レス数が 475 を超えています。500を超えると表示できなくなるよ。
闇の女パンパンガールのいた街角
▼ページ最下部
戦後の焼け跡に公娼よりも早く現れた街娼たち。洋装文化をいち早く採り入れ、官庁街や銀座のOLを始め、わざわざ東北の教員までが立ちんぼになった時代があった。肉体の門の世界だ。貧困ではなく、戦災未亡人でもなく、なにゆえ女達は身体を鬻いだのか?


※省略されてます すべて表示...
国債残高:約1,100兆円(2023年)
日本銀行保有:約500~600兆円(約50%)
民間(銀行、保険会社、年金基金など):約400兆円
海外投資家:約100兆円
ベースマネー:約600兆円
というのが今の日本だと言うならば、日銀保有が600兆だとして、国債残高の500兆から海外投資家100兆を引いた400兆の国債を買う資金力は民間にあったわけだ。それは、一時的に償還期限までは市中から吸い上げられているわけだよ。市中で流動するマネーで2024年度GDP609兆を生み出したんだな。
単年度では直近2024年度160兆円の国債発行に対して、借換え分は125.3兆円、新規国債は、34.9兆円に過ぎない。つまり、8割近くが完全なる死金に向かう。GDPの8割の400兆でほぼ死金の国債残高を買い支えている経済が、この日本。
民間保有国債400兆の大半は財政支出済みの国債借換えだから、直近では、35兆円だけが財政支出に結びついたのみ。GDP609兆円のうち574兆円は、政府と関係なく民間だけで生み出したんだな。GDPにおける財政支出寄与度は、5.7%に過ぎない。
日本銀行保有:約500~600兆円(約50%)
民間(銀行、保険会社、年金基金など):約400兆円
海外投資家:約100兆円
ベースマネー:約600兆円
というのが今の日本だと言うならば、日銀保有が600兆だとして、国債残高の500兆から海外投資家100兆を引いた400兆の国債を買う資金力は民間にあったわけだ。それは、一時的に償還期限までは市中から吸い上げられているわけだよ。市中で流動するマネーで2024年度GDP609兆を生み出したんだな。
単年度では直近2024年度160兆円の国債発行に対して、借換え分は125.3兆円、新規国債は、34.9兆円に過ぎない。つまり、8割近くが完全なる死金に向かう。GDPの8割の400兆でほぼ死金の国債残高を買い支えている経済が、この日本。
民間保有国債400兆の大半は財政支出済みの国債借換えだから、直近では、35兆円だけが財政支出に結びついたのみ。GDP609兆円のうち574兆円は、政府と関係なく民間だけで生み出したんだな。GDPにおける財政支出寄与度は、5.7%に過ぎない。
日本の場合、総債務>GDPが、常態化。
政府債務(約250%)、企業債務(約115%)、家計債務(約65%)を単純合計すると、非金融部門の総債務はGDPの約430%(4.3倍)。
これは、世界的傾向でもある。
原因は、経済成長の鈍化、定常化への対策だろうが、グローバル化、格差社会化と金融資本主義が国家も巻き込んだ借金体質へと導き、成長鈍化をもたらしたとも言え、ただ単に成長鈍化したからではなさそうだ。成長鈍化なら、実物制約に衝突して行き詰まりねばならないが、実物制約に衝突しないマネーの輪舞が、成長鈍化と総債務>GDPを招いていそうだ。
貪欲なグローバル金融市場、金融資本主義と格差社会が?格差社会は、ポピュリズムを生み、金融資本主義は、マネーをだぶつかせる。MMTは、ポピュリズムの援護射撃になり、マネーがダブつくことを容認するからこそ、資本主義への引導となる。
資本主義は、その成功により定常化し、共産化するという、シュンペーター予言かな?
実物取り立て券は、政府も民間も使用する。本来、実物選択は誰がすべきなのか?政府か?個々人か?前者が共産主義、後者が自由市場主義。
政府の財政支出は、政府による実物取り立てに他ならない。
個々人とか選択とか言っても商品サービスは企業組織が発見し、誂えるものよ。実物との邂逅は、民間に撒いた実物取り立て券によって企業が見出すものであり、政府じゃない。実物取り立て券は、民間に流通した方が世の役に立つ。
政府の財政支出は、政府による実物取り立てに他ならない。
個々人とか選択とか言っても商品サービスは企業組織が発見し、誂えるものよ。実物との邂逅は、民間に撒いた実物取り立て券によって企業が見出すものであり、政府じゃない。実物取り立て券は、民間に流通した方が世の役に立つ。
徴税とは、実物取り立てなんだから、実物取り立て券を発行するのは別に目新しいことじゃない。実物取り立て「権」をチケット(券)にしただけ。別に無から有を生み出したわけじゃない。だが、チケットにしたがゆえに、民間にも流通させることが出来るようになり、更には、実物から乖離することが出来るようになった。遂には、実物とは、永久に邂逅しないチケットが浮遊して経済をスタックさせたり、バブル化したり、クランチさせたり暴れまわり始めた。しかるに、民間に流出したマネーこそが、イノベーションの原動力となり、実物を探り当て、創り出し、供給を生み出しても来たことは決して過小評価すべきではない。オイルショックは、絶対的供給制約ではなかったし、マルサス的食糧制約も絶対的ではなかった。明らかに政府が努力したわけではなく、マネーを撒かれた民間の功績だ。実物に邂逅しないチケットとは、償還もされず溜め込まれた日銀購入国債や財政支出に結びつかない借り換えし続けられる山積みの国債の方だ。
だからといって国債を発行した政府を責めるのは酷というもの。政府が責めを負うべきは腐敗と政治無能だろう。
だからといって国債を発行した政府を責めるのは酷というもの。政府が責めを負うべきは腐敗と政治無能だろう。
税と国債をマネーの起点にし、財政支出で市中に撒くは、マネーの唯一の生産ルートではない。銀行の信用創造というやつがある。
日本では明治政府以来金本位制で金準備を裏付けにマネーを発行してきたが、国債、外債など政府債務も発行して財政支出をまかなった。それは、第一に政府の必要な支出(お取り寄せ)のためであり、市中にマネーを撒くためではなかった。
金本位制の制約を外した代わりに日銀当座預金という制約を課してベースマネーとしたが、それだけでは緩いからBIS規制という制約も付加した。クレジット・クランチ予防策だ。
アメリカは基軸通貨ドルだから基準なし。連邦準備金準はあるが、義務は2020年に解除され、任意。ユーロは、ユーロを準備金にしてるから日銀当座預金に似ている。
かつて企業なき時代、中国の官窯やイギリス王立造船所みたいに政府が企業のごとく技術革新や発明、発見を担った事もあっただろう。しかし、世に既にあるものから必要なものをチョイスするだけの単なる消費購買者を長くやり続けた政府には、もはや、お買い物しか出来ない。
だから、マネー供給も大事な仕事などと嘯いてみせにゃまるっきり立場がないだけ。
MMTは、然り然りと擁護する太鼓持ち。
日本では明治政府以来金本位制で金準備を裏付けにマネーを発行してきたが、国債、外債など政府債務も発行して財政支出をまかなった。それは、第一に政府の必要な支出(お取り寄せ)のためであり、市中にマネーを撒くためではなかった。
金本位制の制約を外した代わりに日銀当座預金という制約を課してベースマネーとしたが、それだけでは緩いからBIS規制という制約も付加した。クレジット・クランチ予防策だ。
アメリカは基軸通貨ドルだから基準なし。連邦準備金準はあるが、義務は2020年に解除され、任意。ユーロは、ユーロを準備金にしてるから日銀当座預金に似ている。
かつて企業なき時代、中国の官窯やイギリス王立造船所みたいに政府が企業のごとく技術革新や発明、発見を担った事もあっただろう。しかし、世に既にあるものから必要なものをチョイスするだけの単なる消費購買者を長くやり続けた政府には、もはや、お買い物しか出来ない。
だから、マネー供給も大事な仕事などと嘯いてみせにゃまるっきり立場がないだけ。
MMTは、然り然りと擁護する太鼓持ち。
中国の場合は、貿易黒字がマネーの起点で財政支出によって市中に撒かれている。だから、トランプは、中国の生命線を断つべく関税戦争を仕掛けた。日本も、敗戦後、戦争不能国家にするためドッジ・ラインで一時期赤字国債を禁止された。国債があるから戦争ができるのだという理屈からだ。
中国の場合は、国家が国有資源を使って稼ぐ一企業のようだ。税は、財源の一部だが、些細なもので、制御コントロールのための規制、抑制目的の罰金、ペナルティみたいに運用されている。
中国の場合は、国家が国有資源を使って稼ぐ一企業のようだ。税は、財源の一部だが、些細なもので、制御コントロールのための規制、抑制目的の罰金、ペナルティみたいに運用されている。
「国債発行は、政府支出で生まれたマネーを『民間から一時的に引き上げる』行為。
つまり、課税と同じくインフレを抑える手段」は間違い。
国債も税収も財政支出に使われるから、インフレ抑制目的には使えない。課税は、一時的な冷水にはなれど長期的にはインフレ中立的。供給制約下の物価高には有効だなどと粘るのは、主流派経済学もMMTも似たりだが、絶対的供給制約などというものは誰も見たことない幻だ。むしろ、国債の場合には、財政支出と償還のダブルでマネーを供給するから、インフレ圧力になる。償還は、元本返却だから中立的だが、財政支出か純粋な供給となる。国債借り換えもインフレ中立的。
徴税は、排泄にもシュレッダーにもならない。MMT過激派の徴税に向ける視線は独特だ。インフレ退治の唯一の特効薬にして排泄行為。
つまり、課税と同じくインフレを抑える手段」は間違い。
国債も税収も財政支出に使われるから、インフレ抑制目的には使えない。課税は、一時的な冷水にはなれど長期的にはインフレ中立的。供給制約下の物価高には有効だなどと粘るのは、主流派経済学もMMTも似たりだが、絶対的供給制約などというものは誰も見たことない幻だ。むしろ、国債の場合には、財政支出と償還のダブルでマネーを供給するから、インフレ圧力になる。償還は、元本返却だから中立的だが、財政支出か純粋な供給となる。国債借り換えもインフレ中立的。
徴税は、排泄にもシュレッダーにもならない。MMT過激派の徴税に向ける視線は独特だ。インフレ退治の唯一の特効薬にして排泄行為。
徴税が、一切の財政支出を伴わなければシュレッダーにもなるだろうが、そもそも徴税とは、財政支出の姿をしていたものだ。租庸調は、一方通行の政府召し上げ。消費されるのは実物であり、貨幣ではない。
「徴税は、排泄、シュレッダー」とは、財と貨幣とが反対方向に流れる貨幣経済を一体何年営んできての台詞かや?
「徴税は、排泄、シュレッダー」とは、財と貨幣とが反対方向に流れる貨幣経済を一体何年営んできての台詞かや?
政府債務は市中貨幣供給のためなんかじゃなかったろ。市中貨幣供給なら、中国は、外需主導で貿易黒字からマネー管理通貨制を運用してるわ。
貨幣供給基準は何だって良いんだよ。
日本の場合
社会保障・公共事業・票田対策 etc...
