近代東アジアを明治年号で鑑みるスレ


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001 2023/02/22(水) 04:01:10 ID:gUqleeTtgI
https://sekainorekisi.com/japanese_history/%E5%88%97%E5%...
明治元年は1868年1月25日 – 1869年2月10日
明治時代は海外ネタメインで、国内ネタは江戸時代(マイナス年号)や大正期~昭和20年あたりまで
なお 旧暦→明治改暦 とか 0年という年は存在しない 件もあるので1年ぐらいのズレは気にしない事にする

では最初に
明治-40年 化政文化 江戸時代後期に発展した町人文化:浮世絵、歌舞伎、天保の改革、遠山の金さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E6%94%BF%E6%96%...

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002 2023/02/22(水) 04:14:20 ID:gUqleeTtgI
003 2023/02/23(木) 01:22:23 ID:t8zrK8JmBM
明治ー65年 ロシア初の世界一周 https://en.wikipedia.org/wiki/First_Russian_circumnavig...
 主な目的は、ロシアと日本の間、およびロシアの毛皮を取引するための中国の港との外交および経済関係を確立

文化元年(1804年)レザノフが長崎に来航し、半年にわたって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至り、日本への報復を計画し、樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させた。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフは、文化3年(1806年)には樺太の松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した → 文化露寇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E9%9C%...

この事件は化政文化の一見泰平にみえる日本であらためて国防の重要性を覚醒させる事件となった。江戸幕府の首脳はロシアの脅威を感じることとなり、以後、幕府は鎖国体制の維持と国防体制の強化に努めた。また日露関係の緊張によって幕府は自らの威信を保つためにも内外に対して強硬策を採らざるを得なくなった。このことは1811年のゴローニン事件の原因とな

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004 2023/02/23(木) 02:02:28 ID:t8zrK8JmBM
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>>3 この頃の欧州
1804 フランス第一帝政 ナポレオン1世の戴冠式
1812 ナポレオン ロシア遠征 https://ja.wikipedia.org/wiki/1812%E5%B9%B4%E3%83%AD%E3...
1815 ワーテルローの戦い 復古王政
1830 7月革命、王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された
1848 革命はヨーロッパ各地で起こり、ウィーン体制の崩壊を招いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%...

1827 ベートーヴェン死去

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005 2023/02/23(木) 02:25:31 ID:t8zrK8JmBM
>>3 この頃のアメリカ
1823 モンロー主義演説 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%...
1830 インディアン移住法を可決
1836 西方への拡張 OK 新単語が急速に広まる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%...

1861 南北戦争

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006 2023/02/24(金) 01:09:05 ID:5Y8eFKsbK6
>>4 この頃のオスマン帝国
17世紀 オスマン帝国の最盛期、最大版図を築く
18世紀末に入ると、ロシア帝国の南下によってオスマン帝国の小康は破られ~
19世紀半ば、ヨーロッパ列強の軍事的・政治的圧力、欧州金融資本のバルカン半島進出、ギリシャやエジプトなど帝国領の諸地域・諸民族の自立・離反という「内憂外患」のなかでおこなわれた一連の西欧化・近代化政策であり、1839年から1876年までを「タンジマート期」と称する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%...

ベートーヴェンの「トルコ行進曲」は1811年秋から1812年にかけて作曲された

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007 2023/02/24(金) 01:22:43 ID:5Y8eFKsbK6
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>>3 この頃のアフリカ
19世紀に入るとヨーロッパ諸国は手のひらを返したようにアフリカに対する接触の仕方を変化させた。産業革命を迎え、人格を拘束する奴隷制は次第に時代遅れになり、自らの意思で労働力を切り売りする労働者が求められる時代へと変革していった。ヨーロッパの都合で激化した奴隷貿易はヨーロッパの都合により次第に終息し、アフリカ人不在のまま、植民地化の時代へと突入していくこととなった。

1807 イギリス議会で奴隷貿易法が成立し、イギリス帝国全体での奴隷貿易を違法と定めた
1833 奴隷制度廃止法が成立し、イギリスの植民地における奴隷制度を違法とした
1862 アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが南北戦争中に連邦軍の戦っていた南部連合へ奴隷解放宣言

1869(明治元年) フランスはエジプトと協力してスエズ運河を完成 アフリカ大陸を回らずにヨーロッパとアジアを海運で連結
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%...

1884(明治17年) ベルリン会議 列強による「アフリカ分割」原則を確認

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008 2023/02/25(土) 09:40:17 ID:GNW20V5QAY
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清の最盛期の3皇帝 1661 - 1722 第4代 康熙帝、1722-1735 第5代 雍正帝、1735-1795 第6代 乾隆帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85#%E6%B8%85%E3%81...
第6代 乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見え始めた。
乾隆帝、第7代嘉慶帝の二帝に仕えた軍機大臣のヘシェン(hešen、和珅)は、清朝で最も堕落した官僚の一人で、厳しい取り立てに住民が蜂起した 白蓮教徒の乱(1796-1804) が起こったが、乾隆帝の崩御後、親政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれた(賜死)。このとき鎮圧に動員された 郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団が、太平天国の乱(1851)で湘軍に組織化されて曽国藩・李鴻章・左宗棠のもとで軍閥化していくと共に、不満を持つ将兵は哥老会などに流れて三合会などと辛亥革命(1911)を支える組織になっていった。

当時、清は世界のGDPのうち3割を占めるほど豊かな国家で、ヘシェンは世界一の富豪であったと考えられる。
恭王府は1777年につくられたヘシェンの邸宅 http://pingshan.parfait.ne.jp/honglou2/trip5.htm...

