NHK 邪馬台国どこに?


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001 2023/07/04(火) 19:55:58 ID:hkx07HWeBE
文科省とNHKが邪馬台国を捏造。

https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/R7Y6NGLJ6G/blog/bl...

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039 2023/08/10(木) 17:44:26 ID:HU7llLJHWk
>>38
書いてあるやん。告諭だって。
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 
張政が日本で何をやったかは書いてなかろう?卑弥呼も死んでいたし、手持ち無沙汰で266年まで何していたんやろな?

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040 2023/08/10(木) 18:37:03 ID:HU7llLJHWk
黃幢は、正しくは黄憧だという説もあるな。

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041 2023/08/10(木) 18:42:22 ID:5F27.dC7Sg
>>39
揚げ足取るな!w
なぜ来たのかその経緯だよ。

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042 2023/08/10(木) 19:30:09 ID:HU7llLJHWk
>>41
揚げ足なんてとってないだろ?
来た理由、目的、経緯、書いてないものは空想していいのかね?
書いてあるのは何しに来たかだけ。なぜは書かれてはいない。実際に何をしたかも書かれてはいない。247年から19年も滞在しているのにだよ。
ワイには推測はあるが、妄想の域だから、どうでもいい。
邪馬台国の場所の推定には直接関係ないし。

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044 2023/08/10(木) 19:52:35 ID:HU7llLJHWk
247年に帯方太守に着任した魏の武将、王頎が来た訳では無いから、少なくとも援軍ではないな。
240年には帯方太守の弓遵が建中校尉の梯儁などを倭国に遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、并びに詔を齎し、金帛・錦罽・刀・鏡・采物を賜った前例がある。これは、238年の卑弥呼の朝献に対する2年遅れの下賜のためだ。247年のも、243年の朝献への4年遅れの答礼だったので、狗奴国云々の報告に対するものではないとされている。

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045 2023/08/10(木) 20:33:58 ID:HU7llLJHWk
ただし、張政は、帰国後「使君帯方太守張撫夷」となった。帯方太守となり、撫夷と名付けられた。相当な業績があたからこそであろうが、業績は記されず、明らかではない。

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046 2023/08/10(木) 20:51:41 ID:1s/cOerKB.
それ見ろ!話逸らしたw
だからそれ、援軍は来てないってだけの話だろ?
援軍要請が来たからってホイホイ援軍出すわけないじゃん。どんだけ費用と手間がかかると思ってんだよ?
援軍が来なかったから要請がなかったってどんだけ石頭なんだw

当時の状況を考えて推測をしないからちょっとツッコまれただけでだらだら書き並べて誤魔化さなきゃならなくなるんだよ。
あんたのような木を見て森を見ない論はいらないの。時間の無駄だから。そんな人は今まで腐るほどいてもうお腹いっぱい!
そうじゃなくて幅広い視野を持って推理出来る人と話がしたい。

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048 2023/08/10(木) 21:15:40 ID:HU7llLJHWk
>>46
何がそれ見ろ!だよ、何を予想していたというのか?
何興奮しているんだか、イミフ。援軍を要請した根拠は?狗奴国が邪馬台国の脅威であって欲しいからか?どこにそんな資料があんねん?曲解妄想やな。
ワイは援軍要請はなかったが、張政は倭で大仕事をしたと推定する。根拠は使君帯方太守張撫夷になったから。
アンタは、援軍要請したが、援軍は派遣されなかった(大変だから)と推定した。援軍要請した根拠出してくれ。

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049 2023/08/11(金) 11:02:49 ID:mB6Fv7Dei.
>>22-23
出土品の年代と特徴から、どの地域の勢力がいつヤマトに来たかがある程度推定されている。
それによると、「九州北部勢力」は最後にヤマト入りしている。
その後、ヤマト政権が発足している。
つまり「完成したヤマト」の前に、「九州北部勢力抜きでほぼ完成したヤマト」が存在したことになる。

確かに「北部九州の文化がヤマトに入った」のは考古学的事実だが、それはヤマトの「主体」ではなく、最後の1ピース。
>>12でストーリーを示したが、「連合勢力に抗しきれなくなってついに軍門に下った」※と見るのが筋だろうということです。

「神武東征」は卑弥呼が没した後、その後継者をヤマト入りさせた(人質として差し出した)暗喩だと考えれば、265年頃以降だろうと推測します。

※軍門に下ったとはいえ、邪馬台国は魏と正式に交流していた国。
ただ滅ぼしてしまうと魏を敵に回してしまうかもしれないと考えたヤマトは、吸収合併・併合というタテマエを用意した。
それが看板は「卑弥呼の後継者」で、実権は「豪族の合議制」という体制。
以降ヤマトはずっとその体制を敷いている。意外と統治に都合がいいと気付いたからだろう。