予算が足りないから仕方なく借金
でも国債発行は政治的には“痛くない”
それが積み重なって「結果として」貨幣供給されただけ。
ETF購入も含む量的緩和は、意図的、計画的なベースマネー増大策だったが、成功しなかった。民間資金需要に火がつかなかったから種火にもならなかった。資産バブル形成で格差社会を強化し、歪な債務型社会を作り上げただけ。
中国の貨幣供給は“意図された政策”
日本の貨幣供給は“帳尻合わせの副産物”
同じ「貨幣供給」でも、まるで意味が違う。
結果論だけで国債残高を「経済安定化の要」と持ち上げるのは、筋が悪い。
重要なのは、「なぜそういう制度設計で、何を目的として、何を結果として得たのか」っていう順序。
貨幣供給基準は何だって良いんだよ。
日本の場合
社会保障・公共事業・票田対策 etc...
予算が足りないから仕方なく借金
でも国債発行は政治的には“痛くない”
それが積み重なって「結果として」貨幣供給されただけ。
ETF購入も含む量的緩和は、意図的、計画的なベースマネー増大策だったが、成功しなかった。民間資金需要に火がつかなかったから種火にもならなかった。資産バブル形成で格差社会を強化し、歪な債務型社会を作り上げただけ。
中国の貨幣供給は“意図された政策”
日本の貨幣供給は“帳尻合わせの副産物”
同じ「貨幣供給」でも、まるで意味が違う。
結果論だけで国債残高を「経済安定化の要」と持ち上げるのは、筋が悪い。
重要なのは、「なぜそういう制度設計で、何を目的として、何を結果として得たのか」っていう順序。
貨幣供給の「目的」は、大きく3つに分類できる:
1. 内需主導型(消費や雇用を支える)
2. 外需主導型(輸出産業の支援・通貨管理)
3. 投資主導型(インフラ、技術、資本形成)
どのモデルを採用してるかで、貨幣の供給方法・基準が変わる。
【アメリカ】内需・ドル基軸型
中央銀行(FRB)が「雇用最大化+インフレ目標2%」を達成するようマネー供給
財政出動も金融緩和も景気循環をコントロールする手段
要は、国内景気&ドル体制の安定が基準
【中国】外需+国家資本主義型
貿易黒字で外貨(ドル)を稼ぎ、自国通貨(人民元)と交換
元の供給は、人民銀行が為替政策と国家産業戦略に基づいて調整
要は、戦略的産業支援+為替管理=供給基準
【ユーロ圏】インフレ管理最優先型
ECBは「物価安定(2%目標)」が最上位の目標
各国の財政は自由度が小さい(財政規律あり)
要は、マネー供給の基準=物価とECBの金融政策ルール
【日本】景気刺激&制度慣行型(←ここが特殊)
目的が曖昧。歳出のための国債発行→日銀買いオペでマネー供給
でも雇用政策や産業戦略に明確な基準がなく、「帳尻合わせ」感強い
要は、基準が曖昧+惰性的な供給
つまり、他国は
「何を目的に、どれくらいの貨幣を、どのルートで供給するか」
を国家戦略レベルで決めている
それに対して日本は戦略性がない。目的も曖昧。
結果、国債という副作用的な仕組みで「気づいたら供給されていた」って感じ
1. 内需主導型(消費や雇用を支える)
2. 外需主導型(輸出産業の支援・通貨管理)
3. 投資主導型(インフラ、技術、資本形成)
どのモデルを採用してるかで、貨幣の供給方法・基準が変わる。
【アメリカ】内需・ドル基軸型
中央銀行(FRB)が「雇用最大化+インフレ目標2%」を達成するようマネー供給
財政出動も金融緩和も景気循環をコントロールする手段
要は、国内景気&ドル体制の安定が基準
【中国】外需+国家資本主義型
貿易黒字で外貨(ドル)を稼ぎ、自国通貨(人民元)と交換
元の供給は、人民銀行が為替政策と国家産業戦略に基づいて調整
要は、戦略的産業支援+為替管理=供給基準
【ユーロ圏】インフレ管理最優先型
ECBは「物価安定(2%目標)」が最上位の目標
各国の財政は自由度が小さい(財政規律あり)
要は、マネー供給の基準=物価とECBの金融政策ルール
【日本】景気刺激&制度慣行型(←ここが特殊)
目的が曖昧。歳出のための国債発行→日銀買いオペでマネー供給
でも雇用政策や産業戦略に明確な基準がなく、「帳尻合わせ」感強い
要は、基準が曖昧+惰性的な供給
つまり、他国は
「何を目的に、どれくらいの貨幣を、どのルートで供給するか」
を国家戦略レベルで決めている
それに対して日本は戦略性がない。目的も曖昧。
結果、国債という副作用的な仕組みで「気づいたら供給されていた」って感じ
そりゃ150年間も財政実務こなしてもMMT的発想、知見が財務当局に生まれないわけだよ。
むしろ150年も“家計簿思考”を叩き込まれてきたからこそ、MMT的な発想が根付かないとも言える。根付かなくていいんだけどね。
永久凍土形成の理由は、インフレ抑制か?いやいや、借り換えせず税収で都度国債償還してれば、こんなGDP2.6個分の国債残高は積もらず、インフレ懸念もなく、貨幣対消滅オカルトに怯えることもなく、正反対物のハイパーインフレ物語やデフォルトスリラーで国民を脅したり、金利負担制約に頭悩ませ苛つくこともなかった。
なぜ借り換え一辺倒で国債残高のエベレストを築き上げ続けたのか、まともな理由はどこにもない。税金の一時的冷水効果に怖気づいたくらいしか思いつかない。借り換え国債購入におびき寄せるなら税金吸い上げとあまり変わらないんだがな。
優秀なる財務官僚神話はもうやめた方が良い。パンシャブ接待大蔵省バッシング以来ではなく、最初から会計事務屋は、日本の将来を考えた仕事をしてはこなかった。
むしろ150年も“家計簿思考”を叩き込まれてきたからこそ、MMT的な発想が根付かないとも言える。根付かなくていいんだけどね。
永久凍土形成の理由は、インフレ抑制か?いやいや、借り換えせず税収で都度国債償還してれば、こんなGDP2.6個分の国債残高は積もらず、インフレ懸念もなく、貨幣対消滅オカルトに怯えることもなく、正反対物のハイパーインフレ物語やデフォルトスリラーで国民を脅したり、金利負担制約に頭悩ませ苛つくこともなかった。
なぜ借り換え一辺倒で国債残高のエベレストを築き上げ続けたのか、まともな理由はどこにもない。税金の一時的冷水効果に怖気づいたくらいしか思いつかない。借り換え国債購入におびき寄せるなら税金吸い上げとあまり変わらないんだがな。
優秀なる財務官僚神話はもうやめた方が良い。パンシャブ接待大蔵省バッシング以来ではなく、最初から会計事務屋は、日本の将来を考えた仕事をしてはこなかった。
MMTは、税金は、貨幣の排泄、シュレッダーと喩えるけど、ウソだ。
財政支出するなら(借り換えでなければ必ずするのだが)、貨幣は市中に流れるわけだからだ。
民間から取り上げるのは民間裁量による実物取り立て執行権に過ぎない。
実物取り立て券たる貨幣を民間から召し上げ、政府が裁量するよ、というのが、税金。財政支出では、国債も税収も区別はされていない。国債も引き受け手がいる以上、償還期限までは実物取り立て券を吸い上げているから、買戻権付き有期税金擬きではある。つまり、対貨幣関係において、出口(支出=実物取り立て局面)はもちろん、入口(生成=実物取り立て券吸い上げ局面)でも税金と国債は大きくは違わない。
財政支出するなら(借り換えでなければ必ずするのだが)、貨幣は市中に流れるわけだからだ。
民間から取り上げるのは民間裁量による実物取り立て執行権に過ぎない。
実物取り立て券たる貨幣を民間から召し上げ、政府が裁量するよ、というのが、税金。財政支出では、国債も税収も区別はされていない。国債も引き受け手がいる以上、償還期限までは実物取り立て券を吸い上げているから、買戻権付き有期税金擬きではある。つまり、対貨幣関係において、出口(支出=実物取り立て局面)はもちろん、入口(生成=実物取り立て券吸い上げ局面)でも税金と国債は大きくは違わない。
でもMMTも、実物取り立てに関して国債と税金は区別がつかないと白状しつつ、差別化を維持して国債を生かし、税金を無機能化するレトリックを前面に出すんだよな。
つまり、国は必要なら金を生み出して実物を取り立てれば良い。すると、税金が余分になる。じゃあインフレ退治用シュレッダー機能を割り当てよう、これがMMT。こんなのがMMT。
つまり、国は必要なら金を生み出して実物を取り立てれば良い。すると、税金が余分になる。じゃあインフレ退治用シュレッダー機能を割り当てよう、これがMMT。こんなのがMMT。
実物取り立て券を民間から召し上げ、お前らにはやらせん。政府が裁量するよ、というのが、税金。単なる移動。だから、「定例共産化」みたいなもんや。
増税は、インフレ抑制目的には滅多に使えず、民間に信を置けない政府による強気の国家共産化計画だよ。イノベーション放棄=供給制約固定=定常化の末の社会主義化を予言したシュンペーターみたいなもんだ。資本主義社会にも官僚はいるからね。律令制の公地公民は徴税を正当化する理屈だが、まるで共産主義スローガンそのものだ。
供給制約下のインフレは、税金によって最も効果的に抑制されると言うが、財政支出されるなら、長期的には無効化する。MMTは、効果的インフレ抑制を税金に期待するから、財政支出から切り離す。切り離して排泄する。そんなわけはないのだが、頭の中で税金は、財政支出されないと信じる。
財政支出で供給制約を解除する方向に投資して成功するなら、インフレは沈静し、財政支出せず、供給制約に膝を屈してもインフレは沈静する。MMTは、膝を屈して定常化経済に引きずり込む思想、つまり、反シュンペーター、反イノベーション思想である。
共産主義思想だと言っても言い過ぎではない。
増税は、インフレ抑制目的には滅多に使えず、民間に信を置けない政府による強気の国家共産化計画だよ。イノベーション放棄=供給制約固定=定常化の末の社会主義化を予言したシュンペーターみたいなもんだ。資本主義社会にも官僚はいるからね。律令制の公地公民は徴税を正当化する理屈だが、まるで共産主義スローガンそのものだ。
供給制約下のインフレは、税金によって最も効果的に抑制されると言うが、財政支出されるなら、長期的には無効化する。MMTは、効果的インフレ抑制を税金に期待するから、財政支出から切り離す。切り離して排泄する。そんなわけはないのだが、頭の中で税金は、財政支出されないと信じる。
財政支出で供給制約を解除する方向に投資して成功するなら、インフレは沈静し、財政支出せず、供給制約に膝を屈してもインフレは沈静する。MMTは、膝を屈して定常化経済に引きずり込む思想、つまり、反シュンペーター、反イノベーション思想である。
共産主義思想だと言っても言い過ぎではない。
供給制約下では需要削減が物価を抑え、抑制効果が持続する場合もあることを主流派経済学もやけに強調、過大評価する。これは、民間の供給探索創出力を見くびっているのでなければ、供給制約に膝を屈し、順応する定常化経済志向の表れにすぎない。だが完全なる供給制約を見いだした経済学者も、政府も存在はしないのである。
雲を掴むようなイノベーションに期待するわけには行かぬ経済学は、MMTならずも、共産主義管理志向でしか存在できないのかもしれない。
いや、共産主義志向は言い過ぎか。しかし、経済学も、財政学や貨幣流通学に留まるならば、供給制約を所与として、貨幣量を弄る縮小均衡定常化理論に堕すしかあるまい。官僚もまた然り。
雲を掴むようなイノベーションに期待するわけには行かぬ経済学は、MMTならずも、共産主義管理志向でしか存在できないのかもしれない。
いや、共産主義志向は言い過ぎか。しかし、経済学も、財政学や貨幣流通学に留まるならば、供給制約を所与として、貨幣量を弄る縮小均衡定常化理論に堕すしかあるまい。官僚もまた然り。
MMTは、税金は排泄だと言い切るから、インフレ時に増税すればインフレが収まるとしか言わない不誠実さがある。真実は、税金は排泄ではないから、ちゃんと財政支出には使わず、溜まった政府債務の処理だけに使いなさいと言及するべきだ。さもないとトルコやアルゼンチンみたいに失敗する。
国家に巣食う官僚は、知らず識らずのうちに共産化に引き寄せられるということから、トランプとイーロンは、官僚組織をDS視して退治せねばと大ナタを振るったんじゃないのか?