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009 2023/02/26(日) 01:18:35 ID:MTrHuv9oxw
北宋代に1億を超えたと言われる人口は増減を繰り返し、順治帝期の1651年の戸籍登録人口は約5300万、康熙帝期の1685年には約1億1000万、1700年に1億5000万、乾隆帝期の1765年には2億、1770年から1780年にかけて2億8000万、1790年に3億、19世紀前半のアヘン戦争直前の1833年に4億を突破した(数字は全て推定)。

新大陸原産の作物は水がそれほど豊富でなくとも痩せた土地で育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢人が進出できるようになった。
溢れる人口は領内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来漢人の居住地ではない所にも進出し、牧草地や山地を農地に変えていった。更に陸地だけでも収まり切らず、明代から出現していた華人が激増する事になる。また、17世紀以降の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加したこともアヘンの蔓延を助長させた。

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010 2023/02/26(日) 01:33:17 ID:MTrHuv9oxw
明代から引き続いて全国的に手工業が大いに盛んであり、絹織物・綿織物に加えて鉄の加工販売が盛んとなり、増大する人口と農地に必要な農具が大量に作られた。

陶磁器の分野では景徳鎮は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵・染付などの生産が行われた。しかし乾隆(第6代 )以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣るとされる

景徳鎮は古くから陶磁器の生産地として有名で、当時、ヨーロッパでは陶磁器の生産方法がわからず、陶磁器は貴重な芸術品として愛され大量にヨーロッパに輸出された   
https://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_export_porcelai...

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011 2023/02/26(日) 02:14:48 ID:MTrHuv9oxw
世界初の紙幣は宋の交子とされ、唐の時代から飛銭と呼ばれる手形が流通していたが、宋になると鉄貨が流通する四川において鉄貨の預り証である交子が発行された。
四川での成功を知った宋政府は、仁宗時期に交子の発行を官業とし、民間の発行を禁止した。交子は手形から紙幣に変わり、政府は本銭や発行限度額を定めて官営の交子を流通させた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E5%AD%9...
 紙幣の存在は、中世ヨーロッパやイスラーム世界の外来者(マルコ・ポーロやペゴロッティ、イブン・バットゥータ)を驚かせた。

中国では明の洪武帝治世下で金銀貨幣の使用が禁止され、1375年には通貨は大明宝鈔という紙幣に切り替えられ、額面1貫文が銀1両=米1石に相当するとされたが、永楽帝の頃には戦費捻出のために濫発され大きく価値を下落させた。明代中期以降は秤量貨幣(そのつど秤で重さを量る貨幣)としての銀(馬蹄銀)が主要な通貨となっていく。

16世紀半ば以降、新大陸から持ち運ばれた銀によって、価格革命が起き、全ヨーロッパの銀価が下落した。

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012 2023/02/26(日) 05:32:19 ID:MTrHuv9oxw
互市(ごし)とは、中国の歴代王朝が国境地点にもうけた公認の対外交易場である。
漢代には、互市で南越や匈奴、鮮卑と交易を行っていたことが確認されている。唐代では、対外貿易を行う海港を市舶とし、港における互市を管理させた。
明朝は当初、海禁政策を取り、朝貢によらない私貿易を厳禁した。日明貿易で行われた勘合貿易は、中国側にとっては朝貢貿易の一環であった。しかし16世紀後半になると後期倭寇により海禁政策は行き詰まり、朝貢によらない私貿易を容認した。これは次の清朝にも引き継がれ、朝貢体制の外側に、外交を伴わない形での互市体制が作られることになる。

広東システムは、中国の清朝中期から後期(1757年 - 1842年)における、清国とヨーロッパ諸国(のちに米国も加わる)との間で行われた貿易管理体制である。ヨーロッパ商人との交易を広東(>>10広州)1港のみに限定し、独占的商人を通じて行った貿易体制であり、日本の江戸時代のいわゆる「鎖国」体制における長崎出島での管理貿易体制(長崎貿易)と類似する。従来の中華帝国の交易スタイルであった「朝貢」貿易の一形態と見なされることも多いが、実際は朝貢形式の儀礼コストを省略し、広州現地における商人どうしの通商行動を重視した「互市」システムと理解する方が的確である。

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013 2023/03/07(火) 08:58:02 ID:ALJfroTbhw
東南アジアの植民地化
1511年- マラッカ王国(現:マレーシア)をポルトガルが征服し、東南アジアにおけるポルトガル海上帝国の拠点ポルトガル領マラッカとした。
1529年- スペインはのサラゴサ条約で、ポルトガルにフィリピンの領有を認めさせた。
1623年- アンボイナ事件 ポルトガルが独占していた香料貿易をオランダが駆逐し、イングランドも1615年に進出して激しく競争した。事態を収拾するため、英蘭両国の政府は1619年に協定を締結したがオランダの現地当局はこれを無視して取引を行い、激怒したイングランド人はバタヴィアのオランダ人を駆逐。