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051 2023/08/11(金) 14:01:31 ID:zl3BEebJq2
>>49
なるほど。ただし、非邪馬台連合が、数だけで邪馬台国を圧し、脅かし、人質を出させるほどに強壮だったとは思えない。鉄も少ないし。
一方、邪馬台国は、女王国連合を従え、魏の後ろ盾もあり、意外に易々と畿内入を果たしたのではないか?狗奴国との鉄器を用いた戦闘実績もあったし。なによりも、魏の威光を借りて台与1代で東遷できたのじゃないか?畿内入の後、邪馬台国勢力が主導権を握るためには、北九州にも勢力が温存されていたからこそだろうから、2つの邪馬台国に分離したとも言える。

畿内奈良盆地が元々ヤマトという名だったとは思わない。邪馬台国は親魏倭王認定されていたから、魏なき後も、大陸では有名で、なんとか、その名を帯びたがり、パクッたと考えられる。俺たちがヤマトでいいんじゃね?と。日本という呼称を発案した7世紀までは、われこそがヤマトで箔を付けてきて、卑弥呼や台与もアマテラスやら神功皇后として捏造してきたのが畿内。まあ、分離派邪馬台国も合流しているから、100%捏造ではないんだが……

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053 2023/08/11(金) 14:25:44 ID:zl3BEebJq2
>>51
因みに、張政の倭での大仕事が、邪馬台国東遷だったと妄想している。19年もいたわけだし、帰還後に撫夷を名乗り、帯方太守に抜擢されてもいるわけだから。
撫夷というからには、魏にとって、都合のいい形で蛮夷を処するに手柄が認められたはずだ。邪馬台国を韓半島から遠ざけた実績を評価されつつ、皇帝の命とは無関係な振る舞いゆえ、正史には記されなかったのではないか?王朝も晋に変わったから、命に違えたは不問、実力は評価されたのだろう。しかしながら、実際には、倭は、3世紀末には早くも半島進出し始めるから、退けたことにはならなかったが、288年に没した張政の知るところではなかった。
邪馬台国並立は6世紀初頭まで続いた。

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054 2023/08/12(土) 19:43:19 ID:MsuqEfYusw
>>48
逆ギレかよw
もうお前が簡単なことにすら頭が回らんヤツだってバレちゃってるし。
もっとまともな人はいないのかよ?

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055 2023/08/13(日) 17:02:18 ID:yxowOWHcc.
>>51
>>12でも書いたが、出雲(勢力圏)が大陸と別ルートの交流路を開いたのだろうと見ている。
数の優位だけでなく鉄も入手できるとなれば力関係は容易に変わる。
そして「思えない」と言われても、出雲の勢力が古代においてきわめて大きかったことは出土品から見ても厳然たる事実。

また、石を投げつけても、棍棒で殴っても、落とし穴に落としても人は死ぬ。
では鉄器の利点は何かと言えば、農業への貢献だといわれている。
石や木で土を掘り起こすのは難儀だが、鋤鍬なら効率的。
農業が効率化されれば収穫量が増え、人口(つまり戦争にまわせる頭数)が増える。
古代の戦闘は武器の差よりも頭数の差。だから「鉄製武器の戦闘経験」などはさほど意味がない。

更に、仮にそんなに勇ましくヤマト入りしてトップに立った勢力なら、神武東征の表現は明らかにおかしい。
目の前に立ちはだかる敵を薙ぎ倒してヤマトの地に君臨、で良いじゃないか。
東征の中で上の兄弟を失い、現地勢力に追い払われ、神の加護を借りてようやくヤマト入りという形になるはずがない。
記紀は「天皇を正統化するために書かれた」と思い込んでいる人も多いが、実は悪い行いや身内の権力闘争や失敗などもはっきり書かれている。
これが何故まかり通るかと言えば、天皇という存在自体(つまり九州北部を元とする勢力)が絶対的ではないということの表れだろう。

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056 2023/08/14(月) 06:51:07 ID:Vieb98R3tE
>>55
中国地方はともかく、畿内ヤマトの鉄器は古墳時代までずっと少ないな。後、人質と言っても、旧来の銅鐸祭祀を葬る祭祀王の人質ってなんだろう?祭祀を受け入れて推戴したのと変わらず、どっちが支配されたか分からん。人質とは言葉の綾程度になる。鉄器の流入も東遷後の瀬戸内海ルートで始めて増大したのに畿内側が悔しがって、なんの、ありゃ人質よ、みたいな。

