近代東アジアを明治年号で鑑みるスレ


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001 2023/02/22(水) 04:01:10 ID:gUqleeTtgI
https://sekainorekisi.com/japanese_history/%E5%88%97%E5%...
明治元年は1868年1月25日 – 1869年2月10日
明治時代は海外ネタメインで、国内ネタは江戸時代(マイナス年号)や大正期~昭和20年あたりまで
なお 旧暦→明治改暦 とか 0年という年は存在しない 件もあるので1年ぐらいのズレは気にしない事にする

では最初に
明治-40年 化政文化 江戸時代後期に発展した町人文化:浮世絵、歌舞伎、天保の改革、遠山の金さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E6%94%BF%E6%96%...

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※省略されてます すべて表示...
022 2023/03/12(日) 03:30:38 ID:epCn48Psjk
ドイツ統一は、ドイツ人がプロイセン国王ヴィルヘルム1世をドイツ人の統一国家ドイツ国の皇帝として戴くことを決め、1871年にいわゆるドイツ帝国(帝政ドイツ)を成立させたことを指す。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%...

9世紀に東フランク王国の国王オットー1世がローマ教皇から皇帝の称号を与えられ、神聖ローマ帝国が誕生。このドイツ初の帝国は19世紀始めのナポレオン出現の頃まで続いたのである。1806年、ナポレオン・ボナパルトがドイツに侵攻し「ライン同盟」を結成。によって神聖ローマ帝国は解体され https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%...
フランスによる支配はドイツ人に民族としての自覚を生み、フランスからの解放者としての役割をプロイセンに求める人々が現れ
 1862年にビスマルクがプロイセン王国の首相となり、オーストリア帝国と同盟し、デンマークと戦争を行った結果、デンマーク統治下にあったシュレスーヴィヒ公国およびホルシュタイン公国をオーストリアとの共同管理とした。
 1866年、普墺戦争ではオーストリアを破って北ドイツ連邦を結成し、オーストリアをドイツ人国家の枠組みから追放し
1870年(明治2年)には普仏戦争でナポレオン3世率いるフランス帝国を破ってパリへ入城し、
1871年1月18日に、ヴェルサイユ宮殿でドイツ諸侯に推戴される形でプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となり、ここにドイツ帝国が成立した

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023 2023/03/12(日) 03:46:29 ID:epCn48Psjk
>>22
中世末期、カトリック教会は贖宥状(しょくゆうじょう・免罪符)と呼ばれる「罪の許しをお金で買って救いを求める証明書」を販売して収入を得ていました。
16世紀に入った頃、ローマ教皇レオ10世が大聖堂の修復費用などを捻出するため、ドイツの農民たちに贖宥状を売りつけ、露骨にお金を巻き上げ始めます。すっかり金づるになってしまったドイツ。「ドイツはローマの牝牛だ」などと揶揄されるようになってしまうのです。この状況に意義を唱えたのが、ドイツの神学者マルティン・ルターです(95ヶ条の論題)。
ルターの発言はドイツ国内に大きな影響を与え、教会の改革運動へとつながっていきました。これらの動きを「宗教改革」と呼んでいます。https://rinto.life/141078/...

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024 2023/03/17(金) 00:59:58 ID:Mybee.zWyI
七年戦争 は1756-(宝暦期)-1763年まで行われた戦争であり、18世紀の実質の世界大戦でもある。プロイセンとオーストリアの対立を軸とした戦争で、英が前者を、仏露が後者を支援、欧州全域での戦争となったばかりでなく、英仏は北米とインド植民地でも戦争し、戦闘は世界規模で広がった。この戦争の前にフランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を組んだ(外交革命)。しかし戦争の結果、墺仏の外交努力は英普側が勝利したことで水泡に帰し、イギリスの飛躍とフランスの欧州における優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、欧州勢力均衡を変える結果となった。欧州におけるプロイセンの国際的地位が向上し強国の一員となり、ドイツ統一の主導権を握る。イギリスがカナダなど植民地を獲得し、世界植民地帝国(第一帝国)を形成することとなった。同時にイギリスは北米植民地への課税を強化したためアメリカ独立戦争を招く。オーストリアはマリア=テレジアがさらにフランスとの提携強化を進め、娘のマリ=アントワネットをフランスの王子ルイ(後のルイ16世)と結婚させる。また1765年からは子のヨーゼフ2世との共同統治となり啓蒙専制主義による改革に向かう。フランスは北米大陸の植民地のほとんどを喪失、さらに国庫の窮迫が深刻化しフランス革命を招く。スウェーデン軍はプロイセンに出兵したが領土的には得るものがなかった。が兵士がジャガイモを持ち帰りそれが普及して主食となったのでジャガイモ戦争と呼ぶ

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025 2023/03/17(金) 01:19:09 ID:Mybee.zWyI
キャプテン・クック (James Cook、1728 - 1779)1755年に英国海軍に水兵として志願し、七年戦争に加わり~イギリスの海洋探検3度の大航海でベーリング海峡や南極付近を含め、太平洋の全貌を明らかにした。オーストラリアを植民地にした。当時船上生活で避けられないと思われていた壊血病から船員を守ることができることを証明した。それは、ジェームズ=リンドというイギリス海軍の軍医の教えに従い、船員に柑橘類とザワークラウト(キャベツの酢漬け)を採らせる食事法を採用したからであった。後に壊血病の原因がビタミンCの欠乏によることが明らかになり、オレンジなどの柑橘類の摂取が有効であることが判明した。それ以来、イギリスの船乗りは「ライム野郎(ライミー)」とあだ名されるようになった。 1779年、ハワイ島で原住民に刺殺された

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026 2023/03/17(金) 01:46:58 ID:Mybee.zWyI
[YouTubeで再生]
啓蒙時代 は、ヨーロッパで啓蒙思想が主流となっていた17世紀後半から18世紀にかけての時代のこと。
啓蒙思想とは、聖書や神学といった従来の権威を離れ、理性(悟性)による知によって世界を把握しようとする思想運動である。

17世紀前半の科学革命 天動説に立った宇宙観が捨てられ、地動説への転換がなされ、これまで地上のものと天上のものとを二分してきたキリスト教的世界観をくつがえした一方、多くの技術革新を導き、18世紀における蒸気機関の開発、さらには産業革命へとつながった。科学革命の中心的な担い手はポーランドのコペルニクス、ドイツのケプラー、イタリアのガリレイ、イングランドのニュートンの4名。
1662年に設立されたロンドンの王立協会や1666年に設立されたフランスのフランス科学アカデミーの成功を受け、この時代にはヨーロッパ諸国において相次いで学会が設立された。