イギリス東インド会社 17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。当初は香辛料貿易を主業務としたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、インドの植民地統治機関へと変貌していった。
イギリス東インド会社 :1600年~1874年
オランダ東インド会社 :1602年~1800年
ポルトガル東インド会社:1628年~1633年
フランス東インド会社 :1664年~1769年
東南アジアの植民地で問題になるのは、政府栽培制度(強制栽培制度)で、支配国が一方的に定めた安い賃金で住民に農産物を栽培させる制度

1898年- 米西戦争は、アメリカ合衆国とスペイン帝国の間で発生した戦争で、アメリカ合衆国が勝利しスペイン帝国が崩壊する
1899年- 米比戦争は、アメリカ合衆国とフィリピンの間で発生した戦争で、アメリカ合衆国の勝利

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014 2023/03/07(火) 09:18:25 ID:ALJfroTbhw
ハワイ
1795年:カメハメハ1世(大王)が白人たちが持ち込んだ銃器を利用し、3つの王国が分立していたハワイ諸島を統一し、ハワイ王国を建国する。
1802年:中国人が、カメハメハ王から許可を得てサトウキビ栽培に着手[6]。
1820年:カメハメハ2世の治下、多くの宣教師がアメリカから移住し、キリスト教文化がハワイに定着していく。またアメリカ人によるプランテーション農場のための土地の収奪が始まる。
1840年:憲法を公布、立憲君主制となる。
1843年:イギリス(英国)がハワイの領有を宣言。
1849年:フランスがハワイの領有を宣言。ハワイをめぐる列強の抗争は激しくなる。
1850年:中国からの組織的な移民が始まる。
1868年(明治元年):横浜から、日本人移民148名がハワイに移住した。
1871年:日布修好通商条約を締結。
1881年:カラカウア王が来日。明治天皇と会見し、日本政府との間で正式に移民協定が結ばれる。また日本にとってハワイ王朝は、不平等条約改正を約した初の海外国家元首賓客であった。
1898年:アメリカ合衆国によって行われたハワイ共和国の併合。

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015 2023/03/07(火) 10:10:03 ID:ALJfroTbhw
李氏朝鮮の外交
1392年 李成桂はクーデターを成功させ新しい王朝を樹立。その後、日清戦争に至る500年に渡り明および清の冊封体制の中にあり、中華王朝に事大の礼を尽くしていた。
1396年 李朝は倭寇対策として壱岐と対馬の討伐を命じる https://ja.wikipedia.org/wiki...高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻
1429年~朝鮮通信使
1510年 三浦の乱(サムポのらん)とは、朝鮮国慶尚道で起きた、対馬守護宗氏と恒居倭人(朝鮮居留日本人)による反乱。
1592年 文禄・慶長の役
1654年 羅禅征伐 李氏朝鮮が清の命令でロシアとの戦いに参加 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E7%A6%85%E5%BE%...
1791年 辛亥邪獄 最初のカトリック弾圧事件
1866年 丙寅教獄 朝鮮におけるキリスト教徒大量虐殺事件
1871年(明治4年)辛未洋擾 ジェネラル・シャーマン号事件を発端として米艦隊と交戦
1875年(明治8年)江華島事件翌年に日朝修好条規を締結
1882年(明治15年)壬午軍乱 興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現在のソウル)で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。
1884年 甲申政変 朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入される
1885年 巨文島事件 1880年代初頭以来の朝鮮半島をめぐるイギリス・ロシア間の対立で英海軍によって占拠された事件。
1894年 甲午農民戦争 李氏朝鮮で起きた農民の暴動。内乱は全土に波及し、その処理を巡り大日本帝国と清国の対立が激化し日清戦争に至る

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016 2023/03/07(火) 10:12:30 ID:ALJfroTbhw
>>8-12 清朝の外交
1689年ロシア帝政政府との間でネルチンスク条約を調印
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%...
1765年- 清緬戦争 コンバウン王朝ミャンマー王国と清との間で行われた戦争
1788年- 清・ネパール戦争
1840年- アヘン戦争
1860年- 北京条約 清-英仏露 北京での条約調印は従来、清朝が固く拒否していたが、英仏軍事占領によって清朝の国際的地位の質的変化の象徴であった。
1862年- 回民蜂起 清の官僚の腐敗とイスラム教への弾圧に対して蜂起
1884年- 清仏戦争
1894年⁻ 甲午農民戦争 李氏朝鮮で起きた農民の暴動。内乱は全土に波及し、その処理を巡り大日本帝国と清国の対立が激化し日清戦争に至る
 当時の朝鮮の民衆の生活は苦しい状況で朝鮮政府の暴政に対し次のような詩が朝鮮国内に広く伝昌されていた。
金樽美酒千人血    金の樽に入った美酒は、千人の血からできており
玉椀佳魚萬姓膏    玉椀にある美味い魚は、人民の油でできている
燭涙落時民涙落    ろうそくから蝋が滴るとき、人々の涙も滴り
歌舞高處怨聲高    歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々の怨嗟の声も高くとどろく

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017 2023/03/08(水) 00:21:06 ID:zPT7HoR2L6
蒸気機関
1712年 トマス・ニューコメンは鉱山の排水用として実用になる最初の蒸気機関を製作
1769年 ジェームズ・ワットは蒸気機関に改良を加えて実用性を高め、産業革命を大きく推進させた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A3%E6%A5%AD%E9%9D%...
1769年 世界初の蒸気自動車であるキュニョーの砲車を開発したが、実用化には失敗した
1807年 ロバート・フルトンはハドソン川で蒸気船を実用化
1830年 蒸気機関車による鉄道営業を開始