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057 2023/08/14(月) 07:53:16 ID:Vieb98R3tE
勝った勝ったと敗者がガッツポーズは、世の常。主体、主導権ほど曖昧なものはなく、ガチンコの戦闘ですら、勝ち名乗りが別れ、史実が歪むは秀吉の朝鮮戦役を見ても明らか。記録なく、推測と想像で埋める邪馬台国問題くらいになれば、180度見方が変わるもやむをえまい。纏向の北九州系土器は1%にも満たない。つまり、纏向は、北九州とは縁が薄く、邪馬台国ではなかったが、後に大和と名乗ることになった。なぜかは想像におまかせする、だ。

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058 2023/08/14(月) 23:16:34 ID:CyTBJYWY7g
なんで300年も邪馬台国論争に決着がつかないのかという根本が理解できないんだな。

魏志倭人伝に書かれている内容の部分的真偽と不足分は常識で埋めなきゃいけないのに、その常識がないw
だから「魏志倭人伝に援軍要請したとは書いていないから・・・」みたいな変態じみたこと言っちゃうわけよ。

知恵も回らなければ応用も効かない。
人間として欠陥がある。
こういう人がいくら考えても真実には近づかない。こんなヤツが多すぎるんだよ!
それに、無駄にダラダラ喋る癖があるみたいだな。
相手にするのは時間の無駄だから気を付けた方がいいぞw

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059 2023/08/15(火) 06:04:28 ID:27T1wRbS6w
>>58
邪馬台国の謎は常識で解ける!キッパリ!
知恵と応用で誰か頼む(オレは無理だけどな)
ってか?
ろくでもねーな。

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060 2023/10/12(木) 21:20:38 ID:Xxs3dhQosQ
>>59
邪馬台国の話になるとどうしてこうロクでもないのが湧くんだろ?

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061 2023/10/13(金) 20:53:19 ID:eOrblTrt3I
畿内某王権がさ、中国の史書を5世紀頃に目にして、邪馬台国記事を知ったとしたら、どうするね?
自分たちとは関係無さそうな王権が既に何百年も昔に中国の信認を得て交流していたと知ったら、そして、その著名な王権の正体が分からなかったら、なりすまそうという誘惑に負けないだろうか?
「これはなんと読む?」「やまとと読みます」「実はわーくにがやまとなんやで」で決まり。
畿内大和説の歴史は古く、5世紀に遡り、邪馬台国九州説はさらに古く、中国では、4世紀頃から
九州説だったとしたら?「いえ、邪馬台国は九州にあったと解釈されていますが」「そ、そうだよ。あの頃は我々の先祖は九州におったんやで」
偽畿内大和は、新しい神話をでっち上げた。神武東征神話だ。

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062 2023/10/13(金) 21:02:08 ID:eOrblTrt3I
>>61
「おい、誰か、九州を探索して邪馬台国の痕跡を調べ潰して来い」「景行天皇と日本武尊父子に行かせましょう」「残党らしきが居たら滅ぼしてこないとなりますまい」これが九州征伐。
記紀編纂時には卑弥呼、台与相当の架空キャラを創作した。神功皇后だ。

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063 2023/10/13(金) 21:18:29 ID:eOrblTrt3I
>>62
「ちょまてよ!そうなると神功皇后の後に神武東征せにゃならんぞ」「いや、卑弥呼は天照大神というマザーサンということにして、神功皇后は半島進出が叶って畿内に凱旋するだけなんやで」「半島で負けて帰ってきたのは応神天皇やんか」「ええねん、勝ったことにすりゃ。かまへん、かまへん。誰も見とらんのやさかい」「せやな」

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064 2023/10/13(金) 21:39:36 ID:eOrblTrt3I
時系列を補正するなら、畿内某王権が中国の史書の内容に触れたのは4世紀。中国は、3世紀から邪馬台国九州説。神武東征神話成立は4世紀中。景行天皇の九州征伐は4世紀半ば。やたら女酋長と出会うのは、卑弥呼の後継探しをしていたから。既に跡形なく消滅していたことを確認し、天照大神神話創作。応神天皇の半島撤収は5世紀初頭。

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065 2023/10/13(金) 21:41:53 ID:eOrblTrt3I
>>64
三角縁神獣鏡が創作されたのも4世紀。
で、全て辻褄が合う。

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066 2023/10/13(金) 22:56:31 ID:eOrblTrt3I
半島撤収を余儀なくされた応神天皇から中国への接近が再び活発化した。小中華高句麗を跳ね返して半島を制するには中国の後ろ盾がものを言うと悟ったからだ。邪馬台国に学べ、である。倭の五王の時代がそれだ。

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067 2023/10/14(土) 19:47:46 ID:J9Zxp0XFkQ
>>65
とすると、九州の三角縁神獣鏡は一体?
福岡県京都郡苅田町にある国指定史跡石塚山古墳(いしづかやまこふん)は三世紀後半から四世紀初頭(約1700年前)のものとされ、九州で最大最古の前方後円墳であります。
わざわざ4世紀に三角縁神獣鏡を捏造し、真っ先に福岡に古墳を作って埋納した?