財務省解体デモは、財務省の共産化を粉砕したいのなら正しいかもね。
官僚とは、如何なる社会体制にあっても共産主義的存在である、否、官僚機構は、如何なる社会体制にあっても計画的、統制的、管理志向的、財政支出バイヤー的(買物中毒、消費専門職)であり続ける。
財務省解体デモは、財務省の共産化を粉砕したいのなら正しいかもね。
官僚とは、如何なる社会体制にあっても共産主義的存在である、否、官僚機構は、如何なる社会体制にあっても計画的、統制的、管理志向的、財政支出バイヤー的(買物中毒、消費専門職)であり続ける。
MMTは大きな政府志向から共産主義化計画ではないかと疑われる。勿論無意識的なものだ。貨幣主権なる武器をたずさえて、国家資本主義を模倣し、官需依存経済へ舵を切るが本音。
財政機能強化は、民間抑圧政策だろ。
民間の自由な経済活動には信を置かず、政府主導で万事解決、国債バンバン発行して民間の自立性を奪い、国家の自立性は過大評価する。財政支出依存で隷属させて好きなだけ使役すればええ、みたいなスタンス(実際にはMMTは、財政支出などには関心はない)。
隠れ古代律令制かよ、と。しかも、それが腐敗の格差を生み出す、ときたもんだ。腐敗とは、公私混同のことだ。権限の強い内部エリート層だけでなくオーナーワンマン社長が会社を私することでも起こる。貨幣主権を持つ国家が財政ファイナンスで貨幣価値を棄損するなら、トップの公私混同による腐敗の姿に重なる。集団腐敗体制か、自爆独裁か選びなさいという罠か。利権創出や利益誘導などMMTが口を噤む実物取り立てプロセスに腐敗は起こる。
財政機能強化は、民間抑圧政策だろ。
民間の自由な経済活動には信を置かず、政府主導で万事解決、国債バンバン発行して民間の自立性を奪い、国家の自立性は過大評価する。財政支出依存で隷属させて好きなだけ使役すればええ、みたいなスタンス(実際にはMMTは、財政支出などには関心はない)。
隠れ古代律令制かよ、と。しかも、それが腐敗の格差を生み出す、ときたもんだ。腐敗とは、公私混同のことだ。権限の強い内部エリート層だけでなくオーナーワンマン社長が会社を私することでも起こる。貨幣主権を持つ国家が財政ファイナンスで貨幣価値を棄損するなら、トップの公私混同による腐敗の姿に重なる。集団腐敗体制か、自爆独裁か選びなさいという罠か。利権創出や利益誘導などMMTが口を噤む実物取り立てプロセスに腐敗は起こる。

MMTは、財政支出すら登場の必要がない。究極的にシンプルに表現するなら、こうだ。
「まず、政府が突如思い立って貨幣を造り、撒く。次に政府は貨幣を回収する、以上。撒いて回収するまでの間に民間で経済活動しなさい。」だけ。回収するのは貨幣を普及させるためが第一、第二がインフレになった場合の沈静化。政府には、財政支出ニーズはない。あっても本質ではなく、副次的なものに過ぎない。これがMMTの貨幣主権の研ぎ澄まされた姿だ。実物不在。貨幣だけの物語。これ経済学か?
「まず、政府が突如思い立って貨幣を造り、撒く。次に政府は貨幣を回収する、以上。撒いて回収するまでの間に民間で経済活動しなさい。」だけ。回収するのは貨幣を普及させるためが第一、第二がインフレになった場合の沈静化。政府には、財政支出ニーズはない。あっても本質ではなく、副次的なものに過ぎない。これがMMTの貨幣主権の研ぎ澄まされた姿だ。実物不在。貨幣だけの物語。これ経済学か?
MMTは実態とはあまり整合はしない。徴税だけで貨幣が対消滅などはしない。突如思い立って貨幣をどうやって撒くのかもよく分からない。支出=貨幣供給だから、国債などはいらないと考える。
政府は支出する自由があるだけ。
このシンプルな理論から、政府機能を最小化するプランも描けなくはない。貨幣を解き放った後は不干渉、受給ギャップだけ計測して臨機財政出動、インフレだけに反応して適宜利上げ、増税。これ以外は一切関与せず。
それではあれが足りぬ、これはどうなる、いろいろあろうが、ならば問う。課題とされるいちいちは、現政府機能ならば十分に満たしているかと。増税対象を富裕層に重くしたり、財政支出メニューを供給強化目的に振り向けたり、ミニマム政府機能であっても意思を込めることは可能だ。
まだ足りない、あれが足りない、これも用いたいならば、政策の手を縛る理由は別にない。但し効果が実証できるものだけを採用する、それが意思を込めるという意味だ。
もしも、MMTに基づきこちらルートに進めようという意思をもった政治家が現れるならば、MMTもそんなに悪いものじゃあないのかも知れない。
政府は支出する自由があるだけ。
このシンプルな理論から、政府機能を最小化するプランも描けなくはない。貨幣を解き放った後は不干渉、受給ギャップだけ計測して臨機財政出動、インフレだけに反応して適宜利上げ、増税。これ以外は一切関与せず。
それではあれが足りぬ、これはどうなる、いろいろあろうが、ならば問う。課題とされるいちいちは、現政府機能ならば十分に満たしているかと。増税対象を富裕層に重くしたり、財政支出メニューを供給強化目的に振り向けたり、ミニマム政府機能であっても意思を込めることは可能だ。
まだ足りない、あれが足りない、これも用いたいならば、政策の手を縛る理由は別にない。但し効果が実証できるものだけを採用する、それが意思を込めるという意味だ。
もしも、MMTに基づきこちらルートに進めようという意思をもった政治家が現れるならば、MMTもそんなに悪いものじゃあないのかも知れない。
MMT的には、財政支出も副次的で、必要ないくせに、財政支出=貨幣供給なのだが、財政支出なしにどうやって貨幣供給するのか?
できない。しかし。こう言い訳する。
政府が「貨幣を供給したいから支出する」のではなく、「経済を動かすために支出する」、その結果として貨幣が供給される。
つまり「目的=経済安定とフル雇用」「手段=貨幣供給を伴う支出」という因果構造なのだ、と。
できない。しかし。こう言い訳する。
政府が「貨幣を供給したいから支出する」のではなく、「経済を動かすために支出する」、その結果として貨幣が供給される。
つまり「目的=経済安定とフル雇用」「手段=貨幣供給を伴う支出」という因果構造なのだ、と。
よし分かった。今度は貨幣が副次的存在か。
ならば、貨幣を捨象しよう。
MMTは、財政支出する。目的は、経済安定とフル雇用。貨幣供給は目的ではない。
1)政府が財政支出をすると経済安定とフル雇用は実現しますか?
2)経済安定とフル雇用には、財政支出が必要ですか?
3)確か以前には財政支出は副次的であり、必須ではないと主張していましたが。
ならば、貨幣を捨象しよう。
MMTは、財政支出する。目的は、経済安定とフル雇用。貨幣供給は目的ではない。
1)政府が財政支出をすると経済安定とフル雇用は実現しますか?
2)経済安定とフル雇用には、財政支出が必要ですか?
3)確か以前には財政支出は副次的であり、必須ではないと主張していましたが。
>>446
1)への答え
MMTは 「Yes」 と言います。
とくに、不況時や失業があるときには、政府が財政支出を通じて「雇用の受け皿」になるべきだと強く主張します。
2)への答え
建前(MMT原理主義):
→ 財政支出は「必須ではない」。景気が勝手に良くなって、フル雇用になればOK。支出は必要に応じて使うツール。
本音(MMT実践論):
→ 現実の資本主義経済では、民間需要だけでフル雇用を達成するのは難しい。よってほぼ常に財政支出は必要。
3)への答え
はい、それは「民間がうまくやってれば政府は黙ってていい」という構図で、原理的にはそうです。
でも、実際はそんなうまくいかないから、常に政府が出動する構造になってる。
つまり、
理論上:必要に応じて行う政策手段(副次的)
現実上:構造的に常に必要(実質的に前提)
なんだこれ?
1)への答え
MMTは 「Yes」 と言います。
とくに、不況時や失業があるときには、政府が財政支出を通じて「雇用の受け皿」になるべきだと強く主張します。
2)への答え
建前(MMT原理主義):
→ 財政支出は「必須ではない」。景気が勝手に良くなって、フル雇用になればOK。支出は必要に応じて使うツール。
本音(MMT実践論):
→ 現実の資本主義経済では、民間需要だけでフル雇用を達成するのは難しい。よってほぼ常に財政支出は必要。
3)への答え
はい、それは「民間がうまくやってれば政府は黙ってていい」という構図で、原理的にはそうです。
でも、実際はそんなうまくいかないから、常に政府が出動する構造になってる。
つまり、
理論上:必要に応じて行う政策手段(副次的)
現実上:構造的に常に必要(実質的に前提)
なんだこれ?
