら警邏やら。
職人としての一子相伝めいた秘密主義まで行かないのを、華道、茶道、芸道、絵師は家元、流派システム導入で格上げしたが、そうもいかない稼業であった。
やはり、使われてなんぼなところで役目が役得とバランスして自立できなかったのだ。
だから、今もって役得を求めてしまう。
庶民も新平民を差別したが、彼ら自身、一線を引き続けて利を求めることを願うので、同和を拒み引っ張ること、帰化しない在日みたいに頑なだ。

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007 2021/02/11(木) 20:46:51 ID:eh5fbbzK6c
仮説だけど、野見宿禰が奴婢を解放し非人という階級で生活したというのはどうだろう?

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008 2021/02/12(金) 06:46:42 ID:/Ty6zL/AjE
>>7
土師氏は職人路線で成功するパタンの初期モデル。
どうやって天皇家神話の中枢に位置取るかを考えて野見宿禰を創案、ねじ込めた。
由緒書が正式な国史にあるようなもの。
おかげで仮初にも天孫族の一角を占めることに。
土師職、土師連は宮中の官だから当然なんだが。
それでも例によって時代が変わると役目が変わる。
改名ブームが土師氏を席巻する。
菅原朝臣、大江朝臣、秋篠朝臣は文人貴族を経て大江に至っては文章博士、兵法家から武家毛利家の流祖にまでなる。
菅原氏は儒学、大学頭より天神信仰が大きくなってしまった。
同じく時代に合わせて役目を変えながら、役得ではなく官位、氏姓を求め、エリート公卿の範囲内に漂うか、思い切って領国支配に飛び出すか。
被差別階層と同じ時間を費やして歴史上の目立ち方は異なるが、
誰かがやらねばならないことを担えるものたちを蔑む視線が役得に釣り合わぬものであったか否かは分からない。

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