史実としての南京事件
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001 2019/08/11(日) 00:40:43 ID:QTO5rU2PwU
002 2019/08/11(日) 01:12:59 ID:yePuzQHDnA
銃身が赤くなる前に交換するものでは?
緊急事態以外で薙ぎ払う撃ち方もしなかったように思うが
俺の疑問は置いといて
この事件、真逆の解説もそれなりに納得の行くものもあるし
よくわからんことを迂闊に批評するべきではないな
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003 2019/08/11(日) 01:19:21 ID:2pvUszzLMU

そりゃあんた 一般市民じゃないんだからさ
昨日まで本気で自分を殺そうとしていた兵士を躊躇わず殺すのが正解なんだと思わないかね?
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004 2019/08/11(日) 01:33:17 ID:2A.eDcE6/U
ISのように共産テロリストが街にやってきて占領。
それを討伐する為に有志連合のように日本軍が市街戦を繰り広げ解放。
ただそれだけ。
それの共産テロリストが自称国家を名乗り今の中国。
そのテロリストを支援してた国がアメリカらで、テロリストと支援国で作ったのが国連。
アメリカはテロリストを支援してた癖に今更反テロリズムって何言ってんだって感じ
その支援したテロリストがその後、文化大革命やら朝鮮戦争を引き起こして何千万人殺害しても知らん顔なのが現状
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005 2019/08/11(日) 02:10:37 ID:DuYp8y3dmE
当事者が死んでから騒ぐ意味ってなに?
子や孫に復讐したいの?
信じられる証拠も無いのに
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006 2019/08/11(日) 02:28:16 ID:ZERZSLswIg
捕虜が反乱して、掌握できない状態になったから、会津部隊が鎮圧した事件ちゃうの
南京市民を虐殺したわけじゃないんだから年々人数が増えるのはおかしい
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007 2019/08/11(日) 02:34:46 ID:SA/TNyPDHc

こういった写真も捏造扱いすんのかな?
・・・・しかし、YouTubeのコメント欄が気持ち悪かった
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008 2019/08/11(日) 03:07:54 ID:kAORRLk7QA

清朝末期の軍閥総帥 袁世凱 が 獅子身中の虫で
北京政府大統領を経て中華帝国皇帝を名乗ったら
地方軍閥は反旗を翻し四分五裂・・・
袁世凱の死後、彼の部下であった馮国璋、徐世昌、段祺瑞などが相次いで政権につきいわゆる北京政府として対外的に中華民国の正式政府として存続したが、いずれも大陸全体をまとめる力を持ちえず、各地方を根拠とする軍閥割拠の時代に突入した。蒋介石(南京政府)は北伐を開始し・・・
要するに中国大陸の南北戦争/内戦状態(そもそも他民族モザイク国家だったから纏まってなく複雑だけど)
日本はたまたま北京政府側を支援して満州建国(清王朝の復権)に肩入れしてただけ
要するに南伐。だから何?って感じ
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009 2019/08/11(日) 03:23:07 ID:kAORRLk7QA
>>8訂正
×たまたま〜支援し
○ロシア南下(シベリア鉄道〜東清鉄道ルート)阻止の為に介入し
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010 2019/08/11(日) 03:32:55 ID:kAORRLk7QA

参考までに
この時代
>>9は戦闘車両と言えば専ら鉄道で
陸上戦艦は、そりゃ脅威だった事でしょう
(戦車も自動車も軍用装備としてはまだまだイマイチで、馬や牛?が大砲を・・・
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011 2019/08/11(日) 10:29:05 ID:HcMMJ/onHI
真実?恐らく事実としてあったのは間違いない。
がそこから犠牲者の数や後日談はキャクショクされている
可能性は十二分にある。
これを紐解いていくのは無理だと想ってる。
犠牲者の方々には哀悼の気持ちを忘れずにね。
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012 2019/08/11(日) 11:13:16 ID:3qSFwn3j6M
日本が、原爆の被害者2000万人。投下された都市19。とか捏造して現代の政治利用に勤しんだとしてみ?
そんな馬鹿な、捏造ヤメロという人々に、ヒロシマ、ナガサキのNHKドキュメンタリー見せてみ?
意味ないよね?遠い目をしてみせる迫真の論点ずらし芸だよね?
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013 2019/08/12(月) 01:18:29 ID:S3yEeDv8tE
ひどかった時代や歴史を政治利用。
仮想敵国を作れば、北朝鮮や、韓国だってデモすらおきない。
中国だって同じこと。
だが、ここでなぜ日本人がこんなことを掘り起こして、なにに利用しようとしてるかだね。
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014 2019/08/23(金) 21:43:17 ID:yT4DJ7K4yg
証拠がないんだからいくらあったあったと吠えても意味ないよ。
遺体があったってそれが日本軍の仕業だという証拠がないとダメだ。
というかネタバレするとその遺体は堅壁清野によるものなんだけど。
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015 2025/12/21(日) 13:17:56 ID:BZXqWHe4xU

