近代東アジアを明治年号で鑑みるスレ


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001 2023/02/22(水) 04:01:10 ID:gUqleeTtgI
https://sekainorekisi.com/japanese_history/%E5%88%97%E5%...
明治元年は1868年1月25日 – 1869年2月10日
明治時代は海外ネタメインで、国内ネタは江戸時代(マイナス年号)や大正期~昭和20年あたりまで
なお 旧暦→明治改暦 とか 0年という年は存在しない 件もあるので1年ぐらいのズレは気にしない事にする

では最初に
明治-40年 化政文化 江戸時代後期に発展した町人文化:浮世絵、歌舞伎、天保の改革、遠山の金さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E6%94%BF%E6%96%...

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※省略されてます すべて表示...
008 2023/02/25(土) 09:40:17 ID:GNW20V5QAY
[YouTubeで再生]
清の最盛期の3皇帝 1661 - 1722 第4代 康熙帝、1722-1735 第5代 雍正帝、1735-1795 第6代 乾隆帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85#%E6%B8%85%E3%81...
第6代 乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見え始めた。
乾隆帝、第7代嘉慶帝の二帝に仕えた軍機大臣のヘシェン(hešen、和珅)は、清朝で最も堕落した官僚の一人で、厳しい取り立てに住民が蜂起した 白蓮教徒の乱(1796-1804) が起こったが、乾隆帝の崩御後、親政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれた(賜死)。このとき鎮圧に動員された 郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団が、太平天国の乱(1851)で湘軍に組織化されて曽国藩・李鴻章・左宗棠のもとで軍閥化していくと共に、不満を持つ将兵は哥老会などに流れて三合会などと辛亥革命(1911)を支える組織になっていった。

当時、清は世界のGDPのうち3割を占めるほど豊かな国家で、ヘシェンは世界一の富豪であったと考えられる。
恭王府は1777年につくられたヘシェンの邸宅 http://pingshan.parfait.ne.jp/honglou2/trip5.htm...

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009 2023/02/26(日) 01:18:35 ID:MTrHuv9oxw
北宋代に1億を超えたと言われる人口は増減を繰り返し、順治帝期の1651年の戸籍登録人口は約5300万、康熙帝期の1685年には約1億1000万、1700年に1億5000万、乾隆帝期の1765年には2億、1770年から1780年にかけて2億8000万、1790年に3億、19世紀前半のアヘン戦争直前の1833年に4億を突破した(数字は全て推定)。

新大陸原産の作物は水がそれほど豊富でなくとも痩せた土地で育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢人が進出できるようになった。
溢れる人口は領内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来漢人の居住地ではない所にも進出し、牧草地や山地を農地に変えていった。更に陸地だけでも収まり切らず、明代から出現していた華人が激増する事になる。また、17世紀以降の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加したこともアヘンの蔓延を助長させた。

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010 2023/02/26(日) 01:33:17 ID:MTrHuv9oxw
明代から引き続いて全国的に手工業が大いに盛んであり、絹織物・綿織物に加えて鉄の加工販売が盛んとなり、増大する人口と農地に必要な農具が大量に作られた。

陶磁器の分野では景徳鎮は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵・染付などの生産が行われた。しかし乾隆(第6代 )以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣るとされる

景徳鎮は古くから陶磁器の生産地として有名で、当時、ヨーロッパでは陶磁器の生産方法がわからず、陶磁器は貴重な芸術品として愛され大量にヨーロッパに輸出された   
https://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_export_porcelai...

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011 2023/02/26(日) 02:14:48 ID:MTrHuv9oxw
世界初の紙幣は宋の交子とされ、唐の時代から飛銭と呼ばれる手形が流通していたが、宋になると鉄貨が流通する四川において鉄貨の預り証である交子が発行された。
四川での成功を知った宋政府は、仁宗時期に交子の発行を官業とし、民間の発行を禁止した。交子は手形から紙幣に変わり、政府は本銭や発行限度額を定めて官営の交子を流通させた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E5%AD%9...
 紙幣の存在は、中世ヨーロッパやイスラーム世界の外来者(マルコ・ポーロやペゴロッティ、イブン・バットゥータ)を驚かせた。

中国では明の洪武帝治世下で金銀貨幣の使用が禁止され、1375年には通貨は大明宝鈔という紙幣に切り替えられ、額面1貫文が銀1両=米1石に相当するとされたが、永楽帝の頃には戦費捻出のために濫発され大きく価値を下落させた。明代中期以降は秤量貨幣(そのつど秤で重さを量る貨幣)としての銀(馬蹄銀)が主要な通貨となっていく。

16世紀半ば以降、新大陸から持ち運ばれた銀によって、価格革命が起き、全ヨーロッパの銀価が下落した。

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012 2023/02/26(日) 05:32:19 ID:MTrHuv9oxw
互市(ごし)とは、中国の歴代王朝が国境地点にもうけた公認の対外交易場である。
漢代には、互市で南越や匈奴、鮮卑と交易を行っていたことが確認されている。唐代では、対外貿易を行う海港を市舶とし、港における互市を管理させた。
明朝は当初、海禁政策を取り、朝貢によらない私貿易を厳禁した。日明貿易で行われた勘合貿易は、中国側にとっては朝貢貿易の一環であった。しかし16世紀後半になると後期倭寇により海禁政策は行き詰まり、朝貢によらない私貿易を容認した。これは次の清朝にも引き継がれ、朝貢体制の外側に、外交を伴わない形での互市体制が作られることになる。

広東システムは、中国の清朝中期から後期(1757年 - 1842年)における、清国とヨーロッパ諸国(のちに米国も加わる)との間で行われた貿易管理体制である。ヨーロッパ商人との交易を広東(>>10広州)1港のみに限定し、独占的商人を通じて行った貿易体制であり、日本の江戸時代のいわゆる「鎖国」体制における長崎出島での管理貿易体制(長崎貿易)と類似する。従来の中華帝国の交易スタイルであった「朝貢」貿易の一形態と見なされることも多いが、実際は朝貢形式の儀礼コストを省略し、広州現地における商人どうしの通商行動を重視した「互市」システムと理解する方が的確である。

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