近代東アジアを明治年号で鑑みるスレ
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https://sekainorekisi.com/japanese_history/%E5%88%97%E5%...
明治元年は1868年1月25日 – 1869年2月10日
明治時代は海外ネタメインで、国内ネタは江戸時代(マイナス年号)や大正期~昭和20年あたりまで
なお 旧暦→明治改暦 とか 0年という年は存在しない 件もあるので1年ぐらいのズレは気にしない事にする
では最初に
明治-40年 化政文化 江戸時代後期に発展した町人文化:浮世絵、歌舞伎、天保の改革、遠山の金さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E6%94%BF%E6%96%...
明治元年は1868年1月25日 – 1869年2月10日
明治時代は海外ネタメインで、国内ネタは江戸時代(マイナス年号)や大正期~昭和20年あたりまで
なお 旧暦→明治改暦 とか 0年という年は存在しない 件もあるので1年ぐらいのズレは気にしない事にする
では最初に
明治-40年 化政文化 江戸時代後期に発展した町人文化:浮世絵、歌舞伎、天保の改革、遠山の金さん
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明治ー65年 ロシア初の世界一周 https://en.wikipedia.org/wiki/First_Russian_circumnavig...
主な目的は、ロシアと日本の間、およびロシアの毛皮を取引するための中国の港との外交および経済関係を確立
文化元年(1804年)レザノフが長崎に来航し、半年にわたって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至り、日本への報復を計画し、樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させた。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフは、文化3年(1806年)には樺太の松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した → 文化露寇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E9%9C%...
この事件は化政文化の一見泰平にみえる日本であらためて国防の重要性を覚醒させる事件となった。江戸幕府の首脳はロシアの脅威を感じることとなり、以後、幕府は鎖国体制の維持と国防体制の強化に努めた。また日露関係の緊張によって幕府は自らの威信を保つためにも内外に対して強硬策を採らざるを得なくなった。このことは1811年のゴローニン事件の原因とな
主な目的は、ロシアと日本の間、およびロシアの毛皮を取引するための中国の港との外交および経済関係を確立
文化元年(1804年)レザノフが長崎に来航し、半年にわたって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至り、日本への報復を計画し、樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させた。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフは、文化3年(1806年)には樺太の松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した → 文化露寇
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この事件は化政文化の一見泰平にみえる日本であらためて国防の重要性を覚醒させる事件となった。江戸幕府の首脳はロシアの脅威を感じることとなり、以後、幕府は鎖国体制の維持と国防体制の強化に努めた。また日露関係の緊張によって幕府は自らの威信を保つためにも内外に対して強硬策を採らざるを得なくなった。このことは1811年のゴローニン事件の原因とな
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>>3 この頃の欧州
1804 フランス第一帝政 ナポレオン1世の戴冠式
1812 ナポレオン ロシア遠征 https://ja.wikipedia.org/wiki/1812%E5%B9%B4%E3%83%AD%E3...
1815 ワーテルローの戦い 復古王政
1830 7月革命、王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された
1848 革命はヨーロッパ各地で起こり、ウィーン体制の崩壊を招いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%...
1827 ベートーヴェン死去
>>3 この頃の欧州
1804 フランス第一帝政 ナポレオン1世の戴冠式
1812 ナポレオン ロシア遠征 https://ja.wikipedia.org/wiki/1812%E5%B9%B4%E3%83%AD%E3...
1815 ワーテルローの戦い 復古王政
1830 7月革命、王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された
1848 革命はヨーロッパ各地で起こり、ウィーン体制の崩壊を招いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%...
1827 ベートーヴェン死去
>>3 この頃のアメリカ
1823 モンロー主義演説 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%...
1830 インディアン移住法を可決
1836 西方への拡張 OK 新単語が急速に広まる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%...
1861 南北戦争
1823 モンロー主義演説 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%...
