過大評価されてる武将


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001 2011/05/13(金) 21:27:01 ID:VoWZMgDOp.
武田信玄

平均点以上ではあるが、色々と失敗もあり誇大評価なのでは?
地元じゃ武神の扱いだが、生きていてもそのまま信長に勝てたと思えん
残された勝頼がかわいそう
滅亡の原因作ったのはコイツ

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002 2011/05/13(金) 21:41:34 ID:DvAy9WkP0Y
003 2011/05/13(金) 22:16:34 ID:4Orgqtp9ZQ
劉備玄徳

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004 2011/05/13(金) 22:38:12 ID:bY.vfZp/N.
>>1
信玄が上洛しようと進軍してきた当時の
信長なんて信玄の前では赤子同然ですがな。

家康と同じようにきゃんきゃんに
泣かされるのが目に浮かぶわ。

結局時代の流れ・運命には、いかなる才能も勝てないという
普遍的事実ですよ。

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005 2011/05/13(金) 23:43:17 ID:039CTiZL8o
松山千春

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006 2011/05/14(土) 00:05:50 ID:HjZqZj5t5M
過大評価されてるといえば最近の石田三成かな
今じゃ賤ヶ岳の先駆衆に名前があったってだけで
「三成も武闘派だった!」とか言い張るバカがいるくらいだし
あとゲームでイケメンのイメージ広まりすぎ

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007 2011/05/14(土) 04:35:16 ID:PvxLuye9Ec
>>4
というのは「甲陽軍艦」に描かれた設定じゃなかったか?
ありゃ江戸時代に脚色満載で書かれたもんだろ?
その設定がそもそも「過大評価」なんではないか?

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008 2011/05/14(土) 05:07:20 ID:MZCMiNojBE
>>6
それは、以前の過小評価の反動でしょう
過大評価のとらえ方は、個々の考えだと思うけど
過大評価されているとしたら
好きな武将なので嬉しいですね

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009 2011/05/14(土) 11:25:08 ID:HjZqZj5t5M
>>8
まあ江戸時代の奸賊扱いは酷かったし
功績が正当に評価されるようになったというのもあるだろうね

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010 2011/05/14(土) 13:55:42 ID:XjQViQDF0Q
上杉謙信はどうですか?
たしかに戦には強かったみたいだけど、信州だ関東だとバタバタ動きまわった割に、
あまり領地は増えてないし、越後内では内乱ばかり起こってた印象だが。

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011 2011/05/14(土) 14:18:15 ID:3HbGSie8Aw
甲陽軍艦は負け戦を勝ちと脚色されてたりする。特定の人物を糾弾してばかりで真実性に欠けそうだと言う事。
徳川の名誉を汚さんようにする為(高天神落城・三方ヶ原の敗戦の過去・武田の旧臣を多数抱えていた等)にあえて誇張してる。

甲陽軍鑑によれば武田勝頼はこの時から有頂天になって、家臣の言う事を聞かなくなったという・・・と記される。 本当にそれが原因なのだろうか?

俺は信玄が持ち直して再進軍しても、朝倉義景が離脱して信長包囲網の一角が崩れた時点
で厳しいとみている。 積極的に動いたのは信玄のみ。本願寺も浅井、朝倉も距離的には織田勢の近くなのに動きが鈍すぎる。武田も長期戦は無理だろうし、信長は無理な戦いはしない。籠城したりして時間稼ぎするかもしれん。

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012 2011/05/14(土) 15:09:18 ID:3HbGSie8Aw
>10 謙信は正当な評価だと思うよ。戦は強いが他はダメ。だが、彼の場合は本当に信心深くて旧時代の正義感が強かったので、領土拡大には関心の薄い欠点も抱えている。
関東管領なんてもはや名目だけなのに本気で何度も関東に静謐を取り戻そうと進軍。
でもさすがに小田原は落とせず、秋には越後に戻らねばならないので帰る、その間に北条動き出す。のループ
大名なんかよりも、一軍の将に向いてるw 

戦略△ 戦術◎ 政治△ 

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013 2011/05/14(土) 15:25:53 ID:3HbGSie8Aw
ついでに武田信玄の評価は
戦略○ 戦術○ 政治○
何でもできるが失敗もあり内部に問題を多く抱えていたと思はれる
私的には北条氏康のが上

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014 2011/05/14(土) 17:08:17 ID:JRAj3aeJko
>>4
信玄が上洛しようとした時点じゃ、信長の兵力はもう信玄を軽く超えてたし、
局地戦で勝ったり負けたりしてる間に死ぬでしょw

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015 2011/05/14(土) 17:18:51 ID:5s44hxzUO.
北条氏康は信玄の小田原攻めに対して決戦を避け籠城をきめこむ
後世は謙信 信玄に人質を送り臣下の礼をとる
信玄上洛のおり3000の兵を甲斐に送る

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016 2011/05/15(日) 08:11:20 ID:52CiVAYG5M
信玄は城というものに対する考え方が終始一貫した男だったようだね。
簡単な屋敷型の城ばかりでそれで勢力を誇ったわけだから、相当な考えと才があったのは否定できんだろ。
野戦において信玄が最強だったことはいうまでもないし、結局敵は自分が篭城に逃げ込む事はあっても、信玄を城に追い込むところまでいけなかった。

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017 2011/05/15(日) 15:09:58 ID:Uh6klGC0r2
そこは信玄の長所かな
攻城戦では砥石崩れとか大敗してるけどね
実際強いんだろうけど、それ以上に強いと言う印象を与える事が上手かったのでは?
赤備えといい、やくざの外見みたく強そう、怖そうに見せると言うか・・・
だから、健在なうちはなかなか攻められない

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018 2011/05/15(日) 16:49:24 ID:52CiVAYG5M
逆に言うと、信玄軍がいるってすぐわかっちゃうんだよね。
強いっていう概念がないと、いいカモにされる。
赤いから強そうに見られたというより、強さと色の相乗効果のほうになると思うな。この場合は。

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019 2011/05/15(日) 23:43:46 ID:cnfBZHrjgQ
>>14
織田の兵は弱兵だから数が多くてもよく負けてる

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020 2011/05/16(月) 00:15:26 ID:/lrQHNZePE
>>16
それは甲斐という国が
リスクを犯してまで取る国でなかったというだけ

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021 2011/05/16(月) 00:20:21 ID:oKbVTsuBnU
信長の軍は銭で雇った兵が多いし、そいつらは忠誠心とか無いからな。
甲州武田の兵とか、三河の徳川軍団とかは鉄の結束で強かっただろうけど、
その代わり、重臣たちの顔色を伺うことも必要で、お館様が好き勝手に戦は出来なかった。
信長は銭で雇った兵だけに、好きな時に好きな場所に兵を出すことが出来た。
信玄の軍は、織田軍を押しに押したとしても、田植えや稲刈りのシーズンには甲州に帰らざるを得なかった。

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022 2011/05/16(月) 01:11:09 ID:0eRuOCCwPk
人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり

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023 2011/05/16(月) 01:50:19 ID:aY1FcB6YFU
>>21 強くても帰らざるをえないとこが最大の欠点だよな。
謙信だろうと毛利だろうと同じだよな・・・
信長はそこが違うんだよな、尾張→美濃→伊勢→近江と一気に領土拡大してる。
その間にも前線に拠点を移す。清州城に主力戻ったりはしない。

信長よりも早く生まれ、大きな勢力を誇っていた毛利、三好、武田、上杉、北条なんかも
領土を獲ると言う事では全くかなわないな。

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024 2011/05/17(火) 10:25:38 ID:xIrBjJxbTk
>>20
それは極端論。愚の骨頂。
信玄と国境を構える者達は、ねずみ被害を受けている家が金が無いからといって対退治をしないのよりもさらに愚かな者であるといっているも同然。