馬脚が現れましたな。
理論上は、ミニマム政府と自由市場、
現実上は、共産主義、
それが、MMTという評価ですな、私は。
MMTは、「リバタリアンの衣をまとった共産主義」
トロイの木馬確定。
ミニマム政府が、あれが足りない、これも足りない言いながら徐々に肥え太り、共産主義に登頂してしまうのだろうな。
理論上は、ミニマム政府と自由市場、
現実上は、共産主義、
それが、MMTという評価ですな、私は。
MMTは、「リバタリアンの衣をまとった共産主義」
トロイの木馬確定。
ミニマム政府が、あれが足りない、これも足りない言いながら徐々に肥え太り、共産主義に登頂してしまうのだろうな。
MMTが財政支出は副産物と言ったり、貨幣こそ副産物(貨幣論なのに!)だとコロコロ言い分を変えるのは、MMTっぽく見えるパースペクティブを維持するために他ならない。つまり、かなり難易度の高い無理くりな錯視操作で見えてくる像を理論化している。直観に反するのは、科学っぽくて美しい、位に陶酔しているかも知れない。ドーキンスの利己的遺伝子論に似ているが、あれも科学ではなく、単なる解釈学だ。視座の切り替え芸、既成ナラティブを批判するナラティブ、語りの目的化に過ぎない。
私は経済学は、実物の流れだと考える。貨幣などはむしろ余計。時には捨象して考えるべきだ。MMTと分かり合えるはずがないが、「政府には支出する自由がある」を極限まで突き詰めるなら、MMT目線でも貨幣などは副次的なもの、支出に随伴する記号と化す。政府の支出の自由=政府の実物取り立ての自由に他ならない。どうやらその辺りで撚り合わせられそうだ。現代貨幣理論と貨幣抜き思考実験で合流する。
貨幣など介在させるからややこしい。貨幣なしで考えるなら、国が権力を用いて実物取り立てをおこなう、以上終わり、だな。財政支出と徴税のシンプルな一体化が真実だ。
貨幣など介在させるからややこしい。貨幣なしで考えるなら、国が権力を用いて実物取り立てをおこなう、以上終わり、だな。財政支出と徴税のシンプルな一体化が真実だ。
貨幣なしで考えるなら、徴税と国債は区別がつかない。というより、国債は成立し難い。国債は、12,3世紀のイタリアのジェノヴァやベネチアの都市国で商人から戦費調達の資金を借りることから始まったが、近代国債制度は、17世紀末イギリスのイングランド銀行創立に伴って誕生した。この時も目的は戦費調達であったから、エマニュエル・カントは、国債禁止を訴えた。イングランド銀行は、国債発行、管理銀行として設立されたの後、中央銀行機能を備えるに至った。貨幣制度、中央銀行あっての発明なのだ。
貨幣なき世界の徴税は、財政支出時になされる。貨幣ある世界の徴税は、貨幣吸い上げ時だと勘違いされるが、財政支出時に実物取り立てされることこそが古来、徴税の本体、本質だ。
貨幣なき世界の国債とは何だろう?
毎年100(実物)徴税していた国家が、今年だけは200(実物)徴税しないと間に合わんとて、国民を説得し、今年200徴税する代わりに10年後に100徴税しない年にするから気張ってや、が、貨幣なき世界の100の10年国債だ。
で、10年後に徴税100 を中止できればOKだが、多分無理だ。徴税をしたら約束は反故。反故=償還踏み倒しだから、国民は反発し二度と徴税には応じないだろう。だから、政府は10年目にこう言い訳する。約束は履行する。減免で0だ。だが、どうしても予算が100足りないから足りない100だけは例年通り気張ってほしい。その分は改めて10年後に減免するからと。かなり苦しいが事実上の踏み倒しが借り換えに化けた。延々と踏み倒せれば、過去の一過性の増税が繰り延べられて消えずに残る。残高は100のまま増えはしないが約束が先送りされる。こんな無理な芸当は持続可能でないから、貨幣なき世界には国債は存在しないのだと言える。
貨幣なき世界の国債とは何だろう?
毎年100(実物)徴税していた国家が、今年だけは200(実物)徴税しないと間に合わんとて、国民を説得し、今年200徴税する代わりに10年後に100徴税しない年にするから気張ってや、が、貨幣なき世界の100の10年国債だ。
で、10年後に徴税100 を中止できればOKだが、多分無理だ。徴税をしたら約束は反故。反故=償還踏み倒しだから、国民は反発し二度と徴税には応じないだろう。だから、政府は10年目にこう言い訳する。約束は履行する。減免で0だ。だが、どうしても予算が100足りないから足りない100だけは例年通り気張ってほしい。その分は改めて10年後に減免するからと。かなり苦しいが事実上の踏み倒しが借り換えに化けた。延々と踏み倒せれば、過去の一過性の増税が繰り延べられて消えずに残る。残高は100のまま増えはしないが約束が先送りされる。こんな無理な芸当は持続可能でないから、貨幣なき世界には国債は存在しないのだと言える。
一方貨幣ある世界では、減免年すっぽかしを、借り換えと呼び、易々とやってのける。貨幣なき世界では、増税年は過去の彼方だが、減免年が来なけりゃ借り換え継続と同義。
貨幣ある世界なら、国債残高100が延々と残る姿だ。真面目に税金で償還するならタイミングをずらした増税に過ぎないが借換債なら誰も痛痒を感じない。あまりにも便利だから箍は外れ、毎年100では済まず今年も100追加、50追加と莫大に積み上がる。これのおかげで市中には貨幣が存在するんだよと言われて納得できるなら、そうすればいい。国債の借り換えでマネー供給が増える理屈は存在しない。
貨幣なき世界で、もし毎年100新規国債を継続発行するなら、残高は算術級数的に増えるが、増税が姿を変えただけだ。
国債継続発行などあり得ない。つまり、増税、減税しかない世界が貨幣なき世界だ。
貨幣ある世界なら、国債残高100が延々と残る姿だ。真面目に税金で償還するならタイミングをずらした増税に過ぎないが借換債なら誰も痛痒を感じない。あまりにも便利だから箍は外れ、毎年100では済まず今年も100追加、50追加と莫大に積み上がる。これのおかげで市中には貨幣が存在するんだよと言われて納得できるなら、そうすればいい。国債の借り換えでマネー供給が増える理屈は存在しない。
貨幣なき世界で、もし毎年100新規国債を継続発行するなら、残高は算術級数的に増えるが、増税が姿を変えただけだ。
国債継続発行などあり得ない。つまり、増税、減税しかない世界が貨幣なき世界だ。
貨幣ある世界では、国債引き受け手がいて、実物から遊離した出涸らしの国債も売れる。買った金は、償還期限には戻るが、そのための新たな国債を誰か他の引受先に買わせてバトンリレーを始めるのを借り換えという。皆が順繰りに償還を肩代わりして累積を見物する。貨幣なき世界では、そんなスペクタクルはない。
貨幣なき世界では、そもそも徴税とは、財政支出と同時になされるものであり、財政支出は歓迎されるようなものでは全くない。働かされ、実物を奪われることだからだ。
なぜ貨幣が介在するだけで反転し、もっと財政支出をと願われさえするのか、まことに不思議なものである。
市中で価格形成機能を持ち、交換手段として形成された貨幣は実物取引ツールに育ち、実物と交換に入手される証書=実物取り立て券だから、納税(実物納)と引き換えに受け取るなら、市中で他の実物を取り立てることが出来る。交換手段育成市場で、交換行動により貨幣が実物を商品化して行く。実物と結びついた貨幣の受け取り行動こそが、納税行為であり、他方、貨幣納は、単なる貨幣返納だというMMTイメージになるわけだ。
貨幣なき世界では、そもそも徴税とは、財政支出と同時になされるものであり、財政支出は歓迎されるようなものでは全くない。働かされ、実物を奪われることだからだ。
なぜ貨幣が介在するだけで反転し、もっと財政支出をと願われさえするのか、まことに不思議なものである。
市中で価格形成機能を持ち、交換手段として形成された貨幣は実物取引ツールに育ち、実物と交換に入手される証書=実物取り立て券だから、納税(実物納)と引き換えに受け取るなら、市中で他の実物を取り立てることが出来る。交換手段育成市場で、交換行動により貨幣が実物を商品化して行く。実物と結びついた貨幣の受け取り行動こそが、納税行為であり、他方、貨幣納は、単なる貨幣返納だというMMTイメージになるわけだ。
貨幣受け取り行動=納税ならば、国債も税金も区別はつかないし、要らない。もとより徴税には貨幣受け取りなども要らないのだが。
国債や貨幣のある世界の話の続き。
貨幣ある世界の徴税では、100国債発行するから追加100の貨幣徴税はなし。それでも財政支出は200あるから政府は計画遂行できる。100の国債を償還するしないは国債引受先と政府の間の話に過ぎないが、償還しない選択肢はない。借り換えの選択肢はあるが、貨幣発行体が引き受けたりしたらどうなるかは国民のあずかり知らぬことである。MMTは、国債が売れようが売れまいが関係なく追加財政支出できると主張する。国民は、財政支出時にマネーを対価に余計働くが、借り換えや中央銀行引き受けでは影響を受けない。追加負担に国民から一切不満が出ない仕組みがマネーなのだ。
この比喩が正しいのか、それとも、他国(外部)から借りる下記の比喩が正しいのか。因みに他国から借りるパタンは自国通貨発行権がない国の比喩にも適用できる。
貨幣なき世界で、200徴税したい政府は、足りない100を他国政府や100貸せる篤志家から借りる。その代わり将来必ず返すと約束するのだ。200の財政計画は果たされるが、自国民は、100だけ働けばよい代わりに将来働いて返さねばならない。この場合、借り換えは、働いて返さず、新たな貸し手を探して最初の貸し手に返し続ける。自国内前借りと他国借り、将来楽できるのと、将来余計に働かされるのと、180度違う比喩だ。貸し手は、必ずしも他国部外者である必要はない。自国内篤志家でも構わない。さてどっちが適切な比喩か?前者である。
国債や貨幣のある世界の話の続き。
貨幣ある世界の徴税では、100国債発行するから追加100の貨幣徴税はなし。それでも財政支出は200あるから政府は計画遂行できる。100の国債を償還するしないは国債引受先と政府の間の話に過ぎないが、償還しない選択肢はない。借り換えの選択肢はあるが、貨幣発行体が引き受けたりしたらどうなるかは国民のあずかり知らぬことである。MMTは、国債が売れようが売れまいが関係なく追加財政支出できると主張する。国民は、財政支出時にマネーを対価に余計働くが、借り換えや中央銀行引き受けでは影響を受けない。追加負担に国民から一切不満が出ない仕組みがマネーなのだ。
この比喩が正しいのか、それとも、他国(外部)から借りる下記の比喩が正しいのか。因みに他国から借りるパタンは自国通貨発行権がない国の比喩にも適用できる。
