近代東アジアを明治年号で鑑みるスレ


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035 2023/04/04(火) 03:09:17 ID:vwcDaNjQ8c
ロシアは、13世紀半ばから200年あまりモンゴル勢力のキプチャク=ハンの支配下にありましたが、功績が認められて1328年に独立を果たしたのがモスクワ大公国でした。イヴァン3世(在位1462~1505年)が即位すると周辺諸国を次々に併合し15世紀にはキプチャク=ハンから自立を果たし「タタールのくびき」を終わらせます。1453年に滅亡したビザンツ帝国(東ローマ)の姪と結婚し、ビザンツ帝国の後継者を名乗るようになりツァーリという称号を使い始め、16世紀には国力も増し雷帝・イヴァン4世は恐怖政治を推し進め、ロシア型の絶対王政の基礎を築いていきます。またコサックの首領イェルマークにシベリア探検を命じ、シビル=ハンを征服します。(シビルはシベリアの語源)その後は帝国争い、農民反乱、ポーランドの侵入(ポーランド・モスクワ戦争(1605–1618)などがあり、この地は大混乱におちいりロシア人たちは結束し外敵に対抗するため全国会議を開き、皇帝に選ばれたのがイヴァン4世の姻戚にあたるミハイル・ロマノフで、ロマノフ朝(1613~1917年)が成立。次代アレクセイ、3代フョードル3世の下、国家の再建や失った国土を徐々に回復。1670年にはコサックの首領、ステンカ=ラージンが農奴政の強化に反発し、反乱を起しますが(ステンカ=ラージンの反乱)、ロマノフ朝はこれを鎮圧。その後にピョートル1世が1682年にツァーリ(皇帝)に即位。シベリアを東に向かい、先住民を支配下におき領土を広げ、1689年には清>>16と条約を結び、ユーラシア大陸東部の国境線を定めました。

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