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025 2011/05/17(火) 17:11:29 ID:8P2GsjLRMU
>>24
貴方は
金山は有るが産業が未熟で人の出入りの盛んでない国と
金山は無くとも産業が栄え人の出入りの盛んな国
どちらを先に奪いますか?
答えは簡単
後者を奪い自国の国力を付ければ前者は簡単に奪える
それを実践したのが信長
この時代の甲斐はそれくらい魅力の無い国だったといえる
そこに信玄がいたら誰もリスクを犯してまで奪いに行かない
自国の兵に余力があり甲斐より上回れば退治する
したがって篭城する城も必要なかったのでは
実際、甲斐に魅力を感じていなかったのは信玄自身と言えるのでは
だからこそ他国への進出に全勢力を向けられた
戦いというのは守りと攻撃両方に力を注ぐもの
攻撃に全勢力を注げる武田軍は強くて当たり前

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026 2011/05/17(火) 18:09:17 ID:CrHKUqfcus
たしかに甲斐は海がないため、海産物がなく物流の悪い国ではあるけど
石高としては信玄が開発を進めたこともあり、20万石ほどある
それで金山もあれば魅力のない土地とは言えない

今なら産業と物流に重きを置くけど、当時はやはり米がメインなわけなので
>>25のような考え方をしていたのは信長くらいだったと思われる

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027 2011/05/17(火) 20:42:00 ID:8P2GsjLRMU
>>26
この時代は確かに米の石高によって国力を測っているように思われていますが
それだけしか見れないのは統治者として失格
大事なのは「道」である
交通の要所こそが全ての産物や情報が集まる
主要街道の要所が甲斐には少なすぎる
だから信玄は信濃や駿府などに進軍していたのである
いくら米や金があったとしても領民や兵の腹を満たすだけだし
金があってもそれをわざわざ持って行かないと産物や武器が手に入らない
ましてや情報に換える事など到底出来ない
情報が喉から手が出るほど信玄は欲しかったのであろう

戦にしても武田軍は強かったと思います
情報戦や政治の中枢というものから信玄は遅れをとり過ぎていた
もし武田が甲斐に居ながら信長のように四方から敵視され
諜略や攻め込みをされていたとしたら
おそらくすぐさま滅ぼされていた事でしょう
そう言う意味では武田は織田・徳川の足元にも及ばないでしょう

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028 2011/05/17(火) 21:30:08 ID:jeE.KtXig2
当時の甲斐には魅力は有りません。下から数えた方が早いくらいでしょう。
金山だって勝頼の代には枯渇。埋蔵量じゃあ越後の佐渡金山などに遠く及ばず。
海も無く土地も痩せて餓死者も出た事でしょう。江戸時代でも出てるくらいですからね
信玄が農地と川や諏訪の湖を求めて信濃に進出したのは事実でしょう。
もちろん当初は北条、今川と三国同盟を結んだので他に選択支は無かったんですね

自分は信玄の判断は間違ってなかったと思いますよ。信濃に進出は正解。というか他に方法がない。問題はその後謙信と長年泥沼の対峙を繰り返したこと。
箕輪城に籠ってる長野氏とか攻撃してる暇無いんだ。
海津城を要塞化して謙信を止め、信濃に本城を置く。
すばやく、美濃か三河に進出する。
信長より先に稲葉山(岐阜城)落としたらまったく違っていたはず
信長は頭を押さえられて何もできず滅んだかもしれん
若いころは天下なんて考えてもなかったんだろうね、やっぱ遅いよ

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029 2011/05/17(火) 21:58:07 ID:xIrBjJxbTk
凄まじい長文の連投だが決定的に説得力に欠けている。
短い文で誰にでもすぐに分かるように書けないのは頭が悪いことを証明する致命的な証拠だ。

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030 2011/05/17(火) 22:02:20 ID:xIrBjJxbTk
攻めにくいから攻めないというのは戦国にはない。
敵が横にいるから滅ぼさなければならない、これが生き残りをかけた戦国だ。
利が無いという理由だけで攻めないなら、数々の戦国の合戦が生じ得ないことになる。
丹波を攻めにかかった明智も苦悩の辛酸を舐めることはなかっただろう。

決定的事実から言えば、とにかく甲斐の武田を侵攻できる武将がその時にはいなかったし、武田軍団は恐れられていた。
つまり、信玄は確かに強かったということは紛れも無いことなのである。

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031 2011/05/17(火) 22:07:47 ID:jeE.KtXig2
上杉謙信は侵攻しようとしてたよね? ↑
川中島で迎え撃たれて甲斐までは行けないが

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032 2011/05/17(火) 22:15:55 ID:sLKdEZD9Xc
>>31
上杉は甲斐の国に興味があって侵攻したのでなく信濃の国を追われた小笠原氏や村上氏
からの要請で出陣したんじゃないの?武田信玄と激突したけど甲斐の国に侵攻したわけで
ないから当てはまらないかと…

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033 2011/05/17(火) 23:22:25 ID:GC0T8nE1yk
避戦のための条約の存在もあるよな。

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034 2011/05/17(火) 23:48:11 ID:QwjMu6bvd.
逆に足利義昭は、武将としての評価はかなり低いけど、信長をあれだけ苦しめたんだから、
知将として評価していいのでは?

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035 2011/05/18(水) 01:30:38 ID:6Li7V7Wo1c
>>30
「利が無いという理由だけで攻めないなら、数々の戦国の合戦が生じ得ないことになる」
戦が利のためで無いと言うのならば戦国武将は何故京を目指し進軍したのでしょうか?
そこには京を取り天下に覇を唱える「利」があるからではなかろうか
私も信玄が強くない武将とは思っていません
私が言っているのは>>16の「信玄を城に追い込むところまでいけなかった」
という事に対してだけ
利の少ない甲斐に強敵の信玄がいたのではだれも責めないでしょうからね
あまりにもリスクが高すます
つまり費用対効果と言うことです

>>29「頭が悪いことを証明する致命的な証拠だ」
確かに私は頭が良くないので
貴方のような頭脳明晰な方に短い文で皆が理解できるよう
見本を示していただければありがたいのですが

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036 2011/05/18(水) 06:40:58 ID:gA3.j8hoUs
なんでも教えてもらえると思ったら大間違い。そんな考え方ではますます取り残されてゆくぞ。
誰にでもわかるように書くことは大事だが、必ずしも頭がよくない人間を基準に書く必要はない。そんなことは一般常識。これ今度から覚えておこうな どんまいUSA>>35

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037 2011/05/18(水) 07:23:36 ID:9pUv4s0sQ2
削除(by投稿者)

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038 2011/05/18(水) 10:11:00 ID:Z2Xs7kT5xE
二十万石いらない奴なんていないだろ
甲斐に攻め込む価値はある
作物だけじゃない、馬の産地ということも忘れてはいけない
延喜式では上だし
武田滅んだ後、徳川と北条で領地取り合ってるし
魅力のない国という意見は見当違いだ
金山が枯渇したのは勝頼のときよりもう少し後だろ

甲斐に攻める奴がいないのは
単に鉄砲が大量生産されるまで無敵だった騎馬軍団と信玄が怖いだけ

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039 2011/05/18(水) 20:17:09 ID:lOuBva03OM
>>1
過小評価ではない。
甲斐、信濃、上野、駿河、二百万石とか三百万石だろ。
やっぱり特殊な大名だよ。

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040 2011/05/18(水) 20:28:42 ID:aRMa7XFJJI
信玄公は130万は超えてなかったんじゃないかな?

