卑弥呼」は偉大な女王だった!
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001 2026/10/20(火) 20:44:20 ID:u7D3HNWFT6
卑弥呼」は偉大な女王だった!「三国志」の動乱を読み大国・魏から“破格の待遇”を勝ち取った知略
歴史はいうまでもなく、人がつくるものです。
しかし、日本の古代史、特に弥生時代を振り返ると、「帥升(すいしょう)」と「卑弥呼(ひみこ)」くらいしか見当たりません。
帥升は『後漢書』に登場する倭国王で、西暦107年に後漢に朝貢したと記されます。
そして最も有名なのが、邪馬台国の女王・卑弥呼です。
https://mag.japaaan.com/archives/29089...
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022 2026/10/21(水) 11:48:01 ID:tm7aiYCUdw
公孫氏のような有能官僚一族が、亡命してすら国家建設が中国系官僚中心には進まなかったのだが、九州女王国の東遷事業を推進した立役者は中国系官僚のもう一人、武官塞曹掾史張政その人である。彼が大和に遷都の上邪馬台国の礎を築いたおかげで、対朝鮮半島鉄の道は、日本海ルートから瀬戸内海航路へと転換し、出雲は益々大和畿内物部からは離反、孤立することになる。邪馬台国の卑弥呼というのは卑弥呼亡き後の出来事を混ぜた誤認だから、おかしくなるのであり、女王国は九州、たまたま朝倉、長谷、三輪、笠置、春日など女王国周辺の地名が奈良桜井に移植されたが邪馬台国は畿内であり、九州山門は偶然に過ぎないが、あとから八女みたいに九州に逆輸入された名称だろう。
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023 2026/10/21(水) 13:11:33 ID:xdxxsuE2H6

ブトゥームにも出てくる偉大な女王
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024 2026/10/22(木) 10:07:47 ID:hT2116F0tM
>>22 三輪王朝→葛城王朝(河内王朝とも言う)
→息長王朝→蘇我王朝→息長天皇制
という流れやけど、息長王朝までは後世の外戚などとはわけが違うレベルで母系大王輩出氏族制だった。その中でも応神までが末子相続制で、仁徳からは長子相続制へと転換、三輪も葛城も物部系だから物部系の断絶は息長王朝からや。
現在の天皇制に連なるのは、天地天武朝からに過ぎないけど、息長王朝こそは卑弥呼から連なる王統で、物部王朝は土蜘蛛と変わらぬ畿内大和の縄文系地場豪族の流れや。
この真実を見抜けるかどうか?歴史家にはまず無理。推理小説作家でないとこの構造は発見できないのや。
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025 2026/10/22(木) 10:20:06 ID:hT2116F0tM
息長王朝ですら卑弥呼→臺與がそうであり、九州にやたらと女王が多いことから分かるように、母系制であった。末子相続→長子相続が、氏族内部で変容したように、母系制秩序が解体、父系制秩序へと再編されたのは息長天皇制からである。アイデア自体は蘇我王朝下に出されたのだが、そのままでは蘇我天皇制が始まってしまうため、厩戸皇子共々葬り去られたのが蘇我天皇制なのだということも見抜かれなくてはならない。
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026 2026/10/22(木) 10:25:18 ID:hT2116F0tM
嘆かわしいことに、乙巳の変と上宮王家滅亡とをちゃんと意味を読み取って理解できている人は歴史家には皆無である。
そんなレベルの歴史を我々は学ばされてきたわけだ。
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027 2026/10/22(木) 14:51:39 ID:hT2116F0tM

実際の天皇を当てはめてみるとこうなる。太字は蘇我王朝内の息長系統である。
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028 2026/10/22(木) 15:23:55 ID:hT2116F0tM
>>27 蘇我系の天皇だったにも関わらず、崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺された。崇峻天皇の後には息長系統の押坂彦人大兄皇子が有力候補だったにも関わらず即位を阻止されてわざわざ女帝の推古を立てた。馬子の姪で、敏達天皇の妃であった推古は明らかな傀儡、蘇我王朝の操り人形でしかなかった。舒明天皇の和風諡号が 息長足日広額天皇であったのは、やっとこさ息長系統が日の目を見て復活したことを寿いだからであろう。
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029 2026/10/24(土) 10:35:40 ID:HG0b7J1t92
ところが息長系大王は多難であった。蘇我系大王が三代で息長系大王を潰えさり欽明朝を立てた。蘇我氏対息長氏の暗闘が始まった。
欽明朝の九州戦略が面白い。大神氏を宇佐に送り込んで三輪信仰で現地息長信仰を抑えようとした。
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031 2026/10/24(土) 16:56:15 ID:HG0b7J1t92
>>29 ところがどうだ。宇佐神宮は、息長信仰から始まったが遂に三輪信仰は根付くどころか跡形もなく消えて、香春からは秦氏の幡神信仰まで持ち込まれ、息長信仰は、比売大神本体に神功皇后(=卑弥呼)まで合祀され、幡(秦)神信仰は、八幡神に応神天皇が重ね合わされて国家宗教化して東大寺大仏建立への多大なる貢献を期に八幡神が菩薩称号を受けて神仏習合の起点になったばかりか全国30,000社の八幡神社総本山となった。
氏神神社を失った秦氏は一族東遷地である京都山背の伏見に伏見稲荷を建て、これが神仏習合で真言宗空海の東寺と合わさり守護神化して、弘法大師信仰と白い狐の荼枳尼天と共に全国展開された結果、図らずも秦氏起源神社の稲荷神社は、八幡神社を上回る全国トップの40,000社となるのだ。
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033 2026/10/24(土) 20:19:37 ID:HG0b7J1t92
現代における(伝わる)卑弥呼の痕跡
今上天皇陛下
八幡神社
香春神社
伊勢神宮
(斎院)
賀茂神社
(斎院)
竹取物語
現代に伝わる物部の痕跡
大神神社
二見輿玉神社
石上神宮
出雲大社
日前神宮、國懸神宮
熱田神宮
物部神社
諏訪大社
梵鐘
縄文式土器
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034 2026/10/24(土) 21:53:06 ID:HG0b7J1t92
>>4 邪馬国田川説なんだが、古代邪馬国は広域で、田川香春から中津、耶馬渓、宇佐までを含む豊前の大半を邪馬国と称していたと推理する。明治期に山国川を挟んで上毛は福岡県、下毛が大分県に行政区分されてしまうが3世紀以前の段階では丸っと旁國の邪馬国、即ち山国であったと考える。山国川水系ではない日田は、鬼奴国=キノコク=紀の国と同じ語源の木材産出地であったと推定して比定した。
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035 2026/10/25(日) 18:28:21 ID:gJzow8c/V2
>>34 山国川流域は図の通り。田川はもちろん水系には含まれないが、宇佐共々同じ豊前国に入る。共通の文化性は古代からで、この地を邪馬国と括るのは、臺與以降にこの地がまるっと豊の国と呼ばれたからである。
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036 2026/10/26(月) 09:34:45 ID:ZCiaYnuc8k
諏訪大社は一筋縄にはいかない。
信濃諏訪は守矢家の縄文信仰が基盤のところ3,4世紀に海洋系安曇氏の古墳文化が侵入した。5,6世紀律令令制前に科野氏が国造として伊那飯田方面縄文系が拡大、やがて6世紀に多氏金刺氏が台頭、同時に安曇氏第二波と北部からは7世紀に三輪氏の侵入、介入を招いた。諏訪大社にはその積層する歴史が刻まれている。
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