貨幣なき世界で、200徴税したい政府は、足りない100を他国政府や100貸せる篤志家から借りる。その代わり将来必ず返すと約束するのだ。200の財政計画は果たされるが、自国民は、100だけ働けばよい代わりに将来働いて返さねばならない。この場合、借り換えは、働いて返さず、新たな貸し手を探して最初の貸し手に返し続ける。自国内前借りと他国借り、将来楽できるのと、将来余計に働かされるのと、180度違う比喩だ。貸し手は、必ずしも他国部外者である必要はない。自国内篤志家でも構わない。さてどっちが適切な比喩か?前者である。
国債は、基本自国内消化が主流。仮に他国ではなく、自国内篤志家にしてみれば、また、自国内篤志家が自国民納税者全員だとし、返済は単年度無税で構わぬと言ったら、すっかり前者パタンに嵌る。返済に追加負担ではなく、単年度無税は、自国政府との取引交渉ならばアリだろう。最初に追加負担を強いられ、後年追加負担分を無税で支払われるのは、悪くないディールだ。それが履行されにくい点を除いて。他国から借りたなら自らは追加負担していないから後で追加負担のお鉢が回ってくるのは当然。こちらの方が貨幣あり世界の国債に近い気がするかもしれないが、国債のやり取りは、政府がやるので納税者には関係ない。納税者は、ただ追加負担をするのみだ。徴税の真のステージは財政支出と同時になされる訳だから、外から借りない以上は、国債発行年に1度だけ追加負担を負うのであり、外から借りたなら、返済年に1度だけ追加負担を負うという違いがある。自国通貨を持たない国は返済規律が働くが、デフォルトも免れない。自国通貨を持つ国は、通貨価値を維持できなければ、他国通貨を借りて生きる身に落ちるから、自国通貨価値の維持が、規律。
「自国内なら約束は反故にしたくなりがちだが、信頼関係を損ねるから借り換え連チャンモードとは行かず、対外的ならちゃんと返済しなきゃならないが借り換えが容易じゃあない」が、教訓に引き出せる。両ケースとも国債はなかなか難しい。そして、いずれにしても国債とは、追加負担なのだとね。それが貨幣現象になった途端に経済活動なんだと、経済活性化、景気浮揚なんだと価値転倒するが、考えてみれば、多忙とは、過重労働にほかならないのだ。貨幣なき世界では多忙は単なる酷使。貨幣ある世界では商売繁盛。根本的倒錯が貨幣のせいで起きている。MMTは、共産化ルートであるばかりか、隷従への道。
いや、言い過ぎだ。貨幣経済はMMTが発明したわけではない。貨幣ゆえの国債の利便性もMMTのおかげではない。
貨幣なき世界の教訓がもうひとつある。
稼ぎたいなら楽して稼げ 。
楽して稼ぐ方法の一つが、徴税だ。
おあとがよろしいようで。
いや、言い過ぎだ。貨幣経済はMMTが発明したわけではない。貨幣ゆえの国債の利便性もMMTのおかげではない。
貨幣なき世界の教訓がもうひとつある。
稼ぎたいなら楽して稼げ 。
楽して稼ぐ方法の一つが、徴税だ。
おあとがよろしいようで。
貨幣なき世界では、そもそも徴税とは、財政支出と同時になされるものであり、財政支出は歓迎されるようなものでは全くない。働かされ、実物を奪われることだからだ。
なぜ貨幣が介在するだけで反転し、もっと財政支出をと願われさえするのか、まことに不思議なものである。
実物納税と引き換えに受け取った貨幣は、市中で価格形成機能を持ち、交換手段として流通し、実物取引ツールに育ち、実物と交換に入手される証書=実物取り立て券となる。市中で他の実物を取る連鎖が交換市場を形成、人々の交換行動により貨幣が実物を商品化して行く。実物と結びついた貨幣の受け取り行動が、真の納税行為であり、貨幣納は、単なる貨幣返納に過ぎない。これは、すでにMMである。
貨幣納は、単なる貨幣返却、回収。MMTもそう主張している。だが、財政支出時が納税の本体、本質とまでは主張できてはおらず、副次的とまで言い出す始末。貨幣発行権と貨幣ライフサイクルばかりに注目してしまうから、税金は、財源に非ず止まりだ。
「税金は財源ではないが、財源などというものはなく、税がある」という真実に直面せずに引き返してしまう。これがため、まるで世の中に税が存在しないかのような誤解を招く羽目になる。税金は財源ではないが税はあるという真実に向き合うなら、知らねばならぬ現実が現れる。
「納税しているのは、国民のごく一部。貨幣返却するのはほぼ全員」という奇妙な現象だ。
「税金は財源ではないが、財源などというものはなく、税がある」という真実に直面せずに引き返してしまう。これがため、まるで世の中に税が存在しないかのような誤解を招く羽目になる。税金は財源ではないが税はあるという真実に向き合うなら、知らねばならぬ現実が現れる。
「納税しているのは、国民のごく一部。貨幣返却するのはほぼ全員」という奇妙な現象だ。
税、納税、徴税は、あくまで実物、労務提供。 税金は貨幣返納と用語を分け、混同しないようにするべき。
これを新しい経済•財政学の基盤としてパラダイムシフトを起こさねばならない。
実物・労務提供としての税を負担しない大多数は、実質的な「免税者」だが、受益者でもあるから文句は出ない。世の中の価値基準が貨幣中心になるから、負担者たちは負担を嘆かない。この不思議が、現実。
交換価値>実物使用価値というマルクスの観察の根源がこれだ。貨幣というモルヒネ、快感誘発物質により、価値転倒が起きている。貨幣は単に実物と反対側に流れる記号に過ぎないのに、実物取り立て券や、負債証書として流通し、多種多彩な実物を背後に従える未実現所有様態として君臨し始める。
莫大なる未実現所有様態保持者を富豪と呼ぶ。 多種多彩な実物を貨幣に結びつけたのは政府ではない。民間市場だ。新しい商品、新しいサービス、新しい市場を生み出したのは民間だ。貨幣という記号が政府から配布された後に、その記号を巡る争奪戦の渦中に、実物の商品化が促され、税負担者ならぬ市井の人々が相互負担連鎖運動を開始するのだ。これが一般交換というものである。税負担が相互負担に勝る公的なものだとばかりは言えないはずだろう。市中銀行は、信用創造まで手掛けるから、税だけが貨幣を供給するわけではない。
これを新しい経済•財政学の基盤としてパラダイムシフトを起こさねばならない。
実物・労務提供としての税を負担しない大多数は、実質的な「免税者」だが、受益者でもあるから文句は出ない。世の中の価値基準が貨幣中心になるから、負担者たちは負担を嘆かない。この不思議が、現実。
交換価値>実物使用価値というマルクスの観察の根源がこれだ。貨幣というモルヒネ、快感誘発物質により、価値転倒が起きている。貨幣は単に実物と反対側に流れる記号に過ぎないのに、実物取り立て券や、負債証書として流通し、多種多彩な実物を背後に従える未実現所有様態として君臨し始める。
莫大なる未実現所有様態保持者を富豪と呼ぶ。 多種多彩な実物を貨幣に結びつけたのは政府ではない。民間市場だ。新しい商品、新しいサービス、新しい市場を生み出したのは民間だ。貨幣という記号が政府から配布された後に、その記号を巡る争奪戦の渦中に、実物の商品化が促され、税負担者ならぬ市井の人々が相互負担連鎖運動を開始するのだ。これが一般交換というものである。税負担が相互負担に勝る公的なものだとばかりは言えないはずだろう。市中銀行は、信用創造まで手掛けるから、税だけが貨幣を供給するわけではない。
多くの人は、財政支出時を納税とは捉えず、貨幣納時を納税(税金)と捉える。
本来、税は間接的に貨幣(記号)で徴収されるものではなく、労働や実物を通じて直接的に納税されるものでしかありえない。しかも、ごく一部の労働者によってだ。これを気の毒と取るか狡いと取るか?
国が貨幣納を義務化すると、記号が本当に価値あるものに思えてくる。そのごく一部の労働者を起点に、貨幣の価値が浸透し、貨幣争奪行動が広く行き渡るなら、全国民が連鎖的に労働、実物を提供し合うことになる。経済波及効果というやつだ。
しかも、国民は、一部の者への財政支出の成果物たる公共インフラや教育、社会福祉サービスの享受にも与るという……それを負担しているのはごく一部の労働者。なぜ我慢できるのだろうか?
貨幣のせいだ。貨幣のせいで国債が可能になり、借り換えも可能になり、何が公平公正かも転倒し、様々な怪現象も起きる。誰も不思議がらないが、再分配に起きた変事は、当然社会的交換にも起きているから、様々な社会論が展開した。搾取だのなんだのマネーゲームだなんだの、バブルだなんだの…………
本来、税は間接的に貨幣(記号)で徴収されるものではなく、労働や実物を通じて直接的に納税されるものでしかありえない。しかも、ごく一部の労働者によってだ。これを気の毒と取るか狡いと取るか?
国が貨幣納を義務化すると、記号が本当に価値あるものに思えてくる。そのごく一部の労働者を起点に、貨幣の価値が浸透し、貨幣争奪行動が広く行き渡るなら、全国民が連鎖的に労働、実物を提供し合うことになる。経済波及効果というやつだ。
しかも、国民は、一部の者への財政支出の成果物たる公共インフラや教育、社会福祉サービスの享受にも与るという……それを負担しているのはごく一部の労働者。なぜ我慢できるのだろうか?
貨幣のせいだ。貨幣のせいで国債が可能になり、借り換えも可能になり、何が公平公正かも転倒し、様々な怪現象も起きる。誰も不思議がらないが、再分配に起きた変事は、当然社会的交換にも起きているから、様々な社会論が展開した。搾取だのなんだのマネーゲームだなんだの、バブルだなんだの…………
国の計らいで、納税者に褒美を与えることになった。「納税したから、褒美に貨幣をやろう。貨幣を使って取引とかできるぞ、便利だぞ。」となった。最初の貨幣は、子安貝だったかも知れないし、牛や金だったかも知れない。そうしたら、かなり便利で、普及し、実物やら行動が商品化された。市場が発達し、商品が増え、価格形成がなされるようになった。その代わり、やたらと人は他人のために働きはじめ、忙しくなった。国のためだけじゃなく、他人のために多忙になった。やがて金持ちが生まれた。
貨幣の登場、介在で、本来の社会的再分配構造が、かなり変質したのに、あまり気づかれてすらいない。
社会的交換や、社会的再分配がまだ維持されているかのような錯覚を纏いつつ、実際にはMMT的な構造に再分配は転換しているし、市場交換も社会的交換の原型をとどめちゃいないのだ。市場交換、即ち資本主義についてのMMT相当物は未だ登場してはいないのかも。マルクスは資本論で金融を語れず、ピケティも不十分。
現代貨幣論再分配編がMMT、現代貨幣論交換編に相当するのは?まだない。
貨幣の登場、介在で、本来の社会的再分配構造が、かなり変質したのに、あまり気づかれてすらいない。
社会的交換や、社会的再分配がまだ維持されているかのような錯覚を纏いつつ、実際にはMMT的な構造に再分配は転換しているし、市場交換も社会的交換の原型をとどめちゃいないのだ。市場交換、即ち資本主義についてのMMT相当物は未だ登場してはいないのかも。マルクスは資本論で金融を語れず、ピケティも不十分。
現代貨幣論再分配編がMMT、現代貨幣論交換編に相当するのは?まだない。

神輿を担ぐことなのか、溜め込まれた財のポトラッチなのか、供出して適正分配の狩猟分配ルールなのか?貢献→褒美なのか?社会的に必要な構造としての再分配の本質はどれなのか?