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041 2011/05/18(水) 23:14:07 ID:33xr1Fpu0o
信長って革命家ではあったと思うけど・・・そんなにすごかったの?
一部の信者(部下)がすごくしたんでしょ?

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042 2011/05/19(木) 05:03:20 ID:yCfGjkq2AI
>>41
凄く無かったらあれだけの偉業は達成出来ないだろ
畿内を手に入れ四方の敵と戦えたのは信長だけだろ
これだけは紛れも無い事実なわけだから
信玄、謙信、他数々の武将がいただろう
彼らも場合によれば出来たかも知れない
しかし現実には出来ていないこれが現実
それともあの偉業も脚色で現実には無かったって事?
百の文言より一つの事実

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043 2011/05/20(金) 19:31:01 ID:QcGwiXYiJc
>>41
信長軍は信玄軍や謙信軍と正面でぶつかれば蹴散らされただろうけど、本格的な激突を
前に信玄も謙信も死んでしまったからね。信長は地理的に有利だったし、また軍制も
田舎大名とは違うものがあったからじゃないの?

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044 2011/05/20(金) 20:45:27 ID:o6spncnQB2
>>43「信長軍は信玄軍や謙信軍と正面でぶつかれば蹴散らされただろうけど」

それはどうでしょうか?蹴散らされるとまでは言えないと思いますね。
信玄にしても謙信にしても織田軍の一方面軍との戦いで優勢になっていただけですからね
織田が全勢力を武田なり上杉なりに向かえる環境であったなら
信長の戦略も変わっていたでしょう
総合的な戦略から見て織田が勝利していたように思えます
むしろ信玄の方が全勢力をそそげる環境であったにもかかわらず
戦略的にそれが出来ていない事実をみると
武田は総合的な部分で織田に劣っていたのは明らかですね

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045 2011/05/20(金) 21:32:24 ID:QcGwiXYiJc
>>44
姉川の戦いでは織田勢が浅井勢に13段構えの内、11段まで打ち破られたでしょ?
手取川の戦いでは上杉謙信が織田軍を打ち破ってるでしょ?
石山本願寺を10年攻めても陥落できなかったでしょ?
織田信長自身が武田上杉との衝突をしないように義昭に調停してもらってるでしょ?

織田軍は兵そのものは精強とは言えないと言ってる。

>武田は総合的な部分で織田に劣っていたのは明らかですね
総合的な部分で織田が優秀であった事は否定しない。逆に言えば如何に兵が精強であっても
天下を取れるとは限らない。

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046 2011/05/20(金) 22:56:06 ID:o6spncnQB2
>>45
①姉川の戦い時の織田・徳川軍は発展途上の勢力であった
②手取川の戦いなどその他の合戦は織田方にとって局地戦に過ぎないので
これをもって全てを計るには適していない
③石山本願寺は局地戦の上ゲリラ戦であるし
延暦寺焼き討ちでの反省もあり殲滅を避けていたかに思える
ゲリラ戦の難しさはあのアメリカでもアルカイダに対し梃子摺っている
④義昭に調停してもらっていたのは、
この時期の信長は敵を殲滅する戦術から
出来るだけ兵力を使わず相手を臣下にする戦略に方向転換していた
つまり天下布武を明確に浸透していたと言える
解かりやすく言えば
織田は相手を生け捕りにする戦い、相手は織田を殲滅する戦い
したがって信長は非常に難しい戦い方をしていたと言える

もちろん私も織田最強などと考えていないし考える事に意味を持たないと思っている
最強軍なるものは後の世の我々が勝手に考えているのであって
実際に全勢力をもって相手を殲滅する事だけに絞って戦ってみないと結果は出ない
しかし総合力という点においては史実に結果は出ている
この部分では貴方と同意です

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047 2011/05/21(土) 00:19:27 ID:TbbAuSgGOE
織田の軍が精強ではないってのは、その通りだと思う。

織田のスゴさは、その時点での軍事力そのものというよりも、
負けても負けてもすぐに軍を再編し新鋭兵器を調達し
前線へと送り届けることができた経済力・流通能力にある思う。

この時代、個々の戦闘や、ひとつないし少数の戦線を維持しうる大名は
もちろんたくさんいただろうが、経済財政政治機構その他をひっくるめた
いわゆる「総力戦」を企図し継続的に実施し得たのは
織田くらいのもんじゃなかろうか。

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048 2011/05/21(土) 02:45:04 ID:XSKCAfBoEk
>>46
④についてだけど、
>この時期の信長は敵を殲滅する戦術から
>出来るだけ兵力を使わず相手を臣下にする戦略に方向転換していた
>つまり天下布武を明確に浸透していたと言える
>解かりやすく言えば
>織田は相手を生け捕りにする戦い、相手は織田を殲滅する戦い
>したがって信長は非常に難しい戦い方をしていたと言える
織田信長がそのような戦略をしていたのか気になったので、「信長 生け捕り」で検索
したんだけど、確かに「生け捕り」を結構してるけどほとんど切り殺してるんだけど?
戦国時代では「生け捕り」にしたら人質として利用するか見せしめで処刑するかが常じゃ
ないのかな?もちろん、内応や寝返りや降伏したものを許す事も多かったけど、
「織田は相手を生け捕りにする戦い」なんてしてないだろう?逆に織田は一揆相手でも
比叡山延暦寺焼き討ちや高野山聖の殺害や裏切った荒木村重の一族郎党皆殺しなどの
殲滅作戦してるし、敵対するものは徹底的に叩いてるし別に戦術が変わってないと
思うけど。

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049 2011/05/21(土) 07:38:39 ID:v/nrcJdQW6
織田の「兵」は強くはないが
   「軍隊」としては強いということか? 

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050 2011/05/21(土) 13:24:19 ID:fBzuRMujdI
尾張の兵が弱いってんじゃなくて、
講談なんかの伝記物でそういう風評が広まってる
だけかも分からんよ。
兵士の強弱を検証した資料でもあれば
何か分かるかも知れないけどさ。

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051 2011/05/21(土) 18:32:40 ID:R5RhSQX82g
>>47
まったく同意です。
兵站線の質は他を凌駕していますね。
こういった新しい戦い方が織田軍の強さの要諦だと思います。
信長はこれまでの「戦」から「戦争」として捉えたフロンティアでは。

>>48
私の喩え話が悪かったのかも知れませんが
私が言いたいのは本当に生け捕りにする戦い方そのものを言いたかったのではなく
戦いに勝った後の領土経営まで考えながら戦っていたと言う事を言いたかったのです。
勝った後、領主等を殺害するしないはその領土に対する影響力だけの事でしょう
それより信長の後期の戦い方を見ていると(物語等に書かれたもので本当ではないかも)
他の武将は田畑まで殲滅していたのに対し信長の戦い方は
必要以上に領地を殲滅していないように思えるのです。
そして謀反など信長に反逆した者が出たのは
トップの考えを理解出来ないバカがどの世界にもいるもの
まして信長ほどの当時としては超越している考えの持ち主なら
規定概念にとらわれたエリ−トなどは理解しがたいので反逆する
逆に知識は無くとも体育会系の人間で頭の回転の速い者にとっては
働き甲斐のある職場となり出世できる。
前者は光秀タイプ後者は秀吉タイプがその典型。
成熟した組織なら光秀のような識者を必要とするが
発展途上の組織の場合秀吉のような後者が能力を発揮する。
特に乱世においては三国志を見ても戦国時代を見てもそれを証明しているのでは。