1830 インディアン移住法を可決
1836 西方への拡張 OK 新単語が急速に広まる
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1861 南北戦争
>>4 この頃のオスマン帝国
17世紀 オスマン帝国の最盛期、最大版図を築く
18世紀末に入ると、ロシア帝国の南下によってオスマン帝国の小康は破られ~
19世紀半ば、ヨーロッパ列強の軍事的・政治的圧力、欧州金融資本のバルカン半島進出、ギリシャやエジプトなど帝国領の諸地域・諸民族の自立・離反という「内憂外患」のなかでおこなわれた一連の西欧化・近代化政策であり、1839年から1876年までを「タンジマート期」と称する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%...
ベートーヴェンの「トルコ行進曲」は1811年秋から1812年にかけて作曲された
17世紀 オスマン帝国の最盛期、最大版図を築く
18世紀末に入ると、ロシア帝国の南下によってオスマン帝国の小康は破られ~
19世紀半ば、ヨーロッパ列強の軍事的・政治的圧力、欧州金融資本のバルカン半島進出、ギリシャやエジプトなど帝国領の諸地域・諸民族の自立・離反という「内憂外患」のなかでおこなわれた一連の西欧化・近代化政策であり、1839年から1876年までを「タンジマート期」と称する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%...
ベートーヴェンの「トルコ行進曲」は1811年秋から1812年にかけて作曲された
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>>3 この頃のアフリカ
19世紀に入るとヨーロッパ諸国は手のひらを返したようにアフリカに対する接触の仕方を変化させた。産業革命を迎え、人格を拘束する奴隷制は次第に時代遅れになり、自らの意思で労働力を切り売りする労働者が求められる時代へと変革していった。ヨーロッパの都合で激化した奴隷貿易はヨーロッパの都合により次第に終息し、アフリカ人不在のまま、植民地化の時代へと突入していくこととなった。
1807 イギリス議会で奴隷貿易法が成立し、イギリス帝国全体での奴隷貿易を違法と定めた
1833 奴隷制度廃止法が成立し、イギリスの植民地における奴隷制度を違法とした
1862 アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが南北戦争中に連邦軍の戦っていた南部連合へ奴隷解放宣言
1869(明治元年) フランスはエジプトと協力してスエズ運河を完成 アフリカ大陸を回らずにヨーロッパとアジアを海運で連結
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%...
1884(明治17年) ベルリン会議 列強による「アフリカ分割」原則を確認
>>3 この頃のアフリカ
19世紀に入るとヨーロッパ諸国は手のひらを返したようにアフリカに対する接触の仕方を変化させた。産業革命を迎え、人格を拘束する奴隷制は次第に時代遅れになり、自らの意思で労働力を切り売りする労働者が求められる時代へと変革していった。ヨーロッパの都合で激化した奴隷貿易はヨーロッパの都合により次第に終息し、アフリカ人不在のまま、植民地化の時代へと突入していくこととなった。
1807 イギリス議会で奴隷貿易法が成立し、イギリス帝国全体での奴隷貿易を違法と定めた
1833 奴隷制度廃止法が成立し、イギリスの植民地における奴隷制度を違法とした
1862 アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが南北戦争中に連邦軍の戦っていた南部連合へ奴隷解放宣言
1869(明治元年) フランスはエジプトと協力してスエズ運河を完成 アフリカ大陸を回らずにヨーロッパとアジアを海運で連結
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%...
1884(明治17年) ベルリン会議 列強による「アフリカ分割」原則を確認
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清の最盛期の3皇帝 1661 - 1722 第4代 康熙帝、1722-1735 第5代 雍正帝、1735-1795 第6代 乾隆帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85#%E6%B8%85%E3%81...
第6代 乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見え始めた。
乾隆帝、第7代嘉慶帝の二帝に仕えた軍機大臣のヘシェン(hešen、和珅)は、清朝で最も堕落した官僚の一人で、厳しい取り立てに住民が蜂起した 白蓮教徒の乱(1796-1804) が起こったが、乾隆帝の崩御後、親政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれた(賜死)。このとき鎮圧に動員された 郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団が、太平天国の乱(1851)で湘軍に組織化されて曽国藩・李鴻章・左宗棠のもとで軍閥化していくと共に、不満を持つ将兵は哥老会などに流れて三合会などと辛亥革命(1911)を支える組織になっていった。
当時、清は世界のGDPのうち3割を占めるほど豊かな国家で、ヘシェンは世界一の富豪であったと考えられる。
恭王府は1777年につくられたヘシェンの邸宅 http://pingshan.parfait.ne.jp/honglou2/trip5.htm...
