秦の始皇帝の一族は日本に来ていた!?


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001 2021/07/10(土) 11:30:50 ID:2XgYoaPXYw
https://www.youtube.com/watch?v=t7yiO7XlUi...

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002 2021/07/10(土) 11:46:21 ID:HmnHLlFSis
草なぎ剛は将棋をやれ

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003 2021/07/10(土) 11:56:51 ID:C6pFAGPKCo
>>秦の始皇帝の一族は日本に来ていた!?

略して「シコってた」

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004 2021/07/10(土) 11:59:43 ID:uL17T/RD.s
秦氏は辰韓新羅だろ
新羅が吹聴したウソ

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005 2021/07/10(土) 12:45:12 ID:DWVEtNGfK2
ここだけの話
神奈川県に秦野という地域があるんだけどね
よく観察してみると・・・
そりゃあもう
よく見なくても
田舎だよな (^。^;)

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006 2021/07/10(土) 12:52:24 ID:uL17T/RD.s
新羅建国は実際には三国の一番最後だが、最も古いというウソの歴史を制作したのは、
12世紀高麗成立の「三国史書」を書いたのが新羅出身者だから。
新羅建国に絡む瓠公は倭人で、始祖赫居世と同一人物とされている。
のみならず、第四代脱解も丹波地方の倭人だ。
新羅は支配階級がことごとく倭人なのである。
任那伽耶もそれを知っているので、百済よりも新羅派が多かった。
ところが、ヤマト王権が百済をひいきし始めたので葛藤、問題が発生した。

いずれにせよ倭系新羅は、前漢が紀元前2世紀末に朝鮮半島の大半を植民地支配したことを知っているので、
漢の前政権、秦の末裔を奉じることでこっちが半島の主流であり、本家だと言いたいのである。
ゆえに秦氏は新羅系であるが、実は徐福などの伝説とは別に、漢代から中国系は日本に流入しており、糸島に中華街を形成していた。
このこともあって、漢系氏族を装う西漢氏や東漢氏はあまり漢系であることを吹聴しない。
おそらく、漢系中華人街は遣隋使の時代にも存続していたのである。
608年に裴世清が目撃した秦(辰)王国が、糸島から東遷した漢系中華街に秦氏が入り交じったものであろう。
私はそこは香春だろうと考えている。
6世紀後半から秦氏がこの地にあふれかえるが、原型は純然たる糸島の系譜を引く中国系の集団に、ヤマト王権の意を汲んだ秦系が後から入植したものだ。

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007 2021/07/10(土) 16:55:07 ID:uL17T/RD.s
何故、いつ、百済びいきになったのか?
そもそも、七支刀が贈られたり、倭人官僚が中枢を占めたりで、百済め倭とは浅からぬ因縁。
5世紀頭には、百済、新羅とも、北の高句麗攻めに共闘した仲だが、撃破されてしまう。
百済が一回目に滅亡したのは、475年。
ここから、腐れ縁が始まる。
前方後円墳があるのは、旧任那伽耶地域だが、5世紀末から6世紀前半のものだ。
そこまで出張って、
百済再興に倭が汗をかく構図が何度も繰り返されてゆく。
武寧王などは筑紫の生まれだ。
その時代、任那割譲なる愚策もヤマト王権は発動し、ますます、狂騒にハマる。
これが国内に跳ね返って磐井の乱となる。
この構図はしぶとく残り、愛想つかせた任那伽耶は、自ら新羅に身売りして消滅、
秦氏が中央政権とは距離を保ち続けたのは、反百済派だったからだ。
厩戸一族の崩壊、蘇我本家滅亡、蘇我系天皇の消滅は、百済のヤマト政界工作だ。
白村江の戦いで滅びた百済残党は大挙して畿内に乗り込み、新羅と縁切り、
桓武朝ですっかり百済色でヤマト王権を染め上げられた。