どれも正しいし、再分配の社会的機能を説明している。
だが、私は貨幣の国家褒美起源説でMMTを乗り越えたいから、貢献→褒美説だな。
「龍の子太郎」のモデルとなった信濃の泉小太郎伝説は、狩猟社会的分配ルールから神輿担ぎ型ルールへの転換を表す。ポトラッチ側面は、溜め込まれた水の放出に象徴的に表現されるが、灌漑と水分(みくまり)の農耕社会秩序を母子協力がやり遂げた話に神輿担ぎ型ルールがある。
貢献→褒美側面だけはないが、それこそが現代の国家、貨幣制度、資本主義の起源
つまり、松谷みよ子の龍の子太郎は、狩猟社会の分配ルール違反で龍にされた母と子が協力して溜め込まれた湖の水を解放し、水利事業に献身、農耕社会の水分神伝説と化すところまで描き出している。封建社会では、褒美が再分配に登場、土地、茶碗、刀剣から秀吉の天正大判を経て金銀となり、兌換紙幣→不換紙幣→近代税制→議会制→国債→資本主義社会へと連なる。
貨幣の褒美起源説はかく語りき。
貨幣の褒美起源説はかく語りき。

財政支出が徴税の本体なら従来、税の公平性はないがしろにされてきたと言わなしょうがない。
貨幣納における税の公平性議論は全部インチキだったわけだな。本質本体としての財政支出時の徴税の公平性はただ単に形式的な入札だし。
「財政支出が徴税の本体」なら、通常言われる「貨幣納付(税金納めること)における公平性」議論は、そもそも全部ズレていた。
本当に大事な公平性は、「財政支出の場面=国から民への仕事や物資提供の割当の場面」で確保されるべきだったのじゃないか?
でも、その現場は単なる入札(=価格競争)に過ぎてるし、公務員給与か、公共工事請負子飼い業者や電通的癒着先利益誘導に消え、公平性の議論なんかされてない。
税の公平公正を謳うのであれば、
支出=徴税の本体(つまり「財」を徴収する本質行為)だと認めると、
税の貨幣納段階たる税金(貨幣返納)で「公平に負担させる」とか言うのは、ほぼ全部インチキだったことになる。
でも、その代わり、財政支出時に
「誰に労務を依頼するか」「誰から物資を買うか」については、超絶に公平でなければならなかった。
ところが現実は、そこは公務員試験や「入札(価格競争)」に丸投げされ、身内固めに流れ、形式的競合だけで済まされてきた。経済波及効果論も逃げ場になった。
私の認識が正しいのならば、恩賞制はやったほうがいい、じゃなくて、やらなきゃ駄目なものになった。
本当に大事な公平性は、「財政支出の場面=国から民への仕事や物資提供の割当の場面」で確保されるべきだったのじゃないか?
でも、その現場は単なる入札(=価格競争)に過ぎてるし、公務員給与か、公共工事請負子飼い業者や電通的癒着先利益誘導に消え、公平性の議論なんかされてない。
税の公平公正を謳うのであれば、
支出=徴税の本体(つまり「財」を徴収する本質行為)だと認めると、
税の貨幣納段階たる税金(貨幣返納)で「公平に負担させる」とか言うのは、ほぼ全部インチキだったことになる。
でも、その代わり、財政支出時に
「誰に労務を依頼するか」「誰から物資を買うか」については、超絶に公平でなければならなかった。
ところが現実は、そこは公務員試験や「入札(価格競争)」に丸投げされ、身内固めに流れ、形式的競合だけで済まされてきた。経済波及効果論も逃げ場になった。
私の認識が正しいのならば、恩賞制はやったほうがいい、じゃなくて、やらなきゃ駄目なものになった。
MMTとの違いは、私の理論では、貨幣経済の種火たる貨幣の起源を褒美とし、この褒美が、市中を巡る間も、褒美性を保ちながら経めぐり、市場を形成しながら価格形成も、商品化もしながら、求められ続け、貨幣経済確立のためと、全員負担の国民国家幻想イデオロギーのために政府に回収されるのだと説く点だ。私のは、あくまでも社会理論であり、貨幣論の枠には収まらない。一旦燃焼が始まれば、もはや種火は、無用。最低限根の公務員と、インフラメンテ位で十分だし、国民統合は、税金である必要はない。
貨幣の帯びる褒美性は、金銭的成功を神の恩寵、救済の証とみなすキリスト教新教にも窺い知ることが出来る。
プロテスタンティズムカルヴァン派における金銭成功の「恩寵の証」としての意味は、貨幣が単なる交換の手段を超えて、「褒美=恩寵のしるし」としての象徴的意味を帯びて巡回していることを意味する。
つまり、貨幣は物理的なものとして流通しているだけでなく、「誰かが神に選ばれし者である」ことを他者に示す記号(象徴資本)として機能し、同時に禁欲的に使われることで「再投資」され、さらに褒美性を拡大・循環させるという二重の意味を持つ。
プロテスタンティズムカルヴァン派における金銭成功の「恩寵の証」としての意味は、貨幣が単なる交換の手段を超えて、「褒美=恩寵のしるし」としての象徴的意味を帯びて巡回していることを意味する。
つまり、貨幣は物理的なものとして流通しているだけでなく、「誰かが神に選ばれし者である」ことを他者に示す記号(象徴資本)として機能し、同時に禁欲的に使われることで「再投資」され、さらに褒美性を拡大・循環させるという二重の意味を持つ。
実物・労務提供としての税を負担しない大多数は、実質的な「免税者」だが、受益者でもあるから文句は出ない。価値基準が貨幣になるから、負担者たちは負担を嘆かない。
この不思議が、現実。
交換価値>実物使用価値というマルクスの観察の根源がこれだ。
貨幣というモルヒネ、快感誘発物質により、価値転倒が起きている。
貨幣は単に実物と反対側に流れる記号に過ぎないのに、実物取り立て券や、負債証書、褒美、恩寵として流通し、多種多彩な実物を背後に従える未実現所有様態として君臨し始める。
巨大なる未実現所有様態保持者を富豪と呼ぶ。
多種多彩な実物を貨幣に結びつけたのは政府ではない。民間市場だ。新しい商品、新しいサービス、新しい市場を生み出したのは民間だ。貨幣という記号が褒美として政府から配布された後に、その記号を巡る争奪戦の渦中に実物の商品化が促され、税負担者ならぬ市井の人々が相互負担連鎖運動を開始するのだ。これが一般交換というものである。
政府による税負担が市中の相互負担に勝る公的なものだとばかりは言えないはずだろう。
この不思議が、現実。
交換価値>実物使用価値というマルクスの観察の根源がこれだ。
貨幣というモルヒネ、快感誘発物質により、価値転倒が起きている。
貨幣は単に実物と反対側に流れる記号に過ぎないのに、実物取り立て券や、負債証書、褒美、恩寵として流通し、多種多彩な実物を背後に従える未実現所有様態として君臨し始める。
巨大なる未実現所有様態保持者を富豪と呼ぶ。
多種多彩な実物を貨幣に結びつけたのは政府ではない。民間市場だ。新しい商品、新しいサービス、新しい市場を生み出したのは民間だ。貨幣という記号が褒美として政府から配布された後に、その記号を巡る争奪戦の渦中に実物の商品化が促され、税負担者ならぬ市井の人々が相互負担連鎖運動を開始するのだ。これが一般交換というものである。
政府による税負担が市中の相互負担に勝る公的なものだとばかりは言えないはずだろう。
市場でも実物、サービスの相互負担は活性化され、総負担量トータルでは公的税負担を遥かに凌ぐGDPが表す規模になる。だから、公的税負担>民間相互負担ではないし、いずれがより公的かもありはしないのだ。
公的税負担は、民間の一部が生貨幣を市場にもたらすために政府にアプローチしている姿でしかない。そもそも生貨幣流入は常に民間に必要不可欠だろうか?
生貨幣がなくても銀行の信用創造があるではないか?
しかも銀行は、借り換え大歓迎だ。
結果、銀行の信用創造総量は、国債残高より巨大だろう?
国債も借り換えで姿を消さないが、銀行の信用創造も借り換えで姿を消さない。
国債残高が政府の借金だからヤバイ、言うくせに、銀行の信用総量が民間の借金だからヤバイとは言わないのだ。どっちがリスクが高いだろう?
国債残高は見つめられた鍋、民間信用残高は弾けないと分からないバブル。後者は度々管理にしくじり惨禍をもたらしていることは確かだし、処置に当たるのは国債だ。
公的税負担は、民間の一部が生貨幣を市場にもたらすために政府にアプローチしている姿でしかない。そもそも生貨幣流入は常に民間に必要不可欠だろうか?
生貨幣がなくても銀行の信用創造があるではないか?
しかも銀行は、借り換え大歓迎だ。
結果、銀行の信用創造総量は、国債残高より巨大だろう?
国債も借り換えで姿を消さないが、銀行の信用創造も借り換えで姿を消さない。
国債残高が政府の借金だからヤバイ、言うくせに、銀行の信用総量が民間の借金だからヤバイとは言わないのだ。どっちがリスクが高いだろう?
国債残高は見つめられた鍋、民間信用残高は弾けないと分からないバブル。後者は度々管理にしくじり惨禍をもたらしていることは確かだし、処置に当たるのは国債だ。
貨幣はそもそも国家が与える「褒美」だった。
財政支出(=恩賞授与)が国家活動の本体だった。
市中では、私的な利益優先で貨幣交換ががなされ、溜め込まれがちになるから貨幣返納=税金がある。
国家は市中の評価を拾い上げる「目」と「センス」を失いつつある。
放っておくと、無意味な「買物」だけして国家が空洞化する。なぜなら、財政支出は、生貨幣投入に意味があり、その内容、中身は二の次、不問だからだ。貨幣は生まれ巡れど公は成らず。そんな恩送りも喜ばせ合いも劣化した世に、私が政治を蚕食してしまったのが現在地だ。政治に公がない危機を本気で、危ぶむ者とていない。
政治がどんなに徹頭徹尾「公」であらねばならなかったかが改めて浮彫になる。そして、今、なぜ政治が行き詰まり、不可能性が目立ってきているのかも理由が分かる。
政治とは本来、「公的価値を見抜き、育て、褒美を授ける」ために存在していた。
それが腐って、
効率良く私腹を肥やす手段(=参政権乱用)
人気取り(=民間利便へのおもねり)
資本との癒着(=買収される公)
官僚制の硬直(=機械的買物マシン化)
になった。
要するに、必要なのは、「公」の根源的な力=恩送り・喜ばせごっこ・公的価値目利き力、これを回復させることなのだ。
政治とは「公的価値の目利き」であり、その目利き力が国家そのものを成り立たせている。誰も気付かぬ政治の本質。政治とは何かと問われ、公的価値実現と答えられる人がどれだけいるだろうか?
財政支出(=恩賞授与)が国家活動の本体だった。
市中では、私的な利益優先で貨幣交換ががなされ、溜め込まれがちになるから貨幣返納=税金がある。
国家は市中の評価を拾い上げる「目」と「センス」を失いつつある。
放っておくと、無意味な「買物」だけして国家が空洞化する。なぜなら、財政支出は、生貨幣投入に意味があり、その内容、中身は二の次、不問だからだ。貨幣は生まれ巡れど公は成らず。そんな恩送りも喜ばせ合いも劣化した世に、私が政治を蚕食してしまったのが現在地だ。政治に公がない危機を本気で、危ぶむ者とていない。
政治がどんなに徹頭徹尾「公」であらねばならなかったかが改めて浮彫になる。そして、今、なぜ政治が行き詰まり、不可能性が目立ってきているのかも理由が分かる。
政治とは本来、「公的価値を見抜き、育て、褒美を授ける」ために存在していた。
それが腐って、
効率良く私腹を肥やす手段(=参政権乱用)
人気取り(=民間利便へのおもねり)
資本との癒着(=買収される公)
官僚制の硬直(=機械的買物マシン化)
になった。
要するに、必要なのは、「公」の根源的な力=恩送り・喜ばせごっこ・公的価値目利き力、これを回復させることなのだ。
政治とは「公的価値の目利き」であり、その目利き力が国家そのものを成り立たせている。誰も気付かぬ政治の本質。政治とは何かと問われ、公的価値実現と答えられる人がどれだけいるだろうか?
