近代東アジアを明治年号で鑑みるスレ


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001 2023/02/22(水) 04:01:10 ID:gUqleeTtgI
https://sekainorekisi.com/japanese_history/%E5%88%97%E5%...
明治元年は1868年1月25日 – 1869年2月10日
明治時代は海外ネタメインで、国内ネタは江戸時代(マイナス年号)や大正期~昭和20年あたりまで
なお 旧暦→明治改暦 とか 0年という年は存在しない 件もあるので1年ぐらいのズレは気にしない事にする

では最初に
明治-40年 化政文化 江戸時代後期に発展した町人文化:浮世絵、歌舞伎、天保の改革、遠山の金さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E6%94%BF%E6%96%...

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※省略されてます すべて表示...
052 2024/04/27(土) 13:43:16 ID:tSAud3pnts
>>10
後金社会の3つの主要な民族以外に、シベ族、ダウール族、ナナイ族、エヴェンキ族(ソロンなど)など、他にも多くの小規模な民族グループがありました。
清朝以前は、各グループは著しく異なる文化と言語/方言を持っていました。

添付図は G. ルチンスキー16 世紀地図

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053 2024/05/09(木) 23:46:36 ID:e44F4bCe9A
科学的人種差別(奴隷制の正当性根拠)
WW2後、理論と行動における科学的人種差別は、特にユネスコの初期の反人種差別声明「人種問題」(1950年)で正式に非難された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Scientific_racis...

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054 2024/05/17(金) 09:03:29 ID:ud.5wMrxYI
>>46
土客械闘(とかくかいとう)とは客家と本地人との対立を指す。広東省・広西省・福建省・江西省・湖南省・台湾などで発生した。類似の対立構造は明朝中期から見受けられるが、衝突の大部分は清末に発生した。>>8
 珠江デルタの客家人たちは、清軍による天地会蜂起の鎮圧に協力した。清軍は蜂起の参加者を完全に掃討するため、本地人の村を襲撃することを決定。これにより客家と本地人の対立は一層激化し、本地人たちは復讐のために客家人の村を襲撃した。村は守りを強化し、男たちは敵との戦いに集結した。戦闘は大規模な紛争に発展した。本地人の人口が客家を圧倒していたために、客家側の被害は甚大であった。清は矛盾の解決のために客家を分離する政策を取り、客家を広西省に再移住させた。その結果、五邑の客家の割合は3%にまで落ち込んだ。また敗北した客家人たちは、香港とマカオを経由して南アメリカやキューバに向けた苦力として人身売買の対象となった。客家と本地人の対立は、海外の華人社会では20世紀前半まで見受けることができた。

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055 2024/05/20(月) 09:55:58 ID:oe/5vKUx26
>>52
ロシアは自分の国の国境がもともと、どこであったのか自分でも分からない。それほど侵略を続けて大きくなった。領土の一部でも返すことになれば、世界各国から返還の要求が出て手がつけられなくなる。
ヘンリー・キッシンジャー

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056 2024/05/20(月) 10:00:37 ID:oe/5vKUx26
中露国境
 

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057 2024/07/17(水) 05:43:28 ID:wOMvEVxKhc
Japan has ALWAYS had a high population (relatively).
In 1800, Japan had 29 million people similar to Russia or France (some of the most populated countries on earth).
In 1940, Japan was at about 72 million compared to Britain at 48 million and Germany at 69 million.
Sure there was a huge growth after WW2 (but also, Japan was no where near as developed as Germany or Britain, economically).
Japan has been one of the most populated countries in the world since at least 1800. Even going as far back as 1600, the Tokugawa Shogunate was more populated than Russia, or the Polish-Lithuanian commonwealth. It had 13 million people compared to 8 million in Spain, 4 million in England and 9 million in Russia.
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_popu...
http://pandora11.com/blog-entry-5023.htm...

