元寇は鎌倉武士の実力勝ち


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001 2010/03/09(火) 10:22:30 ID:FBqpTU/2Fc
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ

八幡ノ蒙古記

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002 2010/03/09(火) 13:06:05 ID:8DCD6dE5SY
日本が中国のように長城以南は遮るものが何もない大平原だったら、
瞬殺だったと思うよ。海に浮かぶ山だらけの島だから攻める方は大変。

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003 2010/03/09(火) 13:36:18 ID:cHMob7gGh6
以下蒙古襲来絵詞と八幡ノ蒙古記、元史、高麗史など一次資料からの引用が延々と続く

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004 2010/03/09(火) 16:24:02 ID:ABJ85yvSzI
サハリン経由で攻めてきたらどうすべえ。

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005 2010/03/09(火) 19:04:17 ID:4v/XT94I1Q
>>2
日本が中国のように長城以南は遮るものが何もない大平原だったら

ってそれもう日本とは呼べないだろ

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006 2010/03/10(水) 00:06:40 ID:K5N9FlKKH.
>>2
日本が島国だから攻めにくいというのは錯覚。
同じ島国のイギリスなんて大陸から征服されまくってるじゃん。
モンゴルは騎馬部隊を中核とする4万もの大軍を九州に上陸させながら、僅か1日の鎌倉武士に惨敗した。
元寇は鎌倉武士の方がモンゴル軍よりも強かったから勝った。
ただそれだけ。

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007 2010/03/10(水) 06:38:41 ID:gspD2ppbK2
>>6
イギリスと大陸の距離は、台湾と中国大陸より近いからな。
対馬から朝鮮半島ぐらいの距離しかない。
イギリスは日本と違って、ほとんどまっ平らな土地だし。

山だらけの日本みたいな土地に住んでると君みたいに無知な島猿が出てくるよね。

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008 2010/03/10(水) 10:14:55 ID:g2S.eW4h4s
実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。
しかし、それに対する日本からの返答は、

「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。
我が国には、水沢の地や山海の洲にも
備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません
(来るなら来いよwwwボコボコにしてやんよwwww)」

という挑発的なものであった。
当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国を返り討ちにするほどの日本に、
自分が攻め込んでも勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。

明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」

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009 2010/03/11(木) 00:37:33 ID:cl1C6R.BpI
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
<訳> 
そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。
【広開土王碑】より


すべての準備が整った西暦202年10月、
この勇猛な女王は肥前の海岸から出航し、無事に新羅の海岸に上陸した。
新羅王はこの東国から来た精強な軍隊と巨大な船団を見て大いに驚愕した。
恐れおののいた新羅王は、直ちに服従の意を示した。
彼は自分の手を縛って女王に拝謁し、自分は日本の奴隷であると宣言した。
神功皇后は自分の矛を王宮の門に立て、新羅王の服従のしるしとした。
彼女は門に「新羅国の大王は日本の犬なり」と書いたとさえ言われている。
ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』より


なぜか日本から大陸への侵攻では日本海は障害になってないようで

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010 2010/03/11(木) 01:38:04 ID:ltsoWa1svA
昔から航海術に長けた民族なのかな?
日本人は

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011 2010/03/11(木) 02:29:15 ID:YxYxUoOxww
北東アジア人最強説

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012 2010/03/11(木) 02:30:14 ID:68e9KynxwU
航海術なら、世界各地域の海洋に面した国・島ごとに発達してる。
人智にそれほど差は無いだろう。
たまたま漁師の家に生まれた若者が船に乗り、潮流に詳しくなったり、
志のある冒険家が遠洋へ漕ぎ出したり、国家として権益を広げたり、
海洋権益を他国から守ったりするために海軍力を整備し、船舶が進歩
発達してきたのだと思う。

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013 2010/03/11(木) 12:49:42 ID:cl1C6R.BpI
どちらにせよ
橋頭保も確保できず戦略目標の大宰府どころか
水城が見えるところまですら到達できず
福岡平野沿岸部をうろうろしただけ
先駆けレベルの武士団だけで返り討ち
弘安に至っては上陸すらままならず数カ月も海上を逃げ回った蒙古・高麗軍