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008 2021/07/10(土) 19:07:56 ID:uL17T/RD.s
秦氏が大量に列島に流れ来たのは、高句麗に敗退した倭の新羅からの引き上げに連動したものであった。
応神、神功皇后、秦氏の連想から、引き上げ拠点が豊前にこの時すでに出来たかのようなイメージがあるが、はたしてそうか。
新羅残党遺民も畿内入りした。大和、山背が拠点。しかるに、ヤマト王権と新羅倭人政権とは、ルーツを異にする。
新羅倭人はあくまでも日本海エリア倭人と北九州倭人王権の繋がりが深く、畿内ヤマト王権とは直接縁がない。
新羅と結んで好太王と闘ったのも、主力は北九州倭王権なのだろう。
ヤマト王権の半島戦略が百済よりになるに連れ、秦氏は中央政権からあえて下野、離脱したのかもしれない。
推古朝に新羅征討計画が始まるのは、全方位外交をモットーとする蘇我系も、
欽明朝以来任那復興会議を百済から持ちかけられては、新羅を叩きなんらかの制裁を課さねば示しがつかなかったからだ。
一回目はなんとか無事成功したが、あとが続かない。
中止が度重なり、グダグダになる。
秦氏受難の時代はヤマト王権の百済傾斜、新羅叩きに連動しつつ、長々と後を引き、藤原摂関政治まで続く。
秦野、幡ヶ谷、八幡山など関東にも広がり、宇佐八幡創建にも絡み、八幡信仰から武家政権も支える。
神仏習合は秦氏が演出したとも言える。
畑、養蚕、機織り、造船、鉱山、製錬は秦氏に結びつき、東北の鉱山開発にも秦氏が活躍している。
それもこれも、秦とは関係がない。

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009 2021/07/12(月) 19:25:59 ID:6r7/yCDQVY
始皇帝の一族渡来より、徐福伝説の方が有名だろ

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010 2021/07/12(月) 20:18:12 ID:xf9MCmPyzs
[YouTubeで再生]
秦の始皇帝の一族は日本に来ていた!?
中華客家・・八氏。
現在、Qアノンを援護し
日本を支配してる李氏の抹殺に成功。

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012 2021/07/21(水) 14:18:32 ID:pTu6H2GadA
日本人は渡来人ばかり気にしているけれども
実は自分たちが渡って行っていることをよく知らない
去る者は追わずなんてね
縄文時代からすでに進出している
水田耕作は海峡両岸に根を下ろした倭人たちが日本海沿岸を青森まで一気に普及させた
列島内部で九州から畿内への東遷があったとき、先住民たちは東に逃げたんだろうと思い込んでいる
東にも逃げたものはいるけれど、半島に渡った連中もいる
しかも、そこそこ王政を敷いていた山陰、日本海側の出雲系がね
だから直ちに国を建設できた
この事象が新羅(斯蘆)建国の伝説なんだな

この次に城まで建設していい線まで行ったのは秀吉の朝鮮出兵だ
民衆もことごとく秀吉軍に味方した
主目標は明だったけれどね
最後が朝鮮併合
征韓論の思想の実現だが、日本のアジア連合主義は到底無理な時代になっていた
抜きがたい儒教思想による汚染と19世紀ナショナリズムの時代が彼我の間に大きく深い溝を穿っていたからだ

もしも秦やら秦氏やら徐福やらが列島に入り込んでいたとするなら、熊野灘とかじゃなく、山陰の出雲王朝だろうね
京都府伊根町新井崎に徐福伝説が残ると言うが、むしろ伯耆国や石見の国の五十猛だ
素戔嗚尊も息子の五十猛神と一緒に新羅に天降ったという伝説があるが、先の新羅建国の話に重なってくる
ここで新羅と秦が合体したのであって半島内だけで新羅の由来に秦が滑り込んだわけではない

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013 2021/07/21(水) 15:29:10 ID:96HpicgaxY
くだらない

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014 2021/07/21(水) 16:55:36 ID:pTu6H2GadA
>>13
そりゃ新羅だからな

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015 2021/08/08(日) 14:26:15 ID:7rB0xO8GTM
新羅系渡来人が全て秦氏ではないんよ。
秦氏はある時期に山背地域に来住した一群の新羅系を指す。
それ以前も以後も、別の地域への渡来も秦氏ではない。
この謎を解く鍵は、畿内大和王権が親百済、反新羅になった時期と事情を知らなければならない。

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