>>26 会津贔屓のプロパガンダですね。
そこまで贔屓してもらえるのは会津藩士の子孫としては嬉しい反面
敗戦後、孝明天皇から賜った宸翰を世に出さず、恨み言も言い訳せず堅く口を閉ざした容保公の思いを鑑みればとても複雑ですね。
恨み言や捏造悲劇で観光客を呼ぶ現状を憂い、この埋葬禁止令の嘘を憂い
これを暴いたのは会津若松市の有志であり、長州好き等と言われるような輩ではありません。
もちろん今の『会津若松市史』には埋葬禁止令は身元調査の一時的な措置と書かれてます。
そもそも戊辰戦後に会津を統治したのは非薩長の藩で編成された民生局なので長州贔屓な人には関係ないと思うんですけどね。
ちなみにこの占領統治した民生局は狼藉を働く者は西軍の者でも切り捨て御免の布告を出し
戦後早々に会津藩士の戦傷者病院を建てたり貧民に配給を施したりと
混乱収束に尽力していた事が『会津若松市史』からみてとれます。
>遺骨等が事実会津側遺族に返却されてないわけですから
返却を禁止した事実は無いと思いますが?
事実、禁止令が解かれた後に自身の父と兄の遺体を捜し歩いた河原某氏の話は有名ですし
また飯盛山の白虎隊士の遺体を埋葬した吉田某氏が処罰を受けたとされてますが
民生局から表彰を受けた事が明治23年発行の白虎隊勇士傳(著 二瓶由民)から解ります。
多くの戦死者が無下に埋葬された事は残念ですが、敗軍であることや
火葬が一般的ではない時代であることや遺体の腐敗による疫病の蔓延を防ぐためには合同埋葬は致しかた無いと思います。
>逆に政府軍の遺体は丁重に遺族へ引き渡されたというのはなんも間違っていません。
間違ってます。
戦後、会津側によって会津若松市の融通寺内の西軍墓地へ埋葬されております。
そもそも明治初期に遺体の長距離移送など無理。
ちなみにこの西軍墓地は会津若松市によって改修工事も行われています。
画像は『ここどこ』板にも張ったんですが、現在改修工事中の鶴ヶ城です。
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