啓蒙思想は身分を否定し、自由と平等と言う理念を生み出し、市民のみならず一部の開明的貴族からも同調者を得て、絶対王政が衰退、フランス革命へとつながっていった

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027 2023/03/22(水) 02:13:15 ID:IpeZ1hNRcQ
ジャガイモ飢饉(特に1847年の状況は最も酷かったため、ブラック47(Black '47)とも)
は、19世紀のアイルランド島で主要食物のジャガイモが疫病により枯死したことで起こった大飢饉のことである。。
 1845年から1849年の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し、壊滅的な被害を受けた。1801年からグレートブリテン>>20及びアイルランド連合王国の一部となったアイルランド島において、この不作を飢饉に変えた要因は、その後の政策にあると言われている。ヨーロッパの他の地域では在地の貴族や地主が救済活動を行ったのに対して、アイルランドの領主であるアイルランド貴族や地主はほとんどがグレートブリテン島に在住しているイングランド人やスコットランド人であり、自らの地代収入を心配するあまりアイルランドの食料輸出禁止に反対するなどして、餓死者が出ているにもかかわらず食料がアイルランドから輸出されるという状態が続いた。
 この飢饉で、アイルランドの人口が少なくとも20%から25%減少し、10%から20%が島外へ移住し、21世紀に入っても全島の人口は大飢饉以前には及んでいない。
アメリカ合衆国に渡ったアイルランド人移民はアメリカ社会で大きなグループを形成し、経済界や特に政治の世界で大きな影響力を持つようになった。この時代のアメリカへの移民の中には、ケネディ家の先祖も含まれていた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%...

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028 2023/03/23(木) 21:36:22 ID:ZJKTxEvFMc
1815年のタンボラ山噴火
記録の残る中では人類史上世界最大の火山噴火 地球規模の異常気象
火山の噴火が続いたことにより、農作物の不作が数年間続いた。アメリカでは「夏のない年」によって西部等へ移住が進んだ。ヨーロッパではナポレオン戦争が終結しつつあったが、今度は農作物の不作による食糧不足に苦しめられることになった。またナポレオンがワーテルローの戦いで敗戦に追い込まれた原因の一つは、この時の大雨であるといわれる。イギリスやフランスでは食料をめぐって暴動が発生しスイスでは政府が非常事態宣言を発令するに至った。食糧不足の原因は主要な河川の洪水をもたらした異常な降雨であり、1816年の8月には霜が発生した。ハンガリーには茶色の雪を降らせ、イタリアでも1年を通して赤い雪が降った。さらには、この大災害の時にコレラが初めて世界的に大流行したともいわれている。馬の飼料として利用されるエンバクの不足により、ドイツの発明家は自転車の原型を発明している。清では夏の異常な低気温により雲南省では稲作が壊滅的な被害を受け、広範囲にわたって飢餓が発生した。南部の江西省や安徽省、台湾においても夏に雪が降った。タンボラと夏のない年に関係があることに科学的な根拠をもってそれが証明されたのは比較的最近のことである。

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029 2023/03/30(木) 04:43:06 ID:sj5CXkd0wM
スペイン帝国(スペイン・ハプスブルク帝国)1516 - 1700
スペイン系ハプスブルク家は、1580年から1640年にかけてポルトガル王位を兼ね、ヨーロッパ大陸ではネーデルラントや南イタリアなどを属領とし、中南米やフィリピン、マカオ、マラッカ、ゴアおよびアフリカ大陸沿岸などの旧ポルトガル領などの海外植民地を含めて「太陽の沈まない国」を実現した。フェリペ2世の在位中に最盛期を迎えるが、1588年無敵艦隊の壊滅を契機としてその勢力は下り坂に入り、八十年戦争やフランス・スペイン戦争(1659年西仏戦争)に敗れてヨーロッパの覇権を失い、八十年戦争でスペインから独立したオランダや宿敵ブルボン家を擁するフランス、無敵艦隊を破ったイングランドなどの台頭もあって衰退

ポルトガル帝国 1415 - 1999 世界史上における長命な帝国のひとつ
大航海時代においてスペイン王国とともに活躍し、アフリカ・アジア・南米に広大な植民地を領有。遠洋航海に耐える船を改良して欧州最先端の海洋開発国に成長した。(1543年にポルトガル船が種子島に漂着)ポルトガルはスペインに併合こそされなかったものの、1581年から1640年の期間、スペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合の状態にあった(イベリア連合)。1808年にはナポレオン戦争から逃れ、最大の植民地ブラジルに宮廷を移した(ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国)。1821年に宮廷は本国に復帰したが、ブラジル帝国の独立を許すこととなった。1828年には王位継承をめぐってポルトガル内戦が勃発し、1834年まで続いた。以降も内政の混乱が続いて共和主義者が台頭し、1910年の共和政革命によって王国は消滅

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030 2023/03/30(木) 05:01:35 ID:sj5CXkd0wM
イスパノアメリカ独立戦争
イスパノアメリカのスペイン統治からの独立を目的とする一連の戦争。ナポレオン戦争中にフランスがスペインに侵攻した後に生起した。
遠因としては18世紀中期のブルボン改革により、スペイン本国による海外植民地帝国への支配が増し、イスパノアメリカとスペイン本国の関係が一変。経済においても教会の収入を支配しようとし、国王カルロス4世は統合法(Act of Consolidation)を発布、教会が貸した借金の返済を迫ろうとした。改革の成果は地域によって異なった。キューバ総督領、リオ・デ・ラ・プラタ副王領、ヌエバ・エスパーニャ副王領では成功して、現地経済と政府の効率が向上したが、それ以外の地域では現地民との緊張関係が生じ、ヌエバ・グラナダ副王領のコムネロスの乱やペルー副王領のトゥパク・アマルー2世の乱が勃発した。クリオーリョの高級官僚への道が閉ざされたことと、18世紀のスペイン領南米における反乱が数十年後の独立戦争の直接的な要因にはならなかったが、政治上の背景としては遠因となった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%...