地形が山がどうの言う以前の段階で元軍は敗北している

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014 2010/03/11(木) 15:13:51 ID:uKjpIdlB6o
南宋の軍って軍人より移住希望の農民が多かったんでしょ。

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015 2010/03/11(木) 15:52:22 ID:CvKM34av22
>>14
全員、旧南宋兵から選抜され、移住希望の農民なんて含まれていなかったよ。

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016 2010/03/11(木) 16:24:26 ID:cl1C6R.BpI
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、
海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった
14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、
沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である
元朝は日本商船の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、
しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる
中国の歴史12 第5章 王勇

単に農民失っただけならこうはならんよね

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017 2010/03/11(木) 18:34:22 ID:xvigfc6UL6
学校の歴史の授業では台風で元の船が沈まなかったら日本終了だった、運が良かったな、みたいな感じで教えられたな。
実際は陸地に拠点を築けずに海に追い落とされてさまよってる間に台風に遭遇したみたいだが。

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018 2010/03/12(金) 01:22:30 ID:hevQghXyEw
モンゴル軍とはいえ、ほとんど半島+南宋軍だったんでしょ?

負けるわけないじゃん。

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019 2010/03/12(金) 11:05:23 ID:KxnU0A.Tpk
>>18
もともと元はそういう混成軍で他国との戦いに勝ってきてるんだがw

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020 2010/03/12(金) 11:13:41 ID:KxnU0A.Tpk
そもそも東路軍の内訳のうち
高麗軍はわずか1万だ
あとは水手1万5000
のこりは元軍1万5000

ほとんど半島とはいえない

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021 2010/03/12(金) 16:05:25 ID:YpkX7v/WgY
削除(by投稿者)

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022 2010/03/13(土) 12:49:27 ID:WdMeYCgXJQ
ところが日本史の教科書は、日本が助かったのは日本を侵略した張本人である高麗のお陰だとか書いてるんだよ。
狂ってるよね。
しかも、恐ろしいことに現代の日本人の大半は、子供のころから洗脳され続けた結果、この滅茶苦茶な歴史教育に何の疑問も持ってないんだぜ。

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023 2010/03/13(土) 15:08:59 ID:IOhR.9sAiA
それはおかしい話だね
もともと忠烈王が自身の出世のためにフビライに進言した話なのに

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024 2010/03/14(日) 02:18:09 ID:KtU7YNgnvM
削除(by投稿者)

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025 2010/03/14(日) 02:29:13 ID:KtU7YNgnvM
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026 2010/03/14(日) 11:51:39 ID:n7bIW82apc
 文永の役(第1次侵攻):退却を決定して逃げている最中に遭難
 弘安の役(第2次侵攻):6月上旬から約3ヶ月上陸を阻止され漂流、ついに遭難

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027 2010/03/14(日) 13:18:44 ID:n7bIW82apc
>>25
典型的土下座外交か

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028 2010/03/15(月) 16:20:10 ID:sYDgeKgHHA
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029 2010/03/17(水) 12:59:27 ID:IsP3HDR8zY
高麗史にある軍議の記述。文永の役の博多の戦闘後。
わずか1日で元軍戦意喪失。

元軍司令官「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」
高麗軍将軍「我が兵少なしといえども既に敵地に入っている。船を焼き背水の陣でまた決戦したい」
元軍司令官「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」

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030 2010/03/20(土) 03:38:01 ID:Ob.VBX40PQ
>>15
なんか募集かけたときのことを書いた資料があったはずだが
なんだったっけ?

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031 2010/03/20(土) 15:48:01 ID:HcBQEJ76y.
バグダードの戦いでの徹底的に破壊された歴史を知ると、日本は勝って本当に良かったと思うよ。
モンゴル帝国が侵略した所は、住民は大虐殺、女性は強姦、歴史的建造物は徹底的に破壊
知恵の館などの図書館に保存されていた貴重な文化財や学術書は全て燃やす。
当時、世界的に発展していた都市が完全に破壊され文化も消えてしまったのは恐ろしい。

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032 2010/03/20(土) 17:53:24 ID:BoCfsLvhqQ
>>30
これ?