産業革命後、工場の稼働率を上げるために労働者が夜間も働けるような照明への期待が高まる
1797年 英マンチェスターでガス灯設置
1862年 アーク灯が英ダンジネス灯台で実用化
1876年 アレクサンダー・グラハム・ベルとトーマス・A・ワトソンは、ケンブリッジとボストン間で電話で通話
1877年 トーマス・エジソンは蓄音機を実用化、1879年に実用的な白熱電球を発明、それが発端となり商用電力供給が普及し始める

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018 2023/03/08(水) 00:25:27 ID:zPT7HoR2L6
鯨油から石油へ
1852年 ペリーが黒船でノーフォークを出港。対日開国要求理由の一つとして、捕鯨船の補給地確保があった。当時鯨油は灯火用の燃料として生活必需品であった。
1855年、ネイティブ・アメリカンが薬用にしていた油を精製したところ、鯨油よりも照明に適していることが分かり、油田開発がスタートした
1870年頃には石油から灯油を採った後に残るガソリンは危険な為、産業廃棄物として廃棄されていたが、同時期に実用化された内燃機関用燃料として需要が拡大していく

蒸気機関から内燃機関へ
1876年: ニコラウス・オットーはゴットリープ・ダイムラーおよびヴィルヘルム・マイバッハと共に実用的な4ストローク機関を開発。
1885年: ゴットリープ・ダイムラーが二輪車にガソリンエンジンを取り付けた車Reitwagenを製作。カール・ベンツは三輪自動車Benz Patent Motorwagenを製作。

~電流戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B5%81%E6%88%...
1832年 英ウィリアム・スタージャンが、機械の動力源として使える世界初の整流子式直流電動機を発明。他にも直流電動機を開発した発明家が何人かいたが、当時電力網はまだ存在せず、いずれも電源コストに見合う市場はなかった。

1887年、ニコラ・テスラは初の実用的交流電動機と多相送電システムを発明し、1888年に特許を取得

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019 2023/03/11(土) 06:03:06 ID:l7yXKgpzMM
世界の一体化 16世紀の大航海時代に始まり、19世紀半ばの資本主義形成期に実現した。
 世界史上の文明圏(地中海世界、ヨーロッパ世界、イスラーム世界、南アジア世界、東南アジア世界、東アジア世界などなど)は、隣接しあう文明圏どうしの交渉や、ユーラシアの内陸交通路、海上交通路などをパイプとした交渉や交易を行っていたものの、基本的にはバラバラに存在していた。そのような世界が一体化したのは、12~13世紀の十字軍運動、モンゴル帝国の膨張の時期をいわば準備期間とし、15世紀末に始まり16世紀に展開されたヨーロッパ・キリスト教国の大航海時代に本格的に始まり、ルネサンス時代の科学的知見の拡大、航海技術の発達などを経て一段と進んだ。特に新大陸で産出するスペイン銀が、ヨーロッパだけでなくアジアにももたらされ、事実上の世界共通通貨となることによって資本主義的世界経済が準備された時期であり近代世界システムが形成された時期であった。次の18~19世紀前半の産業革命期の西欧諸国の植民地拡大期に世界の一体化はさらに進み、実体のあるものとなった。1858年に極東の地にあり、鎖国政策を続けていた日本が開国したことは、資本主義的な世界の一体化が完成したことを意味する世界史的な出来事であった。https://www.y-history.net/appendix/wh0901-055_0.htm...

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020 2023/03/11(土) 06:23:27 ID:l7yXKgpzMM
ヴィクトリア朝 とは、ヴィクトリア女王がイギリスを統治していた1837年から1901年の期間を指す。この時代はイギリス史において産業革命による経済の発展が成熟に達した大英帝国の絶頂期であるとみなされている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%...

>>13 イギリスとインド
16世紀よりインド全域を支配していたのは、イスラム王朝であるムガル帝国であった。ムガル帝国が隆盛するなか、アジアとの貿易を目的としてヨーロッパ各国がインドへ進出した。スペインとポルトガルにより開かれたアジアとの貿易だが、17世紀のスペイン・ポルトガル没落後、イギリスとオランダが積極的にインドへ進出を開始し、その後フランスも進出を開始した。
 当時はアジアとの貿易を目的として設立されたイギリス東インド会社が、アジア貿易の独占権を有しており、1757年に勃発したプラッシーの戦いによりフランス東インド会社より勝利を収めインド全域の統治し、イギリス東インド会社は貿易会社よりもインド統治のための行政機構の役割を担うこととなった。その後、1858年に起きたインド大反乱の責任を負い、インドの統治権をイギリス政府に譲渡した。
 1877年(明治10年)インドがイギリスの属国となりイギリス領インド帝国が築かれた。イギリスによるインドの植民地化により、利益の多くはイギリス人により回収された。このためインド人は困窮化し、イギリスの支配に対する不満を高める結果となった。