清の最盛期の3皇帝 1661 - 1722 第4代 康熙帝、1722-1735 第5代 雍正帝、1735-1795 第6代 乾隆帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85#%E6%B8%85%E3%81...
第6代 乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見え始めた。
乾隆帝、第7代嘉慶帝の二帝に仕えた軍機大臣のヘシェン(hešen、和珅)は、清朝で最も堕落した官僚の一人で、厳しい取り立てに住民が蜂起した 白蓮教徒の乱(1796-1804) が起こったが、乾隆帝の崩御後、親政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれた(賜死)。このとき鎮圧に動員された 郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団が、太平天国の乱(1851)で湘軍に組織化されて曽国藩・李鴻章・左宗棠のもとで軍閥化していくと共に、不満を持つ将兵は哥老会などに流れて三合会などと辛亥革命(1911)を支える組織になっていった。
当時、清は世界のGDPのうち3割を占めるほど豊かな国家で、ヘシェンは世界一の富豪であったと考えられる。
恭王府は1777年につくられたヘシェンの邸宅 http://pingshan.parfait.ne.jp/honglou2/trip5.htm...
北宋代に1億を超えたと言われる人口は増減を繰り返し、順治帝期の1651年の戸籍登録人口は約5300万、康熙帝期の1685年には約1億1000万、1700年に1億5000万、乾隆帝期の1765年には2億、1770年から1780年にかけて2億8000万、1790年に3億、19世紀前半のアヘン戦争直前の1833年に4億を突破した(数字は全て推定)。
新大陸原産の作物は水がそれほど豊富でなくとも痩せた土地で育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢人が進出できるようになった。
溢れる人口は領内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来漢人の居住地ではない所にも進出し、牧草地や山地を農地に変えていった。更に陸地だけでも収まり切らず、明代から出現していた華人が激増する事になる。また、17世紀以降の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加したこともアヘンの蔓延を助長させた。
新大陸原産の作物は水がそれほど豊富でなくとも痩せた土地で育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢人が進出できるようになった。
溢れる人口は領内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来漢人の居住地ではない所にも進出し、牧草地や山地を農地に変えていった。更に陸地だけでも収まり切らず、明代から出現していた華人が激増する事になる。また、17世紀以降の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加したこともアヘンの蔓延を助長させた。
明代から引き続いて全国的に手工業が大いに盛んであり、絹織物・綿織物に加えて鉄の加工販売が盛んとなり、増大する人口と農地に必要な農具が大量に作られた。
陶磁器の分野では景徳鎮は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵・染付などの生産が行われた。しかし乾隆(第6代 )以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣るとされる
景徳鎮は古くから陶磁器の生産地として有名で、当時、ヨーロッパでは陶磁器の生産方法がわからず、陶磁器は貴重な芸術品として愛され大量にヨーロッパに輸出された
https://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_export_porcelai...
陶磁器の分野では景徳鎮は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵・染付などの生産が行われた。しかし乾隆(第6代 )以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣るとされる
景徳鎮は古くから陶磁器の生産地として有名で、当時、ヨーロッパでは陶磁器の生産方法がわからず、陶磁器は貴重な芸術品として愛され大量にヨーロッパに輸出された
https://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_export_porcelai...
世界初の紙幣は宋の交子とされ、唐の時代から飛銭と呼ばれる手形が流通していたが、宋になると鉄貨が流通する四川において鉄貨の預り証である交子が発行された。
四川での成功を知った宋政府は、仁宗時期に交子の発行を官業とし、民間の発行を禁止した。交子は手形から紙幣に変わり、政府は本銭や発行限度額を定めて官営の交子を流通させた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E5%AD%9...
