元寇は鎌倉武士の実力勝ち


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001 2010/03/09(火) 10:22:30 ID:FBqpTU/2Fc
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ

八幡ノ蒙古記

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※省略されてます すべて表示...
160 2010/06/17(木) 10:20:13 ID:nVqeyGfVDk
自虐史観もたいがいにというところだね

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161 2010/06/20(日) 12:03:08 ID:dj5iPvKJEk
橋頭保も確保できず戦略目標の大宰府どころか
水城が見えるところまですら到達できず
福岡平野沿岸部をうろうろしただけ
先駆けレベルの武士団だけで返り討ち
弘安に至っては上陸すらままならず数カ月も海上を逃げ回った蒙古・高麗軍

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162 2010/06/21(月) 09:23:59 ID:3GxkOZ.sPc
情報格差?

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163 2010/06/25(金) 15:35:45 ID:UGUxr4wsJE
164 2010/06/26(土) 15:58:34 ID:uKu6cbqwZw
凶悪な連中によく勝てたもんだ

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165 2010/06/27(日) 02:09:51 ID:Giw1n4PqL.
重装甲の長弓騎射を中心とした武士の伝統的な戦い方がうまく機能したね

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166 2010/06/29(火) 00:45:45 ID:Cv23S9pCdY
騎射が流鏑馬ぐらいしか残ってないのが残念

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167 2010/07/02(金) 10:17:49 ID:lm//sOFDmI
筑波大学大学院教授・古田博司 国家の正統性確立に苦しむ韓国
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/091229/kor09122902...
 さて、日韓両政府の支援により2007(平成19)年に始まった「第2期日韓歴史共同研究委員会」がこのほど終了した。
筆者は今期から設けられた教科書小グループのチーフだったが、実に虚(むな)しい2年間を過ごした。
論争好きな彼らに引きずられテーマ設定に1年間を要し、いざ共同研究が始まると、韓国の委員は4、5冊、多くて10冊の教科書資料しか読んでこなかった。
「日本帝国主義」「右翼教科書」などという用語を使い、政争の観点しか持たない彼らを諄々(じゅんじゅん)と諭す以外にはなかったのである。
さらに韓国側が名指しで人身攻撃を行っても、日本側委員長はわれわれ委員を守ることがなかった。私は「恨」を感じた。(ふるた ひろし)

韓国側委員の態度は朝鮮出兵部会でも同様だが、問題は日本側委員の北島などは、政争の観点しか持たない彼らを諭すどころか、自身を良心的研究者と自称し、一緒になって政治的非難を行っていることだ。
一例を挙げると、朝鮮出兵の部会であるにも係わらず、韓国側委員は議題でない筈の神功皇后や任那日本府の否定論を長々と唱えるが、北島らは全く諭そうともせず同調するような言動を行っている。

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168 2010/07/02(金) 18:50:58 ID:26SMAwUoBI
「文永の役威力偵察説」を唱える連中って、根拠として侵攻に先んじて威力偵察を行うのは
モンゴル軍の常套手段だって言うじゃん。
でも、現実のモンゴル軍は、数年かけて準備した数万人規模の威力偵察を行い、
その数年後に改めて侵攻し直すなんてアホみたいに非効率的な作戦を、常套手段どころか
一度もやったことないわけ。
じゃあ、「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは一体何かっていうと、
モンゴル軍の部隊編成では本隊のおよそ70マイル(約113キロ)先んじて威力偵察部隊が侵攻。
この威力偵察部隊が敵と接触すると、相手が弱ければそのまま撃破し、強ければ偽装退却して
本隊の所まで敵を誘導し、包囲殲滅するってのを常套手段としてたわけ。
要するに「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは戦術レベルの話なの。
日本史研究者って呆れるほど軍事オンチの連中だから、戦術レベルの話である威力偵察を、
文永の役みたいな作戦レベルの話とゴッチャにしてるんだよ。

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169 2010/07/03(土) 02:16:11 ID:h4wFyP0QlQ
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ


圧倒的すぎる…
組打術で海へ投げ飛ばし引き上げてはとどめを刺し
首を取っては投げ捨てる

元軍にとっては地獄絵図ですね…

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170 2010/07/05(月) 13:11:33 ID:n7I.ZFzg6Q
ちょっと気になったんだけど、幕府の軍隊の補給ってどうなってたの?

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171 2010/07/06(火) 01:55:08 ID:fZVM.m2xuQ
「元寇」を教えない対馬と九州の教育
http://tafu.iza.ne.jp/blog/entry/744565...

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172 2010/07/08(木) 12:17:11 ID:YOI17ZaBV.
その時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、
八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、
究竟の馬廻に、弓の上手ありしかは、
それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、
かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、
一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、 おちたりけれ

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173 2010/07/10(土) 19:42:58 ID:wIBSu3rqqA
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』
白鳥倉吉【国史】

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174 2010/07/15(木) 01:18:33 ID:YP1x3EVpLs
>>170
幕府は有事になると、「一国平均役」といって普段は権限の及ばない荘園や公領からも、
一律に兵糧米を調達できるようになる。
実際、元寇の際に兵糧米が全国で徴発されていた記録も残ってるし。
幕府は元寇に備えて10年以上前から補給体制の整備に着手してたし、万全の状態だったよ。

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175 2010/07/15(木) 23:13:53 ID:7qX4W2RBX6
>>168
そういうトリック好きだよね連中