元史 巻十一 世祖本紀八 至元十七年
七月戊辰、詔括前願従軍者及張世傑軍、使征日本。
八月戊寅、以前所括願従軍者爲軍、付茶忽領之、征日本。

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033 2010/03/20(土) 19:01:37 ID:BEuBVglMMs
削除(by投稿者)

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034 2010/03/20(土) 21:15:32 ID:owDl1Jvyo2
オレの考えが正しければ、ジンギスカンは義経。

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035 2010/03/23(火) 04:26:16 ID:7nSxdd3u2Y
【正論】筑波大学大学院教授・古田博司 国家の正統性確立に苦しむ韓国
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/091229/kor09122902...
 さて、日韓両政府の支援により2007(平成19)年に始まった「第2期日韓歴史共同研究委員会」がこのほど終了した。
筆者は今期から設けられた教科書小グループのチーフだったが、実に虚(むな)しい2年間を過ごした。
論争好きな彼らに引きずられテーマ設定に1年間を要し、いざ共同研究が始まると、韓国の委員は4、5冊、多くて10冊の教科書資料しか読んでこなかった。
「日本帝国主義」「右翼教科書」などという用語を使い、政争の観点しか持たない彼らを諄々(じゅんじゅん)と諭す以外にはなかったのである。
さらに韓国側が名指しで人身攻撃を行っても、日本側委員長はわれわれ委員を守ることがなかった。私は「恨」を感じた。(ふるた ひろし)

韓国側委員の態度は朝鮮出兵部会でも同様だが、問題は日本側委員の北島などは、政争の観点しか持たない彼らを諭すどころか、自身を良心的研究者と自称し、一緒になって政治的非難を行っていることだ。
一例を挙げると、朝鮮出兵の部会であるにも係わらず、韓国側委員は議題でない筈の神功皇后や任那日本府の否定論を長々と唱えるが、北島らは全く諭そうともせず同調するような言動を行っている。

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036 2010/03/23(火) 11:15:23 ID:UOdrAWFNmY
削除(by投稿者)

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037 2010/03/25(木) 16:57:08 ID:x3Gukk.NoE
高麗の王世子・椹(後の忠烈王)
「惟んみるにかの日本、未だに聖化を蒙らず。
故に詔を発して軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須いる所あらん。
もし此事を以て臣に委ねなば王師を小助せん」

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038 2010/03/30(火) 17:53:54 ID:eyZatfNv4c
[YouTubeで再生]
○元寇 —— 鎌倉軍vs元軍
 「鎌倉幕府軍は●●で勝利していた」
○姉川の戦い —— 織田・徳川軍vs浅井・朝倉軍
 「姉川の戦いは●●●●の戦いの再現!?」
○第一次ノモンハン事件 —— 関東軍vsソ連軍
 「戦果は●●●●だった」
○満州事変 —— 関東軍vs張学良軍
 「●●●●張学良の軍隊」
○大東亜戦争〜ガダルカナル —— 日本陸海軍vsアメリカ海兵隊等
 「幻の●●●●●●にひきずられた陸軍」
○大東亜戦争〜沖縄戦 —— 沖縄守備隊(第32軍)vs米第10軍

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039 2010/03/31(水) 16:25:47 ID:qbPrw1ELns
■元寇・サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:海を越えての侵攻は難しいから元軍は負けて当然
Answer:日本→大陸では勝ち戦がありますが何か?
確かに渡航という行為は難しいのですが、その中で相対的に見れば対馬海峡はとりたてて難しいわけではありません。
日本から大陸への侵攻では過去何度も成功例※がありますし、
負けた言い訳とするにはちょっと苦しいのではないでしょうか?
そもそもこちらが頼んで来てもらったわけではありませんよね?
攻めてくるからには勝算があってのことでしょう。
その目算が外れたということは…まあ言わずもがなですよね。
ちなみにそんな程度の元軍でも各国に勝利してきています。
鎌倉武士は優秀だったということになりますね。
むしろ海がそんなに侵攻の障害になるならそんな障害をものともせず大陸や半島を震え上がらせる日本の兵站能力がますます強調されるだけですね