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068 2023/10/16(月) 20:21:17 ID:r/iW.mURvA
石塚山古墳が3世紀後半という根拠はなんだろう?円筒埴輪がない?石槨がない?まさか、三角縁神獣鏡が出たから?
箸墓より古いなら、正真正銘卑弥呼の墓?ここの三角縁神獣鏡はオリジナルの魏鏡?

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069 2023/10/30(月) 14:47:05 ID:YpEgxDaRRw
邪馬台国の場所がどこかなどにあまり意味は無い。
場所ではなく、邪馬台国とヤマト王権との関係性に意味がある。
纒向遺跡だとすると、ヤマト王権と直接関わる可能性が高まりそうな気がし,九州だと無関係だったかもしれない。その限りにおいてだけ場所に意味があるような気がする。ただ、関係があろうがなかろうが、大した違いは無いのではなかろうか?

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070 2023/11/03(金) 12:51:09 ID:e8oxVBogas
伊都って九州北部にあった時は漢王朝に朝貢してたんでしょ?
だから漢の委奴の王という金印が見つかってる。
でも、伊都は九州中部(現在の佐賀県)の宇佐神宮周辺を指すって人もいる。
どういう理由か知らないけども、北九州の伊都が移転したんじゃないの?
伊勢神宮が移転したみたいに。
んで、宇佐の豊玉or豊受が今度は曹魏に朝貢して親魏倭王となる。
伊都(委奴)だけを見てると、一貫して支那の王朝の冊封を受け続けてる。

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071 2023/12/06(水) 19:42:44 ID:jDc2cU6ZQM
072 2023/12/07(木) 13:05:02 ID:ZFDArT5YHc
漢の奴の倭の国王印ておかしいよな。
普通は滇王の印みたいな印面になる。
なぜ漢が頭に?倭もいらん。
奴王の印でなきゃおかしい。倭奴で委奴 、イト?伊都国じゃなかろうに。贋作かな?

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073 2023/12/08(金) 08:51:55 ID:reOYUYC6Ew
074 2023/12/13(水) 13:20:15 ID:t7MfDBGCrE
>>72
封泥ち押すためのものだから、もしかしたら、中国から親魏倭王之印の封泥が見つかるかも。

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075 2024/01/01(月) 00:18:03 ID:jR21Oeo7vI
077 2024/01/13(土) 12:26:58 ID:rzCeyvTn/.
[YouTubeで再生]
素晴らしい♪m9(^Д^)

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078 2024/03/03(日) 16:22:24 ID:1eNay9CqC2
080 2024/03/03(日) 23:38:49 ID:Banj/y5J4k
腐れ支那人の書いた文書を真剣に吟味するのもアホらしい話だが、
あれはヤマトとしか読めないから、当然、大和(というか後の畿内)のことだろ。
キビだのコシだの征服する東征する途中で、最後に残ったのがイヅモ。
あの段階(おそらく崇神朝頃)では東国(毛野、狗那)は倭人の住処でもヤマトの埒外。
倭人の南進で進出した沖縄南西諸島では、既にヤマトに対するウチナー(オキナハ)が
独自に萌芽しつつあり。

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081 2024/03/04(月) 04:33:50 ID:EvM6fLJS4M
スレの主旨とはズレるけど、当時の腐れ半島では楽浪・帯方郡の漢人や土着半島人、
北方系等々、色んな類いが混在していただろうけど、どっちにしろ白村江の戦以降、
腐れ半島と没交渉になり、ほぼそのまま1400年近く経過した日本人と、北方から
漢だの蒙古だの満だの蹂躙されまくり、見るも無残な容姿になった朝鮮人はホント悲惨。
その外見だけでなく、内面も想像以上に荒んでるのは明らか。

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082 2024/03/04(月) 20:44:04 ID:hOxOfrRwuE
白村江の戦いの後は百済人をいじめるようになって新羅系渡来人を優遇するようになった

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083 2024/03/10(日) 09:53:02 ID:PKLvuhljjw
>>80
>あれはヤマトとしか読めないから、当然、大和(というか後の畿内)のことだろ。

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084 2024/03/23(土) 11:38:39 ID:.bAqHCQye.
なんでNHKが作るとこうもクソ番組になるんだ?!

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