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176 2010/07/19(月) 17:18:28 ID:qSR.pMiC4I
ごく少数だけど、まともな日本史研究者もいるんだよね。

『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法 中村学園大学・佐藤鉄太郎

「蒙古襲来は日本歴史上の大事件であったために後世色々な話が作られて誤り伝えられてきた。
例えば文永の役に於いて蒙古軍の集団戦法に対して日本の武士達は一騎打ちの戦法で戦った、
博多は蒙古軍によって焼き打ちにされた等である。しかし、日本の武士達は一騎打ちの戦法で
蒙古軍と戦ったことはなく、絵五に描かれているように騎馬隊を中心とした集団で突撃する戦法を
とっていたのである。また、文永の役に於いて蒙古軍と日本の武士達が正面から衝突した戦いは、
赤坂と鳥飼潟の塩屋で行われた合戦である。これらの戦いに敗北した蒙古軍は博多を攻略する
ことに失敗し、撤退してしまった。文永の役に於いて鳥飼潟の戦いは日本の武士達が総力をあげた
戦いであり、日本の武士達が勝利した戦いであったのである。」

問題は、こういうまともな研究者がきちんと史料に基づいた研究成果を発表しても、その他大勢の
頭のおかしな日本史研究者たちによって黙殺されてしまうこと・・・

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177 2010/07/19(月) 18:11:21 ID:zSYb6xvlto
これなんか見てもそうだけど
歴史を単なる政治の道具にしか考えてないとこがあるよね

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178 2010/07/22(木) 08:39:04 ID:WskQWpM3CA
>>176
こういう人がもっと増えないとね

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179 2010/07/23(金) 05:24:07 ID:Ez5oSQuA1Y
このスレの上のほうにもいたけど
文永の役にも神風吹いたと思ってるおバカさんがいる位だからなぁ

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180 2010/07/27(火) 23:20:41 ID:Rgi7bxPARA
「文永の役威力偵察説」と並ぶインチキ学説に、「元寇は対南宋戦の側面作戦説」がある。
要するに、クビライは日本なんかどうでもよかったが、南宋を孤立化させるために攻めて来ただけって説ね。
勿論、史料的根拠なんて一切無し。
それどころか、クビライ自身が「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ」と明言してることも完全無視。
南宋を孤立化させるためにしては文永の役のタイミングが遅すぎるし、南宋征服後に行われた弘安の役は
一体何なんだ?なんてことも気にしない。
更に滅茶苦茶なのは、多くの学者連中が「文永の役威力偵察説」と「元寇は対南宋戦の側面作戦説」を
同時に採用してること。
ちょっと考えればわかるけど、「文永の役威力偵察説」と「元寇は対南宋戦の側面作戦説」って絶対に
両方同時には成立しない。
結局のところ、連中は日本がモンゴル帝国に勝ったことを認めたくない一心で、思考停止状態なんだよね。

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181 2010/08/04(水) 00:26:27 ID:qnwCLicQ8Y
「『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法」を読めばわかるけど、佐藤鉄太郎氏は『蒙古襲来絵詞』だけを
根拠にしてるわけじゃない。
実は『蒙古襲来絵詞』の記述と一致する、『大友頼泰覆勘状写』『福田兼重申状』という史料が存在する。
『大友頼泰覆勘状写』は、豊後国御家人都甲惟親が鳥飼浜で蒙古軍と合戦したため、守護の大友頼泰覆から
与えられた書状。
『福田兼重申状』は、肥前国御家人福田兼重が鳥飼塩浜で合戦して蒙古軍を百道原に駆け落とし、
宇木江六、江浦小太郎、江浦宗澄を証人に申し立てた書状。
どちらもバリバリの一次史料で、疑いを挟む余地が無い。
更に佐藤鉄太郎氏は、少弐景資が竹崎季長に、大友頼泰が都甲惟親にそれぞれ戦功を記録する書下を
与えていることから、少弐景資と大友頼泰も鳥飼潟の戦いに加わっていたとしている。
文永の役で少弐景資と大友頼泰は、定説のように博多・筥崎を棄てて水城に撤退したのではなく、
博多・筥崎から敗走する蒙古軍を追って鳥飼潟へ進軍していた。

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182 2010/08/10(火) 11:12:12 ID:Odq/YZES8g
元高麗弱いな。

「四十余年が間本朝大に乱れて外国暫くも静ならず。
此動乱に事を寄せて、山路には山賊ありて、旅客緑林の陰を過ぎ得ず。
海上には海賊多くして、舟人白浪の難を去りかねたり。
欲心強盛の溢者其類を以て集りしかば、浦々島々多く盗賊に押し取られて、駅路に駅屋の長もなく、
関屋に関守る人を替えたり。
結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、
官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく
荒れにけり。」
【太平記】

これってホラ話なんかじゃないぞ。
【明州繋年録】など元側の史料でも、1309年に日本人の襲撃によって明州城中の官府・故家・民居が
ほとんど焼き払われたと記されている。

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183 2010/08/22(日) 13:23:50 ID:pG7F5N8y3Y
>>175
トリックといえば、三別抄絡みでも悪質なトリックが使われてる。
学者さんたちの説明では、三別抄が日本に救援要請をした時、日本側は半島情勢に無知だったため、
要請の意味が理解できなかったことになってるじゃん。
この「要請の意味が理解できなかった」ってのの根拠は、『吉続記』など公家が残した記録なんだけど、
公家たちが何故理解できなかったかといえば、朝廷から外交権を奪った鎌倉幕府が対外関係の情報を
独占してたからなんだよね。
つまり、公家が理解できなかったことを根拠に、いつの間にか情報を独占していた鎌倉幕府まで一緒に
半島情勢に無知だったことにしちゃうのは完全なイカサマなわけ。