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058 2025/05/25(日) 12:40:06 ID:lcZshg8v4M
18世紀初頭までのヨーロッパ内での勢力均衡は、ブルボン家とハプスブルク家の間の大きな利害対立をイタリアで調整することによって成り立っていた。中世以来分裂傾向にあったイタリア半島をヨーロッパの辺境と位置づけ、イタリア半島すべてを直接支配する勢力を排除することにより、この辺境で局地的な勢力均衡を実現して利害を調整し、全ヨーロッパ的な勢力均衡を保っていた。

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059 2025/05/25(日) 12:53:44 ID:lcZshg8v4M
>>58 バルカン半島のオスマン帝国領は1699年のカルロヴィッツ条約以降縮小・解体に向かい、それに伴ってこの地域へのオーストリアとロシアの進出が始まり、また1821年以降のギリシャの独立運動などに代表されるように、バルカン諸民族が独立に向けて活発化するようになる。オスマン帝国治下のバルカン半島の民族分布は複雑に錯綜しており、これらの民族が国民国家を形成しようとする場合、その領域の決定には民族問題が不可避に関わる状況であった。このような状況に際し、ヨーロッパ列強はバルカン半島の紛争に介入して、一国がオスマン帝国との外交関係において「一人勝ち」する構造を排除することで、各国の利害を調整しパワーバランスの維持に努めた。またオスマン帝国側もヨーロッパの国際関係を利用して自国の領土と利益を守るために主体的に外交紛争に関わった。これら「東方」の状況は、同時に、ヨーロッパ諸国自体の政策に影響する側面も持ち、とくに1853クリミア戦争は各国の政治・経済状況に顕著な影響を及ぼした。→東方問題

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060 2025/05/25(日) 13:00:04 ID:lcZshg8v4M
「東方問題」の期間には、1789年のフランス革命とその後のナポレオン戦争の進展により国民主義の風潮が全ヨーロッパに波及し、国民国家を求める意向を無視してイタリアを分裂状態にとどめておくことは困難になってきた。ハプスブルク家オーストリアの従来の政策は、バルカン・東欧方面への拡大と中欧・南欧(ドイツ・イタリア)方面への拡大との二方面の選択肢があった。しかし、イタリアでは国民主義の運動がオーストリアの影響力の排除を望むかたちとなって現れ、ドイツ方面への進出にはプロイセンという有力な対抗勢力が存在した。結局はドイツ帝国成立(1871年)によりオーストリアはドイツの統合からはずされ、最終的にアウスグライヒ体制(すなわちオーストリア・ハンガリー帝国、1867年成立)を形成するといったように、この時期を通じて東欧の大国を目指す路線が徐々に明確となった。

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061 2025/05/25(日) 13:14:21 ID:lcZshg8v4M
一方で、17世紀後半からピョートル1世のもとで近代化政策を推し進めたロシアは、大北方戦争での勝利者となり(1721年)、積極的に黒海への南下を図り、同時にドナウ川沿岸にも影響を及ぼそうとしていた。このことが、「東方問題」の時期には、同地域に影響を拡大しようとしていたオーストリアとの利害対立を生じさせた。またこの期間、イギリスは自国と植民地インドを媒介する地中海経路を確保しようとしており、伝統的に地中海に大きな影響力を保持しているフランスはイギリスと対立する傾向にあった。このようなヨーロッパの状況を背景に、オスマン帝国の支配領域をめぐって「東方問題」という外交問題が発生した。「東方問題」が顕在化するのは、ロシアが黒海沿岸のアゾフをめぐってオスマン帝国と交戦した1736年露土戦争である。この戦争では、ヨーロッパの勢力均衡が著しく損なわれるのを防ぐために紛争の当事者以外が「東方」をめぐる紛争に介入するという「東方問題」の基本的な構造が現れた。以後「東方」をめぐる数々の紛争の解決にあたって、オスマン帝国とヨーロッパ列強との外交によってヨーロッパの勢力均衡を実現するという構造が見られるようになり、「東方問題」はヨーロッパ近代外交の主要な一角を形成した。