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031 2023/03/30(木) 05:19:27 ID:sj5CXkd0wM
八重洲の地名の由来になったヤン・ヨーステンは、三浦按針とともに1600年豊後に漂着、五大老首座の家康にプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明し信任を得・・・
その頃からのオランダ
ベネルクス地方は神聖ローマ帝国の領域の一部で、毛織物産業や海上貿易により栄えていた。15世紀末からスペインを本拠とするハプスブルク家の領土(家領)となった。宗主国スペインによる重税政策に対する反発とともに、主に現在のオランダ地域を中心とするネーデルランド北部地方の宗教は利潤追求を求めるカルヴァン派が多数を占めていたため、カトリックを強制する宗主国スペインとの間で1568年にオランダ独立戦争が勃発した。しかし戦争の長期化により、カトリック教徒の多かった南部10州(現在のベルギーとルクセンブルク)は、独立戦争から脱落した。この八十年戦争の結果、1648年のヴェストファーレン条約で独立を承認された。17世紀初頭以来、ネーデルラント連邦共和国は東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪い、オランダ海上帝国を築いて黄金時代を迎えた。英蘭戦争に重なってオランダ侵略戦争が起こり、本土へ災禍をもたらした。しかしウィレム3世総督時代に、ルイ14世の出したフォンテーヌブローの勅令が中産ユグノーを共和国へ大挙亡命させた。彼らの力により、独立戦争からすでに卓越していた繊維・染料産業がさらに進歩した。加えてデルフトの陶器とアムステルダムのダイヤモンド加工も世界に知られた。ウィレム3世は名誉革命でイギリスへ渡った。フランス革命が勃発すると、革命軍が侵入しバタヴィア共和国が成立した。

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032 2023/03/30(木) 05:29:55 ID:sj5CXkd0wM
>>31続 バタヴィアは1806年、ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント(オランダ)王国に変えられた。さらに1810年フランスの直轄領として併合された。ナポレオン擁するフランスにより、オランダは一旦事実上の国体を失うが、1811年にイギリスがオランダ領東インドを制圧してから1815年にオランダが再独立を果たすまでの間、当時の商館長ドゥーフは出島のオランダ商館に旧オランダ国旗を掲げ続け「世界唯一のオランダ国」であったことでも知られる。1793年にネーデルラント連邦共和国がフランス革命軍に占領されて滅亡してから1815年ネーデルラント王国建国に至るまでの22年間、オランダの領土はこの地球上に存在していない。そのため1797年にオランダ東インド会社と傭船契約を結んだアメリカの船が出島に入港するようになり1799年にオランダ東インド会社が解散してもなおアメリカの船は1809年まで出島に入港して貿易を行った。ナポレオン戦争後のウィーン会議ではこれまでオーストリア領であった南ネーデルラント(現在のベルギー・ルクセンブルク)を含むネーデルラント王国が成立し、オラニエ=ナッサウ家が王位に就いた。オランダ全土の労働者人口と南ネーデルラント農民の大部分はカトリック信者であった。南ネーデルラントを統合しようとするとき、王に対しカトリックの聖職者はウィレム1世と憲法に反対した。オランダは残された東インド植民地(今日のインドネシア)で過酷な搾取を行った。1830年カトリックと自由主義者による独立戦争が起こる。1839年オランダはベルギーの独立を承認した。1873年(明治6年)には岩倉使節団がオランダを訪問。

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033 2023/03/31(金) 04:19:01 ID:mMSrVOdpKI
>>13
英緬戦争
19世紀は、まさに帝国主義が牙をむいた時期でした。18世紀の後半からイギリスを中心とした欧米諸国で産業革命が起き、工業力や国力が強くなっていきます。この国力を使い、欧米諸国はアジアに進出していき、最初に犠牲になったのはビルマ(現ミャンマー)でした。ビルマは中国では漢字で緬甸と書かれたので、略称は日本でも「緬」が用いられた。ビルマはイギリスと3度戦争をします。1回目が1824年~26年、2回目が約30年後の1852~53年、3回目がさらに30年後の1885年~86年です。この結果、コンバウン王朝はイギリスに徹底的にやられ、イギリス領インドに併合されました。ビルマは立派な国でしたが、完全に植民地になったのです。http://bbs58.meiwasuisan.com/world/1564840797/01...
 イギリスはフランスがビルマに進出しようとしていることに危機感をいだき、先手を打ってビルマを併合することを策した。1885年11月、イギリスは最後通牒を送ってイギリス=インド帝国の従属国となることを要求した。ビルマ王国がそれを拒否すると、ブレンダーガストの率いる1万人のインド兵をビルマ領内に侵入させ、11月28日にはビルマの首都マンダレーを占領し、翌1886年(明治19年)1月1日をもってビルマをイギリス=インド帝国に併合した。

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034 2023/03/31(金) 04:58:09 ID:mMSrVOdpKI
コーチシナ戦争 1858-1862
阮福暎(嘉隆帝)の全国制覇に貢献したフランス人宣教師ピニョー=ド=ベーヌ の活躍があり、ベトナム(阮朝)におけるフランスの優位は確立していた。しかし嘉隆帝の死後、阮朝は排外政策をとってキリスト教を迫害したため、フランスはスペイン人宣教師殺害事件を口実にスペインと共同で出兵、1858年にナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的として阮朝に遠征軍を派遣、まず中部のダナンに上陸し翌年サイゴンを急襲して武力占領。その後アロー戦争のために一時的な大規模撤兵があったが、1861年に再度フランス艦隊はサイゴンに上陸し、コーチシナ一帯を占領した。
1862年第1次サイゴン条約、コーチシナ総督府がフランスのベトナム侵略の拠点となる。
1874年(明治7年)第2次サイゴン条約でベトナムは事実上フランスの保護下に置かれることとなった。
一方、ベトナムに対する宗主権を主張する清朝は、阮朝・フランス間に結ばれた諸条約を承認せず、1884年清仏戦争となりフランスは勝利する>>16
1887年(明治20年)には新設のインドシナ総督の下で直轄領コーチシナ、保護国アンナン、保護領トンキンを含む仏領インドシナ(インドシナ連邦)が成立。

タイはラーマ5世の治世下、英仏の緩衝地帯として独立を保った。

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035 2023/04/04(火) 03:09:17 ID:vwcDaNjQ8c
ロシアは、13世紀半ばから200年あまりモンゴル勢力のキプチャク=ハンの支配下にありましたが、功績が認められて1328年に独立を果たしたのがモスクワ大公国でした。イヴァン3世(在位1462~1505年)が即位すると周辺諸国を次々に併合し15世紀にはキプチャク=ハンから自立を果たし「タタールのくびき」を終わらせます。1453年に滅亡したビザンツ帝国(東ローマ)の姪と結婚し、ビザンツ帝国の後継者を名乗るようになりツァーリという称号を使い始め、16世紀には国力も増し雷帝・イヴァン4世は恐怖政治を推し進め、ロシア型の絶対王政の基礎を築いていきます。またコサックの首領イェルマークにシベリア探検を命じ、シビル=ハンを征服します。(シビルはシベリアの語源)その後は帝国争い、農民反乱、ポーランドの侵入(ポーランド・モスクワ戦争(1605–1618)などがあり、この地は大混乱におちいりロシア人たちは結束し外敵に対抗するため全国会議を開き、皇帝に選ばれたのがイヴァン4世の姻戚にあたるミハイル・ロマノフで、ロマノフ朝(1613~1917年)が成立。次代アレクセイ、3代フョードル3世の下、国家の再建や失った国土を徐々に回復。1670年にはコサックの首領、ステンカ=ラージンが農奴政の強化に反発し、反乱を起しますが(ステンカ=ラージンの反乱)、ロマノフ朝はこれを鎮圧。その後にピョートル1世が1682年にツァーリ(皇帝)に即位。シベリアを東に向かい、先住民を支配下におき領土を広げ、1689年には清>>16と条約を結び、ユーラシア大陸東部の国境線を定めました。