この時期の鎌倉幕府が半島情勢に精通していたことには、史料的裏付けがある。
元史本紀・至元九年三月乙丑条によれば、対日交渉に当たっていた元使の趙良弼が、
「半島の金州に駐屯してる元軍が日本側の不審を招いているので移動させてほしい」と要請し、
それに対して本国の安童が
「もう日本側にバレてしまってるのに今さら移動させれば、かえって不審を強めるだけだから、
あれは三別抄討伐の軍だと説明するように」と返答したとされてる。
鎌倉幕府は半島への元軍配備状況も把握していたってことだし、三別抄の乱のことを理解してなかったら
元側がそれを言い訳に利用しようとするはずもない。
鎌倉幕府は半島情勢をきちんと把握した上で、外交的駆け引きを繰り広げていたんだよ。

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184 2010/08/22(日) 13:58:14 ID:q3BiUO/vxA
>>183
そういう「日本人は国際状況分かってないキチ○イで、身のほどわきまえず戦った」としたがる人っているよね
戦後左巻きってことなんだろうけど

話は変わるけど秀吉評価なんかもそういうところがおおいにある
イスパニアらが中国進出を画策していたことや、秀吉が日本人奴隷を買っていってたイスパニアを敵視していたことを思えば
誇大妄想でもなんでもない。明の首都の北京の位置を考えたら、秀吉が死んでなけりゃ落としてた可能性が高い。
既に朝鮮半島に倭城で固めておいそれと奪還できないよう足場を固め、
九州には伊達・徳川の本隊ともいうべき部隊が出陣待ち。
ヌルハチより確実に秀吉軍のほうが強いだろってはなしでな。秀吉は狂ってなんかいないよ。

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185 2010/09/09(木) 00:15:04 ID:ICM69CwHhY
元軍の劉復亨って博多から撤退する日本軍を追撃中に水城付近で少弐景資に射られたとされてるじゃん。
でも、少弐氏関連の史料では射られた場所が百道原ってことになってるんだよね。

〔少弐系譜〕
景資、資能三男、初名三郎左衛門、後號豊前守、弘安四年於筑前百路原射殺蒙古大将

〔武藤系圖〕
(景資傳)弘安蒙古出来時、蒙古大将百道原射留ラル

〔筑紫系圖〕
弘安四年蒙古襲来之時、忠功一門、劉相公討捕、身丈七尺乗黒馬

成立したのが元寇の随分後だったり、文永の役と弘安の役を混同してたりで史料としては弱いんだけど、
他の一次史料から日本軍が鳥飼で元軍を撃破した戦闘に少弐景資が加わっていたと考えられるのなら、
話は別だよね。
劉復亨は元軍が鳥飼から撤退中に百道原で追撃する少弐景資によって射られた。

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186 2010/09/09(木) 05:50:24 ID:syvPu7k/ps
>>184
>戦後左巻きってことなんだろうけど

あの「とにかく日本はダメ。元寇にしても、たまたま気象の影響で防げたにすぎないし、
秀吉は晩年の狂気から半島に出兵した」って史観、
やっぱり敗戦のショックが大きかったからだろうか?
文献を詳細にあたれば、そんな史観に辿り着かないんだけどね。

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187 2010/09/09(木) 08:29:34 ID:ICM69CwHhY
>>186
戦後、朝鮮半島と関わる歴史事項の研究はタブーだからね。
文献を詳細にあたることなんてないし、議論もない。
あるのは自分たちのイデオロギーに合致してるかどうかだけ。
支離滅裂のトンデモ説でも日本を叩いていれば即採用。

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188 2010/09/28(火) 15:23:17 ID:F1u3Jwk9QM
外交の世界は友好だけじゃ通用しない。
恫喝してくる相手に妥協したら付け込まれるだけ。
鎌倉幕府の方が菅内閣よりも遥かに世界情勢を把握してたし、外交も的確だった。
それなのに平和ボケした戦後の研究者どもはそのことが理解できず、今までずっと鎌倉幕府を
「世界情勢に疎い」「外交オンチ」なんて批判してたんだからお笑いだよね。

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189 2010/09/28(火) 19:48:59 ID:JQrUuQpBh.
尖閣の一件でよくわかったわ
近代兵器もない時代に、中華王朝の侵略を退けた鎌倉幕府は凄い

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190 2010/10/26(火) 21:20:53 ID:pK/9ubAUwY
元軍は陸上侵攻では強かったが、海上侵攻だと東南アジアでも負けてる。
相互の戦力を比較したら、馬が小さく、複合短弓に対し、馬上から長弓を使うのでは厳しいかと思う。

瀬戸際防衛が破られて、橋頭堡を確保されたと仮定したら、果たして?