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052 2011/05/22(日) 01:16:56 ID:suUc4DrSYU
>>51
>他の武将は田畑まで殲滅していたのに対し信長の戦い方は
>必要以上に領地を殲滅していないように思えるのです。
それって「焦土作戦」の事でしょ?敵国に侵攻したが撤退せざるを得ない場合や自国領土
を失う前に利用価値のある物資を焼き払って敵にダメージを与えたり敵に利得させない
為にする事を言ってるんだよね。それなら別に信長の戦い方が変わったのでなく常勝軍団に
なったからって事でいいんじゃないの?殲滅と言うからすっかり「敵の軍勢を」と思った。
兵力財力に余裕の出来た信長は大動員をかける事で一気に攻める事ができるようになったの
で、敵の兵糧を減らしてやる〜と焼き討ちしてまで長期戦の構えをする必要がなくなった
だけだろうね。

返信する

053 2011/05/22(日) 01:35:12 ID:suUc4DrSYU
>>51
>トップの考えを理解出来ないバカがどの世界にもいるもの
>まして信長ほどの当時としては超越している考えの持ち主なら
>規定概念にとらわれたエリ−トなどは理解しがたいので反逆する
織田信長の考えを理解出来た武将なんていたのかな?って思うけどね。

>前者は光秀タイプ後者は秀吉タイプがその典型。
天正4年(1576年)、越後国の上杉謙信と対峙している北陸方面軍団長・柴田勝家への
救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲たがいをし、無断で帰還
してしまった。その後、勝家らは上杉謙信に敗れている(手取川の戦い) wikiより
↑自らは敵前で無断で帰還し、残った柴田勝家は敗北している。信長は当然激怒して
いる。追放されてもおかしくない行動でしょ?秀吉の事だから信長に許されると思って
いたと言うかも知れないけど、

天正8年(1580年)8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間正勝に対して
折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に
覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と
安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、
これを理由に追放した。
↑信長は必要のない者はどんな実績があろうとも容赦なく切り捨てる合理的な考えを
持っていたんじゃないかな?と言うことは、一度敗北の原因を作り信長を激怒させた
秀吉が安泰だと言い切れないでしょう?

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054 2011/05/22(日) 02:12:09 ID:yW9AkNe6Xw
>>53
おそらく秀吉と云えど全てを理解出来た部下はいなかったでしょうね
秀吉のような今で言う体育会系の人間は
理解していると言うより愚直なまでに任務を遂行するだけでしょう
人間である以上臆病な部分もあったでしょうから
時には罰を覚悟で逆らう事もあったでしょう
この時代の人間の考え方というのはおそらく
勇敢だとかではなくやらなくては自分が殺されるだからやる
というような考え方が主流だったように思います
彼らを勇猛果敢だとか思っているのは
後世の我々のそうであって欲しいという願望が作り上げた妄想かもと思いますが
いかがでしょう

返信する

055 2011/05/23(月) 08:10:23 ID:7LhK./3jh2
>>46
>手取川の戦いなどその他の合戦は織田方にとって局地戦に過ぎないので

秀吉は勝家とけんかして早々に引き払ったけど勝家隊はボロクソにやられて壊滅。
信長も自身が手傷を負うほどに追い込まれて美濃まで逃げ帰った時にはお供の数十騎の近衛兵が数騎にまで減っていたほどこれ以上ない負けっぷり。
そして局地戦という割には本人と勝家の出陣とかあまりにも苦しすぎるいいわけじゃない?
あまりの負けっぷりに信長自身がこの戦の記録を残すなと言ったらしいし。
光秀、滝川、秀吉、利家、勝家、とかそうそうたる顔ぶれでも揃わないと全て局地戦って事?
戦ってるのは確かに地方だけど謙信との初戦で謙信本人が出陣してきている合戦を局地戦という概念で済ませようとしていたとしたらそれこそ信長の無能ぶりがさらけ出された格好になると思うんだが。
謙信は合戦は強かったが領土的戦略に長けてない(領土にあまり関心が無かったとも言えるけど)のと領土内での身内のいざこざが多かったってのが欠点だったから脳卒中で倒れなくても天下統一は無理だったと思うけどね。

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056 2011/05/23(月) 12:00:05 ID:CJrcYutTbY
うん。大体はつかめてるね。
決定的謙信の弱みは信濃の位置。
豪雪地方からはるばる山を幾つも超えないとどこへも行けない。

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057 2011/05/23(月) 14:29:43 ID:QF02ClEw3g
手取川は決戦意図のもとに起こった戦じゃないから
他の合戦と扱いが違うのかもよ。
情報収集が一揆等の障害によりうまくいかず
態勢を立て直すために退却開始、
上杉軍が追撃し、誇張して勝ち誇ったのかも。

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058 2011/05/23(月) 17:20:28 ID:7LhK./3jh2
>>57
決戦意図なんて本人達以外にわかる?
関ヶ原とかなら誰が見てもそうだろうけど。
細かい事言ってれば本城攻めとかくらいしか決戦意図のある合戦はなくなっちゃうよ。

そしてその場にいたわけでない以上伝えられている話から推測するしかないわけだから

>情報収集が一揆等の障害によりうまくいかず
>態勢を立て直すために退却開始、
>上杉軍が追撃し、誇張して勝ち誇ったのかも。

こういった個人の想像まで介入させればもうなんでもありだね。

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059 2011/05/23(月) 18:22:44 ID:QF02ClEw3g
>>58
まあ、そういう考えもあるって参考程度に聞いてよ。
上杉軍の南下に対して柴田軍が手探り状態での進軍の
不利を悟り退却を始めたくだりは谷口克広氏に言ってよ。
俺読んだだけだもん。
この時の合戦ってのは謙信公の書状と北越軍記でしか書いてないんだとさ。
織田にせよ誰にせよ、武功を誇って実際の戦果を誇張するのは
よく見られることさ。書状にあるように、実際に上杉軍に
追い立てられて敗走した情況もあったんだろうが、
信長公が「記録に残すなよ」とか命令した話は聞いたことが無いのだ。
従って、実際に柴田軍の大敗があったんか疑問は疑問として残るってわけよ。

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060 2011/05/23(月) 21:58:39 ID:CJrcYutTbY
いつのまにか流れ的に勝家好きが勝家を過大評価するスレに変わってきたなw
末端の切り込み隊長の腕が立つってのと、ある程度地位にある人間が腕も立つってのは全然違う。後者は即座にまつりあげられて鬼神のごとき箔がつけられる。
将官クラスのなかでは比較して武勇に秀でていたのは確かだろうが、しょせん腕も立つ将というのが勝家の関の山であって、たまたま信長の配下にあって生き残っていっただけ。
信長の死後、すぐにそれは証明される。
知力もあったから将官になっていたんだろうけど、それは別に特別なことではない。将たるものそうであって当然なのだ。
如水ほどの知力もなければ、大阪の陣で立てなくなっても槍を振るい続けた真田ほどの強さもない。 信長に与えられた大軍をひきいて普通どおりにたたかっていた一将に過ぎないのだ。
ましてそれが大敗していようが、大敗とまではしていまいが、負けにはかわりないのだ。
それだけで終わる話だし、それまでの人物なのだ。

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061 2011/05/23(月) 23:28:03 ID:BnPLdYb3Mg
>>55
「光秀、滝川、秀吉、利家、勝家、とかそうそうたる顔ぶれでも揃わないと全て局地戦って事?

