神功皇后
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001 2012/01/23(月) 06:45:51 ID:KZcAH0axbE
神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) - 神功69年4月17日(269年6月3日))は、
仲哀天皇の皇后。『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・
大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・
葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、
この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。
※ウィキより抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%...
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024 2014/09/09(火) 13:46:25 ID:ZXYn5NON.I
>>22 たぶん・・・
貴方の中ではより詳しい想像・想定があるんだろうけど、
>>22の文章だけ読まされても、
とっちらかり過ぎてて、正直何が何やら。
在位年数・寿命が「記されている通り」だとは今更誰も思っていないだろうが、
それにしたって当時の平均寿命からどうだこうだというのはちょっと酷い。
>景行がクマソ征伐に来たときには女しゅう長が鏡をぶら下げて出迎えた。
とか
>景行は女しゅう長の敵対国を幾つか攻めた。
とか言われても、何を根拠にそう言っているのかまったくわからない。
>()内は空想部分
と注釈をつけているが、()外も、事実を根拠に推論したのか空想なのかわからない。
(というか、空想にしか聞こえない)
その上、「翌年、神功に従わなかった仲哀はバチがあたって死んだ。」は()外なんだけど、
どう判断したものやら。
自分の考えを説明したい熱意は感じるんだけど、もう少し丁寧に順を追ってしたらどうだろうか。
そんな労力嫌だ、これで解らない奴は理解力が無いとか言い出すなら困るが。
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025 2014/09/09(火) 16:46:32 ID:0QQnKH0zk2
>>24 >景行がクマソ征伐に来たときには女しゅう長が鏡をぶら下げて出迎えた。
>景行は女しゅう長の敵対国を幾つか攻めた
おそらく、日本書紀の景行天皇の話だと思う。
周防の沙婆(山口県防府市佐波)で女酋長の神夏磯姫(かむなつそひめ)が降伏する話がある。
磯津山の榊を抜き取って、上の枝には八握の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け
下の枝には八坂瓊を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、天皇の使いの夏花を迎えて降伏する。
そして服従しない4人の悪い賊たちがいると言って景行天皇に討たせる。
一人目は莵狭(宇佐)の川上にたむろしている鼻垂(はなたり)。
二人目は御木(御毛? 大分県上毛郡、下毛郡)の川上に住む耳垂(みみたり)。
三人目は高羽(田川:遠賀川上流)の川上に住む麻剝(あさはぎ)。
四人目は緑野(遠賀川沿いで田川より上流付近)に住む土折猪折(つちおりいおり)。
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026 2014/09/09(火) 17:03:02 ID:0QQnKH0zk2
>>24 >翌年、神功に従わなかった仲哀はバチがあたって死んだ。
この話は日本書紀にある。
神が神功皇后に乗り移り仲哀天皇に新羅を討てとの神託を出すが
仲哀天皇は山から新羅が見えない本当に新羅あるのと疑う、で熊襲を攻撃するも勝てずに帰る
神の言葉を信じなかったたことが理由で翌年死亡。
ちなみに、古事記にも似たような話があるけど翌年ではなく、すぐ死ぬ
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027 2014/09/09(火) 17:51:17 ID:W/bvbscbcs
>>25-26 いや、そういうことじゃなくてね。
在位年数は信じない、書かれている出来事のこっちは信じる、こっちは信じない。という判断基準の話。
仲哀天皇が神の言葉を蔑ろにした直後(もしくはしばらく後)亡くなった話とか、
熊襲征討の話とかは知っているんだけど、それを「何によって真偽判定しているか」ということ。
これらは言ってみれば記紀に「そう書かれていた」というだけの話なんだから、
この記述が信用出来るとかこの記述は信用出来ないとかは別の根拠・論拠が必要になるでしょ?