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191 2010/10/26(火) 22:57:29 ID:Y2uP999lTY
仮定の話は意味が無い。

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192 2010/10/26(火) 23:51:43 ID:qrUvXeWOOc
>>190
文永の役は瀬戸際防衛じゃないから。
普通に上陸して鳥飼に橋頭保を築いた元軍を陸戦で圧倒して1日で撃退。
鎌倉武士の馬は蒙古馬と同じ大きさで別に小さくないし、弓の威力でも日本側が優っていた。
だから、どんな仮定をしようが鎌倉武士が勝つ。

あと、元軍は海上侵攻だと強くないってのも完全な誤解。
三別抄の乱は海上侵攻で鎮圧してるしね。
東南アジアのジャワだって、僅か5000人の兵力で首都クディリを占領し、クルタナガラ王を殺害。
戦闘では圧倒的な強さだったよ。

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193 2010/10/27(水) 23:51:02 ID:p/sANecTXY
モンゴル軍は鎌倉武士に2回続けて空前のボロ負けしてるわけで、双方の軍事力の差は
ちょっとシチュエーション変えたぐらいじゃ埋まらねーよ

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194 2010/11/02(火) 20:43:25 ID:3F5svBSmjY
文永の役では、侵攻と言うよりは威力偵察程度じゃないかと。
要するにそもそもが、本気の侵攻じゃない。

弘安では、水際で防御出来た事が大きい。

そして、台風の季節に助けられた。

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195 2010/11/03(水) 00:15:25 ID:0/EzSZg11U
威力偵察の規模は軽く超えてるだろw
二千や三千ならともかく

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196 2010/11/03(水) 10:18:24 ID:MSdeTO75BU
そもそも威力偵察説には根拠となる資料も文献もまったく見当たらないんだけどな。
事前に長い年月準備して高麗に大量の軍船作らせて、総勢四万の大軍を送り込んどいて
「本気じゃなかった」「威力偵察だった」はねえだろw

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197 2010/11/03(水) 16:00:28 ID:.b7vjZ/6wE
弘安の役の敗戦の後、元のクビライは汚名を削ぐため、持てる戦力の全てを投入して第3次日本遠征を計画。
しかし、劉宣が「再び日本を攻めたりしたら元朝は滅びてしまいます。とても勝ち目はありません。」と諌め、
隋が高句麗に3度侵攻して3度大敗し、そのことが命取りとなって滅亡した故事を持ち出すと、
さすがのクビライも日本遠征の中止を表明するしかなかった。。。
文永の役も弘安の役も普通に元の国家基盤を揺るがす大敗北と認識されてるってことね。

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198 2010/11/03(水) 21:01:59 ID:6UB7Djeo6k
削除(by投稿者)

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199 2010/11/04(木) 14:11:55 ID:8fLZPH2Bbw
日本って考えたらすごくね?

モンゴル帝国
大明帝国
大清帝国
ロシア帝国
アメリカ合衆国
大英帝国

名だたる大帝国と戦ってきて。
しかも、国が本当に滅びる決定的な敗北にはいたっていないというね。

海に守られた日本列島だったから、とかいう人がいるけど。
実際には、サムライがいたから、抑止力になって日本は守られていたんだろうね。


今は?…。

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200 2010/11/04(木) 17:48:31 ID:4fqP94K6RA
太平洋戦争は決定的な敗北ではありませぬか

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201 2010/11/04(木) 19:10:46 ID:ECd9rDGGdc
削除(by投稿者)

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202 2010/11/04(木) 19:19:47 ID:3EKpEpY1WQ
自国の過去を一生懸命美化したがるのは、日本もお隣も同じ心理ですな。

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203 2010/11/04(木) 19:46:45 ID:pa03XZ9AN6
>>202
まだ、洗脳が解けてないみたいだな。
この歳になるまで、鎌倉武士は一騎打ち戦法しか知らなかったとか、
モンゴル帝国が日本だけは侵略せずに友好関係結ぶつもりだったとか、
当時は馬を船で輸送することができなかったとか、
4万人もの大兵力投入した文永の役が威力偵察だったとか、
アホな話を事実だと信じ込んでいたんだろ?
それって滅茶苦茶ヤバいぞ。
今まで完全に思考停止状態だったってことじゃん。

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204 2010/11/04(木) 22:46:12 ID:9bb6EpXv.c
>>202
同じだというところまでは認めるようになったのかw
むかしは日本だけが一方的に美化していると言われてたもんだが

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205 2010/11/17(水) 18:18:46 ID:Z9lxIxnyb6
>>199
海に守られた日本列島って本当に酷い勘違いだよ。
実際には日本列島を取り巻く海は危険に満ちていたのに。
9世紀には新羅の海賊が九州などを頻繁に襲撃してる。
あと、あまり知られてないけど、沿岸地域に住む東女真って強力な海軍を持っていて、
高麗なんて海から襲撃されまくりだった。
刀伊の入寇を撃退したことは、本来ならもっと評価されるべき。
そして、レパントの海戦のオスマン艦隊やアルマダの海戦のスペイン艦隊を遥かに上回る
大艦隊が攻めて来た元寇。。。
その後は、アジアの海で日本が一番危険な存在になっちまったけど。

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206 2010/11/17(水) 21:20:02 ID:irVo9G.O3k
>>200

目が節穴だな

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207 2010/11/17(水) 21:31:13 ID:zHLkIP3Lo.
いや海に守られてるのは間違いが無いでしょ
海の歴史なんてのもあるけども
大規模な侵攻をやりにくいってのは確かだし
現在でもそれは変わらない

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208 2010/11/18(木) 05:45:37 ID:kBKI8roZCk
>>207
全く逆。
海の方が大規模な侵攻やりやすいんだよ。
大規模な侵攻を支える大規模な物資運搬は唯一船でしかできないから。
前近代では兵站なんて水運なくして成立しない。
だから現実に元寇は当時指折りの大規模な侵攻なわけ。