そうです、それを局地戦というのです。
戦いの一つであるという事です。
その戦いにおいて織田が上杉に負けたのも事実の一つ。
あらゆる書物語りより事実である結果が全てという事です。
地の利が無いのも、寿命の事も
あらゆる事全て含めたものが「力」なのです。
それを理解出来たものだけが天下を制する事ができる。
家康のように。

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062 2011/05/23(月) 23:58:16 ID:QF02ClEw3g
>>60
手取川の話ししてたんじゃなかったっけ?
織田にとって局地戦かどうかとかの。

柴田勝家以下の北陸方面軍が授かった任務は加賀平定だ。
加賀といえば一揆持ちの国。90年間百姓の国。
有力大名による侵略を防ぎ、かつ根強い一揆の鎮圧慰撫も
やるんだから、誰が司令官に就いても、トップとしての責務は
大きいと思う。多くの武将が一揆には手を焼いているからな。

上杉が能登攻略に出張ってきて七尾城を囲み、長連龍が来援を
請いに来て、救援に向かったものの、遊佐続光の内応で七尾城陥落。
この時点で出陣の目的が消え、情況不利と見て退陣を始めた柴田軍を
上杉軍が手取川の手前で捕捉。
両軍が前進意図のもとに生起した合戦とは、趣が違うと思うがな。

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063 2011/05/24(火) 08:19:13 ID:WORu0aiXd6
>陣の目的が消え、情況不利と見て退陣を始めた柴田軍を
上杉軍が手取川の手前で捕捉。

wiki引用だと上杉軍は城を落とした後に 織田が迫っていることを察知し直ちに七尾城を出撃、手取川付近にあった松任城に入った。
対して織田軍は手取川を越えてから七尾城の落城を知りすぐさま撤退を指示したがその途上で上杉軍の追撃を受けたとある。

撤退を察知して追撃するのと、待ち伏せ状態になり撤退を始めたところを追撃するのでは意味合いが全く違う。
謙信の作戦勝ちって所とこの戦での織田軍の情報収集能力の弱さがからまって勝敗が決したって感じかな。
本来合戦は自分が有利になるために布陣場所や陣形を選定したりあらゆる策を講じたりするわけだから、相撲みたいにはっけよいのこったなんて合戦はそうそうないよ。

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064 2011/05/24(火) 13:41:20 ID:NIygIlmaJw
>>63
戦にも色々な情況がある、ってのは分かるさ。
はっけよいの合戦がそうそう起こらないのも同意だ。
有利な情況を作るとかの方法論じゃなくて、手取川が
織田家にとって局地戦かどうかって話し。

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065 2011/05/24(火) 15:03:02 ID:BBqfknlCvM
スレの趣旨を掘り下げてるなかで出てきた比較図なんで、議論は続けてもらいたいが
こうなってくると一旦、局地戦の定義を協議することを両氏にすすめたいぐらいだ。

と、同時に、横やりですまんが、一般概念で言う局地戦でいうならば
手取川がそうであったとは到底思えない。

大規模な戦闘は、移動手段が限られていて、食糧、人員、経費、その他もろもろ大きな負担となっていた戦国においては局地戦というより、先々に大きな影響を与える、
いわば大略の一環としてはずことのならない賭けである。
これを局地戦という言葉の概念だけでふせてしまうことは、戦国の状況を考えれば考えるほどできなくなるのだ。

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066 2011/05/24(火) 15:39:14 ID:AEA5W6DE1M
>>65
局地戦の意味を理解していない。
この戦が大規模な戦いであった事は事実である。
しかし上杉軍にとっては越中・能登への進軍が目的であるから=総力戦
織田軍にとっては天下統一が目的であるから=局地戦
目的感の違いがある。

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067 2011/05/24(火) 17:04:13 ID:WORu0aiXd6
>>66
目的感の違いというのが合戦にあるだろうと言うことは同意するが
天下統一が目的だから=局地戦ってのはちと無理があると思うよ。
天下統一が目的ならば、全国の大名の中で刃向かうものはみんな倒さなければならない敵と考えれば避けては通れない敵でもある。
そう考えれば局地戦とは言えないとも考えられる。
逆に上杉は当初の目的は果たしているわけだからそこから先のおまけで付いてきた織田との合戦=局地戦とも考えられる。
いや、別にどっちでも良いんだけどさ。
言いたいことは見方によってそんなものは幾らでも変ると言うこと。

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068 2011/05/24(火) 20:18:33 ID:1fXL4QSnv2
>>66
>しかし上杉軍にとっては越中・能登への進軍が目的であるから=総力戦
>織田軍にとっては天下統一が目的であるから=局地戦
そんな捉え方をすれば信長包囲網が引かれた後の織田軍の全ての戦いは「局地戦」に
なるんじゃないの?と言うか君自身の主観によるものになってしまうような気がする。
君が考える織田軍の「総力戦」ってなんなのかな?

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069 2011/05/25(水) 00:08:01 ID:rqXlDOstXw
>>67>>68
信長にとっては外敵全てに対して行った
局地戦の一つ一つ全てがひっくるめてが総力戦。

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070 2011/05/25(水) 01:43:27 ID:.aZOBYwwWw
>>69
だとしたら、>>46②手取川の戦いなどその他の合戦は織田方にとって局地戦に過ぎない
のでこれをもって全てを計るには適していない 
↑これは局地戦でどんだけ負けてようと天下統一の基礎作りをしたんだから強かったと
言いたいだけの話なの?

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071 2011/05/25(水) 13:23:22 ID:P7W665sodU
>>61
>そうです、それを局地戦というのです。

じゃあ織田家は局地戦しかしてないのに滅亡していったまれに見る珍しい大名ですね。

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072 2011/05/25(水) 19:12:09 ID:guAclMI136
スレ立てたもんだが、変な方に流れたなw
客観的に見て、織田が総力戦したのは姉川の戦い辺りまでだろう
徳川の援軍まで求めてるしな
信玄が死んだ事もあるし、
これ以降は戦力的に余裕ができて、やがて方面軍制が主体になっていく

手取川を抜かれても、尾張も安土も岐阜にも兵は居るわけで
謙信がそのまま前進したなら総力戦になったかもね

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073 2011/05/25(水) 20:35:14 ID:AhH4N6RrE.
信長>局地戦しかしてないから俺の中では負けてない (キリッ

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074 2011/05/25(水) 21:13:32 ID:H/DpxvEUYg
>>72
畿内には当時兵力は残ってなかったんじゃないの。

秀吉までが北国に向かうと畿内が手薄になる。松永弾正らの謀反を
恐れる竹中半兵衛がアドバイスして秀吉軍は勝手に戻ってきてしまい
長浜で閉門となるが・・・、というのが司馬さんの歴史小説。

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075 2011/05/25(水) 22:18:33 ID:wrYlUy.ZAY
仮定の話は幾らでも情況が作り出せるから、
話し戻すのがいいんでない?
藤本正行氏の『信長の戦争』という本があるが、
軍事学的に信長の合戦を検証してて面白いよ。
姉川の合戦なんかは、類例の無い正面決戦だってね。

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076 2011/05/26(木) 00:51:42 ID:3OIzgoK9P2
>>1 スレ主さんへ
私の書き込みから脱線してしまったようで申し訳ない。

スレ題の「過大評価されてる武将」という観点から見れば
ほとんどの武将はある意味「過大評価」と言えるでしょう。
何故なら我々が評価したり凄いと思う根拠は
全て後に書かれた「武功書」であったり脚色された小説であったり
よくある「300の兵で1万の兵を破った」と言う様な話や
両軍合わせて10万の兵などはおそらくその半分くらいではとも思う
よく選挙などで各企業の動員数を集めると会場の10倍くらいになる
このようなものではないだろうか
数々のエピソ−ドも
右筆などが美化して書かれているものと推測されるので
100%とは言えないのではと思います。
そこには「贔屓する武将が一番であって欲しい」の願望や
「「もし」があれば天下を取っていたのに」と思いたい願望でしょう。
それが過大評価になっていくのでしょう。

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077 2011/05/26(木) 07:51:07 ID:w3nr4A3www
過大評価の筆頭はやはり前田慶次だろうね。
本当にそれなりの働きはしてたのかもしれないが,あまりに漫画の影響が強すぎた。