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036 2023/04/04(火) 03:58:41 ID:vwcDaNjQ8c
>>35続 そして 北方戦争 はスウェーデンとの戦争で21年間も続くことになります。ピョートル1世はバルト海海域の覇権を持ち海の交易ルートを確保したかったのですね。この戦争のために基盤づくりとして行政改革や西欧化、海軍の創設なども行われ,勝利すると皇帝にあたる称号であるインペラトールを議会に要求し、以降ロシアは「ロシア帝国」を名乗るようになりました。ドイツ生まれの啓蒙思想の崇拝者エカチェリーナ2世(在位1762~1796、ピョートル3世の皇后→クーデタによって女帝)は近代化諸政策とロシアの南下政策を展開。1768年にロシア=トルコ戦争(第1次)を開始し、1774年にキュチュク=カイナルジャ条約でクリム=ハン国の保護権を獲得、次いで1783年にはクリム=ハン国を併合し、クリミア半島を領有した。1787年にはロシア=トルコ戦争(第2次)を再開してオスマン帝国と戦い、クリミア併合を承認、黒海はロシアの内海となる。また西側では1772年に第1回ポーランド分割に加わり、領土の拡張を図った。英植民地でアメリカ独立戦争が起こると、イギリスを圧迫するために1780年武装中立同盟を提唱してアメリカを助けた。東方にも関心を持ち続け、日本人漂流民大黒屋光太夫を送還するため1792年にラクスマンを根室に派遣、江戸幕府に開国を迫った>>3。1773年プガチョフの大農民反乱1775年に鎮圧。フランス革命勃発で農奴改革放棄。1793年対仏大同盟(第1回)に加わりフランス革命に干渉。また同年ポーランドで共和政的憲法が成立すると、大軍を派遣して介入しコシューシコらの民族運動を弾圧し、第2回ポーランド分割を強行した。

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037 2023/04/04(火) 04:01:08 ID:vwcDaNjQ8c
>>36続 19世紀オスマン帝国の混乱>>6の中で、帝国に支配されていたギリシア人やスラヴ人、アラブ人、エジプトなどでの民族独立が起きると、露英仏などの欧州列強が介入、ウィーン体制>>4を脅かす 東方問題 となる。1804セルビアの独立運動、1821ギリシア独立戦争、1831エジプト=トルコ戦争、1853クリミア戦争、1877露土戦争などが起こったが、19世紀後半に急速に力をつけたドイツのビスマルク>>22が調停した1878年のベルリン会議で一応の終結を見る。

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038 2023/04/14(金) 03:57:02 ID:bgefs8TQVI
パンデミック
中世の黒死病(腺ペスト) 14世紀-19世紀 おそらくは元末の中国からシルクロード経由でヨーロッパ全体に拡大
1813年 紅斑熱(リケッチア)ナポレオン大陸軍はロシア遠征から撤退した1813 年の秋,マインツに停泊中に流行。
1817年 コレラ最初のパンデミック インドで発生しアジア全域からアフリカに達し、1823年まで続いた。その一部は長崎から侵入し日本にも及んだ。2回目のパンデミックは1826年から1837年まで流行し、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。以降1840-1860、1863-1879、1881-1896、1899-1923と、計6回にわたるアジア型コレラの大流行があった。
1847年 腸チフス(サルモネラチフス)はカナダでの伝染病はアイルランド大飢饉による移民によって流行した。1899年にも南アフリカで流行
1862年 天然痘 北アメリカの太平洋岸で大流行、1870年には普仏戦争後のドイツで流行
1889年 ロシア風邪 ウズベキスタンのブハラで発生し、カナダのアサバスカやグリーンランド、サンクトペテルブルク、その後ヨーロッパ全域、アメリカ合衆国へと僅か4ヶ月で地球を一周。日本では1890年に流行し、お染かぜと呼ばれた
1894年 ポリオ バーモントのラトランドでアメリカ最初のポリオ流行。FDルーズベルト第32代米大統領は1927年ウォームスプリングスにリハビリセンターを設立

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039 2023/11/19(日) 01:56:41 ID:Xooq8DTAhs
040 2024/04/12(金) 23:55:39 ID:tSAud3pnts
明清交替1618-1683
明末期には、洪水、蝗害、飢餓、経済的混乱が見られ、陝西省では財政の失政により軍事駐留の撤去と重税に悩まされていた住民は盗賊や反乱に向かう
1618年、建州女真族の成り上がり指導者ヌルハチが満州の部族を統一し、明に宣戦布告し万里の長城を突破…
ー中略ー
1636年、後金が国名を清に改める。

1644年徳川家光の時代に南明からの救援の要請が日本にも来た。いずれも幕府は要請には応えなかったが情報収集が行われ、長崎奉行は唐船から集めた情報を唐船風説書という記録にまとめて幕府に報告した。

朝鮮は明と冊封関係にあったが、後金が明と戦う際には障害となった。解決策として後金は朝鮮を攻撃して明との関係を変更させた。

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042 2024/04/13(土) 18:50:56 ID:L/RVDJQPRo
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万暦帝  1572 - 1620
明末期の皇帝 10歳で皇帝となり、始めの十年は名宰相張居正の改革によって財政再建に成功し、国庫は潤うことになったが、その死後は再び放漫な宮廷財政に逆戻りし、たちまち国庫は底をついてしまった。
また、宦官の政治への介入が激しくなり官僚の反宦官派である東林派との激しい党争が始まった。周辺の諸民族の反乱、朝鮮半島への日本の豊臣秀吉の侵略(平秀吉・抗倭援朝戦争)に対する出兵など対外的な問題に加え、国内では抗租、奴変、民変などの社会問題が表面化し内外の困難が生じ、明の衰退がはっきりとしてくる時期であった。万暦帝のとき、1580年代から普及した、新しい税制である一条鞭法もそのような社会の変化に対応するものであった。

マテオ=リッチ/利瑪竇 1552 - 1610
イタリア人のイエズス会宣教師。明末に北京でカトリックの布教にあたり、西洋の科学技術を紹介
中国初の世界地図「坤輿万国全図」を作成し当時の中国人の世界観に大きな影響を与えた。