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209 2010/11/18(木) 15:58:39 ID:EYU3rww30s
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210 2010/11/18(木) 16:02:28 ID:EYU3rww30s
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211 2010/11/18(木) 16:48:09 ID:UhsPD0Ye9s
元寇くらいの兵力の侵攻は大陸ではたくさんあったけども
日本へは二回しかないじゃん
コストかさむしやりにくいでしょ普通に

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212 2010/11/18(木) 17:59:38 ID:tIQzWV4xLE
日本人なら日本語が通じるってのが、勘違い。

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213 2010/11/18(木) 19:07:55 ID:kBKI8roZCk
>>211
大陸で元寇くらいの兵力の侵攻が簡単にできるわけないじゃん。
モンゴル軍の侵攻で弘安の役より兵力が多いのなんて、クビライの南宋侵攻ぐらい。
南宋侵攻に何で大兵力を投入できたかといえば、至元7年以降9000艘近い大造船をおこなって、
大河に沿って「水陸並進」で侵攻したからなんだよ。
結局、船の輸送力に全面的に依存した侵攻作戦だったってこと。
それが現実なのよ。

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214 2010/11/19(金) 01:06:05 ID:OoGRMg9n6A
水運と海運・・・・・。

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215 2010/11/19(金) 01:06:45 ID:OoGRMg9n6A
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216 2010/11/19(金) 02:06:48 ID:SFAtOAMFCM
>>214
水運と海運って実は元朝でも比較検討されてる。
で、結果は経済効率で海運が水運を圧倒。
元朝では江南から大都までの糧食輸送を全面的に海運で行うことになりましたとさ。

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217 2010/11/19(金) 09:26:17 ID:J2WjvFa3nA
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218 2010/11/19(金) 10:06:14 ID:J2WjvFa3nA
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219 2010/11/26(金) 12:02:03 ID:jWgAYle2oI
日本史の根幹に関わることなのに、「日本列島は海に守られてた」みたいな安易なコピーで、
簡単に納得しちゃダメだよね。
そこから更に掘り下げるなり、何か疑問を持つなりしないと。

東アジアや欧州の事例だけじゃ物足りなかったんで、ちょっと元寇と同時代のインド洋についても
調べてみたんだけど、11世紀以後ダウ船を使ってペルシア湾から南インドに輸出されていた
商品の中心は馬なんだって。
インド洋でも馬は船で運ばれまくりってこと。
それから、スリランカは1247年にマレー半島の国ターンブリンガのチャンドラバーヌ王の侵攻を受け、
島の北部を占領されてる。
さらに、1258年には南インドの国バーンディアがスリランカに侵攻。
島国はどこも大変だな。

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220 2010/11/26(金) 15:15:34 ID:Z8.c1yP1Gg
半島まではモンゴル来ちゃったものねえ
海がなけりゃあもっと楽に侵略されちゃったろうねえ
良かったね

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221 2010/11/26(金) 15:44:40 ID:WlVVzm81z2
>>220
モンゴルは九州まで来てるじゃん。
そこでボロ負けしただけで。
海は関係なかったな。

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222 2010/11/26(金) 16:49:32 ID:yBxOC9W1A6
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223 2010/11/26(金) 18:58:37 ID:jWgAYle2oI
>>222
本当に地続きだった朝鮮半島にモンゴル軍は1万も投入できていない。
地続きだったら撃退はもっと余裕だろ。

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224 2010/11/26(金) 20:11:06 ID:Qpg3f2WlTI
島国だから日本という国が形成されてきたわけで
もし陸続きだったらとかいう仮定はそもそも無意味

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225 2010/11/26(金) 23:00:07 ID:uwdm72xP1Y
陸続きで万単位でモンゴルが何度も攻めてきたら・・・
おそろしい話だな

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226 2010/11/26(金) 23:35:34 ID:jWgAYle2oI
>>225
実際に万単位で攻めて来て鎌倉武士に全く歯が立たなかったモンゴルのどこが恐ろしいの?

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227 2010/11/27(土) 00:29:59 ID:2HGD788Zak
>>224
たしかに陸続きだったらえらい違いだろうねえ
文化とかいろんな意味でも。島国でよかったw

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228 2010/11/27(土) 00:31:36 ID:ad1.DDy/qE
>>227
結局、モンゴルの何が恐ろしいか説明できないんでしょ?

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229 2010/12/07(火) 12:06:00 ID:IC5NJStVBI
地続きだったら撃退はもっと余裕だったとか日本美化しすぎて頭おかしい人間より恐ろしいレベル。

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230 2010/12/07(火) 14:37:09 ID:42P/f5lLE2
>>229
だったら、きちんと説明しないと。
地続きだったら何が大変になるの?
ちゃんとした理屈も無いのに、地続きだったらえらいことになってたって言い張る方が
頭おかしい人間より恐ろしいレベルでしょ?

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231 2010/12/07(火) 15:00:53 ID:Lh0yxFPpxI
地続きの半島の歴史をみりゃ
だれでも海があったほうがいいって言うだろw

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232 2010/12/07(火) 15:29:06 ID:42P/f5lLE2
>>231
半島は間に海がある日本からだって何度も侵略されてるし。
地続きかどうかの問題じゃなく、単に弱小民族だから悲惨な歴史を歩んだだけだろ。
日清戦争や日露戦争で半島と地続きの清やロシアが、間に海がある日本に負けたのは何なのさ?