  そだ  |------、`⌒ー--、
  れが  |ハ{{ }} )))ヽ、l l ハ
  が   |、{ ハリノノノノノノ)、 l l
  い   |ヽヽー、彡彡ノノノ}  に
  い   |ヾヾヾヾヾヽ彡彡}  や
  !!    /:.:.:.ヾヾヾヾヽ彡彡} l っ
\__/{ l ii | l|} ハ、ヾ} ミ彡ト
彡シ ,ェ、、、ヾ{{ヽ} l|l ィェ=リ、シ} |l
lミ{ ゙イシモ'テ、ミヽ}シィ=ラ'ァ、 }ミ}} l
ヾミ    ̄‾'ィ''': |゙:ー. ̄   lノ/l | |
ヾヾ   "  : : !、  `  lイノ l| |
 >l゙、    ー、,'ソ     /.|}、 l| |
:.lヽ ヽ   ー_ ‐-‐ァ'  /::ノl ト、
:.:.:.:\ヽ     二"  /::// /:.:.l:.:.
:.:.:.:.:.::ヽ:\     /::://:.:,':.:..:l:.:.
;.;.;.;.;;.:.:.:.\`ー-- '" //:.:.:;l:.:.:.:l:.:

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078 2011/05/26(木) 08:27:51 ID:dusnMsnNko
上杉さまが武田に塩を贈ったという美談

単に太平洋側からの塩輸出制限を越後からの塩は制限しなかった
ってだけの話らしいね

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079 2011/05/26(木) 17:10:25 ID:o8GKXIj3fk
武田軍・上杉軍と織田軍はどちらが強いか
項羽軍と劉邦軍はどちらが強いか

戦略レベルでは、天下を取った方が強かったんじゃねーの?

戦術レベルでは、いろんな見方があろうが、
結局、織田VS武田、織田VS上杉も主力同士の総力戦までは行っていないから、
決定的な判断はできないよね

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080 2011/05/26(木) 21:13:36 ID:o8GKXIj3fk
でも、戦略抜きに戦術だけ語っても意味ないよね
だから、織田最強でいいんじゃね?

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081 2011/05/26(木) 22:01:05 ID:i9DVSMU0Fo
基本的に織豊時代は戦い方が大きく変わっている。
良くも悪くも信玄は大きな流れの節目に世を去った。
生きていたらやはり鉄砲主流の部隊編成に流れていったか、もしくは勝頼のように騎馬軍団とともに世を去ったか。
定かではないし、戦国は3節ほどに分けてかたらねば、1度に皆を前に並べて比較するには戦国はあまりにも長すぎる。

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082 2011/05/27(金) 00:38:15 ID:8fjs7TxMa.
>>80 「戦略抜きに戦術だけ語っても意味ないよね」

基本的にはそうだが、例外は存在する。
それは相手の総大将を打ち取った場合だ
桶狭間がまさにそうだね
この時信長の立場は戦術が全てだったはず

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083 2011/05/28(土) 00:00:31 ID:oXuofsy43I
過大評価されているのは、信長や秀吉のほうで、
「戦国最強」だった信玄は、むしろ過小評価されている。

戦国最強の武田信玄と、戦国最終勝利者の徳川家康。
この二人が「武将の鑑」として江戸時代まで崇められていて、
武将としては落ち度の多い信長や秀吉と、功績の疑いようがない
家康との三つ巴が定型化されたのは、山路愛山あたりが
国史を大幅に歪曲化した明治以降に限っての話。

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084 2011/05/28(土) 02:00:19 ID:HCubu4.GmE
「戦国最強の武田信玄と、戦国最終勝利者の徳川家康。
この二人が「武将の鑑」として江戸時代まで崇められていて」

これこそが、江戸幕府徳川の功績美化によるものだ
豊臣の世は無かった事にし、家康に三方ヶ原で教訓を与えたとして武田は評価する
以後300年続いたんだから江戸時代まで崇められているのは当然だろうよ
本能寺なければ、秀吉も家康も家臣のままで終わり

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085 2011/05/28(土) 05:42:20 ID:oXuofsy43I
信長と秀吉は、単なる「仕事人」として絶大な威力を発揮しただけで、
臣下を虐げまくるなどして孤立化するなど、武将としてのあるまじき行為が数多い。

群臣候公を我が股肱耳目として自在に操り、天下統一後の臣下や諸権力者の
割り振りまで自主的に行える「大将」としての風格を備えたままに
戦国の世での成功を試みたうちでの最高例が武田信玄であり、
成功を果たしたうちでの最高例が徳川家康だった。

ただ勝つために、臣下や大名を奴隷も同然の扱いとした織田や豊臣には、
徳川のような長期泰平統治が、どうあっても自業自得によって不可能だった一方で、
武田信玄や伊達政宗の場合は、生まれ育つ時期がもう少し遅かったり早かったりすれば、
徳川並みの長期政権の実現者になれるだけの「器」を保っていたのだといえる。

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086 2011/05/28(土) 07:37:29 ID:4g8YhZ4GRE
>>85
なんかおめでたい人だねw

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087 2011/05/28(土) 11:40:18 ID:F2faWD0Kms
戦国で最終的に美味しいとこどりした(ある意味で)最強の家康を脱糞(笑)させた風林火山の軍神・信玄。

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088 2011/05/28(土) 13:43:06 ID:Wq1eKc0d7Q
A「俺は信玄の素晴らしさを知っている」
B「いや、俺こそ信玄様の素晴らしさを知っている」
C「何を言う、俺こそが真の信玄公の素晴らしさを知っている」
D「君達は何を言っているのだ、信玄公ではなく神なのだ」

信玄崇拝者がますます神格化を増長させる
それを「過大評価」と言う

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089 2011/05/28(土) 16:12:20 ID:hIP38kBZzw
たいていの戦国大名は信長・秀吉・家康の三人の引き立て役だったから、
スポットライトを当ててみるのもいいかも知れないね。

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090 2011/05/28(土) 16:33:11 ID:F2faWD0Kms
謙信との一騎打ちや家康陽動作戦など、信玄の戦話はいちいちかっこいい。
なぜだ???
おまけにヤリチンで男も女も関係なし。嫉妬する美男をなだめる手紙まで書いている。
とにかく当時から男も惚れるかっこよさだったんだろうな。

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091 2011/05/28(土) 17:41:04 ID:qBd5TqotLw
>>83
>戦国最強の武田信玄と、戦国最終勝利者の徳川家康。
>この二人が「武将の鑑」として江戸時代まで崇められていて、
江戸時代に徳川家康を神君と崇めるのは当然と言えば当然だよね。ただ徳川家康は
織田信長と言う革命児が居なければ勇猛な一武将で終ったかも知れない。今川織田豊臣に
従いながら、隠忍自重耐え忍びながら勝機をずっと待っていた。武将としての強さよりも
人徳に惹かれるものがあったんじゃないかな?少なくとも秀吉在世までは篤実な人物で
あると思う。天下を取ってから篤実さを捨て長期安定政権確立の為に容赦なく危険な芽を
刈り取っていくなかで豊臣系の哀れを感じるので好きじゃないんだが…。

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092 2011/05/28(土) 20:23:47 ID:iwoubzUvFs
服部半蔵は過大評価されている、でFAだな

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093 2011/05/30(月) 23:05:54 ID:DtmXxfSwGA
信長や秀吉なんて、家康に利用されただけに過ぎないんだよ。

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094 2011/05/31(火) 10:48:16 ID:wkpH/YBCIY
それはいいすぎ

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095 2011/05/31(火) 16:55:25 ID:314JGjLhxI
戦国最強ってなんだよw

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096 2011/05/31(火) 23:28:38 ID:/LnBH2tsV.
>>95
ファンの願望