>>468
だから、減税と財政削減をセットでやるために、恩賞制を利用する。官ではなく民が公的価値を実現する主役になる。それを認証し、減税という恩賞で報いる。種火はもういらないから歳出削減もするが、財政支出するなら、恩賞を獲得した企業を優先する。
貨幣退蔵に関しては、もしかしたら、税金ではなく、少なくとも金融機関への預け入れと金融機関からの融資促進が正統派かも知れない。さらなる財政支出でインフレ気味にして退蔵をおびき出して溶かすMMT路線も王道かも知れん。税金は、使うか取られるかどっちがええ?と北風方式で脅して溶かし、太陽方式でインフレにして溶かした後、暑気払いにも使われる。
だが、太陽方式も限界がある。株式資本主義が退蔵方法を指南する。
株式はインフレに強いとかいっちゃうから、ますます退蔵を煽り、太陽方式を無効化、財政支出太陽耐性菌みたいなもんやな。北風方式なら資産課税が有効だ。キャピタルゲイン課税だと譲渡自体を抑制してしまう。
だから、減税と財政削減をセットでやるために、恩賞制を利用する。官ではなく民が公的価値を実現する主役になる。それを認証し、減税という恩賞で報いる。種火はもういらないから歳出削減もするが、財政支出するなら、恩賞を獲得した企業を優先する。
貨幣退蔵に関しては、もしかしたら、税金ではなく、少なくとも金融機関への預け入れと金融機関からの融資促進が正統派かも知れない。さらなる財政支出でインフレ気味にして退蔵をおびき出して溶かすMMT路線も王道かも知れん。税金は、使うか取られるかどっちがええ?と北風方式で脅して溶かし、太陽方式でインフレにして溶かした後、暑気払いにも使われる。
だが、太陽方式も限界がある。株式資本主義が退蔵方法を指南する。
株式はインフレに強いとかいっちゃうから、ますます退蔵を煽り、太陽方式を無効化、財政支出太陽耐性菌みたいなもんやな。北風方式なら資産課税が有効だ。キャピタルゲイン課税だと譲渡自体を抑制してしまう。
要するに現代の「貨幣納としての税金」の意味や役割とは何か?
貨幣浸透普及の役割はとっくに終わった。薬が効きすぎて退蔵されるほどだ。
インフレ抑制の機能は財政支出を止めないなら限定的か無意味。
国民国家国民統合のための全員納税イデオロギーは、税金忌避感情に負けている。
経済活動ペナルティ?懲罰?MMTが目指す方向の真逆やけど、事実上そうなっていそうだな。
退蔵防止策としてなら脅しには効く。
さて、一体何なんだ?
退蔵防止の脅しだけだ。プラス、意味不明な経済活動への懲罰、冷やし水(短期的にインフレ退治には効くらしい)。
貨幣浸透普及の役割はとっくに終わった。薬が効きすぎて退蔵されるほどだ。
インフレ抑制の機能は財政支出を止めないなら限定的か無意味。
国民国家国民統合のための全員納税イデオロギーは、税金忌避感情に負けている。
経済活動ペナルティ?懲罰?MMTが目指す方向の真逆やけど、事実上そうなっていそうだな。
退蔵防止策としてなら脅しには効く。
さて、一体何なんだ?
退蔵防止の脅しだけだ。プラス、意味不明な経済活動への懲罰、冷やし水(短期的にインフレ退治には効くらしい)。
私の理論は、最早経済成長は価値に非ず。中身のない経済成長は追い求めない。暮らしやすく質が高まる定常化社会を目指すべきだと言うものだ。
反対に、MMTは経済成長神話から抜け出せていない思想だ。私はある程度の退蔵は全く構わんと思う。経済成長第一主義ではないからな。バブルの頃は、借金しない奴はバカだと言われ、貯蓄はバカにされたものだ。金を借りるのが得だとされていた。変われば変わるものだ。
退蔵は、円は信じるが政府は信じないという不信感の現れなのかも知れないが、だったらインフレなどでおびき出さず、政府への信頼回復に務めるが本筋。
反対に、MMTは経済成長神話から抜け出せていない思想だ。私はある程度の退蔵は全く構わんと思う。経済成長第一主義ではないからな。バブルの頃は、借金しない奴はバカだと言われ、貯蓄はバカにされたものだ。金を借りるのが得だとされていた。変われば変わるものだ。
退蔵は、円は信じるが政府は信じないという不信感の現れなのかも知れないが、だったらインフレなどでおびき出さず、政府への信頼回復に務めるが本筋。
退蔵するってことは、円の価値を信じすぎている証拠やから、税金でわざわざ強化し、貨幣価値を忘れさせまいと頑張る理由にはならん。減税はいいことや。購買権を市中から奪うな。
私は現在は政治経済の危機的変調をグローバリゼーションがあぶり出したと見ているが、この危機を、規模から質への転換の機会にせなあかん。いまだに規模を追うから、国債に頼り、税金を取りまくり、資本市場に期待する。全部考えをリセットせなあかん時期や。最小財政支出、財政支出の中身こそ吟味。減税しまくり。公的価値実現審査恩賞制で減税プレミアム付与や。民間投資、民間消費、財政支出で公的価値を実現するのが質の高い社会や。
私は現在は政治経済の危機的変調をグローバリゼーションがあぶり出したと見ているが、この危機を、規模から質への転換の機会にせなあかん。いまだに規模を追うから、国債に頼り、税金を取りまくり、資本市場に期待する。全部考えをリセットせなあかん時期や。最小財政支出、財政支出の中身こそ吟味。減税しまくり。公的価値実現審査恩賞制で減税プレミアム付与や。民間投資、民間消費、財政支出で公的価値を実現するのが質の高い社会や。
貨幣現象で社会をどうこうできる範囲はせいぜい火加減と規模だけや。なんも考えないバカの尺度や。そんなんじゃ社会は良くはならん。質の社会は頭と知恵をフル回転や。本当の幸せを追い求める人に万人がなる。何のために生まれてきたんや?規模のためやないやろ。火加減を見るためやないはずや。
幸福のためにお金を使おう。幸せになるためにお金を使おう。それが、恩送りであり、喜ばせ合いの貨幣交換の真の姿だったはずじゃないか。貨幣退蔵を心配してムチを振るう税金であっていいはずがなかったんだよ。貨幣は、褒美、相手を褒め称えるコミュニケーションだったはずだ。
社会的交換理論ならそう言う。ってか、それが人類社会。
社会的交換理論ならそう言う。ってか、それが人類社会。
公たる政治はこの方向に舵を切るために率先して貨幣の褒美化を立て直さねばならない。それが、公的価値実現審査恩賞制なのだ。世の中の価値観をひっくり返し、実物、労務、知恵の経済を貨幣が支え、称える設計デザインを取り戻さねばならない。
貨幣が褒美であることを社会に常に思い出させるシステムデザイン。あなたの手にある貨幣は、誰かに褒美を与える権利でもある。
貨幣が褒美であることを社会に常に思い出させるシステムデザイン。あなたの手にある貨幣は、誰かに褒美を与える権利でもある。
国民のニーズには関係ないのが財政支出なことはバレている。中身を問わないのが財政支出という生貨幣投入儀式。生貨幣自体、本当は要らない。既に市場は自走しているからな。燃焼中の窯に種火は要らないんだよ。要らない種火の中身をしかめつらしく吟味するふざけた舞台が政治だよ。
種火が必要な理由は、公務員給与と、子飼の公共事業者の売上確保だよ。入札で偽装された政府に飼われた子分の扶持米だ。
明治時代初期ならまだしも、貨幣経済がこれだけ成熟した経済に種火は本当に必要なのか?景気対策だ、産業育成だ、少子化対策だ、高齢化対策だと名目は多彩だが、インフラメンテナンスもままならない行政が民の必要を先回りして満たし、解決している姿が見えない。官は国家内ミニ社会主義国家だよ。ニーズに疎いあの社会主義だわ。
種火が必要な理由は、公務員給与と、子飼の公共事業者の売上確保だよ。入札で偽装された政府に飼われた子分の扶持米だ。
明治時代初期ならまだしも、貨幣経済がこれだけ成熟した経済に種火は本当に必要なのか?景気対策だ、産業育成だ、少子化対策だ、高齢化対策だと名目は多彩だが、インフラメンテナンスもままならない行政が民の必要を先回りして満たし、解決している姿が見えない。官は国家内ミニ社会主義国家だよ。ニーズに疎いあの社会主義だわ。
政治家は、自動運転モードなのにコックピットに座って操縦桿を握りしめて脂汗かいているいるパイロットみたいなものだ。責任を取らされるためだけに座っているくせに国を誤る余計なことをする。尚且つ責任らしい責任は取らない。
LGBTQ利権やら、中国製太陽光パネル普及促進再エネ利権など、財政支出は政治家の利権乱立の具。議席再生産工場でもある。
こういう政治は直ちにぶっ壊さねばならない。
LGBTQ利権やら、中国製太陽光パネル普及促進再エネ利権など、財政支出は政治家の利権乱立の具。議席再生産工場でもある。
こういう政治は直ちにぶっ壊さねばならない。
国債なき時代の生貨幣は何だ?金に裏付けられた兌換紙幣だ。生貨幣は種火なんだから、燃焼している市場にしょっちゅう焚べる必要性もあるまい。
MMTが主張するように、実物、労務提供は、政府の必要のためではなく、貨幣供給が主目的で、貨幣制度の維持、安定のために必要だとするなら、政府は燃焼中の市場のために国債を発行し、バブルやインフレが形成されないように税金を取るわけだな?政府の必要は二の次三の次、なんならなくとも構わない。中身や必要を吟味する必要がないならば、政府の組む予算は何と気楽なものだろう。ハナホジで、デスクに足を乗せながら片手間に出来そうだ。
ってか、バブルや、インフレ予防したいなら国債発行するなよ。マッチポンプやないか。インフレ予防だけが税金の目的なら、デフレの際には無税にすればよいのに毎年しこたま取ってるだろ。
種火が毎年必要なワケがないやろ。燃焼中やで。明治時代に一回やっとけ。それともなにか?年単位で火力は必ず減衰し、放っておけば自然鎮火するものなのか?毎年必要なのは公務員給与くらいだろ。税で食っている公共事業者も種火が命綱かも知れんが。そんなお仲間扶養だけが財政支出なんやな。
MMTが主張するように、実物、労務提供は、政府の必要のためではなく、貨幣供給が主目的で、貨幣制度の維持、安定のために必要だとするなら、政府は燃焼中の市場のために国債を発行し、バブルやインフレが形成されないように税金を取るわけだな?政府の必要は二の次三の次、なんならなくとも構わない。中身や必要を吟味する必要がないならば、政府の組む予算は何と気楽なものだろう。ハナホジで、デスクに足を乗せながら片手間に出来そうだ。
ってか、バブルや、インフレ予防したいなら国債発行するなよ。マッチポンプやないか。インフレ予防だけが税金の目的なら、デフレの際には無税にすればよいのに毎年しこたま取ってるだろ。
