鮎川義介氏


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001 2016/06/01(水) 20:48:12 ID:of5PEgTqow
やっちゃえ、日産

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002 2016/06/01(水) 21:09:30 ID:Yh50Y.ugLw
働いたら負け

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003 2016/06/01(水) 22:56:15 ID:IVujDDLucY
コイツも朝鮮人部落田布施出身の朝鮮人。

トヨタは中国製部品の輸入組立屋だけど、
日産は朝鮮製部品を多用してるのは、
創業者が朝鮮人だからか?

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004 2016/06/03(金) 22:44:00 ID:kE4buj5Xjk
wiki見たら父親が長州藩士ってなってたけど

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005 2016/06/27(月) 00:00:31 ID:5E3CUFFWZo
千成びょうたん
河豚計画

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006 2016/10/14(金) 17:39:54 ID:fl6sGpVf0E
鮎川義介と安倍の祖父である岸信介が満州国を作ろうとしたのが
日本人が地獄に突き進むきっかけとなった
勿論、二人だけじゃなくて天皇やら伊藤博文やら田布施朝鮮人の念願であった

というのは、田布施町鮮人は百済人で、百済は今の北朝鮮から満州にかけての地域が故郷だという
そんな事情のために日本人は戦争をさせられていた
(勿論、ロシアを疲弊させたい英国の思惑もあった)
戦争させられた上に、日本の富の多くを満州に注いだために日本人は飢餓状態にもなった
朝鮮人天皇の国民になると踏んだり蹴ったりだ

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007 2016/10/28(金) 09:41:46 ID:WoEHMVRuXY
さすがサヨッカーの言うことは一味違うな。

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008 2016/12/24(土) 22:53:29 ID:2GXlEzDHoc
>昭和12年(1937年)、当時の社長であった鮎川義介氏から特命を受けた。
ナチス・ドイツで「国民車」という革新的な小型車が出来ていると聞いた、購入して日本に送れというものであった。
この時期、日本とドイツは同盟関係にあったので、ドイツ駐在の大島大使から添え状を貰って、ハノーバーからまだ単線であった列車に乗って、
列車に乗って、ウォルフスブルクの寒村に建設されていた国民車工場を訪ねた。折よくフェルディナント・ポルシェ博士に会うことができた。
博士は工場はまだ一部稼動であり完成車もなくはないが、これは労働者手帖(KdF)保持者が月額5マルクずつ積み立て、
それが500マルクに達したら車を渡すもので、法律上から車の売却は出来ない。しかし自分の設計に興味を持ってくれた事には感謝する、
設計資料も渡すし何よりも工場に留まって、生産状況を見学してゆかないか、という真に親切な申し出を受けた。
工場には博士の子息のフェリー氏がいて、同じ年配でもあり直ぐ仲良くなって、技術解説も丁寧に受けた。

戦後かなり経てからオーストリーのツエルアム・ゼー湖畔の山腹に建つポルシェ家でフェリー氏と再会し、
昔話に花を咲かせた数年後に氏は亡くなられた。
荒木貞發

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