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021 2023/03/12(日) 01:23:38 ID:epCn48Psjk
イタリア統一運動 は、1815年 - 1871年に起こった、イタリア統一を目的とした政治的・社会的運動である。
中世以降、イタリアは小国に分裂し、各国家はオーストリア、スペイン、フランスの後ろ楯で権力争いが行われていた(イタリア戦争)。
19世紀の初頭にイタリアは、他の多くの欧州諸国と同じく、ナポレオンの勢力圏に入り、諸改革が行われた。ナポレオン没落後はオーストリア帝国の影響の下で旧体制が復活したが、カルボナリやマッツィーニの青年イタリアを中心とした勢力により、イタリアの統一と封建制度の打倒が目指された。
 1848年革命に伴う「ローマ共和国」がフランスの介入で失敗した後は、サルデーニャ王国を中心としてオーストリア帝国に対するイタリア統一戦争が行われ、オーストリア支配下のロンバルディア(旧ミラノ公国)がサルデーニャ王国に併合された。また、トスカーナ、エミリア=ロマーニャ、ウンブリアなど中部イタリアは住民投票によってサルデーニャ王国へ併合されることが決められた。その後ジュゼッペ・ガリバルディは、私設軍隊である千人隊を率いてシチリア島に上陸し、最終的には南イタリアの両シチリア王国を征服した。
 1861年にはイタリア王国が建国されhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%...

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022 2023/03/12(日) 03:30:38 ID:epCn48Psjk
ドイツ統一は、ドイツ人がプロイセン国王ヴィルヘルム1世をドイツ人の統一国家ドイツ国の皇帝として戴くことを決め、1871年にいわゆるドイツ帝国(帝政ドイツ)を成立させたことを指す。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%...

9世紀に東フランク王国の国王オットー1世がローマ教皇から皇帝の称号を与えられ、神聖ローマ帝国が誕生。このドイツ初の帝国は19世紀始めのナポレオン出現の頃まで続いたのである。1806年、ナポレオン・ボナパルトがドイツに侵攻し「ライン同盟」を結成。によって神聖ローマ帝国は解体され https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%...
フランスによる支配はドイツ人に民族としての自覚を生み、フランスからの解放者としての役割をプロイセンに求める人々が現れ
 1862年にビスマルクがプロイセン王国の首相となり、オーストリア帝国と同盟し、デンマークと戦争を行った結果、デンマーク統治下にあったシュレスーヴィヒ公国およびホルシュタイン公国をオーストリアとの共同管理とした。
 1866年、普墺戦争ではオーストリアを破って北ドイツ連邦を結成し、オーストリアをドイツ人国家の枠組みから追放し
1870年(明治2年)には普仏戦争でナポレオン3世率いるフランス帝国を破ってパリへ入城し、
1871年1月18日に、ヴェルサイユ宮殿でドイツ諸侯に推戴される形でプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となり、ここにドイツ帝国が成立した

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023 2023/03/12(日) 03:46:29 ID:epCn48Psjk
>>22
中世末期、カトリック教会は贖宥状(しょくゆうじょう・免罪符)と呼ばれる「罪の許しをお金で買って救いを求める証明書」を販売して収入を得ていました。
16世紀に入った頃、ローマ教皇レオ10世が大聖堂の修復費用などを捻出するため、ドイツの農民たちに贖宥状を売りつけ、露骨にお金を巻き上げ始めます。すっかり金づるになってしまったドイツ。「ドイツはローマの牝牛だ」などと揶揄されるようになってしまうのです。この状況に意義を唱えたのが、ドイツの神学者マルティン・ルターです(95ヶ条の論題)。
ルターの発言はドイツ国内に大きな影響を与え、教会の改革運動へとつながっていきました。これらの動きを「宗教改革」と呼んでいます。https://rinto.life/141078/...

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024 2023/03/17(金) 00:59:58 ID:Mybee.zWyI
七年戦争 は1756-(宝暦期)-1763年まで行われた戦争であり、18世紀の実質の世界大戦でもある。プロイセンとオーストリアの対立を軸とした戦争で、英が前者を、仏露が後者を支援、欧州全域での戦争となったばかりでなく、英仏は北米とインド植民地でも戦争し、戦闘は世界規模で広がった。この戦争の前にフランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を組んだ(外交革命)。しかし戦争の結果、墺仏の外交努力は英普側が勝利したことで水泡に帰し、イギリスの飛躍とフランスの欧州における優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、欧州勢力均衡を変える結果となった。欧州におけるプロイセンの国際的地位が向上し強国の一員となり、ドイツ統一の主導権を握る。イギリスがカナダなど植民地を獲得し、世界植民地帝国(第一帝国)を形成することとなった。同時にイギリスは北米植民地への課税を強化したためアメリカ独立戦争を招く。オーストリアはマリア=テレジアがさらにフランスとの提携強化を進め、娘のマリ=アントワネットをフランスの王子ルイ(後のルイ16世)と結婚させる。また1765年からは子のヨーゼフ2世との共同統治となり啓蒙専制主義による改革に向かう。フランスは北米大陸の植民地のほとんどを喪失、さらに国庫の窮迫が深刻化しフランス革命を招く。スウェーデン軍はプロイセンに出兵したが領土的には得るものがなかった。が兵士がジャガイモを持ち帰りそれが普及して主食となったのでジャガイモ戦争と呼ぶ

