幕末から今まで、日本は一貫して戦争状態


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001 2012/09/26(水) 14:04:51 ID:j3J5vVOLek
昔戦争があったとか、今から戦争が始まるとかじゃない。
米英寇が始まった幕末から今に至るまで、日本はずっと戦争状態。

白村江の戦いや元寇や朝鮮出兵など、古来からの国際紛争においても、
日本が局地的な敗北を喫することはいくらでもあったし、日本のほうから
外地への侵攻に及んだ場合には、むしろ敗退するほうが主流ですらあった。

第二次世界大戦における日本の敗北なども、そのセオリーを全く出るものではなく、
B-29に竹槍で挑もうとした無謀さも、「やあやあ我こそは」の伝統戦法で
爆裂弓に挑もうとした鎌倉武士の初戦での無謀さと全く共通するもの。

地球の裏側の日本に至るまでの全世界を強権支配下に置こうとした無理が
祟っての自業自得で米英も崩壊し、局地戦に敗れるどころではない大敗北を喫する。
そうして、居直した鎌倉武士の切り込み戦法と台風によって敗れた蒙古軍のように
撤退せざるを得なくなり、うまいこと行けば日本のほうこそが占領者側にも回る。

そうして、日本史の観点から見た場合における「米英寇」ないし「第二次戦国時代」
が終了し、日本もいつもの如く泰平の時代に戻る。特に何事もなかったかのように。

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006 2012/09/26(水) 19:48:54 ID:wUvicH03hs
自業自得で大敗北で、崩壊。
うまくいけば日本の方こそ・・

なんちゅーか、楽観的で他力本願だなぁ。

何も生み出せず、何一つ成し遂げられない人間は
いつしか、自分の惨めな境遇を肯定するために
こう言った、麻薬のような妄想に耽るようになるのか。

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007 2012/09/26(水) 22:51:15 ID:NLy1ItQHxU
>>6
実に簡潔で的確なレス。

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008 2012/09/26(水) 23:43:32 ID:j3J5vVOLek
良くも悪しくも、戦後処理という汚れ仕事を一手に引き受けた
日本国総理大臣、吉田茂の実父である竹内綱は、幕末に「大坂目付」の役職にあった。

幕末に、大坂目付であったということは、薩長軍が大坂堺の豪商と結託してグラバーなどの
武器商人から重火器を購入することを黙認させられた、幕府方の武士監査官だったということ。

幕府方の秩序基準からすれば、明らかに不正な手段によって薩長が暴力を蓄え、
その暴力によって実際に幕府を倒壊させてしまった。倒壊してしまったからには、
旧大坂目付といえどもお咎めなしで、竹内綱なども、自己の落ち度を開き直っての
自由民権運動などに及んだわけだが、旧大坂目付の役職にあったものが、到底官人
としては信用するに値しないような不手際を犯してしまったことには違いないわけで、
そのことが、大坂目付の子孫としての吉田茂らの人格形成にも深く関わっていったのである。

吉田がひどく横柄だったことは、誰しもが知るところ。
それも、「俺みたいな血筋の人間が気品を持ってみた所で、仕方がない」
という開き直りによるものだった。その横柄さが極まって、
GHQ総司令官のマッカーサー元帥にすら人を食うような態度でかかった。ここは、
「アメリカだろうがイギリスだろうが、先祖に恥をかかした相手であるには違いない」
という道理に即している所もあるために、そこそこに筋も通っていたことだといえる。

近来の日本の不遇を拭い去る鍵は、戦前ではなく、明治以前にこそある。
明治以前、江戸時代までこそは、日本も外界侵略一つ行わない完璧な無罪状態にあった。
そこに世界侵略の悪逆非道を積み重ねて来た鬼畜米英がやって来て、何もかもをダメにした。
そこまで遡ることで始めて、日本の無罪と米英の有罪とが決定的な隔絶を生ずる。

そこまで遡って歴史を清算するというのであれば、日本の側の一方的かつ完全な勝利と、
米英の側の一方的かつ完全な敗北とを決定付けることができる。ただ、戦前や明治に
戻ろうなどとしたところで、そこまでにもスッキリとした処分が尽くせたりすることはない。

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009 2012/10/07(日) 08:15:28 ID:CUFPFaWUkw
そりゃ、白人がバンバンせめて来るんだからしょうがない。
過去の人が頑張ったからまだ日本がある。

中央アメリカみたいにみんな殺されて、労働力がなないからアフリカから奴隷連れてきて
人種が入れ替わりとかなくてよかったねぐらいの話。

南北アメリカ大陸に黒人はスペインが攻めてくる前はない。

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010 2013/12/21(土) 04:25:46 ID:0ATgfCXsG.
>>1
まず朝鮮出兵関係で大きな間違い。

ちょっと長くなるが、この戦いの大まかな流れ。

まず「朝鮮軍や明軍に圧倒されて、戦闘に負けて後退した」と
いうのとは カナリ違う。

秀吉軍の食料不足の原因には、李舜臣は関係なく、
文禄・慶長を通じ日本の兵站ラインである名護屋-壱岐-対馬-釜山の
海路は確保されており、釜山の物資が不足したことはない。
文禄では以下が要因。

1
朝鮮軍が弱過ぎて、予想より早く制圧しすぎたこと。
明から李氏朝鮮に日本の手引をしていると詰問された程。

2
小西行長が和平交渉をしながらという曖昧な状態で、
攻勢か防御かの意思決定がハッキリせず、食料の補給が遅れたこと。

3
文禄の役前後の朝鮮は腐敗政治や天災、農奴の脱走により、
深刻な食料不足だった。 そのため現地調達もままならなかった。

4
人手不足、地形の険阻さのせいで、食料の遅配のため内陸部の部隊は食糧不足に
悩まされたため(義兵は李氏王朝の倉や民衆からも略奪することも多かった) 3投稿者:青空  投稿日:2013年12月18日(水) 23時29分01秒
また平壌陥落も、小西行長が和平交渉期限が過ぎたにも関わらず、
律儀にも返答の使者を待っている時に、4倍近い明鮮軍の奇襲を受けて
善戦したものの、明軍指揮官の勧告を受け入れ城を明け渡した。
文禄・慶長の役で明軍がハッキリと勝ったといえる
勝利はこの一戦だけで、あとはすべて負けている。
フロイスも、従軍した将士たちから聞き取りしたところ、
唐入りの秀吉軍の死者のうち戦闘による死者はわずかで後は病死と記している。
翌文禄2年からは本土からの補給の開始と突出していた
部隊が南部に後退したので解消。
準備を整えた慶長の役では補給の破綻は起きていないし、
慶長4年8月の豊臣秀吉の死までの間、遠征軍は
予定されていた作戦計画をすべて完遂させていた。

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011 2014/12/25(木) 20:55:58 ID:N3GWYfCziw
×ペリー黒船来航、幕府に開国を迫る
〇米海軍包囲、幕府に植民地支配を宣言

天皇制、国家神道と明治憲法は植民地支配の円滑化の為のスキーム

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