阿智王(阿知使主)の末裔、東漢氏出身で下総守の坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)、曰く、
「…苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因牛教。
出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。
何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。是則譽田天皇治天下之御世也。
於是阿智王奏請曰。臣舊居在於帶方。人民男女皆有才藝。近者寓於百濟高麗之間。心懷猶豫未知去就。
伏願天恩遣使追召之。乃勅遣臣八腹氏。分頭發遣。其人民男女。擧落隨使盡來。永爲公民。積年累代。以至于今。
今在諸國漢人亦是其後也。臣苅田麻呂等。失先祖之王族。蒙下人之卑姓。望 。改忌寸蒙賜宿祢姓。
伏願・・・」(『続日本紀』延暦四年六月条)
列記とした漢人としての地位を確立していた阿知使主(東漢氏の祖)なんかは、今まで半島で支配的立場だったのに、
楽浪・帯方郡滅亡後、逆に半島土着民から支配されるも同然という状況にあったところに、大和朝廷から
「ウチに来たら厚遇してやるぞ」と言われたら一族郎党、こぞって大挙したがるわな。
しかし、そんな漢人系帰化人でさえ、後世『神皇正統記』を著した北畠親房が疑問に感じるぐらいに
半島系起源であるという理由で、いかに有力氏族で倭人との血が濃いtとはいえ『新撰姓氏録』では「諸蕃」として
差別ならぬ区別された(帰化人が系図を捏造しまくった結果出来たのが『新撰姓氏録』って側面もあるものの)。
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