※すべての準備が整った西暦202年10月、
この勇猛な女王は肥前の海岸から出航し、無事に新羅の海岸に上陸した。
新羅王はこの東国から来た精強な軍隊と巨大な船団を見て大いに驚愕した。
恐れおののいた新羅王は、直ちに服従の意を示した。
彼は自分の手を縛って女王に拝謁し、自分は日本の奴隷であると宣言した。
神功皇后は自分の矛を王宮の門に立て、新羅王の服従のしるしとした。
彼女は門に「新羅国の大王は日本の犬なり」と書いたとさえ言われている。
ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』

※百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
<訳>そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、
百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。
【広開土王碑】

※自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息
<訳>我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった
『明史』

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040 2010/03/31(水) 17:50:33 ID:FBBNJKtBz.
日本は対馬、壱岐を瞬く間に占領され、博多を焼き払われている。
でも、日本の反撃も痛いものだったんだと思うよ。なにせ迎え撃った日本軍の
方が蒙古軍3万よりはるかに多いしね。追撃戦にも出ず、夜討ちを厭って
船に引き返しちゃったのが敗因。対馬海峡は高麗の大臣が、蒙古の死者に
巨済島から日本を見せたときに海の荒れ具合に肝をつぶしたぐらい荒れやすい
からね。

>>39
30年戦った韓国や、50万の大軍を追い払ったベトナムの方が凄い。
朝鮮半島、中国南部、ベトナムでの反乱が無く、第三次日本遠征があったら、
また運良く大風が吹いたとは限らないぞ。

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041 2010/03/31(水) 18:11:52 ID:RIaMOKwTkk
>>40
博多が焼き払われたなどという事実は無いぞ。
元軍は上陸地点の目前で、城壁に囲まれているわけでもない博多の町に
何の損害も与えることができなかった。
つまり、戦闘で鎌倉武士に全く歯が立たなかったということ。

それから、元軍が船に引き返したのは「夜討ちを厭って」などでは無く、
日本から撤退するため。
このことは、敵側史料である高麗史にちゃんと明記してある。
元軍は戦闘で鎌倉武士に敗れたから船に引き返したのであって、
船に引き返したのが敗因というのは根本的に間違い。

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042 2010/03/31(水) 18:18:23 ID:qbPrw1ELns
ベトナムの話を出すと自爆にしかならないぞ

1257年ウリャン・ハタイ率いる3000人のモンゴル軍に首都を破壊される。
その後、ベトナムにはダルガチが配備され、モンゴル帝国の属国に。

1284年、チャンパー攻撃のついでに侵攻したモンゴル軍にまたもや首都を制圧される。
聖宗の弟の昭国王陳益稷など陳朝の有力者が大量にモンゴル軍に投降。

1287年にベトナムが白藤江で勝った元の水軍は僅か500艘程。
何故なら、元の海軍はその前の弘安の役で3500艘の江南艦隊が壊滅するという大損害を
受けていたからである。

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043 2010/03/31(水) 18:25:45 ID:qbPrw1ELns
■元寇・サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:文永の役は元軍の勝ち。博多焼いたし。
Answer:仮に焼いたとしても武士がいないうえ戦略上なんの価値もないところを焼いても勝ったことにはなりません。そもそも、本当に焼いたかどうかが怪しい。
「博多が被災した」と明記された一次史料がありません。
そんな無駄なことしてる暇があるなら武士が食事をとっている水城へ夜襲をかければよかったではないですか?

>対馬、壱岐を瞬く間に占領?
これはおかしいw
たった80騎たらずしかいない離島を数万の蒙古高麗軍で陥落させるのに一昼夜かかっちゃうようで瞬く間?