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025 2023/03/17(金) 01:19:09 ID:Mybee.zWyI
キャプテン・クック (James Cook、1728 - 1779)1755年に英国海軍に水兵として志願し、七年戦争に加わり~イギリスの海洋探検3度の大航海でベーリング海峡や南極付近を含め、太平洋の全貌を明らかにした。オーストラリアを植民地にした。当時船上生活で避けられないと思われていた壊血病から船員を守ることができることを証明した。それは、ジェームズ=リンドというイギリス海軍の軍医の教えに従い、船員に柑橘類とザワークラウト(キャベツの酢漬け)を採らせる食事法を採用したからであった。後に壊血病の原因がビタミンCの欠乏によることが明らかになり、オレンジなどの柑橘類の摂取が有効であることが判明した。それ以来、イギリスの船乗りは「ライム野郎(ライミー)」とあだ名されるようになった。 1779年、ハワイ島で原住民に刺殺された

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026 2023/03/17(金) 01:46:58 ID:Mybee.zWyI
[YouTubeで再生]
啓蒙時代 は、ヨーロッパで啓蒙思想が主流となっていた17世紀後半から18世紀にかけての時代のこと。
啓蒙思想とは、聖書や神学といった従来の権威を離れ、理性(悟性)による知によって世界を把握しようとする思想運動である。

17世紀前半の科学革命 天動説に立った宇宙観が捨てられ、地動説への転換がなされ、これまで地上のものと天上のものとを二分してきたキリスト教的世界観をくつがえした一方、多くの技術革新を導き、18世紀における蒸気機関の開発、さらには産業革命へとつながった。科学革命の中心的な担い手はポーランドのコペルニクス、ドイツのケプラー、イタリアのガリレイ、イングランドのニュートンの4名。
1662年に設立されたロンドンの王立協会や1666年に設立されたフランスのフランス科学アカデミーの成功を受け、この時代にはヨーロッパ諸国において相次いで学会が設立された。

啓蒙思想は身分を否定し、自由と平等と言う理念を生み出し、市民のみならず一部の開明的貴族からも同調者を得て、絶対王政が衰退、フランス革命へとつながっていった

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027 2023/03/22(水) 02:13:15 ID:IpeZ1hNRcQ
ジャガイモ飢饉(特に1847年の状況は最も酷かったため、ブラック47(Black '47)とも)
は、19世紀のアイルランド島で主要食物のジャガイモが疫病により枯死したことで起こった大飢饉のことである。。
 1845年から1849年の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し、壊滅的な被害を受けた。1801年からグレートブリテン>>20及びアイルランド連合王国の一部となったアイルランド島において、この不作を飢饉に変えた要因は、その後の政策にあると言われている。ヨーロッパの他の地域では在地の貴族や地主が救済活動を行ったのに対して、アイルランドの領主であるアイルランド貴族や地主はほとんどがグレートブリテン島に在住しているイングランド人やスコットランド人であり、自らの地代収入を心配するあまりアイルランドの食料輸出禁止に反対するなどして、餓死者が出ているにもかかわらず食料がアイルランドから輸出されるという状態が続いた。
 この飢饉で、アイルランドの人口が少なくとも20%から25%減少し、10%から20%が島外へ移住し、21世紀に入っても全島の人口は大飢饉以前には及んでいない。
アメリカ合衆国に渡ったアイルランド人移民はアメリカ社会で大きなグループを形成し、経済界や特に政治の世界で大きな影響力を持つようになった。この時代のアメリカへの移民の中には、ケネディ家の先祖も含まれていた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%...

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028 2023/03/23(木) 21:36:22 ID:ZJKTxEvFMc
1815年のタンボラ山噴火
記録の残る中では人類史上世界最大の火山噴火 地球規模の異常気象
火山の噴火が続いたことにより、農作物の不作が数年間続いた。アメリカでは「夏のない年」によって西部等へ移住が進んだ。ヨーロッパではナポレオン戦争が終結しつつあったが、今度は農作物の不作による食糧不足に苦しめられることになった。またナポレオンがワーテルローの戦いで敗戦に追い込まれた原因の一つは、この時の大雨であるといわれる。イギリスやフランスでは食料をめぐって暴動が発生しスイスでは政府が非常事態宣言を発令するに至った。食糧不足の原因は主要な河川の洪水をもたらした異常な降雨であり、1816年の8月には霜が発生した。ハンガリーには茶色の雪を降らせ、イタリアでも1年を通して赤い雪が降った。さらには、この大災害の時にコレラが初めて世界的に大流行したともいわれている。馬の飼料として利用されるエンバクの不足により、ドイツの発明家は自転車の原型を発明している。清では夏の異常な低気温により雲南省では稲作が壊滅的な被害を受け、広範囲にわたって飢餓が発生した。南部の江西省や安徽省、台湾においても夏に雪が降った。タンボラと夏のない年に関係があることに科学的な根拠をもってそれが証明されたのは比較的最近のことである。