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028 2014/09/09(火) 19:25:06 ID:Ktrs.MxL.M
>>27 ああ、そういうことね
個人的に仲哀天皇の話や景行天皇の話は解釈次第で問題ないかなとは思う
ただ確かに在位期間に関しては穴が大きいかな
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029 2014/09/09(火) 19:29:36 ID:Ktrs.MxL.M
>>20 >三朝鼎立時代を三朝縦列にして正統性を持たせ、中国の文献上の「漢倭奴国王」と整性を持たせるにはAD57年は外せない。
この意味がよく分からねえ、教えてくれ
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030 2014/09/09(火) 20:27:18 ID:9ZFY..uZQM:au
>29
金印「漢倭奴国王」を記者が知らない可能性は低い。
大国主は高天ヶ原の使者「天若日子」を手なずけて娘の婿にしちまった。
大国主の親父はスサノオである。
国をいっぱい持っているから大国主である。
「天若日子」と大国主の娘にできた子は高天ヶ原集団に極めて近い。継体朝がイズモ族から出てもおかしくない。
大国主の親父、スサノオは最初は新羅に天下らされた。
新羅は4世紀成立だから国譲りは4世紀以後。
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031 2014/09/09(火) 21:26:51 ID:/fp.jGWh8w
まぁ漢委奴国王については知っていただろうね
古事記なり日本書紀を書いた人は知っていたと思う
あなたの考える高天ヶ原の使者「天若日子」は畿内崇神系? それとも九州勢力?
継体朝がイズモ族とあるけど地域的にはどこ?
出雲かその周辺でいいのかな?
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032 2014/09/09(火) 21:43:39 ID:W/bvbscbcs
なんかもう、神話と歴史をごっちゃに(しかも根拠無く)しているようにしか見えないよ。
歴史的事実が神話に投影・反映されている可能性は当然否定しないけど、だからといって
神話にある全てに歴史的事実が隠れていると決まったわけでもない。
出雲に相当な勢力があったのは近年の発掘調査で確認されているが、それが大和王権に
どうかかわっていたかはまだまだ解明されていない。
仮定して推論するのは良いが、もう少し地に足がついた「推論(根拠に基づく)」でないと、
否定も肯定も考察も出来ない。
せめて、なぜ自分がこれを歴史的事実だと捉えたとか、そこらへんの説明から始めるべきでは。
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033 2014/09/09(火) 22:14:39 ID:9ZFY..uZQM:au
継体は越国の人。これは素直に読む。越のヌナカワ姫は大国主の嫁だから越国の力を継体が借りたかもしれない。
天若日子は高天ヶ原出身だから九州神功集団か近畿崇神集団のどちらから出ても王権に辻褄が合ってしまう。
大国主は大物主を三輪山に祭ったので潜在的主権は近畿にもある。
天若日子が応神の子であれば、武烈の後を襲っても納得できると思う。
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034 2014/09/09(火) 22:43:41 ID:/fp.jGWh8w
大国主はどこの勢力に国譲りしたの?
そしてどの天皇か神に国譲りしたの?
武烈は畿内勢力?
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035 2014/09/09(火) 22:57:37 ID:/fp.jGWh8w
(出雲)スサノヲ—大国主—天若彦(婿)
(九州)神功皇后—応神天皇—天若彦
あなたの言う系図はこうなるよね
倭の五王は九州勢力のようなので、天若彦は仁徳天皇のこと? それとも別人?
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036 2014/09/10(水) 07:38:10 ID:fcnnV4nbZw:au
>35
天皇の家系につながる誰か。天皇ではない。兄弟か従兄弟かな?
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037 2014/09/11(木) 07:27:13 ID:QlN3Hx70Js
>>33 >継体は越国の人。これは素直に読む。
いやだからさ、それは何故?というところを説明するのが前提では・・・?
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038 2014/09/11(木) 19:27:49 ID:GJY4DJBVmQ:au
>37
継体の父彦主人(越)は若死にした。
母振媛(近江)は越で暮らしたので継体も越で育った。
越は大国主の勢力圏(ヌナカワ姫は大国主の嫁)だったので国譲り後に神功応神の勢力圏にあってもおかしくない。
天皇候補者は二人いた。仲哀(崇神朝)五代の孫(丹波を勢力圏にしてた)は軍勢を見て逃げた。応神朝武烈派に攻められると思った。
応神五代の孫(継体)はうまい話ににわかには乗れない。武烈がむちゃくちゃやってたからホイホイノコノコ出かけたら自分が殺される。
そこで使いを出して大臣大連に聞いたら本当らしい。
しかし武烈派(応神朝)と大臣大連連合(崇神朝、出雲朝、クマソ、蘇我など)の抗争は続いている。
多分宮廷クーデターが起こったんだろうと思う。欽明朝の争い(蘇我、物部、聖徳太子の三つ巴)はその後始末。
応神治世40、仁徳治世80年はどうかな?と思うけどその他はあんまりの無理はない。
このころから記紀を歴史書として読めるんだろうが、難しい字が多すぎるので困る。
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