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097 2011/05/31(火) 23:28:42 ID:hYC2EEIUPk
>>92
過大評価ではなく誤認だろあれは

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098 2011/06/01(水) 23:31:44 ID:2BwQQid5U2
>>93
結果的には信長・秀吉を利用したけども、義元に隷属し信長と同盟し秀吉に臣従したのは
その時々に置いて生き残る為であり、逆に彼らに利用されていただろう?互いに利用し
あう関係にあった家康はただ生き残る事で最終勝利したとも言える。

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099 2011/06/01(水) 23:46:04 ID:1CuNEJHVdU
家康は瞳が特徴的であったと推測されている。
そして耳も大きかったようだ。
若い頃は力のはいった頬骨の出た顔でもあったようで、戦国の世界では好まれた比較的迫力にあるほうの顔だったかもしれない。

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100 2011/06/03(金) 19:51:05 ID:RiYYlTxLJk
最終的に天下とった家康が最強という論理なら
薩長最強になってしまうわな

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101 2011/06/03(金) 21:37:17 ID:ma0gCt/fzw
最強だったかどうかは別として
島津がもうちょっと京都に近いとこに勢力もってたら違っただろうね。

ここでいう最強ってどうも、決戦させてどっちがイクサ上手かっていうことのように思うんだけど
そうなると鉄砲全盛期時代の武将とそれ以前の武将を比べるのは酷だよね。

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102 2011/06/04(土) 00:14:23 ID:UYCYdh.Lp2
>>101
ただ島津は辺境の地にあるから狭い土地を奪い合う中で強くなったんじゃない?
都に近い所に居たら最強であっても次第に貴族化して弱くなるんじゃない?
また領国が増やす為に最強の軍団を年中使っていると次第に離反者が増えてくるだろうし、
武力だけでなく策謀や領国の統治も含めて大勢力になるには様々なハードルが高かったん
じゃないかな?都に近いだけではあまり意味はないと思う。

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103 2011/06/04(土) 20:29:21 ID:ZGNYyYAqCM
>>102
その理論だと真田もかなり最強してないとおかしいが、それほどだとは
思えない・・・
結局、子孫の片方は西軍を掌握しきれずに美しく散ったし

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104 2011/06/04(土) 21:08:57 ID:vEJUreUPZY
真田は知略と戦の駆け引きには最強レベルだが圧倒的に小勢力。
村長程度の支配地と兵力じゃハンデありすぎる。
さらに真田幸隆の時代1541年では領地を失い上野に逃れてる。
真田昌幸、信之、幸村いくら優秀でも1からの出直し。

それに、庇護してくれた武田家が居てこれを上回り地域を支配するのは不可能だろう。
武田が滅んだときにはもう信長や家康や北条や上杉に囲まれて生き残りに全力をかけたんだろう。
優秀なだけでは生き残れない、地の利とか、めぐりあわせ、運とかが必要だったんだなと・・・

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105 2011/06/04(土) 22:04:12 ID:UYCYdh.Lp2
>>103
真田は武田二十四将に入ってるでしょ?武田軍団の一角でしょ?
また真田単独で中山道を行く徳川本隊を上田城立て篭もり足止めさせた知略もある。

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106 2011/06/04(土) 23:42:21 ID:EcYF8Wfn3E
結局武田最強じゃんかという結論が垣間見えてくるじゃんかよ。
今の時代に至るまで武田武田といわれているのにはそれなりのわけがあるってことだね。

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107 2011/06/05(日) 00:01:13 ID:ZfWZdKihqs
>>106
武田は強いとされても、それで天下を取れるのかは別だろう?元々戦国時代の武士は土地に
縛られているので広域的な展開や長期遠征は難しかっただろうから経済的な余裕がなけ
ればどんな最強の軍団を持っていても領国を少しずつ増やす事になったんじゃないの。
「信長の野望」みたいに最強の軍団を作ったら簡単に天下を取れる様なことはなかったと
思う。

返信する

108 2011/06/05(日) 08:36:26 ID:4u9tyBJWu2
あーうざい
ようは過大評価されているわけではないってことだろ。
天下取れたかどうかとか他のスレでやってろよ。
それとも蒸し返してスレ伸ばしてえのかね。

返信する

109 2011/06/05(日) 22:50:53 ID:sdTnk7Rxag
疑う以上は、ちゃんと疑い抜け。

返信する

110 2011/06/06(月) 01:20:35 ID:qIpGFRPmMw
ば〜か☆
そういう考え方してたら頭爆発して死ぬよ

返信する

111 2011/06/06(月) 06:06:11 ID:6qgPV42Tsg
長生きした方が勝つってことっすか

返信する

112 2011/06/06(月) 16:48:34 ID:aq0dn8VkM2
スレ題から外れて
バカと阿呆の罵り合いになってきているな
面白いもっとやれ

俺はFisher☆ w10,000に賭ける
誰か乗るか?

返信する

113 2011/06/10(金) 09:06:22 ID:P5z5Hmf1ug:au
上杉は近年の研究で、領土を拡大しなかったのでは無く、西洋の植民地支配のように略奪し尽くすのが目的だったとも言われてる。
民を奴隷として売ったり、塩の件は市場を独占できるとの狙いがあったとの記録がある。
現実的に雪深い春日山では各地を統治するにも難がある。

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114 2011/06/10(金) 17:49:39 ID:JIdTX7RvQA
いわゆる乱どりだな
物資や食糧事情が悪かった時代、無いものは他所から奪うのが普通だった。

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115 2011/06/11(土) 09:52:32 ID:kmJ4L7.BJA:au
略奪を率先して遂行したのが直江兼嗣。
義でも愛でも無い。
江戸時代に有力大名の上杉家が自家の権威を向上させるために講談などで美化させた。
川中島の一騎打ちも現実には?似たような事はあったのかもしれないけど。

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116 2011/06/11(土) 23:15:57 ID:wlpFIw5mug
城っつうのは篭城戦なんかもあるが、ほとんどの場合それは最期を決する死闘場だ。
城に篭る=自分の逃げ場を無くすということである。
であるならば、いかに人員を動員し、財を投じて城を築いてもそれは無駄な経費となる。
武田は金山と節約と、徹底した戦争理論でもって館型の簡単な平城しかもたず、同時に戦国最強の武将として君臨していたといえるだろう。

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117 2011/06/11(土) 23:51:55 ID:kmJ4L7.BJA:au
◆武田=各地の組と関係を結びシマを拡大。傘下の組同士の小競り合いが後を絶たず。(山口組三代目)
●織田=不良少年や暴走族のあんちゃんをスカウトして抗争力アップ。奇跡的な拡大を果たすが、組長がイケイケ過ぎて、失意の内に世を去る。(菅谷組)
■上杉=昔ながらの博徒一家で、義理を欠いた他の盆に行って荒らしまわる事もあるが、全国制覇には興味なし。(会津小鉄)

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118 2011/06/18(土) 15:37:49 ID:y49iMr7FxU
武田が甲斐に詰めの城を持たないというのはうそ
ちゃんと館の北に要害山城があり 駿河の今川が襲来
した時 信虎夫人は城に避難し 信玄を産んでる
躑躅が咲きの館は 家臣も周りを囲むように住居が建ち
並び外周を町人が住み大きな城域だった
 小さな館住まい 城を持たないはうそNHKの見すぎだよ

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119 2011/06/19(日) 10:42:02 ID:vj.gtIZGno
それは違うと思う。
今川の軍では落とせないことがわかっていたことと、世継ぎが生まれるということが重なって背後の山城に「非難」というか、「入った」だけ。
そんで付け加えて言うなら、大体城は背後に小高い山か岡をひかえてつくられる。もしくは山そのものにつくられるのが基本で、それは縄張りの一つであって、常識中の常識。大前提。
山があるから本格的な城というのは見当違い。
※問題はその補強にどれほど手(経費)を入れているか。※
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城を持たなかった=まさか平坦な水田地帯に周りをぐるっと板塀かなんかで囲った屋形がぽつんとあるようなのを想像してないだろうな???