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233 2010/12/07(火) 16:40:25 ID:IC5NJStVBI
>>232
単純な理由だよ。有利なだけ。絶対ではない。
まけた事例を持ってきて喜んでみせて「ほれみろ海隔てても有利じゃないぞ!」ってか?
本気で言ってんのあんた?

海は天然の要塞なんだよ。
こういう当たり前の知識は人に聞かずに自分で調べればいくらでも出てくる。
逆に陸続きの方が容易だという理論は調べても全く見つからないからお前が教えてくれ。

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234 2010/12/07(火) 17:07:39 ID:42P/f5lLE2
>>233
ほら、やっぱり陸続きの方が容易だという理論なんて見つからないだろw

例えば、ちょっと半島の歴史調べただけでも、唐が地続きの高句麗よりも、
わざわざ海を越えなくちゃいけない百済を先に滅ぼしたりしてるし。
侵略者にとって海は天然の要塞どころか、天然のハイウェイなんだよ。

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235 2010/12/07(火) 17:15:26 ID:GFxkdVqb8A
と思ってたら大時化がww

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236 2010/12/07(火) 17:21:36 ID:wmiddCJvGw
地続きだったら文化も風習も戦法もまるで違ったものに発展していただろうし
それはもう日本とは呼べないだろ。

地続きだったらヤバかったとか有利だったとかあまりにも不毛な議論

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237 2010/12/07(火) 19:52:00 ID:IC5NJStVBI
>>234
じゃあまとめるよ。
不毛な議論だから終わりにするよ。

このスレに生息する生き物たちのレベル。

「海を越えて攻める事は陸続きに攻める事より容易である」
「海を隔てて守るよりも陸続きに守る方が有利である」

これでいいよ。
素晴らしい説だ。歴史的な発見だな。

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238 2010/12/09(木) 02:03:26 ID:t83rMGJ7Dw
現実は、モンゴルが日本に手も足も出なかったことが解ったから
今度はもし日本が大陸と地続きだったら?ってフィクション作ってまで
日本が弱いと言いたい連中ってバカすぎだなw

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239 2010/12/09(木) 03:02:00 ID:XH7Kbb4CbY
モンゴル帝国も海という天然の要塞で守られてたはずなのに・・・

日本側の史料:『太平記』
「結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、
官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく
荒れにけり。」

モンゴル帝国側の史料:『論倭』
「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。むかしは「至弱」と雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。
いわんや今は険を恃んで、その強さはまさにむかしの十倍に当たる。さきに慶元より航海して来り、
艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たさなければ、
城郭を燔焫して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。」

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240 2011/01/29(土) 10:54:36 ID:UvgntEpGwo
3月にNHK教育の知楽遊学シリーズ「歴史は眠らない」で、東京大学大学院人文社会系研究科教授の
村井章介が「海がつないだニッポン」ってテーマの講義をやるんだけど、何故か今回は元寇に触れないんだよ。
今までこういうテーマでは、元寇に絡めて日本を叩くのがこいつの十八番だったのに。。。
ちょっとはネットの声も届いてるってことか?
ちなみに、村井章介ってこんなこと書いてる奴ね。

村井章介著 北条時宗と蒙古襲来 P118
『先にあげた諸例のなかで、予定された戦争は「異国征伐(発向)」「高麗征伐(発向)」と呼ばれている。
攻撃目標は本源地であるモンゴルではなく、朝鮮半島だった。ここには、戦役に疲れた高麗の弱みに
つけこんだ冒険的侵略主義以外のものは認めがたい』

こいつは、高麗が日本を侵略した元寇については「戦役」って言葉を使うくせに、日本がその報復を
しようとすると「侵略主義」のレッテル貼るわけ。
先に相手が手を出した以上、もし鎌倉幕府が「異国征伐」を実行したとしても、それは自衛権の発動で
常識的には「侵略主義」なんて呼ばないよね。
日本が100%侵略の被害者だった元寇でまで、日本を「侵略主義」と叩かずにいられないなんて、
狂ってるとしか思えないだろ。

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241 2011/02/16(水) 03:46:41 ID:xiPdUL9zNc
鎌倉幕府って元寇の後すぐに滅んじゃったから日本側に記録が残ってないけど、元や高麗の史料読むと、
かなり活発な外交や調略をやってたんだよね。
例えば、1272年に使節団を元の首都大都に派遣してる。
あと、高麗内部の切り崩しをやってた形跡もある。
三別抄とも濃密な交流があった。
南宋とも文永の役の前に同盟が成立してたりする。
学者連中は鎌倉幕府が外交オンチだったという結論ありきで、こういう史料を一切無視してるけどね。

「異国征伐」って実は同盟結んでた南宋の側面支援が目的だった可能性もあるの。
でも、文永の役で勝利した日本と違い、南宋はボロ負け続きで救援なんてもう非現実的な状態だった。
だから、「異国征伐」を諦めて、日本単独で元と戦うために元寇防塁建築に専念することにしたって感じかな。

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242 2011/03/09(水) 23:09:33 ID:WJL0U3Vn6E
ここまで読んでみた感想をひとつ・・・
  
 
   