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043 2024/04/14(日) 00:38:52 ID:xPUF6C9Pak
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李 自成(1606-1645)は、明末の農民反乱の指導者。明に対して李自成の乱と呼ばれる反乱を起こして首都の北京を陥落させ、明を滅ぼした。順王朝(大順)を建国して皇帝を称したが、すぐに清に滅ぼされた。
李自成は餃子を毎日のように食べたという。「餃」の文字は「交」に通じ、「末永く」という意味を持っていた。そのため歴代皇帝たちは社稷が「細く長く」続くよう、春節にしか餃子を食べなかった。しかし李自成はそのしきたりを破り、毎日餃子を食べ続けたため、順朝はすぐに滅んでしまった。

少数派の異民族である満洲人の支配を、中国文明圏で圧倒的大多数を占める漢人が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐したという大義名分を得たことがあげられる。また、自殺に追いやられた崇禎帝の陵墓を整備し、科挙などの明の制度を存続させるなど、あくまで明の衣鉢を継ぐ正当(正統)な中華帝国であることを前面に出していた事も考えられる。

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044 2024/04/14(日) 00:45:40 ID:xPUF6C9Pak
満洲(マンジュ)とは女真が自らの民族名を言っていたことに始まる
清朝は故地である満洲の地を神聖なものと定め、後金後金時代の皇居(瀋陽故宮)がある満洲地域を特別扱いし、奉天府を置いて治めた。

当初は遼東招民開墾令をはじめとする勧民招墾の諸法令を公布し漢族の満洲植民を奨励していたが、1740年以降は封禁政策を取り漢民族が移入することを禁じた。
一方、17世紀以降、ロシア・ツァーリ国(のちロシア帝国)の東漸運動が顕著になり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が数度起きた(清露国境紛争)

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045 2024/04/14(日) 00:59:10 ID:xPUF6C9Pak
>>16
間島問題
満州と朝鮮の国境地域にあたり、満州を故地としていた清朝は同地への外地からの移住を禁止する「封禁」を宣言して、1712年に正式に自国領に編入した。ところが朝鮮人が李氏朝鮮の統治下の朝鮮半島から同地に移住して開拓していった。清朝は1882年に漢民族の同地への移住を許可すると、同地にあった朝鮮人の所有地の扱いを巡って清朝と李氏朝鮮(後の大韓帝国)が互いに領有を宣言して対立した。そこに沿海州に進出したロシア帝国、日露戦争後に大韓帝国を保護国化した日本も間島進出を図ったために問題が複雑化 →間島省

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046 2024/04/15(月) 00:13:55 ID:Utkjn8UEms
苦力(クーリー)は西洋の植民地アジア人奴隷。殆どの華僑、印僑の祖先
17世紀からアジアの労働者の輸入が始まりもともとインド人のそれを指す言葉であったクーリーは「苦力」の文字があてられて次第に中国人労働者を指す言葉となった。

1833 年に大英帝国全土で奴隷制度が廃止され、最終的に他のヨーロッパ諸国もこれに追随した。ヨーロッパの植民地でのプランテーションや鉱山などの労働集約的な仕事は、安価な労働力の供給源がないまま放置されていたが、この需要を満たすために、主にインド人と中国人の年季奉公労働者の大規模な貿易が1820年代に始まった。中国ではアヘン戦争の結果として締結された1842年の南京条約によって開国し、外国との自由貿易が始まり、さらにアロー戦争(第2次アヘン戦争)の結果として1860年に清朝がイギリス・フランスと締結した北京条約で、中国人の海外渡航が解禁となり中国人は安価な労働力として海外に出て行くこととなった。
アメリカ合衆国で黒人奴隷制が廃止され奴隷売買が出来なくなった後に、発展期に入った鉱工業や鉄道建設で労働力となったのが苦力(クーリー)で特に中国人移民が多かった。このような移民労働の流れは第一次世界大戦まで続きました。

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047 2024/04/15(月) 00:17:01 ID:Utkjn8UEms
アメリカ人の船長と現地代理人によって運営されるクーリー奴隷貿易は、主に債務奴隷制から成り、その生活条件が家畜と変わらなかったため、「豚貿易」と呼ばれ一部の船ではクーリーの40%が途中で死亡した。外国商人は、アヘン戦争後に清政府と西側諸国との間で取り交わされた不平等条約と、その結果として生じた政治的・経済的不安定を利用して、「契約」労働者の取引を仲介した。英語圏の資本家たちはアヘン貿易と中国人の捕虜労働を「毒と豚」と呼んだ。

1872年マリア=ルース号事件
明治5年、横浜に入港したペルー船から苦力が逃亡。日本側はペルー船の出港を禁止し中国人奴隷を解放した。開国間もない日本が直面した、最初の国際裁判の事例となった事件。

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048 2024/04/25(木) 23:22:52 ID:ldGrRieqfA
1858愛琿条約/アイグン条約
>>16 ネルチンスク条約以来、清国領だったアムール川の北側と沿海州に対し
アヘン戦争以降の清国内の混乱に乗じ、ロシアは軍艦で脅し外満洲を獲得

ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフが強く清朝に迫り、アロー戦争で窮地に立つ清は屈辱的な内容を呑まざるを得なかった。
清は後にこの条約を否認したが、1860年の北京条約で内容を追認し、さらに領土を失うこととなる。

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049 2024/04/25(木) 23:47:58 ID:ldGrRieqfA
1858年に締結されたアイグン条約では、清の領土だったアムール川左岸の外満洲はロシアに割譲されたが、黒河の対岸の「江東六十四屯」と呼ばれる地域には大勢の中国人居留民がいたため、アムール川左岸でもこの部分だけはロシア領ながら清の管理下に置かれることになった。

1900 庚子露難
義和団の乱と列強とを相手にしている清国側は満洲情勢に関わる余裕がないと考えたロシアは江東六十四屯の清国人居留民を一掃、清の支配は失われる
これらの事件と、これに続くロシアの東三省占領>>50
三国干渉以来高まっていた日本での対ロシア警戒感を一層高めることとなった。
江東六十四屯の崩壊は『アムール川の流血や』という題名の旧制第一高等学校の寮歌にも歌われることとなった。

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050 2024/04/26(金) 00:11:03 ID:IW.09JKOJQ
1902満洲還付条約
山東省から起こった義和団の勢力は、1900年6月以降は北京をこえて満洲方面にも拡大し、ロシアが1896年の露清密約で敷設権を得た東清鉄道への攻撃もなされるようになった。ロシアはこれに即座に反応し、皇帝ニコライ2世が進軍を命令、鉄道を守るため5万を超える兵士を派遣
帝政ロシアは7月3日、黒竜江に臨むロシア領ブラゴヴェシチェンスクにおける軽微な発砲事件を口実に戦闘を開始し、清国軍の抵抗を各地で撃破、(露清戦争)
8月3日にハルビン、8月27日にチチハル、9月28日に遼陽、10月2日に奉天をそれぞれ制圧し、またたく間に満洲全土を占領→ 1900満洲に関する露清協定
 義和団の乱後も満洲に駐兵を継続したことについて、他の列強や清国から批判を受けたロシアが、満洲からの撤退を3度にわたっておこなうことなどを清国との間で取り決めた条約。