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029 2023/03/30(木) 04:43:06 ID:sj5CXkd0wM
スペイン帝国(スペイン・ハプスブルク帝国)1516 - 1700
スペイン系ハプスブルク家は、1580年から1640年にかけてポルトガル王位を兼ね、ヨーロッパ大陸ではネーデルラントや南イタリアなどを属領とし、中南米やフィリピン、マカオ、マラッカ、ゴアおよびアフリカ大陸沿岸などの旧ポルトガル領などの海外植民地を含めて「太陽の沈まない国」を実現した。フェリペ2世の在位中に最盛期を迎えるが、1588年無敵艦隊の壊滅を契機としてその勢力は下り坂に入り、八十年戦争やフランス・スペイン戦争(1659年西仏戦争)に敗れてヨーロッパの覇権を失い、八十年戦争でスペインから独立したオランダや宿敵ブルボン家を擁するフランス、無敵艦隊を破ったイングランドなどの台頭もあって衰退

ポルトガル帝国 1415 - 1999 世界史上における長命な帝国のひとつ
大航海時代においてスペイン王国とともに活躍し、アフリカ・アジア・南米に広大な植民地を領有。遠洋航海に耐える船を改良して欧州最先端の海洋開発国に成長した。(1543年にポルトガル船が種子島に漂着)ポルトガルはスペインに併合こそされなかったものの、1581年から1640年の期間、スペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合の状態にあった(イベリア連合)。1808年にはナポレオン戦争から逃れ、最大の植民地ブラジルに宮廷を移した(ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国)。1821年に宮廷は本国に復帰したが、ブラジル帝国の独立を許すこととなった。1828年には王位継承をめぐってポルトガル内戦が勃発し、1834年まで続いた。以降も内政の混乱が続いて共和主義者が台頭し、1910年の共和政革命によって王国は消滅

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030 2023/03/30(木) 05:01:35 ID:sj5CXkd0wM
イスパノアメリカ独立戦争
イスパノアメリカのスペイン統治からの独立を目的とする一連の戦争。ナポレオン戦争中にフランスがスペインに侵攻した後に生起した。
遠因としては18世紀中期のブルボン改革により、スペイン本国による海外植民地帝国への支配が増し、イスパノアメリカとスペイン本国の関係が一変。経済においても教会の収入を支配しようとし、国王カルロス4世は統合法(Act of Consolidation)を発布、教会が貸した借金の返済を迫ろうとした。改革の成果は地域によって異なった。キューバ総督領、リオ・デ・ラ・プラタ副王領、ヌエバ・エスパーニャ副王領では成功して、現地経済と政府の効率が向上したが、それ以外の地域では現地民との緊張関係が生じ、ヌエバ・グラナダ副王領のコムネロスの乱やペルー副王領のトゥパク・アマルー2世の乱が勃発した。クリオーリョの高級官僚への道が閉ざされたことと、18世紀のスペイン領南米における反乱が数十年後の独立戦争の直接的な要因にはならなかったが、政治上の背景としては遠因となった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%...

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031 2023/03/30(木) 05:19:27 ID:sj5CXkd0wM
八重洲の地名の由来になったヤン・ヨーステンは、三浦按針とともに1600年豊後に漂着、五大老首座の家康にプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明し信任を得・・・
その頃からのオランダ
ベネルクス地方は神聖ローマ帝国の領域の一部で、毛織物産業や海上貿易により栄えていた。15世紀末からスペインを本拠とするハプスブルク家の領土(家領)となった。宗主国スペインによる重税政策に対する反発とともに、主に現在のオランダ地域を中心とするネーデルランド北部地方の宗教は利潤追求を求めるカルヴァン派が多数を占めていたため、カトリックを強制する宗主国スペインとの間で1568年にオランダ独立戦争が勃発した。しかし戦争の長期化により、カトリック教徒の多かった南部10州(現在のベルギーとルクセンブルク)は、独立戦争から脱落した。この八十年戦争の結果、1648年のヴェストファーレン条約で独立を承認された。17世紀初頭以来、ネーデルラント連邦共和国は東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪い、オランダ海上帝国を築いて黄金時代を迎えた。英蘭戦争に重なってオランダ侵略戦争が起こり、本土へ災禍をもたらした。しかしウィレム3世総督時代に、ルイ14世の出したフォンテーヌブローの勅令が中産ユグノーを共和国へ大挙亡命させた。彼らの力により、独立戦争からすでに卓越していた繊維・染料産業がさらに進歩した。加えてデルフトの陶器とアムステルダムのダイヤモンド加工も世界に知られた。ウィレム3世は名誉革命でイギリスへ渡った。フランス革命が勃発すると、革命軍が侵入しバタヴィア共和国が成立した。

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032 2023/03/30(木) 05:29:55 ID:sj5CXkd0wM
>>31続 バタヴィアは1806年、ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント(オランダ)王国に変えられた。さらに1810年フランスの直轄領として併合された。ナポレオン擁するフランスにより、オランダは一旦事実上の国体を失うが、1811年にイギリスがオランダ領東インドを制圧してから1815年にオランダが再独立を果たすまでの間、当時の商館長ドゥーフは出島のオランダ商館に旧オランダ国旗を掲げ続け「世界唯一のオランダ国」であったことでも知られる。1793年にネーデルラント連邦共和国がフランス革命軍に占領されて滅亡してから1815年ネーデルラント王国建国に至るまでの22年間、オランダの領土はこの地球上に存在していない。そのため1797年にオランダ東インド会社と傭船契約を結んだアメリカの船が出島に入港するようになり1799年にオランダ東インド会社が解散してもなおアメリカの船は1809年まで出島に入港して貿易を行った。ナポレオン戦争後のウィーン会議ではこれまでオーストリア領であった南ネーデルラント(現在のベルギー・ルクセンブルク)を含むネーデルラント王国が成立し、オラニエ=ナッサウ家が王位に就いた。オランダ全土の労働者人口と南ネーデルラント農民の大部分はカトリック信者であった。南ネーデルラントを統合しようとするとき、王に対しカトリックの聖職者はウィレム1世と憲法に反対した。オランダは残された東インド植民地(今日のインドネシア)で過酷な搾取を行った。1830年カトリックと自由主義者による独立戦争が起こる。1839年オランダはベルギーの独立を承認した。1873年(明治6年)には岩倉使節団がオランダを訪問。