 
日教組は解体した方がいいな。
日本の為にならない。

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243 2011/03/18(金) 15:41:16 ID:5FFPbBYFXA
雑誌とかで日本史上の名将ランキングとかの企画やっても、北条時宗をはじめ元寇に関係した人物が
ランクインすることってまず無いよね。
あのモンゴル帝国に一方的な勝利を収めたのに。
日本史上でこれ以上重要な勝利なんて無いのに。
そのくせ、世界史上の名将ランキングとかの企画やると、バイバルスや陳興道がモンゴル軍に勝った実績で
ランクインするんだぜ。
こいつらが勝ったモンゴル軍は元寇より規模が小さかったり、元寇ほど一方的な勝利じゃなかったりするのに。
だったら、北条時宗や少弐景資は世界史上屈指の名将と評価されないとおかしいだろ。

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244 2011/05/29(日) 11:56:04 ID:Yflgfg5fzU:au
結局、どうしてユーラシア大陸を制覇した蒙古軍を撃退できたか? が分からないんだ。
神風、補給、戦意、作戦、どれをとっても要因ではあるが決め手にはなってない。
武具の性能はどうだったんだろうか。
弓:射程距離、破壊力、命中率。
甲冑:防御力。
刀剣:長さ、頑丈さ、切れ味。
仮に日本側が全てに勝ってたらワンサイドゲームになるとおもう。
アウトレンジ攻撃と最小限の被害で上陸侵略を許さず、海にプカプカさせといたら神風が吹いた、で得心出来る気がする。
証拠はないが…

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245 2011/05/29(日) 13:16:21 ID:toOb4b3vkM
>>仮に日本側が全てに勝ってたらワンサイドゲームになるとおもう
仮にじゃなく実際ワンサイドゲームだっただよ
文永の役で3万で奇襲攻撃したが半日で副将討ち取られ逃げた。
当時3万クラスの兵力は中小国家潰せるぐらいの兵力。

>>武具の性能はどうだったんだろうか。
防具は日本の方が優れていて装備率も高かったはず、承久の乱以降武士社会になり
装備率は高い、対して蒙古は支配した国の寄せ集めなので防具の防御力と装備率は
貧弱
武器は遠距離攻撃の和弓は大きさは世界最大で有効射程距離でも蒙古に負けず、
命中率も武士は小さい頃から英才教育を受けてたので高い。
中距離攻撃の薙刀、近距離攻撃の日本刀とも優れた武器を武士は保有し有利に戦った

蒙古は騎馬戦で世界最強と思っていただろうけど日本へ攻めたらとんでもない
重装備騎馬兵が居てびっくらこいただろうなw

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246 2011/05/29(日) 23:22:45 ID:MNqoRloY6I
元軍の副将は重傷を負ったけど死んではいないぞ

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247 2011/05/30(月) 00:37:54 ID:qLrIjkm5Nw
>>246
討ち取る⇒殺す
射倒す⇒矢で負傷させる
討ち取るでなく射倒すですね、訂正します。

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248 2011/05/30(月) 23:07:37 ID:ZsLArWvE7Q
文永の役の戦闘経過なら史料からかなり詳細にわかってる。
百道、姪浜付近に上陸したモンゴル軍は博多を目指して東進したが、赤坂で菊池武房に撃退され逃走。
それを追撃する日本軍と鳥飼潟塩浜で決戦となり、敗れたモンゴル軍は百道、姪浜に追い落とされて撤退。
結局、博多にも大宰府にも到達できずに1日で敗退だから、鎌倉武士のワンサイドゲームとしか言いようがない。

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249 2011/05/31(火) 00:07:45 ID:XjnB/ZtHRk
当時の式目で、元寇以前から博多の防衛について
御達しがあったんだな。ネットや電話も無い時代なのに、
博多上陸より先に九州の武士たちが大宰府に集結し
撃退に成功してる。鎌倉時代の情報伝達力と機動は侮りがたい。
それに引き換え、今の政権の体たらくたるや。

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250 2011/05/31(火) 00:14:33 ID:Ih8wvtvNQs
>>248

>>百道、姪浜付近に上陸したモンゴル軍は博多を目指して東進したが、赤坂で菊池武房に撃退され逃走。
>>それを追撃する日本軍と鳥飼潟塩浜で決戦となり、敗れたモンゴル軍は百道、姪浜に追い落とされて撤退。

これっていずれも局地戦で、全体としては日本軍側がじりじりと防衛線を後退させてたんじゃなかったか?まあ最終的に元軍は、大宰府攻略を断念して撤退したんだから日本側の勝利には変わりないが

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251 2011/05/31(火) 00:57:34 ID:nYnKnrKQ8A
>>250
局地戦じゃないよ。
そこが文永の役の主戦場。
日本軍の主力は、おもいっきり防衛線を前進させてモンゴル軍に総攻撃を仕掛けたわけ。
最初は博多に布陣していた大友頼泰が進軍して鳥飼潟の合戦に加わっていたことを示す史料がある。

『蒙古人合戦の事、筑前国鳥飼濱陣に於いて、忠節を致し給わしめ候の次第、
すでに関東に注進し候いをはんぬ。仍って執達件の如し。
    文永十一年十二月七日      頼泰
  都甲左衛門五郎殿』

都甲左衛門五郎が鳥飼で戦ったことの証人に大友頼泰がなってるってことは、大友頼泰自身もその時
鳥飼にいたってこと。
博多付近でも戦闘が行われたってのは嘘ね。
文永の役で博多の町が被害を受けたという話を裏付ける史料は一切無い。

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252 2011/06/01(水) 03:51:49 ID:geK2iqy2AM
高麗王って征服されてからはモンゴル人になっていくんだねえ