紙幣の存在は、中世ヨーロッパやイスラーム世界の外来者(マルコ・ポーロやペゴロッティ、イブン・バットゥータ)を驚かせた。
中国では明の洪武帝治世下で金銀貨幣の使用が禁止され、1375年には通貨は大明宝鈔という紙幣に切り替えられ、額面1貫文が銀1両=米1石に相当するとされたが、永楽帝の頃には戦費捻出のために濫発され大きく価値を下落させた。明代中期以降は秤量貨幣(そのつど秤で重さを量る貨幣)としての銀(馬蹄銀)が主要な通貨となっていく。
16世紀半ば以降、新大陸から持ち運ばれた銀によって、価格革命が起き、全ヨーロッパの銀価が下落した。
四川での成功を知った宋政府は、仁宗時期に交子の発行を官業とし、民間の発行を禁止した。交子は手形から紙幣に変わり、政府は本銭や発行限度額を定めて官営の交子を流通させた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E5%AD%9...
紙幣の存在は、中世ヨーロッパやイスラーム世界の外来者(マルコ・ポーロやペゴロッティ、イブン・バットゥータ)を驚かせた。
中国では明の洪武帝治世下で金銀貨幣の使用が禁止され、1375年には通貨は大明宝鈔という紙幣に切り替えられ、額面1貫文が銀1両=米1石に相当するとされたが、永楽帝の頃には戦費捻出のために濫発され大きく価値を下落させた。明代中期以降は秤量貨幣(そのつど秤で重さを量る貨幣)としての銀(馬蹄銀)が主要な通貨となっていく。
16世紀半ば以降、新大陸から持ち運ばれた銀によって、価格革命が起き、全ヨーロッパの銀価が下落した。
互市(ごし)とは、中国の歴代王朝が国境地点にもうけた公認の対外交易場である。
漢代には、互市で南越や匈奴、鮮卑と交易を行っていたことが確認されている。唐代では、対外貿易を行う海港を市舶とし、港における互市を管理させた。
明朝は当初、海禁政策を取り、朝貢によらない私貿易を厳禁した。日明貿易で行われた勘合貿易は、中国側にとっては朝貢貿易の一環であった。しかし16世紀後半になると後期倭寇により海禁政策は行き詰まり、朝貢によらない私貿易を容認した。これは次の清朝にも引き継がれ、朝貢体制の外側に、外交を伴わない形での互市体制が作られることになる。
広東システムは、中国の清朝中期から後期(1757年 - 1842年)における、清国とヨーロッパ諸国(のちに米国も加わる)との間で行われた貿易管理体制である。ヨーロッパ商人との交易を広東(>>10広州)1港のみに限定し、独占的商人を通じて行った貿易体制であり、日本の江戸時代のいわゆる「鎖国」体制における長崎出島での管理貿易体制(長崎貿易)と類似する。従来の中華帝国の交易スタイルであった「朝貢」貿易の一形態と見なされることも多いが、実際は朝貢形式の儀礼コストを省略し、広州現地における商人どうしの通商行動を重視した「互市」システムと理解する方が的確である。
漢代には、互市で南越や匈奴、鮮卑と交易を行っていたことが確認されている。唐代では、対外貿易を行う海港を市舶とし、港における互市を管理させた。
明朝は当初、海禁政策を取り、朝貢によらない私貿易を厳禁した。日明貿易で行われた勘合貿易は、中国側にとっては朝貢貿易の一環であった。しかし16世紀後半になると後期倭寇により海禁政策は行き詰まり、朝貢によらない私貿易を容認した。これは次の清朝にも引き継がれ、朝貢体制の外側に、外交を伴わない形での互市体制が作られることになる。
広東システムは、中国の清朝中期から後期(1757年 - 1842年)における、清国とヨーロッパ諸国(のちに米国も加わる)との間で行われた貿易管理体制である。ヨーロッパ商人との交易を広東(>>10広州)1港のみに限定し、独占的商人を通じて行った貿易体制であり、日本の江戸時代のいわゆる「鎖国」体制における長崎出島での管理貿易体制(長崎貿易)と類似する。従来の中華帝国の交易スタイルであった「朝貢」貿易の一形態と見なされることも多いが、実際は朝貢形式の儀礼コストを省略し、広州現地における商人どうしの通商行動を重視した「互市」システムと理解する方が的確である。
東南アジアの植民地化
1511年- マラッカ王国(現:マレーシア)をポルトガルが征服し、東南アジアにおけるポルトガル海上帝国の拠点ポルトガル領マラッカとした。
1529年- スペインはのサラゴサ条約で、ポルトガルにフィリピンの領有を認めさせた。
1623年- アンボイナ事件 ポルトガルが独占していた香料貿易をオランダが駆逐し、イングランドも1615年に進出して激しく競争した。事態を収拾するため、英蘭両国の政府は1619年に協定を締結したがオランダの現地当局はこれを無視して取引を行い、激怒したイングランド人はバタヴィアのオランダ人を駆逐。