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062 2025/05/25(日) 13:24:13 ID:lcZshg8v4M
ギリシャ独立戦争(1821年~)では、各国政府が当初介入に消極的であったのにもかかわらず、世論の後押しによって主要な政治問題に発展した。「東方問題」が最も活発化した時期と考えられるのがクリミア戦争(1853年~)で、「東方」において英仏とロシアは全面的に軍事衝突し、これが戦後のヨーロッパの政治状況にまで大きな影響を及ぼすこととなった。1878年のベルリン会議によって列強間の利害問題としての「東方問題」に一応の決着がつけられ、1880年代のヨーロッパは「ビスマルク体制」のもとで一応の安定がもたらされたかに思われた。しかし実際にはバルカン諸民族はこのベルリン会議の決着に納得しておらず、バルカン半島は紛争の火種を抱えて「ヨーロッパの火薬庫」でありつづけた。

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063 2025/06/16(月) 01:19:58 ID:F6HLHV7qUg
>>5
Sundown towns(sunset towns, gray towns, sundowner townsとも)は
米国における白人だけの自治体または地区を指す。差別的な地方法、脅迫、暴力などを用いて非白人を排除する、一種の人種隔離政策を実施していた町である。1950年代以前に最も蔓延していた。この用語が使われるようになったのは、「有色人種」に対し日没までに町を去るよう指示する標識があったためである。サンダウン郡とサンダウン郊外も創設されました。 1968年の公民権法成立に伴い、サンダウン法は違法となりましたが、一部の評論家は、21世紀の特定の慣行がサンダウンタウンの修正版を存続させていると主張しています。これらの現代的な慣行には、地方警察や保安官事務所による人種プロファイリング、公共芸術の破壊行為、民間人による嫌がらせ、ジェントリフィケーションなどが含まれます。
 差別的な政策や行動によって、サンダウンタウンと、人口統計上の理由で黒人住民がいない町が区別される。歴史的に、新聞記事、郡の歴史、公共事業促進局のファイルによって、サンダウンタウンであることが確認されてきた。この情報は、税務記録や米国国勢調査記録によって裏付けられており、黒人が存在しない、あるいは2回の国勢調査の間に黒人人口が急激に減少していることが示されている。

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064 2025/06/16(月) 01:46:18 ID:F6HLHV7qUg
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Nadir of American race relations/アメリカの人種関係のどん底
アフリカ系アメリカ人の歴史、そしてアメリカ合衆国の歴史において、1877年のレコンストラクション(南北戦争で奴隷制のシステムが崩壊した後の問題解決期を意味する米国史の用語)の終わりから20世紀初頭までの期間であり、この期間には、国内の人種差別、特に黒人に対する人種差別が、国家史上他のどの期間よりも公然と、そして顕著に表れた。この期間中、アフリカ系アメリカ人はレコンストラクション中に獲得した公民権の多くを失い、黒人に対する暴力、リンチ、人種隔離、合法化された人種差別、そして白人至上主義の表現はすべて増加した。アジア系アメリカ人とヒスパニック系アメリカ人もまた、こうした感情から逃れられなかった。
 2006年ジェームズ・W・ローウェンの見解では、真のどん底は、1890年頃に北部の共和党員が南部の黒人の権利支持をやめたときに始まり、1941年に米国が第二次世界大戦に参戦するまで続いた。この期間は、1873年の金融恐慌と綿花価格の継続的な下落に続き、金ぴか時代と進歩主義時代の両方と重なり、全国的なサンダウンタウン現象によって特徴づけられ、いわゆる黄禍論への恐怖から生じた反中国人差別、より広範な反アジア人差別の最悪期でもあった。これには、チャイナタウンやデンバーの破壊などアメリカ西海岸での嫌がらせや暴力、またカナダにおける反アジア人差別、特に1882年の中国人排斥法の可決後の