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044 2010/03/31(水) 18:40:16 ID:qbPrw1ELns
>また運良く大風が吹いたとは限らないぞ

実は大風が吹いて運がよかったのは蒙古軍のほう
もし台風が無ければ、日本近海を逃げ回る蒙古高麗軍は撤退することもできず徐々に日本軍にすり潰され壊滅していただろう。

台風のおかげで日本軍の包囲をぬけ、一部でも逃げ出すことに成功できた。

5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 潰走する元軍を島津長久軍+松浦党らが迫撃
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北

6月初旬から夏まで元軍はろくな攻撃もできずひたすら逃げ回っている。
江南軍と合流してもなおろくな反撃もできずやられっぱなし。
要するに日本から離脱したくても武士のにらみが利いていてできなかったんだろう。

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045 2010/03/31(水) 18:50:50 ID:FBBNJKtBz.
>>41
黙れ!バカウヨ!

蒙古軍が上陸の夕刻には、日本軍は博多から、大宰府近くの水城へ退却。
博多から箱崎にかけては箱崎宮をはじめ、多くの建物を焼く炎で空は赤く
染まった。

しかし、その夜大風が吹いたと、日本側の記録「勘仲記」にも書いてある
だろうが。

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046 2010/03/31(水) 19:21:47 ID:e7Q3GdvtPk
>>45
「勘仲記」って京の公卿が伝聞情報で書いた日記だろ。
果たして一次資料と言えるものなんかね?

まあ、仮にその話が本当だったとしても、
当初の戦略目標であった大宰府にたどり着けもせず撤退したんだから、
元軍の事実上の敗退だろ。

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047 2010/03/31(水) 19:25:55 ID:v2wqc.SKKw
>>45
追撃を指揮していた元軍の副将(劉復亨)が武士に馬上から射落とされ、
その傷が原因で死んでる事を忘れてはならない。
これにより高麗軍に動揺が走り、追撃は中止された。

ところで大風の記述は高麗史じゃないのか?

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048 2010/03/31(水) 19:35:52 ID:0H9GCoIoN6
>>45
「勘仲記」には日本軍が退却したなんて記述は無いし、
博多が焼けたとも書いてないんだが。。。

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049 2010/04/01(木) 01:54:06 ID:H1DjG5xOWA
都合が悪くなるとすぐ馬鹿とかなんとか人格攻撃に走るのはサヨクの悪い癖だな

どの道、文永の役では台風なんぞきてないよw

まとめると戦略目標であった大宰府にまったく到達できず
それどころか手前の水城にすら到達できなかった元軍。

文永の役での元軍の進路と交戦状況は
今津沖→息の浜
百道原→赤坂

どっちの元軍も返り討ちにあっている


元軍は…なんというかプールサイドであがってくるたび何度もプールに突き落とされる出川哲郎先生のような状態だな

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050 2010/04/01(木) 02:33:21 ID:AYY/xq/p4s
一つ言っておく。
博多炎上は”NHK”大河ドラマの北条時宗にあったw
まぁそういうことだ。

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051 2010/04/01(木) 03:34:50 ID:xJHGbGdyhA
元寇で思い出すのは、モンゴルの使者が2回とも首を刎ねられた話。
初回はともかく2回目は殺されそうだってわかってたはず。
そういう役回りはしたくないなあ。

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052 2010/04/01(木) 05:00:27 ID:H1DjG5xOWA
モンゴルの使者は各国でもぶち殺されてるしなw

それに比べれば初回の使者を丁重に扱って生きて返した日本は優しいな

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053 2010/04/01(木) 06:54:59 ID:FMFqtNvLE.
まぁ当時の船は帆船なので風に乗ってくる必要があり
南から来るためには、当然それ相当の風が必要で
...また、その風が吹く時期は「台風シーズン」に重なるわけで
そう考えると当時の武士は、ある程度、海岸線で食い止めてれば
「台風」が来るというのを予測してたんじゃないだろうか!?

