涙の道:
1838年にアメリカ合衆国のチェロキー族インディアンを、
後にオクラホマ州となる地域のインディアン居留地に強制移動(Population transfer)させたときのことをいう。
このとき、15,000名いたチェロキー族のうちおよそ4,000名が途上で亡くなった[1]。
インディアン居留地まで、ほとんどが徒歩で時には馬や馬車、
ボートを組み合わせておよそ1,200マイル (1,900 km)の距離を3つの経路で進んだ。
旅の途中で人々は「アメイジング・グレイス」を歌って士気を高めていたと言われている。
伝統的なキリスト教賛美歌が、この時より前に宣教師のサミュエル・ウースターと
チェロキー族のエリアス・ブーディノットの手助けによってチェロキー語に訳されていた。
以後、この歌はチェロキー族インディアンのある種の国歌になった。[5]
バターン死の行進:
第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、
バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍の捕虜が、収容所に移動するときに多数死亡したことを言う。
全長は120kmで、その半分は鉄道とトラックで運ばれ、残り42kmを3日間徒歩で移動した。
サンダカン死の行進:
1945年、太平洋戦争(大東亜戦争)中に大日本帝国が設置した
マレーシア・サンダカン捕虜収容所における日本軍によるオーストラリア・イギリス軍兵士捕虜に対する
捕虜虐待疑惑および「死の行進」と言われる行為である。
これに伴い1000人以上の捕虜が、ラバウル豪軍総司令部軍法会議の豪側検事によれば、7人を除き全員死亡したとされる[1]。
日本兵もまたこの移動により数百名が死亡している[1]上に、生き残ったオーストラリア軍の元捕虜は、
「行軍はきわめて辛かったが、捕虜への扱いは日本軍将兵と同一であった」と証言している[1]。
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