何度も言及されていることだが、邪馬台国論争はとっくに結論が出ている。
魏志倭人伝で言及されている、いわゆる「邪馬台国」は北部九州にあった。
(魏志倭人伝本文で距離を長く遠く表記されているのは、「魏は、こんな遠くの国からも貢物を貰っているぞ」という誇大表現)
魏と邪馬台国は友好関係にあり、それを面白く思わない以東の国々(出雲、吉備など)が連合し、対抗勢力として奈良盆地に連合国を新設した。これがヤマト。
そして「我々こそ日本列島の代表だ」と魏に使者を送り、邪馬台国の使者と「本家・元祖争い」のようなことまで展開している。
北部九州にあった邪馬台国は、距離的に大陸との玄関口であり、鉄製品も文化も一手に受け入れていた。
そのため他の地域は北部九州勢力邪馬台国に従わざるを得なかった。
だが他の地域がすべて手を組めば数的に対抗できる。
出雲を窓口にした新しい玄関口も設けて、完全に立場は逆転。
北部九州の邪馬台国はヤマトの連合国に対して白旗を揚げた。
卑弥呼直系の祭祀王をヤマトへ人質に出すことで戦争を回避し、以降は大和に従うこととなった。
この「卑弥呼直系の祭祀王」がヤマト入りしたことこそが、「神武東征」のモデル。
実際大和朝廷は天皇を戴いているにも関わらず、政治は豪族の合議制で決めており、天皇は世の安寧を祈る祭祀王で基本的に実権は無かった。
天皇は北部九州邪馬台国と和合した象徴であり、これを掲げ続けることで北部九州との争いが回避できていたということになる。
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