弥助は本能寺の変のときに殺されたのか?
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001 2014/12/29(月) 19:27:15 ID:daOubBV9g6
安土桃山時代、織田信長に仕えていたと言われる黒人(出身は東アフリカ・現在のモザンビーク)の家臣である弥助は
日本史上、好奇をソソられる男である。
『信長公記』によると、「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述されている。年齢は26歳〜27歳であろう。
「十人力の剛力」「牛のように黒き身体」と記述され、家臣として優秀な人材であったことを偲ばせる。
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には、この弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇。
信長が死ぬと二条御所に行って戦った末、明智軍に捕縛された。
家臣にどう処分するか聞かれた光秀は、「動物で何も知らず日本人でもない」との理由で命は取らず、南蛮寺に送った。
この処遇は光秀の黒人に対する蔑視を表していると考えられる一方、弥助を殺すことを忍びないと思った方便であるとの意見もあるが、真相は不明である。
その後、弥助の消息は分かっていないものの、他地域の史料の中に黒人が登場するものがいくつかあり(フロイスの『日本史』の、沖田畷の戦いの記述の中で、
大砲を使って活躍した有馬方の黒人が出て来る等)、それが弥助ではないかとする説がある。
弥助は本能寺の変を生き延び、日本人の誰かの遺伝子に受け継がれたのだろうか?
その考察を求む、高度なスレです。はにゃーんな駄スレではありません。
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