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054 2010/04/01(木) 12:39:21 ID:GEA6InicWo
削除(by投稿者)

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055 2010/04/01(木) 15:05:55 ID:H1DjG5xOWA
>>50
つまりソースは無しってことだな

>>53
それはどうかな

文永の役…10月
弘安の役…6月

どちらも日本へ現れた時は台風シーズンじゃないからなぁ
弘安の役なんて実際台風が来たのは二か月後だしw
大風が吹いて運がよかったのは蒙古軍のほう
もし台風が無ければ、日本近海を逃げ回る蒙古高麗軍は完全撤退することもできず徐々に日本軍にすり潰され壊滅していただろう。
台風のおかげで日本軍の包囲をぬけ、一部でも逃げ出すことに成功できた。

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056 2010/04/01(木) 15:28:13 ID:RNRWmA.DLE
>>49
日本側の記録「勘仲記」、敵側の記録「高麗史」双方に大風に関する記述が
あるから、台風でないにしても、局地的低気圧による突風でも吹いたのは
間違いない。

風が吹かなかったというのは、いつものバカウヨの希望的観測に過ぎない。

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057 2010/04/01(木) 16:03:47 ID:H1DjG5xOWA
>>56
問題はどこで吹いたか、いつ吹いたかだろ

文永の役では武士との戦いに敗れ日本を離れた後の帰路にて風雨があったとする記録が高麗史にあるなんてのはこっちはとっくに知ってるってのw

当事者である武士は逃げ出した後の元軍が風雨にあってたなんて全く知らんかったんだからw

勘仲記は後日無関係な素人がこんな伝聞を聞いたって記録で問題外

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058 2010/04/01(木) 16:14:00 ID:H1DjG5xOWA
すでに蒙古高麗軍敗走という結果が出た後、言ってみれば文永の役終結後の風雨。
勝利者であり当事者である武士の認識外での風雨を蒙古高麗軍敗北の言い訳にするとか
サヨクの頭の中はよくわからん

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059 2010/04/01(木) 20:25:56 ID:xJHGbGdyhA
神風説は、朝廷や幕府の祈祷が効いたっていう勢力争いのひとつかと。
もともと手柄を立てた御家人たちに与える土地も金数ももちあわせてないし、
神風のせいにすれば、幕府も朝廷も宗教界も三方一両得。損は御家人ばかりなり

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060 2010/04/01(木) 22:11:41 ID:X2FRxdBhKo
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061 2010/04/02(金) 02:37:02 ID:CLa8MhUeOY
文永の役の前に1268年から1272年までに四回送られてきた使者たち
はみんな生きて返してた

文永の役が終わった後1275年に送られてきた使者は斬首してる
日本はむしろ使者に甘すぎたぐらいだったね

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062 2010/04/02(金) 11:36:55 ID:wQIcVYXFW6
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063 2010/04/02(金) 11:39:51 ID:wQIcVYXFW6
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064 2010/04/02(金) 15:20:52 ID:7SAMXNrhv6
↓中国語が出来る人、↓さかんに中国の掲示板に↓書き込んでくれない?↓

キモヨナを最終プレゼンターに使った
冬季五輪誘致がもし万一成功すれば、
中国はそのあと20年ぐらい、
「中国初の冬季五輪開催」ができません。同じアジアだから。
中国は発展著しく、
そういう風に可能性が閉ざされるのはいやでしょう。
キモヨナ潰しは国益のため。今回の韓国招致は潰すべし。
中国、韓国冬季五輪を、潰しにかかったほうがいい!
アフリカ票を大量に支配して、韓国五輪を潰しておこう!
国力が中国>>韓国だから、
中国が先に冬季五輪を開くべきだ!
2018年はドイツにやらせて、2022年は楽に中国のものだ。
2018年に韓国でやらせることは阻止の一手だ!