イギリス東インド会社 17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。当初は香辛料貿易を主業務としたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、インドの植民地統治機関へと変貌していった。
イギリス東インド会社 :1600年~1874年
オランダ東インド会社 :1602年~1800年
ポルトガル東インド会社:1628年~1633年
フランス東インド会社 :1664年~1769年
東南アジアの植民地で問題になるのは、政府栽培制度(強制栽培制度)で、支配国が一方的に定めた安い賃金で住民に農産物を栽培させる制度
1898年- 米西戦争は、アメリカ合衆国とスペイン帝国の間で発生した戦争で、アメリカ合衆国が勝利しスペイン帝国が崩壊する
1899年- 米比戦争は、アメリカ合衆国とフィリピンの間で発生した戦争で、アメリカ合衆国の勝利
1511年- マラッカ王国(現:マレーシア)をポルトガルが征服し、東南アジアにおけるポルトガル海上帝国の拠点ポルトガル領マラッカとした。
1529年- スペインはのサラゴサ条約で、ポルトガルにフィリピンの領有を認めさせた。
1623年- アンボイナ事件 ポルトガルが独占していた香料貿易をオランダが駆逐し、イングランドも1615年に進出して激しく競争した。事態を収拾するため、英蘭両国の政府は1619年に協定を締結したがオランダの現地当局はこれを無視して取引を行い、激怒したイングランド人はバタヴィアのオランダ人を駆逐。
イギリス東インド会社 17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。当初は香辛料貿易を主業務としたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、インドの植民地統治機関へと変貌していった。
イギリス東インド会社 :1600年~1874年
オランダ東インド会社 :1602年~1800年
ポルトガル東インド会社:1628年~1633年
フランス東インド会社 :1664年~1769年
東南アジアの植民地で問題になるのは、政府栽培制度(強制栽培制度)で、支配国が一方的に定めた安い賃金で住民に農産物を栽培させる制度
1898年- 米西戦争は、アメリカ合衆国とスペイン帝国の間で発生した戦争で、アメリカ合衆国が勝利しスペイン帝国が崩壊する
1899年- 米比戦争は、アメリカ合衆国とフィリピンの間で発生した戦争で、アメリカ合衆国の勝利
ハワイ
1795年:カメハメハ1世(大王)が白人たちが持ち込んだ銃器を利用し、3つの王国が分立していたハワイ諸島を統一し、ハワイ王国を建国する。
1802年:中国人が、カメハメハ王から許可を得てサトウキビ栽培に着手[6]。
1820年:カメハメハ2世の治下、多くの宣教師がアメリカから移住し、キリスト教文化がハワイに定着していく。またアメリカ人によるプランテーション農場のための土地の収奪が始まる。
1840年:憲法を公布、立憲君主制となる。
1843年:イギリス(英国)がハワイの領有を宣言。
1849年:フランスがハワイの領有を宣言。ハワイをめぐる列強の抗争は激しくなる。
1850年:中国からの組織的な移民が始まる。
1868年(明治元年):横浜から、日本人移民148名がハワイに移住した。
1871年:日布修好通商条約を締結。
1881年:カラカウア王が来日。明治天皇と会見し、日本政府との間で正式に移民協定が結ばれる。また日本にとってハワイ王朝は、不平等条約改正を約した初の海外国家元首賓客であった。
1898年:アメリカ合衆国によって行われたハワイ共和国の併合。
1795年:カメハメハ1世(大王)が白人たちが持ち込んだ銃器を利用し、3つの王国が分立していたハワイ諸島を統一し、ハワイ王国を建国する。
1802年:中国人が、カメハメハ王から許可を得てサトウキビ栽培に着手[6]。
1820年:カメハメハ2世の治下、多くの宣教師がアメリカから移住し、キリスト教文化がハワイに定着していく。またアメリカ人によるプランテーション農場のための土地の収奪が始まる。
1840年:憲法を公布、立憲君主制となる。
1843年:イギリス(英国)がハワイの領有を宣言。
1849年:フランスがハワイの領有を宣言。ハワイをめぐる列強の抗争は激しくなる。
1850年:中国からの組織的な移民が始まる。