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253 2011/06/01(水) 09:45:22 ID:dFw/M2YGNM
もともと日本は海洋民族の国。
そんな風貌でなくなっているのは征服されたからではなく、寛容に渡来人(要するに難民みたいなもん)を受け入れ社会に取り入れて混血が進んできた結果。
そういう大らかなところが元々海洋民族にはあるように。
だから日本は東洋人のような風貌でありながら、目鼻立ちが南洋人のようにしている。
中国人は北方モンゴロイドと東南アジア人と西アジア人の混血体であり、朝鮮は少量の海洋民族と大多数の北方モンゴロイドの混血が長きにわたって近親婚をくりかえしてきた結果である。

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254 2011/06/01(水) 14:25:42 ID:5T0g4gVDfs
「凶徒は麁原に陣を取りて、色々の旗を立て並べて、乱鉦暇無くして犇めき合ふ」 『蒙古襲来絵詞』
 
『蒙古襲来絵詞』を見れば、麁原のモンゴル軍は完璧に布陣を終えていて、上陸作戦の不利なんて
言い訳は通用しない。
しかも騎兵の比率が高い。
最前列に槍を持った歩兵が並んでるだけで、その後ろに控えているのは全員騎兵。
このモンゴル軍が正面から鎌倉武士と激突して完敗した。

「右、昨年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、
令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶)徒等、令懸落百路原」 『福田兼重申状』
(十月二十日に元軍と鳥飼塩浜に於いて合戦を行い、麁原山の凶徒が引き退いたので、百路原に戦って
追い払った)

「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡二軍ヲ出シ
姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」 『日田記』
(日田弥次郎永基は永十一年十月二十日に元軍と姪浜と百路原に於いて一日に二度合戦し、大勝利した)

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255 2011/06/02(木) 06:14:20 ID:FiG4W9U.kw:au
義経の迂回奇襲ひよどり越え、謙信・信玄の一騎討ち、千早城、のような「華」がない。
ぶつかったら敵が逃げたので追いかけてやっつけました。で終わる気がしてしまうのは何故だろうか。
講釈師がサボってたか?
それともワンサイドゲームすぎるので講釈の題材にならなかったのか?

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256 2011/06/02(木) 20:11:49 ID:rErqf2FuxA
それらしい場面といえば少弐景資がパルディアンショットで
劉復亨を射倒すところくらいかな

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257 2011/06/02(木) 20:53:09 ID:yys4qJluAI
>>256
少弐景資はパルディアンショットで劉復亨を射倒したわけじゃないんだな。
後世の史料で文永の役と弘安の役がゴッチャになってるけど、少弐景資が劉復亨を射倒した場所は、
やっぱり百路原で他の史料と一致してる。
少弐景資は敗走する劉復亨を追撃して射倒したんだよ。

〔少弐系譜〕
景資、資能三男、初名三郎左衛門、後號豊前守、弘安四年於筑前百路原射殺蒙古大将

〔武藤系圖〕
(景資傳)弘安蒙古出来時、蒙古大将百道原射留ラル

〔筑紫系圖〕
弘安四年蒙古襲来之時、忠功一門、劉相公討捕、身丈七尺乗黒馬

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258 2011/06/03(金) 13:16:12 ID:bAGAQiGjQY
>>255
いやあるにはあるが、戦国のほうが国内のことだから語りやすい。
モンゴルをやっつけた話を今更教科書にのせるより、外交交渉したほうが利益になる。
しかし事実として当時のことは生々しい話が残っている。

援軍を待っていられずに飛び込んでいった騎馬武者一行や、博多湾にせり出るようにして門を構える箱崎宮で篭城した僧兵達、そして炎上した本社。
なにより元を追い討った後始末は悲惨。 将と兵の区別なくひっとらえて、三笠川下流で言語道断に斬首。そのまま川になげこんだため、おびただしい首が折り重なってせき止めとなり、真っ赤な水がたまっていた。

題材にする商売人がいないだけで、話は結構残っている。
むしろ、それだけ話が残っているのに、神風の一言で終わる教育こそ本当ならもったいない。

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259 2011/06/03(金) 13:32:06 ID:bAGAQiGjQY
元軍の押し寄せた対馬では悲惨な生き地獄が早速始まる。
対馬は郎党あげて討ち死に覚悟で応戦。元軍ひるんで思いのほか持ちこたえたが、しかし人海戦術にはかなわずやがて落城
逃げ場の無い島では島民のあぶり出しが始まった。
男はなぶり殺され、女はその場で輪姦、夜を徹して破壊の大宴会を繰り広げたあと、まだ生きている女は手に穴をほがされ鎖で数珠繋ぎにされた。そして船という船の外べりに数珠繋ぎの女子供をぶら下げて博多湾へ出港。
内海に入り込んできた異様な姿の大水軍を前に博多の街は騒然。
その夜には箱崎宮が炎上し、夜空を煌々と照らしていた。
元の上陸した博多の街を遠巻きに見守る地方の衛兵達。援軍の到来を待っていた。
待ちきれずに郎党を引き連れて出陣した日本の美しい武者姿達も化け物のように動く元の隊列に見る見るうちに呑み込まれて絶えて行く。
福岡平野の出入り口、防人時代からの関所「水城」の内側には三方を山に囲まれた軍事要塞、筑紫野城。 九州周辺からわらわらと集まってきた軍勢は相当数に登っていた。そして本州からの援軍も届き、いよいよ決戦が始まる。
侵入当初、燃え上がった箱崎宮、今その山門には「敵国降伏」の文字が高々と飾られている。

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