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065 2010/04/02(金) 18:16:54 ID:CLa8MhUeOY
ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、
おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、
勝負をけつし、家のこ、らうとう等、多くうたれにけり、いかしたりけん、
菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、
頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ
八幡ノ蒙古記

武士つええ

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066 2010/04/03(土) 02:04:23 ID:BnyRrtm5m.
Excuse:30年戦った高麗の方が凄い。
Answer:戦ってません。単に民を捨てて逃げ出しただけです。

1232年以降、高麗の為政者は江華島に引きこもり、モンゴル軍が朝鮮半島全土を蹂躙するのを放置してただけ。
だからモンゴル軍は30年間にわたって思う存分高麗で奴隷狩りを満喫できたわけです。
一回の奴隷狩りで高麗人20万6800余人お持ち帰りなんてのを、許しておいて、「30年戦った?」
普通の感覚なら恥ずかしくてそんなこと言えないですよね。

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067 2010/04/04(日) 17:59:14 ID:XdPUVdDyEE
麗しき御賀の儀、いかばかりの事にてか有んずらんと覚えしに、蒙古国とかやより牒状を奉る。
高麗の牒を相副たり。宰府よりまづ関東へつげて、関東より二月六日牒状をまゐらせたり。
これに依て御賀止めらる。
公私本意なき御事也。蒙古国もとは契丹の所属、韃靼国也。年比契丹国已下の近辺の諸国打とる。
大宋国も、三百余州のうち大略皆討とられて、僅に六十余州残れり。高麗も同せめおとされて、
臣として蒙古の朝につかふる由、牒状にも載たり。牒使には趙良弼と云ものわたれり。
高麗の使を副たり。牒状二通あり。一通は高麗の牒也。蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。
至元三年と載たり。高麗国、同彼年号をうけて至元となせり。去年八月の状也。
数多の方物を相副て、正月一日大宰府に着たり。
【五大帝王物語】

牒状が届いた時、日本人は大陸情勢に無知で蒙古が如何に強国かを理解してなかったという通説は、
嘘だよね。
実際には、当時の日本人は蒙古についてかなり詳細な知識を持っていた。

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068 2010/04/05(月) 00:31:12 ID:jFBafCkRDg
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069 2010/04/07(水) 03:45:22 ID:RVejM5VU6g
それどころかモンゴルに尻尾を振って
日本侵略を提案

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070 2010/04/07(水) 09:42:04 ID:6GA8lRa19Q
元寇は、朝鮮など東アジアの国々による日本への侵略戦争だったこと。
そして、その侵略戦争に日本が見事勝利したこと。
という二重の意味で戦後の自虐史観にとってタブーだった。
だから、元寇は目の敵にされ、徹底的に歪められた。
どんなトンデモ説でも、それが日本に不利な内容なら史料の有無なんか無関係に
定説化しちまうんだから酷い話だよ。

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071 2010/04/08(木) 03:12:19 ID:DWDpjKOHpQ
>>70
そういうやつこのスレにも一人いたなw
ことごとく論破されて消えたけど

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072 2010/04/09(金) 01:05:13 ID:EuxfO/a3Ps
>>70
してもいない「敵前で名乗りを上げて一騎打ち」を理由に武士が苦戦していたとか
平気でそういう嘘つくからな

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073 2010/04/09(金) 21:18:23 ID:sh.IiMi5VE
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074 2010/04/10(土) 20:28:54 ID:0g4pxRQojo
八幡愚童記正応本
其中に高麗の兵船四五百艘壱岐対馬より上りて
見かくる者を打ころしらうせきす
国民ささへかねて妻子を引具し深山に逃かくれにけり
さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり

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075 2010/04/11(日) 05:10:20 ID:JVdwyBk1NU
Excuse:一騎打ちしか知らない武士は蒙古軍の集団戦法に苦戦したんだから蒙古の勝ち
Answer:武士も集団戦にて戦っていました。

まず、当時の武士が一騎打ちを行っていたとする根拠がありません。
唯一の根拠として八幡愚童訓の写本の一つ『菊大路本』があげられることがありますが、
そもそも八幡愚童訓は後世の宗教書ですので信憑性に疑問があります。
さらにいえば該当箇所も実際のところただの書き間違いです。