1868年(明治元年):横浜から、日本人移民148名がハワイに移住した。
1871年:日布修好通商条約を締結。
1881年:カラカウア王が来日。明治天皇と会見し、日本政府との間で正式に移民協定が結ばれる。また日本にとってハワイ王朝は、不平等条約改正を約した初の海外国家元首賓客であった。
1898年:アメリカ合衆国によって行われたハワイ共和国の併合。
李氏朝鮮の外交
1392年 李成桂はクーデターを成功させ新しい王朝を樹立。その後、日清戦争に至る500年に渡り明および清の冊封体制の中にあり、中華王朝に事大の礼を尽くしていた。
1396年 李朝は倭寇対策として壱岐と対馬の討伐を命じる https://ja.wikipedia.org/wiki...高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻
1429年~朝鮮通信使
1510年 三浦の乱(サムポのらん)とは、朝鮮国慶尚道で起きた、対馬守護宗氏と恒居倭人(朝鮮居留日本人)による反乱。
1592年 文禄・慶長の役
1654年 羅禅征伐 李氏朝鮮が清の命令でロシアとの戦いに参加 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E7%A6%85%E5%BE%...
1791年 辛亥邪獄 最初のカトリック弾圧事件
1866年 丙寅教獄 朝鮮におけるキリスト教徒大量虐殺事件
1871年(明治4年)辛未洋擾 ジェネラル・シャーマン号事件を発端として米艦隊と交戦
1875年(明治8年)江華島事件翌年に日朝修好条規を締結
1882年(明治15年)壬午軍乱 興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現在のソウル)で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。
1884年 甲申政変 朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入される
1885年 巨文島事件 1880年代初頭以来の朝鮮半島をめぐるイギリス・ロシア間の対立で英海軍によって占拠された事件。
1894年 甲午農民戦争 李氏朝鮮で起きた農民の暴動。内乱は全土に波及し、その処理を巡り大日本帝国と清国の対立が激化し日清戦争に至る
1392年 李成桂はクーデターを成功させ新しい王朝を樹立。その後、日清戦争に至る500年に渡り明および清の冊封体制の中にあり、中華王朝に事大の礼を尽くしていた。
1396年 李朝は倭寇対策として壱岐と対馬の討伐を命じる https://ja.wikipedia.org/wiki...高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻
1429年~朝鮮通信使
1510年 三浦の乱(サムポのらん)とは、朝鮮国慶尚道で起きた、対馬守護宗氏と恒居倭人(朝鮮居留日本人)による反乱。
1592年 文禄・慶長の役
1654年 羅禅征伐 李氏朝鮮が清の命令でロシアとの戦いに参加 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E7%A6%85%E5%BE%...
1791年 辛亥邪獄 最初のカトリック弾圧事件
1866年 丙寅教獄 朝鮮におけるキリスト教徒大量虐殺事件
1871年(明治4年)辛未洋擾 ジェネラル・シャーマン号事件を発端として米艦隊と交戦
1875年(明治8年)江華島事件翌年に日朝修好条規を締結
1882年(明治15年)壬午軍乱 興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現在のソウル)で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。
1884年 甲申政変 朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入される
1885年 巨文島事件 1880年代初頭以来の朝鮮半島をめぐるイギリス・ロシア間の対立で英海軍によって占拠された事件。
1894年 甲午農民戦争 李氏朝鮮で起きた農民の暴動。内乱は全土に波及し、その処理を巡り大日本帝国と清国の対立が激化し日清戦争に至る
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スレッドタイトル:近代東アジアを明治年号で鑑みるスレ