ロシアの満洲占領に対し、日本は相互に満洲と韓国の完全確保を認め合う「満韓交換論/日露協商論」を考えるようになったが、仮に日露協商が成立しても長続きせずロシア側がこれを破棄することは確実で→1902年日英同盟
1903年8月、日本はロシアに満韓交換論を提示したが、軍事的に勝るロシアはこれを拒否したばかりでなく、エヴゲーニイ・アレクセーエフ極東総督らは、朝鮮半島を南北に分け、南側を日本の勢力下に、北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案を突きつけてきた。
翌1904年日本はロシアと国交を断絶。満韓交換論は完全に消滅し、日露戦争へと向かうこととなった。

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052 2024/04/27(土) 13:43:16 ID:tSAud3pnts
>>10
後金社会の3つの主要な民族以外に、シベ族、ダウール族、ナナイ族、エヴェンキ族(ソロンなど)など、他にも多くの小規模な民族グループがありました。
清朝以前は、各グループは著しく異なる文化と言語/方言を持っていました。

添付図は G. ルチンスキー16 世紀地図

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053 2024/05/09(木) 23:46:36 ID:e44F4bCe9A
科学的人種差別(奴隷制の正当性根拠)
WW2後、理論と行動における科学的人種差別は、特にユネスコの初期の反人種差別声明「人種問題」(1950年)で正式に非難された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Scientific_racis...

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054 2024/05/17(金) 09:03:29 ID:ud.5wMrxYI
>>46
土客械闘(とかくかいとう)とは客家と本地人との対立を指す。広東省・広西省・福建省・江西省・湖南省・台湾などで発生した。類似の対立構造は明朝中期から見受けられるが、衝突の大部分は清末に発生した。>>8
 珠江デルタの客家人たちは、清軍による天地会蜂起の鎮圧に協力した。清軍は蜂起の参加者を完全に掃討するため、本地人の村を襲撃することを決定。これにより客家と本地人の対立は一層激化し、本地人たちは復讐のために客家人の村を襲撃した。村は守りを強化し、男たちは敵との戦いに集結した。戦闘は大規模な紛争に発展した。本地人の人口が客家を圧倒していたために、客家側の被害は甚大であった。清は矛盾の解決のために客家を分離する政策を取り、客家を広西省に再移住させた。その結果、五邑の客家の割合は3%にまで落ち込んだ。また敗北した客家人たちは、香港とマカオを経由して南アメリカやキューバに向けた苦力として人身売買の対象となった。客家と本地人の対立は、海外の華人社会では20世紀前半まで見受けることができた。

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055 2024/05/20(月) 09:55:58 ID:oe/5vKUx26
>>52
ロシアは自分の国の国境がもともと、どこであったのか自分でも分からない。それほど侵略を続けて大きくなった。領土の一部でも返すことになれば、世界各国から返還の要求が出て手がつけられなくなる。
ヘンリー・キッシンジャー

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056 2024/05/20(月) 10:00:37 ID:oe/5vKUx26
中露国境
 

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057 2024/07/17(水) 05:43:28 ID:wOMvEVxKhc
Japan has ALWAYS had a high population (relatively).
In 1800, Japan had 29 million people similar to Russia or France (some of the most populated countries on earth).
In 1940, Japan was at about 72 million compared to Britain at 48 million and Germany at 69 million.
Sure there was a huge growth after WW2 (but also, Japan was no where near as developed as Germany or Britain, economically).
Japan has been one of the most populated countries in the world since at least 1800. Even going as far back as 1600, the Tokugawa Shogunate was more populated than Russia, or the Polish-Lithuanian commonwealth. It had 13 million people compared to 8 million in Spain, 4 million in England and 9 million in Russia.
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_popu...
http://pandora11.com/blog-entry-5023.htm...

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058 2025/05/25(日) 12:40:06 ID:lcZshg8v4M
18世紀初頭までのヨーロッパ内での勢力均衡は、ブルボン家とハプスブルク家の間の大きな利害対立をイタリアで調整することによって成り立っていた。中世以来分裂傾向にあったイタリア半島をヨーロッパの辺境と位置づけ、イタリア半島すべてを直接支配する勢力を排除することにより、この辺境で局地的な勢力均衡を実現して利害を調整し、全ヨーロッパ的な勢力均衡を保っていた。

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059 2025/05/25(日) 12:53:44 ID:lcZshg8v4M
>>58 バルカン半島のオスマン帝国領は1699年のカルロヴィッツ条約以降縮小・解体に向かい、それに伴ってこの地域へのオーストリアとロシアの進出が始まり、また1821年以降のギリシャの独立運動などに代表されるように、バルカン諸民族が独立に向けて活発化するようになる。オスマン帝国治下のバルカン半島の民族分布は複雑に錯綜しており、これらの民族が国民国家を形成しようとする場合、その領域の決定には民族問題が不可避に関わる状況であった。このような状況に際し、ヨーロッパ列強はバルカン半島の紛争に介入して、一国がオスマン帝国との外交関係において「一人勝ち」する構造を排除することで、各国の利害を調整しパワーバランスの維持に努めた。またオスマン帝国側もヨーロッパの国際関係を利用して自国の領土と利益を守るために主体的に外交紛争に関わった。これら「東方」の状況は、同時に、ヨーロッパ諸国自体の政策に影響する側面も持ち、とくに1853クリミア戦争は各国の政治・経済状況に顕著な影響を及ぼした。→東方問題

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060 2025/05/25(日) 13:00:04 ID:lcZshg8v4M
「東方問題」の期間には、1789年のフランス革命とその後のナポレオン戦争の進展により国民主義の風潮が全ヨーロッパに波及し、国民国家を求める意向を無視してイタリアを分裂状態にとどめておくことは困難になってきた。ハプスブルク家オーストリアの従来の政策は、バルカン・東欧方面への拡大と中欧・南欧(ドイツ・イタリア)方面への拡大との二方面の選択肢があった。しかし、イタリアでは国民主義の運動がオーストリアの影響力の排除を望むかたちとなって現れ、ドイツ方面への進出にはプロイセンという有力な対抗勢力が存在した。結局はドイツ帝国成立(1871年)によりオーストリアはドイツの統合からはずされ、最終的にアウスグライヒ体制(すなわちオーストリア・ハンガリー帝国、1867年成立)を形成するといったように、この時期を通じて東欧の大国を目指す路線が徐々に明確となった。