南京は明朝の首都だった 明清交替後の首都は北京に
言葉も徐々にTOPから塞外民族系にシフトする(江南官話)
清朝は南京を「江寧府(こうねいふ)」と改称し、両江総督府を置き江南地方の情勢を皇帝に密報する情報拠点としても機能していた。
断髪令の強制: 明代の漢民族の伝統的な装束(漢服)や髪型は禁じられ、辮髪(べんぱつ)が強制されるという視覚的に大きな変化が起こりました。
駐防八旗の設置: 明代にはなかった変化として、清朝は南京城内の一部を区切り、満洲族の軍隊とその家族が住む「旗地(満城)」を設けました。これにより、漢民族と満洲族が共存する多民族都市となりました。
南京条約(1842年): アヘン戦争後、近代的な不平等条約の代名詞となる舞台となり「洋務運動」による近代化の拠点化
太平天国が南京を首都「天京」として11年間占領し、その後の清朝軍(湘軍)による奪還戦が極めて激しかったため、市街地はほぼ廃墟となりました。
太平天国の乱後の南京は、古い王朝の副都としての姿を失う多民族が入り乱れる「革命の揺籃の地」
乱後の不安定な社会情勢の中で、孫文らの革命思想が広まる下地が作られ辛亥革命(1911年)時に臨時首都となる要因に
しかし軍閥時代を孫文は制する事が出来ずに袁世凱の北京政府に移行した
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016 2025/12/21(日) 13:25:05 ID:BZXqWHe4xU

1927年4月、蒋介石が南京国民政府を樹立すると、南京は再び中国の首都となり
1930年代前半は「南京十年」と呼ばれる近代化の時期で公共施設や警察機構が整備されアヘン戦争以来の経済的停滞から脱却し、商業が回復しつつあった
しかし1937年日中戦争が全面化すると情勢は一変し、日本軍の上海占領後、南京への進撃が始まると、国民政府は首都を重慶へ移転させました。重慶の蒋介石国民政府と対立した汪兆銘は1938年に重慶を脱出して日本と協力し1940年に南京に親日政権(汪兆銘政権)を樹立
古代※からの富裕層である南方系と清朝以降に大量流入した北方系の南京市民にとって、新聞は「文字を読めるエリート層」、ラジオは「文字を読めない一般民衆」が街頭などで政府の声を直接聞くためのメディアだったが、人口の大部分を占める一般庶民(特に移住してきた労働者層)の間では、読み書きができない人が多数派。蒋介石は「国内の政治的・思想的統一には新聞」を、「国際的な外交戦と広範な民衆への情宣にはラジオ」を戦略的に使い分けて重んじていた。
※呉音とは、日本に最も早く伝来した漢字の音読み 古代中原世界で話されていた古中国語に源流を持つ 現在の福建語の発音が日本語と似ているのはそういった事情
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017 2025/12/21(日) 13:39:26 ID:BZXqWHe4xU
この頃に新聞も読めないラジオ聞けても言語が違う層は まぁ逃げ遅れるわな
因みに孫文は北京語を話す際に強い広東語のアクセントが残っていた 蒋介石は呉語、宋美齢は上海
毛沢東も北京語のネイティブスピーカーではなく、生涯を通じて非常に強い湖南(こなん)訛りを持っていた。 公の場や1949年の建国宣言などの重要な演説では北京語(普通話)を話しましたが、訛りが非常に強く、他地域の出身者には聞き取りが困難なことが多々ありました。そのため、重要な会議では通訳や書き言葉による補足が必要とされる場面もありました。
周恩来は、非常に高い教養を備えており、北京語を含む複数の言語を操りましたが、家族のルーツである浙江省の紹興語(呉語)や江淮官話(こうわいかんわ)の訛りがあった
漢族と満州族は識別が難しい
満州族は辛亥革命後は北伐からの保身の為に漢族のフリをした
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018 2025/12/21(日) 13:52:13 ID:BZXqWHe4xU

張献忠は明末の農民反乱の指導者。
残酷な殺戮を好み、「屠蜀(中国語版)」もしくは「屠川」と呼ばれる無差別殺戮により、四川の人口を著しく減じ
現在の四川人の方言(西南官話)が北京普通話に近いのもこの時の四川人殲滅殺戮によって古代四川人が壊滅したことが大きいとされる。
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019 2025/12/21(日) 16:52:09 ID:BZXqWHe4xU
揚州虐殺
760年の唐代に、安史の乱や李希烈の乱平定に参与した田神功(?-774年)が、揚州で掠奪し、胡人やペルシア人商人やイスラム教徒などの外国人を数千人虐殺した。
878年から879年にかけて黄巣が広州で外国人商人を襲撃した。イスラム商人、ユダヤ人、キリスト教徒、パールシー教徒も殺害され、犠牲者は12万人から20万人にものぼるとされる。
1645年清のヌルハチの十五男の豫親王ドド(多鐸)軍が、南明の史可法軍と戦闘した際に、揚州で大規模な殺戮を行い、死者は80万人にのぼった。ドドの軍は弘光帝の立てこもる南京も攻め落とし、弘光帝は翌年北京で処刑された。『揚州十日記』では虐殺80万とされるが、当時の揚州の人口は20万以下であったことから、死者数は誇張されていると指摘されている
清軍の残虐行為を描いた『揚州十日記』や朱子素『嘉定屠城紀略』は、「反清復明」「滅満興漢」のスローガンとともに辛亥革命にいたる反清運動でよく読まれた。
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