近代東アジアを明治年号で鑑みるスレ


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036 2023/04/04(火) 03:58:41 ID:vwcDaNjQ8c
>>35続 そして 北方戦争 はスウェーデンとの戦争で21年間も続くことになります。ピョートル1世はバルト海海域の覇権を持ち海の交易ルートを確保したかったのですね。この戦争のために基盤づくりとして行政改革や西欧化、海軍の創設なども行われ,勝利すると皇帝にあたる称号であるインペラトールを議会に要求し、以降ロシアは「ロシア帝国」を名乗るようになりました。ドイツ生まれの啓蒙思想の崇拝者エカチェリーナ2世(在位1762~1796、ピョートル3世の皇后→クーデタによって女帝)は近代化諸政策とロシアの南下政策を展開。1768年にロシア=トルコ戦争(第1次)を開始し、1774年にキュチュク=カイナルジャ条約でクリム=ハン国の保護権を獲得、次いで1783年にはクリム=ハン国を併合し、クリミア半島を領有した。1787年にはロシア=トルコ戦争(第2次)を再開してオスマン帝国と戦い、クリミア併合を承認、黒海はロシアの内海となる。また西側では1772年に第1回ポーランド分割に加わり、領土の拡張を図った。英植民地でアメリカ独立戦争が起こると、イギリスを圧迫するために1780年武装中立同盟を提唱してアメリカを助けた。東方にも関心を持ち続け、日本人漂流民大黒屋光太夫を送還するため1792年にラクスマンを根室に派遣、江戸幕府に開国を迫った>>3。1773年プガチョフの大農民反乱1775年に鎮圧。フランス革命勃発で農奴改革放棄。1793年対仏大同盟(第1回)に加わりフランス革命に干渉。また同年ポーランドで共和政的憲法が成立すると、大軍を派遣して介入しコシューシコらの民族運動を弾圧し、第2回ポーランド分割を強行した。

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