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120 2011/06/19(日) 10:46:29 ID:vj.gtIZGno
平地に造られた江戸城もそもそもの始まりは紅葉山という裏山を控える城だった。
ほんとの平城(ひらじろ)は数少なく、大規模なのでいうと広島城ぐらいじゃないかな?
とにかくそんなめったにあるものではないし、広島城にしても信玄の時代にその規模が確率されていたわけじゃないよ。
>>118はそこらへんの城についての大前提となる知識をつけてきてからかたった方がいい。

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121 2011/06/19(日) 10:52:23 ID:Bck9KxYEaA
>>118

いよいよ最後を決する闘いで城にこもるというのと、敵の進軍に対抗して城に入るってのは、全然違うんだよ。ここらへんの区別さへわからない極端さではちょっと何を話してもなぁ・・・

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122 2011/06/19(日) 20:32:16 ID:mFUFfark/U
>>121
レス3コくらい長文でもかまわんから、
その辺の区別ってやつを教えてくれないか

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123 2011/06/20(月) 23:35:52 ID:tjHEBzJgCc
>>121
俺も聞きたい。
何がどうちがうの?

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124 2011/06/27(月) 20:38:17 ID:nZIXmMvspM
>>121
俺もそれが聞きたくて城から出てきたお

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125 2011/06/28(火) 05:42:53 ID:Uc5mouMkYA
敵が進軍してきたらまず出城に武器弾薬兵糧を詰め込んで
迎え撃つのはあたりまだ。城を枕に討ち死に覚悟の篭城とはちがう。

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126 2011/06/30(木) 13:06:59 ID:PoGxcwDv82
くだらん。
500年も前に逝ったものなどのことなど、どでもいい。

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127 2011/07/08(金) 21:37:54 ID:YHH8P3wmMU
政治家(信玄)や経営者(信長)や軍人(謙信)や法主(顕如)など
現代なら違うフィールドで活躍してたであろう突出した連中が
同じ土俵で国盗り合戦を繰り広げてたから面白いんだろうな

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128 2011/07/08(金) 23:39:03 ID:nnmwRmzY8Q
名将の陰に名僧あり
っていう本があるぞ

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129 2011/07/09(土) 03:07:01 ID:o.50ZIKKAs
徳川史観で、徳川家康が惨敗したその相手だから信玄は勝手に最強に祭り上げられたといっていいと思う
本当の意味では気の毒な人物かもしれん
家康や徳川の利権団体のやってきた歴史評価は半島系のそれと同種だ
人間の性質として、どうしても人間は歴史というものを自分に都合良く塗り替えてしまうものなのだな

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130 2011/07/09(土) 03:19:32 ID:o.50ZIKKAs
>>78
どうも商売として塩の価格高騰に一儲けしようと企んでのことらしい
戦争は金がかかるものな

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131 2011/07/09(土) 03:43:02 ID:o.50ZIKKAs
この時代に地域によって兵質格差があるように言われてるが、
例えば甲斐兵は尾張兵の5倍の強さだとか、オレは随分人を小バカにした話だなと前から思っていた
日本全国総戦国の世で、しかも流浪人も多く流れるような時代に、兵質の差も何もないもんだ
一地域だけ平和を維持でき安穏として暮らし、他は戦国の世で凌ぎを削る、なんてことはない
ましてやおそらくは金銭的に一番余裕がある信長軍が最も兵農分離が進んでいただろうから、専門兵を多く雇えるわけだ
専門兵なら尚更、田吾作相手には負けられないから強くなるというもんだ
徳川方による風評による世論誘導の有り様は昨今の半島系のそれを思わせる
徳川家康って半島系じゃないのか?(笑)
冗談はともかく、徳川史観は人間というのは結局半島人も日本人も根は同じ精神構造なんだなということを理解させてくれる

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132 2011/07/09(土) 22:49:38 ID:vV2iDVW0tk
>>131
織田軍は事実弱かったんだからショウガナイだろ
最終的には滅ぼしてるけどかなりの敗戦を重ねてる
信長の戦い方は敵の兵の倍準備して戦う物量作戦だけどそれでも蹴散らされるほどの弱さ
金だって信長は戦しまくるからその兵糧や武具の準備それに毎回多くの兵が死ぬからその慰謝料も必要で貧乏な武将ばかり
秀吉クラスの武将ですら戦費は借金で賄ってたくらい金は無い

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133 2011/07/10(日) 01:25:39 ID:LcERfHB8JQ
甲斐や三河の百姓兵は、『一所懸命』って言うぐらいだから、一生懸命な強さがあったんだろうな。
そういう兵を遠征に連れていくには、信玄や家康みたいなカリスマ性が必要だろうけど。
信長の兵は、銭で雇った兵だけに、形勢不利になれば逃げたりして。
織田家に忠誠を誓うって気持ちもあまり無さそう。

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134 2011/07/10(日) 02:44:37 ID:TnyWknyfeI
>>132
それが徳川史観の洗脳工作の賜物だというんだよ
信玄の生涯3敗なんて甲陽軍鑑の捏造の可能性が高い
信長は勝率は7割くらいあったハズ
信長が弱小なら、それにやられてる勢力は何なんだよってことになる
信長軍が敵より常に倍の兵力を用意できたなんてことはない
総兵力はあっても、局地戦では敵より寡兵で劣勢なんてことはザラ
家康は歴史の偏向という極悪な行為に手を付けてしまったなぁ

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135 2011/07/10(日) 02:57:34 ID:TnyWknyfeI
歴史の改竄といってもいいが・・・

戦争に金がかかるのは敵も味方も一緒だ
信長軍だけジリ貧だという幻想は論外だろう
武田の最後なんて「一生懸命な強さ」とはかけ離れているし、
いわゆる三河武士団も家康が天下を取ったから徳川史観で持ち上げられているだけだ
そもそも三河武士団が犬のような忠誠があるなら今川に領国化されてないだろう

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136 2011/07/10(日) 23:00:15 ID:UfPTaFtwY.
勇将の下に弱卒なしとか、ライオン軍団と羊軍団の優劣の話などからすると
兵隊が強いかより指揮官が優秀かどうかの方が大事。

武田が強かったかどうかは分からないが、強かったかもしれないと考える。
川中島と長篠の戦いで武田は重臣を多く死なせてる。
例えば、姉川で押されまくった織田軍や三方が原で惨敗した徳川軍でもそこまで重臣は死んでない。
これをどう考えるかだが、
武田は部隊の指揮官をより前線に配置させていたのではないだろうか。
指揮官が前線にいる方が兵隊は奮戦するし部隊の進退の判断も速い、故に強くなると。

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137 2011/07/11(月) 01:21:06 ID:r6OlFKghgw
そのかわり、指揮官が捕縛や戦死するリスクも高まる

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138 2011/07/11(月) 03:30:26 ID:A/6Bo3igcI
姉川で織田が押されまくったのは、オレはセンゴクって漫画の解釈は鋭いと見てる
信長公記も当然、全部が全部真実を語ってはないのだろうな
横山城を包囲した織田軍への浅井朝倉側による奇襲攻撃だったとする解釈
だから、織田軍は主導権が取れず苦戦したのではないかというものだが
従来の通説よりも合点がいく

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139 2015/10/26(月) 00:10:24 ID:v/aJhJSWE.
手取川の戦いの真実

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