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061 2025/05/25(日) 13:14:21 ID:lcZshg8v4M
一方で、17世紀後半からピョートル1世のもとで近代化政策を推し進めたロシアは、大北方戦争での勝利者となり(1721年)、積極的に黒海への南下を図り、同時にドナウ川沿岸にも影響を及ぼそうとしていた。このことが、「東方問題」の時期には、同地域に影響を拡大しようとしていたオーストリアとの利害対立を生じさせた。またこの期間、イギリスは自国と植民地インドを媒介する地中海経路を確保しようとしており、伝統的に地中海に大きな影響力を保持しているフランスはイギリスと対立する傾向にあった。このようなヨーロッパの状況を背景に、オスマン帝国の支配領域をめぐって「東方問題」という外交問題が発生した。「東方問題」が顕在化するのは、ロシアが黒海沿岸のアゾフをめぐってオスマン帝国と交戦した1736年露土戦争である。この戦争では、ヨーロッパの勢力均衡が著しく損なわれるのを防ぐために紛争の当事者以外が「東方」をめぐる紛争に介入するという「東方問題」の基本的な構造が現れた。以後「東方」をめぐる数々の紛争の解決にあたって、オスマン帝国とヨーロッパ列強との外交によってヨーロッパの勢力均衡を実現するという構造が見られるようになり、「東方問題」はヨーロッパ近代外交の主要な一角を形成した。

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062 2025/05/25(日) 13:24:13 ID:lcZshg8v4M
ギリシャ独立戦争(1821年~)では、各国政府が当初介入に消極的であったのにもかかわらず、世論の後押しによって主要な政治問題に発展した。「東方問題」が最も活発化した時期と考えられるのがクリミア戦争(1853年~)で、「東方」において英仏とロシアは全面的に軍事衝突し、これが戦後のヨーロッパの政治状況にまで大きな影響を及ぼすこととなった。1878年のベルリン会議によって列強間の利害問題としての「東方問題」に一応の決着がつけられ、1880年代のヨーロッパは「ビスマルク体制」のもとで一応の安定がもたらされたかに思われた。しかし実際にはバルカン諸民族はこのベルリン会議の決着に納得しておらず、バルカン半島は紛争の火種を抱えて「ヨーロッパの火薬庫」でありつづけた。

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063 2025/06/16(月) 01:19:58 ID:F6HLHV7qUg
>>5
Sundown towns(sunset towns, gray towns, sundowner townsとも)は
米国における白人だけの自治体または地区を指す。差別的な地方法、脅迫、暴力などを用いて非白人を排除する、一種の人種隔離政策を実施していた町である。1950年代以前に最も蔓延していた。この用語が使われるようになったのは、「有色人種」に対し日没までに町を去るよう指示する標識があったためである。サンダウン郡とサンダウン郊外も創設されました。 1968年の公民権法成立に伴い、サンダウン法は違法となりましたが、一部の評論家は、21世紀の特定の慣行がサンダウンタウンの修正版を存続させていると主張しています。これらの現代的な慣行には、地方警察や保安官事務所による人種プロファイリング、公共芸術の破壊行為、民間人による嫌がらせ、ジェントリフィケーションなどが含まれます。
 差別的な政策や行動によって、サンダウンタウンと、人口統計上の理由で黒人住民がいない町が区別される。歴史的に、新聞記事、郡の歴史、公共事業促進局のファイルによって、サンダウンタウンであることが確認されてきた。この情報は、税務記録や米国国勢調査記録によって裏付けられており、黒人が存在しない、あるいは2回の国勢調査の間に黒人人口が急激に減少していることが示されている。

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064 2025/06/16(月) 01:46:18 ID:F6HLHV7qUg
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Nadir of American race relations/アメリカの人種関係のどん底
アフリカ系アメリカ人の歴史、そしてアメリカ合衆国の歴史において、1877年のレコンストラクション(南北戦争で奴隷制のシステムが崩壊した後の問題解決期を意味する米国史の用語)の終わりから20世紀初頭までの期間であり、この期間には、国内の人種差別、特に黒人に対する人種差別が、国家史上他のどの期間よりも公然と、そして顕著に表れた。この期間中、アフリカ系アメリカ人はレコンストラクション中に獲得した公民権の多くを失い、黒人に対する暴力、リンチ、人種隔離、合法化された人種差別、そして白人至上主義の表現はすべて増加した。アジア系アメリカ人とヒスパニック系アメリカ人もまた、こうした感情から逃れられなかった。
 2006年ジェームズ・W・ローウェンの見解では、真のどん底は、1890年頃に北部の共和党員が南部の黒人の権利支持をやめたときに始まり、1941年に米国が第二次世界大戦に参戦するまで続いた。この期間は、1873年の金融恐慌と綿花価格の継続的な下落に続き、金ぴか時代と進歩主義時代の両方と重なり、全国的なサンダウンタウン現象によって特徴づけられ、いわゆる黄禍論への恐怖から生じた反中国人差別、より広範な反アジア人差別の最悪期でもあった。これには、チャイナタウンやデンバーの破壊などアメリカ西海岸での嫌がらせや暴力、またカナダにおける反アジア人差別、特に1882年の中国人排斥法の可決後の

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065 2025/06/24(火) 02:51:40 ID:bf.DBedy2c
1726年に初版が出版された、ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』には日本が登場する。
日本とオランダは常に対照性を成して描かれており、18世紀初頭、農業国から通商国家へと変貌を遂げつつあったイギリスのあるべき姿を、これら両国がいわば陽画と陰画として示している。16世紀半ばの鉄砲伝来、キリスト教の布教から、1639年の南蛮(ポルトガル)船入港禁止による鎖国の完成に至るほぼ1世紀の間、西洋の文物は日本に盛んに流入した。イエズス会士の宗教的熱情に負う部分が大きく、その受容のレベルはかなりのものであったが、本作に先行する1669年アルノルドゥス・モンタヌスの『日本誌』(『東インド遣日使節紀行』)において日本人のキリシタン迫害の残酷さは強烈に印象付けられており、ヨーロッパ中心史観からすれば受け入れにくいことに、イエズス会の宣教にもかかわらずキリスト教化することのなかった日本が、戦国時代の内戦を乗り越え精緻な政治体制を築き上げ、キリスト教を禁じ弾圧までしていた江戸幕府の要求をオランダは日本との貿易を確保するために、次々と受け入れていた。『ガリヴァー旅行記』の日本人は海賊であっても、信義を守り、寛容でもあるように描かれ、貿易がもたらす社会の変化を、徹底的に通商を管理することで防ぎつつ、貴重な情報や物品だけを受け入れることで日本の鎖国政策は成功していた。