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065 2025/06/24(火) 02:51:40 ID:bf.DBedy2c
1726年に初版が出版された、ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』には日本が登場する。
日本とオランダは常に対照性を成して描かれており、18世紀初頭、農業国から通商国家へと変貌を遂げつつあったイギリスのあるべき姿を、これら両国がいわば陽画と陰画として示している。16世紀半ばの鉄砲伝来、キリスト教の布教から、1639年の南蛮(ポルトガル)船入港禁止による鎖国の完成に至るほぼ1世紀の間、西洋の文物は日本に盛んに流入した。イエズス会士の宗教的熱情に負う部分が大きく、その受容のレベルはかなりのものであったが、本作に先行する1669年アルノルドゥス・モンタヌスの『日本誌』(『東インド遣日使節紀行』)において日本人のキリシタン迫害の残酷さは強烈に印象付けられており、ヨーロッパ中心史観からすれば受け入れにくいことに、イエズス会の宣教にもかかわらずキリスト教化することのなかった日本が、戦国時代の内戦を乗り越え精緻な政治体制を築き上げ、キリスト教を禁じ弾圧までしていた江戸幕府の要求をオランダは日本との貿易を確保するために、次々と受け入れていた。『ガリヴァー旅行記』の日本人は海賊であっても、信義を守り、寛容でもあるように描かれ、貿易がもたらす社会の変化を、徹底的に通商を管理することで防ぎつつ、貴重な情報や物品だけを受け入れることで日本の鎖国政策は成功していた。

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066 2025/06/24(火) 02:59:09 ID:bf.DBedy2c
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第3篇の冒頭では、海賊船の一味として率先してガリヴァーらを傷つけようとするオランダ人にたいして、異教徒であり一般には残酷で且つ執念深いということにされている日本人船長が寛大さを示す図式が描かれ、しかも、この旅行記は長崎のあらゆるオランダ人は貿易のために合法的に来ている者であろうとなかろうと皆「踏み絵」をさせられていたことを前提としている。スウィフトが「日本」や「日本人」を用いたのはオランダ人に対する諷刺を強力にするためだと考えられ、第3巻の最後に日本を訪れたガリヴァーは、自分は遠い遠い世界の果てで難破して自力でラグナグまではやって来たオランダ商人だと名乗るが、オランダ人と同様に課せられる踏絵の儀式を前に皇帝に踏み絵を免除してもらうように嘆願する。すると皇帝はそのような申し出をするのはガリヴァーが初めてであり、おまえは本当にオランダ人なのか、キリスト教徒ではないのかと不審がるが、ラグナグ王の親書などで免除される。これは明らかに、商売のためなら信仰を平気で犠牲にするオランダ人に対する皮肉と見られ、おそらくイギリスの膨張的海外進出すら諷刺しているものと思われる。さらに、その行に関しては「イギリス人による一般的な反オランダ表象ではなく、またもちろん、スウィフトの反オランダ的意図による創作でもなく、むしろ、オランダ人自身の「そんなことで尻込み」しない自国民の勇気を讃えた記述をそのままなぞる形」であるという解釈もある。

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067 2025/06/24(火) 03:03:12 ID:bf.DBedy2c
江戸で将軍との拝謁を許されたガリヴァーは護衛をつけてもらいNangasac(長崎)へ移動、そこからオランダ船に乗って帰国し、日本から帰国するガリヴァーが乗った船の名が、1623年にアンボイナ事件の起きた土地であるアンボイナ号 (the Amboyna)と名付けられている。これはイギリスが海洋国家へ進むならば嫌悪すべきオランダを真似なければならず、対照的に貿易によらずして繁栄している日本は明らかにイギリスが進むべき方向ではありえない、実現不可能な理想郷、文字通りのユートピア(どこにもない場所)で、『ガリヴァー旅行記』に描かれた日本は、他の架空の国同様、18世紀ヨーロッパにとっての日本のイメージを集めて、オランダのイメージと対立するものとして構成されたものであることを表現している。

最後にガリバーは『旅行記』を書いて出版した目的を語る。「親愛なる読者よ、わたしの十六年七ヵ月あまりにわたる旅の忠実な記録をここにお届けしよう。文章を飾るより、まず真実のみを語ることに重点を置いたつもりだ。ほかの旅行家たちのように、とうてい本当とは思えない不思議な話ばかりを並べれば、読者を驚かせることもできただろう。だが、わたしはありのままの事実を飾らずに記録する道を選んだ。読者を楽しませることではなく、真実を伝えることが主たる目的だったからだ。」