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033 2023/03/31(金) 04:19:01 ID:mMSrVOdpKI
>>13
英緬戦争
19世紀は、まさに帝国主義が牙をむいた時期でした。18世紀の後半からイギリスを中心とした欧米諸国で産業革命が起き、工業力や国力が強くなっていきます。この国力を使い、欧米諸国はアジアに進出していき、最初に犠牲になったのはビルマ(現ミャンマー)でした。ビルマは中国では漢字で緬甸と書かれたので、略称は日本でも「緬」が用いられた。ビルマはイギリスと3度戦争をします。1回目が1824年~26年、2回目が約30年後の1852~53年、3回目がさらに30年後の1885年~86年です。この結果、コンバウン王朝はイギリスに徹底的にやられ、イギリス領インドに併合されました。ビルマは立派な国でしたが、完全に植民地になったのです。http://bbs58.meiwasuisan.com/world/1564840797/01...
 イギリスはフランスがビルマに進出しようとしていることに危機感をいだき、先手を打ってビルマを併合することを策した。1885年11月、イギリスは最後通牒を送ってイギリス=インド帝国の従属国となることを要求した。ビルマ王国がそれを拒否すると、ブレンダーガストの率いる1万人のインド兵をビルマ領内に侵入させ、11月28日にはビルマの首都マンダレーを占領し、翌1886年(明治19年)1月1日をもってビルマをイギリス=インド帝国に併合した。

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034 2023/03/31(金) 04:58:09 ID:mMSrVOdpKI
コーチシナ戦争 1858-1862
阮福暎(嘉隆帝)の全国制覇に貢献したフランス人宣教師ピニョー=ド=ベーヌ の活躍があり、ベトナム(阮朝)におけるフランスの優位は確立していた。しかし嘉隆帝の死後、阮朝は排外政策をとってキリスト教を迫害したため、フランスはスペイン人宣教師殺害事件を口実にスペインと共同で出兵、1858年にナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的として阮朝に遠征軍を派遣、まず中部のダナンに上陸し翌年サイゴンを急襲して武力占領。その後アロー戦争のために一時的な大規模撤兵があったが、1861年に再度フランス艦隊はサイゴンに上陸し、コーチシナ一帯を占領した。
1862年第1次サイゴン条約、コーチシナ総督府がフランスのベトナム侵略の拠点となる。
1874年(明治7年)第2次サイゴン条約でベトナムは事実上フランスの保護下に置かれることとなった。
一方、ベトナムに対する宗主権を主張する清朝は、阮朝・フランス間に結ばれた諸条約を承認せず、1884年清仏戦争となりフランスは勝利する>>16
1887年(明治20年)には新設のインドシナ総督の下で直轄領コーチシナ、保護国アンナン、保護領トンキンを含む仏領インドシナ(インドシナ連邦)が成立。

タイはラーマ5世の治世下、英仏の緩衝地帯として独立を保った。

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035 2023/04/04(火) 03:09:17 ID:vwcDaNjQ8c
ロシアは、13世紀半ばから200年あまりモンゴル勢力のキプチャク=ハンの支配下にありましたが、功績が認められて1328年に独立を果たしたのがモスクワ大公国でした。イヴァン3世(在位1462~1505年)が即位すると周辺諸国を次々に併合し15世紀にはキプチャク=ハンから自立を果たし「タタールのくびき」を終わらせます。1453年に滅亡したビザンツ帝国(東ローマ)の姪と結婚し、ビザンツ帝国の後継者を名乗るようになりツァーリという称号を使い始め、16世紀には国力も増し雷帝・イヴァン4世は恐怖政治を推し進め、ロシア型の絶対王政の基礎を築いていきます。またコサックの首領イェルマークにシベリア探検を命じ、シビル=ハンを征服します。(シビルはシベリアの語源)その後は帝国争い、農民反乱、ポーランドの侵入(ポーランド・モスクワ戦争(1605–1618)などがあり、この地は大混乱におちいりロシア人たちは結束し外敵に対抗するため全国会議を開き、皇帝に選ばれたのがイヴァン4世の姻戚にあたるミハイル・ロマノフで、ロマノフ朝(1613~1917年)が成立。次代アレクセイ、3代フョードル3世の下、国家の再建や失った国土を徐々に回復。1670年にはコサックの首領、ステンカ=ラージンが農奴政の強化に反発し、反乱を起しますが(ステンカ=ラージンの反乱)、ロマノフ朝はこれを鎮圧。その後にピョートル1世が1682年にツァーリ(皇帝)に即位。シベリアを東に向かい、先住民を支配下におき領土を広げ、1689年には清>>16と条約を結び、ユーラシア大陸東部の国境線を定めました。

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