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066 2025/06/24(火) 02:59:09 ID:bf.DBedy2c
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第3篇の冒頭では、海賊船の一味として率先してガリヴァーらを傷つけようとするオランダ人にたいして、異教徒であり一般には残酷で且つ執念深いということにされている日本人船長が寛大さを示す図式が描かれ、しかも、この旅行記は長崎のあらゆるオランダ人は貿易のために合法的に来ている者であろうとなかろうと皆「踏み絵」をさせられていたことを前提としている。スウィフトが「日本」や「日本人」を用いたのはオランダ人に対する諷刺を強力にするためだと考えられ、第3巻の最後に日本を訪れたガリヴァーは、自分は遠い遠い世界の果てで難破して自力でラグナグまではやって来たオランダ商人だと名乗るが、オランダ人と同様に課せられる踏絵の儀式を前に皇帝に踏み絵を免除してもらうように嘆願する。すると皇帝はそのような申し出をするのはガリヴァーが初めてであり、おまえは本当にオランダ人なのか、キリスト教徒ではないのかと不審がるが、ラグナグ王の親書などで免除される。これは明らかに、商売のためなら信仰を平気で犠牲にするオランダ人に対する皮肉と見られ、おそらくイギリスの膨張的海外進出すら諷刺しているものと思われる。さらに、その行に関しては「イギリス人による一般的な反オランダ表象ではなく、またもちろん、スウィフトの反オランダ的意図による創作でもなく、むしろ、オランダ人自身の「そんなことで尻込み」しない自国民の勇気を讃えた記述をそのままなぞる形」であるという解釈もある。

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067 2025/06/24(火) 03:03:12 ID:bf.DBedy2c
江戸で将軍との拝謁を許されたガリヴァーは護衛をつけてもらいNangasac(長崎)へ移動、そこからオランダ船に乗って帰国し、日本から帰国するガリヴァーが乗った船の名が、1623年にアンボイナ事件の起きた土地であるアンボイナ号 (the Amboyna)と名付けられている。これはイギリスが海洋国家へ進むならば嫌悪すべきオランダを真似なければならず、対照的に貿易によらずして繁栄している日本は明らかにイギリスが進むべき方向ではありえない、実現不可能な理想郷、文字通りのユートピア(どこにもない場所)で、『ガリヴァー旅行記』に描かれた日本は、他の架空の国同様、18世紀ヨーロッパにとっての日本のイメージを集めて、オランダのイメージと対立するものとして構成されたものであることを表現している。

最後にガリバーは『旅行記』を書いて出版した目的を語る。「親愛なる読者よ、わたしの十六年七ヵ月あまりにわたる旅の忠実な記録をここにお届けしよう。文章を飾るより、まず真実のみを語ることに重点を置いたつもりだ。ほかの旅行家たちのように、とうてい本当とは思えない不思議な話ばかりを並べれば、読者を驚かせることもできただろう。だが、わたしはありのままの事実を飾らずに記録する道を選んだ。読者を楽しませることではなく、真実を伝えることが主たる目的だったからだ。」

『ガリヴァー旅行記』は、アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトにより、仮名で執筆された風刺小説である。原版の内容が大衆の怒りを買うことを恐れた出版社により、大きな改変を加えられた初版が1726年に出版され、1735年に完全な版が出版された。

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068 2025/06/24(火) 03:12:03 ID:bf.DBedy2c
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18世紀のヨーロッパでは、外国語作品の翻訳がますます普及しました。仏↔英語は一般化し特にアラビア語からギリシャ語まで、ほぼすべての主要言語で書かれた作品も同様に急増しました。スクリブレス・クラブは18世紀初頭に結成されたロンドンを拠点とする作家たちの非公式な団体で、その中核の人物にジョナサン・スウィフトが居ました

スウィフトは駐オランダイギリス大使を務めたこともあるウィリアム・テンプル の秘書を1690年代に務めていたことがあり、オランダ経由の日本情報を得ていた可能性が指摘されている。

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069 2025/07/03(木) 00:00:23 ID:wdMDwW2ZmY
国際通貨制度の歩み 国際金本位制が成立するまで
国内取引や国際取引に,各地域の多様な金属貨幣が,金銀の純度に応じ,そのときどきの金銀比価・相場によって使われた。そのほかに政府紙幣,中央銀行券,一般銀行の預金通貨も使われるようになった。
金本位制は,まず英国で,ナポレオン戦争が終わってしばらくした1816 年,戦費増大による正貨流出の恐れがなくなってから成立した。ついで1871 年,ドイツが,普仏戦争で得た賠償金をもとに金本位制に踏み切り,ドイツと密接な貿易関係にある北欧諸国が続いた。米国では南北戦争中に停止されていた金兌換が,1879 年に再開された。日本はドイツと同じ1871(明治4)年に新貨条例によって,形式は金本位制になった。日清戦争での賠償金をもとに,ちゃんとした金本位制になったのは1897(明治30)年10 月である。そして現在までの国際通貨制度の推移は,表1 のとおりで、金本位制は,第1次世界大戦で中断された。再建されたが,世界大恐慌を生み出した。景気回復のためには,金本位制を停止して,管理通貨制度に移る必要があった。しかし各国は,輸入を抑え,輸出を伸ばそうとして,為替切り下げ,関税引き上げを競い,第2 次世界大戦を招いた。こうしたことを反省して,ブレトンウッズ体制がつくられた。国内は,景気変動の緩和と完全雇用を目指す管理通貨制度,そして国際は,ドルに固定した為替相場で管理,というわけである。ところが,ドルがばらまかれて信用を失い,変動相場制になり,再建された固定相場制も成功せず,再び変動相場制に戻って40 年,今なお為替の競り合い(関税も)やマネーの暴走などが続いている。

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070 2025/07/03(木) 18:36:55 ID:wdMDwW2ZmY
>>69 兌換性(だかんせい、Convertibility)
が最初に重要な問題となったのは、貨幣供給において紙幣が実物貨幣に取って代わり始めた時期である。金本位制と銀本位制の下では、紙幣は額面どおりの価値で硬貨と交換できたが、破綻した銀行や政府は、準備金を過剰に保有することが多い。歴史的に見ると、銀行券は西欧諸国で共通の、あるいはよく似たパターンをたどってきた。もともと分散化され、さまざまな独立銀行から発行されていた紙幣は、次第に国家の管理下に置かれ、中央銀行の独占的特権となった。その過程で、銀行券は実物貨幣(金や銀)の代用品に過ぎないという原則は徐々に放棄されていった。金本位制のもとでは、たとえばブレトンウッズ体制の下では、発行銀行は自国通貨を金地金、または米ドルに交換する義務を負い、米ドルは1トロイオンスあたり35ドルの公定レートで金地金に交換できた。金準備の増加には限界があり、ドル供給が大きくインフレしたため、米国は1974年に金為替本位制と金地金兌換bullion convertibilityを廃止した。
現代の国際通貨体制では、通貨は発行者(政府や中央銀行)の不換紙幣に基づいて発行され、有形資産への兌換は保証されていない。

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