『ガリヴァー旅行記』は、アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトにより、仮名で執筆された風刺小説である。原版の内容が大衆の怒りを買うことを恐れた出版社により、大きな改変を加えられた初版が1726年に出版され、1735年に完全な版が出版された。

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068 2025/06/24(火) 03:12:03 ID:bf.DBedy2c
[YouTubeで再生]
18世紀のヨーロッパでは、外国語作品の翻訳がますます普及しました。仏↔英語は一般化し特にアラビア語からギリシャ語まで、ほぼすべての主要言語で書かれた作品も同様に急増しました。スクリブレス・クラブは18世紀初頭に結成されたロンドンを拠点とする作家たちの非公式な団体で、その中核の人物にジョナサン・スウィフトが居ました

スウィフトは駐オランダイギリス大使を務めたこともあるウィリアム・テンプル の秘書を1690年代に務めていたことがあり、オランダ経由の日本情報を得ていた可能性が指摘されている。

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069 2025/07/03(木) 00:00:23 ID:wdMDwW2ZmY
国際通貨制度の歩み 国際金本位制が成立するまで
国内取引や国際取引に,各地域の多様な金属貨幣が,金銀の純度に応じ,そのときどきの金銀比価・相場によって使われた。そのほかに政府紙幣,中央銀行券,一般銀行の預金通貨も使われるようになった。
金本位制は,まず英国で,ナポレオン戦争が終わってしばらくした1816 年,戦費増大による正貨流出の恐れがなくなってから成立した。ついで1871 年,ドイツが,普仏戦争で得た賠償金をもとに金本位制に踏み切り,ドイツと密接な貿易関係にある北欧諸国が続いた。米国では南北戦争中に停止されていた金兌換が,1879 年に再開された。日本はドイツと同じ1871(明治4)年に新貨条例によって,形式は金本位制になった。日清戦争での賠償金をもとに,ちゃんとした金本位制になったのは1897(明治30)年10 月である。そして現在までの国際通貨制度の推移は,表1 のとおりで、金本位制は,第1次世界大戦で中断された。再建されたが,世界大恐慌を生み出した。景気回復のためには,金本位制を停止して,管理通貨制度に移る必要があった。しかし各国は,輸入を抑え,輸出を伸ばそうとして,為替切り下げ,関税引き上げを競い,第2 次世界大戦を招いた。こうしたことを反省して,ブレトンウッズ体制がつくられた。国内は,景気変動の緩和と完全雇用を目指す管理通貨制度,そして国際は,ドルに固定した為替相場で管理,というわけである。ところが,ドルがばらまかれて信用を失い,変動相場制になり,再建された固定相場制も成功せず,再び変動相場制に戻って40 年,今なお為替の競り合い(関税も)やマネーの暴走などが続いている。

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070 2025/07/03(木) 18:36:55 ID:wdMDwW2ZmY
>>69 兌換性(だかんせい、Convertibility)
が最初に重要な問題となったのは、貨幣供給において紙幣が実物貨幣に取って代わり始めた時期である。金本位制と銀本位制の下では、紙幣は額面どおりの価値で硬貨と交換できたが、破綻した銀行や政府は、準備金を過剰に保有することが多い。歴史的に見ると、銀行券は西欧諸国で共通の、あるいはよく似たパターンをたどってきた。もともと分散化され、さまざまな独立銀行から発行されていた紙幣は、次第に国家の管理下に置かれ、中央銀行の独占的特権となった。その過程で、銀行券は実物貨幣(金や銀)の代用品に過ぎないという原則は徐々に放棄されていった。金本位制のもとでは、たとえばブレトンウッズ体制の下では、発行銀行は自国通貨を金地金、または米ドルに交換する義務を負い、米ドルは1トロイオンスあたり35ドルの公定レートで金地金に交換できた。金準備の増加には限界があり、ドル供給が大きくインフレしたため、米国は1974年に金為替本位制と金地金兌換bullion convertibilityを廃止した。
現代の国際通貨体制では、通貨は発行者(政府や中央銀行)の不換紙幣に基づいて発行され、有形資産への兌換は保証されていない。

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