種火が毎年必要なワケがないやろ。燃焼中やで。明治時代に一回やっとけ。それともなにか?年単位で火力は必ず減衰し、放っておけば自然鎮火するものなのか?毎年必要なのは公務員給与くらいだろ。税で食っている公共事業者も種火が命綱かも知れんが。そんなお仲間扶養だけが財政支出なんやな。
個人が徴税主体化する時代は、この貨幣納を個人が模倣する時代だ。貨幣納は共有擬制を建前とする幻想であり、みんなの国という虚構を作り出す道具立てだったが、この物語が嘘臭くなると、個人が同じ幻想ならこっちの方が確かじゃない?と詐欺を働く隙が生まれる。より貢ぐに甲斐のある対象としてセルフプロデュースし始める。推しというやつだな。
貨幣納税とは何かと社会的交換論の見地から言うなら、それは、共同幻想装置である。
にほんでは、明治新政府から始まり、国民皆兵常備軍や、国家公務員採用試験などと同じく、国民全員負担思想によって近代国民国家を成立させるに不可欠な共有詐欺にほかならず、これにより、「国民」が誕生した。近代国家装置の幻想部分を担うから、乗っ取りやすく、幻想部分の変形バリエーションも豊富だ。
担税対価を寄越せとなると、民主制を引き寄せ
共有詐欺が行き過ぎれば共産主義にまで高まる。
全員負担性が強調されるなら、全体主義に変態可能だ。
貨幣納税部分の共有詐欺の恐るべきインパクトは侮れない。
この幻想部分がヘタり弱った敗戦後のアノミーが、パンパンガールを生み出し、トチ狂った国家自身もRAAなる性奉仕のお役目を公式に生み出したのだという理解が正しく、共有詐欺乗っ取りが現代の徴税主体の個人化の正体であったと結論づけるのが、この論考の大事なゴールだ。貨幣納税という幻想の罪深さを真に社会学的に分析するなら、この奇抜なる結論に至らざるを得ない。一体誰が、この事実に気づけるだろうか?MMT的な理解に踏みとどまるなら、この荒涼たる真実の景色は眺められまい。
にほんでは、明治新政府から始まり、国民皆兵常備軍や、国家公務員採用試験などと同じく、国民全員負担思想によって近代国民国家を成立させるに不可欠な共有詐欺にほかならず、これにより、「国民」が誕生した。近代国家装置の幻想部分を担うから、乗っ取りやすく、幻想部分の変形バリエーションも豊富だ。
担税対価を寄越せとなると、民主制を引き寄せ
共有詐欺が行き過ぎれば共産主義にまで高まる。
全員負担性が強調されるなら、全体主義に変態可能だ。
貨幣納税部分の共有詐欺の恐るべきインパクトは侮れない。
この幻想部分がヘタり弱った敗戦後のアノミーが、パンパンガールを生み出し、トチ狂った国家自身もRAAなる性奉仕のお役目を公式に生み出したのだという理解が正しく、共有詐欺乗っ取りが現代の徴税主体の個人化の正体であったと結論づけるのが、この論考の大事なゴールだ。貨幣納税という幻想の罪深さを真に社会学的に分析するなら、この奇抜なる結論に至らざるを得ない。一体誰が、この事実に気づけるだろうか?MMT的な理解に踏みとどまるなら、この荒涼たる真実の景色は眺められまい。
国民皆兵常備軍や、国家公務員採用試験は、入札や兵役検査と同じで、実質徴税の範疇だから勘違いしないように。
貨幣納税だけが、共有詐欺であり、共同幻想装置の核心部である。
実質徴税とは、必ず役務であり、役人の語源は、役務を負う人、即ち真の意味で納税貢献する立場の人物を指す。
大和朝廷で言えば、部民制や氏姓制度で朝廷に奉仕する人々を指し、ある意味エリートであり、ステータス、特権との関係から身分制に直結する。蔵人、検非違使、中納言などの令外の官やら、穢多非人の元なる餌取者や五色の賤なる陵戸まで含むのが、現代で言うところの「役人」の本義である。公務員こそが真の納税者であり、徴兵制なき現代において大多数の国民は納税者ではない。
そんな馬鹿な…を埋め合わせる幻想装置が、貨幣納税なのだが、この原理をきちんと説明できている研究者は一人もいない。共同幻想を提起した吉本隆明ですら、共同幻想発生装置は、神話的物語言語だ、とし、言葉の先の共有詐欺=貨幣納税には全く気づいてはいなかった。
貨幣納税だけが、共有詐欺であり、共同幻想装置の核心部である。
実質徴税とは、必ず役務であり、役人の語源は、役務を負う人、即ち真の意味で納税貢献する立場の人物を指す。
大和朝廷で言えば、部民制や氏姓制度で朝廷に奉仕する人々を指し、ある意味エリートであり、ステータス、特権との関係から身分制に直結する。蔵人、検非違使、中納言などの令外の官やら、穢多非人の元なる餌取者や五色の賤なる陵戸まで含むのが、現代で言うところの「役人」の本義である。公務員こそが真の納税者であり、徴兵制なき現代において大多数の国民は納税者ではない。
そんな馬鹿な…を埋め合わせる幻想装置が、貨幣納税なのだが、この原理をきちんと説明できている研究者は一人もいない。共同幻想を提起した吉本隆明ですら、共同幻想発生装置は、神話的物語言語だ、とし、言葉の先の共有詐欺=貨幣納税には全く気づいてはいなかった。
役こそが徴税
役(エキ)
強制的に労働を割りあてる。 「 《 エキ 》 役丁 ・役夫 ・課役 ・苦役 ・使役 ・懲役 ・服役・軍役 」
労働を与える=徴税=雇用
なるがゆえに、国家は完全雇用にこだわり、雇用代行者としての企業を頼る。企業が雇用を代行する意味は、民間雇用もまた、国家事業の延長としての意味を担うことを表し、故をもって疑似貨幣納税としての利益を民間に譲り渡す仕儀に至った。簡単に言えば、企業の利益は、国家の税金の分配物という構図。勿論税金は税に非ずだから、これは、フィクションとしての構図に過ぎないが、企業は、利益以前に国家を模倣して雇用という本物の徴税を代行しているから、フィクションには裏付けがあってのことである。企業もまた、利益を上げることの中で共有詐欺を容認された存在なのだ。
役(エキ)
強制的に労働を割りあてる。 「 《 エキ 》 役丁 ・役夫 ・課役 ・苦役 ・使役 ・懲役 ・服役・軍役 」
労働を与える=徴税=雇用
なるがゆえに、国家は完全雇用にこだわり、雇用代行者としての企業を頼る。企業が雇用を代行する意味は、民間雇用もまた、国家事業の延長としての意味を担うことを表し、故をもって疑似貨幣納税としての利益を民間に譲り渡す仕儀に至った。簡単に言えば、企業の利益は、国家の税金の分配物という構図。勿論税金は税に非ずだから、これは、フィクションとしての構図に過ぎないが、企業は、利益以前に国家を模倣して雇用という本物の徴税を代行しているから、フィクションには裏付けがあってのことである。企業もまた、利益を上げることの中で共有詐欺を容認された存在なのだ。
簡単に言えば、企業の利益は、国家の税金徴収権の分配物という構図。勿論税金は税に非ずだから、これは、フィクションとしての構図に過ぎないが、企業は、利益以前に国家を模倣して雇用という本物の徴税を代行している。フィクションには裏付けがあってのことなのである。企業もまた、利益を上げることの中で共有詐欺を容認された存在なのだ。企業が共有詐欺を働くのは誰に対してか?
企業に貨幣納税しているのは社員であるが、社員達が総力を上げて販売や取引から利益を掻き集めている体を取っている。取引関係、消費者が税金を払っているスタイルなのか?いや、社員は売上を上げているのであり、会社側にコスト以外の全てを社員に還元しろと迫らぬことで利益という名の税金を会社に支払っているとも取れる。これは、両義的なもので、国家が会社に譲渡した徴税権は、社員の労働という実質的徴税権を基礎に、社員からの貨幣納税も容認し、取引先ステークホルダーからの貨幣納税をも許している。社員は、実質納税もしているから共有詐欺など必要なさそうだが、愛社精神や忠誠心に溢れる社員は貨幣納税で共有詐欺にかかることにも甘んじる。一方、取引先顧客ステークホルダーは、共有詐欺にかかる必要はなさそうそうだが、サプライチェーンで
同じビジネスの釜の飯を食む仲間としてガッチリ運命共同体をなしたり、熱心なファン、リピーター消費者として商品を支持することを通して共有詐欺にかかるのだ。
企業に貨幣納税しているのは社員であるが、社員達が総力を上げて販売や取引から利益を掻き集めている体を取っている。取引関係、消費者が税金を払っているスタイルなのか?いや、社員は売上を上げているのであり、会社側にコスト以外の全てを社員に還元しろと迫らぬことで利益という名の税金を会社に支払っているとも取れる。これは、両義的なもので、国家が会社に譲渡した徴税権は、社員の労働という実質的徴税権を基礎に、社員からの貨幣納税も容認し、取引先ステークホルダーからの貨幣納税をも許している。社員は、実質納税もしているから共有詐欺など必要なさそうだが、愛社精神や忠誠心に溢れる社員は貨幣納税で共有詐欺にかかることにも甘んじる。一方、取引先顧客ステークホルダーは、共有詐欺にかかる必要はなさそうそうだが、サプライチェーンで
同じビジネスの釜の飯を食む仲間としてガッチリ運命共同体をなしたり、熱心なファン、リピーター消費者として商品を支持することを通して共有詐欺にかかるのだ。
国家を模倣し、その共有詐欺、共同幻想を乗っ取る企業の秩序ある増殖が、会社制社会を構築したのが20世紀であったが、21世紀には個人がトクリュウ的に共有詐欺を乗っ取ることが可能になった。この現象が意味するのは、個人のパワーバランスの増大でもあるが、公の失権、失墜である。慶賀すべきことと評価されてばかりはいられない。かつては市中に溢れた日常の貨幣争奪(金稼ぎ)や、そこへの企業参入は、ともすれば国家奉仕、全体主義にも連なる勤労の意味すら帯びた時期さえあったものだが、もはや、影も形もなく、私利私欲の全面展開で、公が政治からも消滅しつつある。政治も公を語れない。グローバリゼーションもそれに追い打ちをかける。なぜなら、公の輪郭、境界が曖昧化し、税金を海外に配るという共同幻想の崩壊が始まったからだ。他国籍海外在住親族への保健医療提供などに至っては、際限なき国家の流亡だろう。滅茶苦茶である。
▲ページ最上部
ログサイズ:406 KB 有効レス数:464 削除レス数:25
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
歴史掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
スレッドタイトル:闇の女パンパンガールのいた街角