八幡ノ蒙古記
「高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に」

菊大路本
「高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処」

要するに元寇のとき武士が一騎打ちしていたなどというソースはどこにも存在しません。

次に元寇の詳細を記録した資料として信憑性が高いとされている蒙古襲来絵詞には武士が集団で元軍と戦い、元軍を蹴散らしている図が示されています。
総勢百騎などと注釈が付けられており、相当の規模での集団騎射戦が可能だったようです。

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076 2010/04/12(月) 00:11:21 ID:iAz/uvEhLY
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077 2010/04/12(月) 10:40:06 ID:VTQRwBcxV6
日教組はどうしようもないな

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078 2010/04/12(月) 11:52:54 ID:gxbF.8fG1Q
単に研究がすすんで新しい説が出てきただけだろう
なんでもかんでも自虐教育のせいにするもんでもない

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079 2010/04/12(月) 13:37:26 ID:uhciB3TMrQ
>>78
いや、自虐教育のせいだよ。
鎌倉武士が実力で元軍を撃退したというのは「新しい説」じゃないから。

江戸時代の歴史書、『日本外史』に記された文永の役
「(文永)十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。地頭宗助国、これに死す。
転じて壱岐に至る。守護代平景隆、これに死す。事六波羅に報ず。鎮西の諸将をして、
赴き拒がしむ。少弐景資力戦し、射て虜の将劉復亨を殪す。虜兵乱れ奔る。」

戦前の昭和天皇の歴史教科書、『国史』に記された文永の役
「元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。」

比較すれば現在の歴史教科書がどれだけ自虐史観に毒されてるか一目瞭然だろ。

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080 2010/04/12(月) 14:09:28 ID:gxbF.8fG1Q
戦前の教科書を持ち出すなよw

「鉄砲三段撃ち」であるが、これは映画『影武者』のラストシーンにも登場した有名な戦法である。
しかし、実在は疑問視されている。
『信長公記』では鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとだけ書いてあり、具体的な戦法、つまり三段撃ちを行ったという記述はなく、最初の記述は江戸期に出版された通俗小説に見られる。
それを、明治期の陸軍が教科書に史実として記載したことから、一気に「三段撃ち」説が広まったものとされる(これは「大日本戦史」として1942年に出版されていたので、所蔵する図書館もある)。

戦前の教科書なんてこんなもん




『日本外史』wikiより
情熱的な文章であった為に広く愛読されたが、参考史料として軍記物語なども用いているため、歴史的事実に忠実であるとは言いがたい記事も散見する。
言い換えれば、史伝小説の源流の一つと言い得る。

だってさ

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081 2010/04/12(月) 14:31:19 ID:uhciB3TMrQ
>>80
それでも、戦後の歴史教科書よりも元寇に関する記述は遥かにマシ。
如何に現代の自虐教育が悲惨な状況かってことだろ。
戦前の記述を笑う資格なんてないよ。

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082 2010/04/12(月) 14:57:56 ID:oCp3PXgKMs

戦前は神風が元軍を撃退したという考えだよ。
外国を打ち払うという意味で新風特攻隊の語源になったほど。

戦前は、「すべては天皇陛下のおかげ(神風のおかげ)」

戦後は、「嵐が来て勝手に自滅した」

つくる会は、「神風(天皇)のおかげではない。武士の実力で追い払った」

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083 2010/04/12(月) 14:59:11 ID:gxbF.8fG1Q
戦前の教科書は天照大神からはじまってるし問題外だよ
元寇の記述に関してはGHQが変えたんだな
元寇に関してはGHQはやりすぎだとは思うけど日本史全体としてみれば戦前の神話を事実とするような皇国史観よりははるかにマシ

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084 2010/04/12(月) 15:15:16 ID:oCp3PXgKMs
訂正>>82
つくる会は暴風雨の影響も勝因としていた。すまん。

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085 2010/04/12(月) 15:31:49 ID:uhciB3TMrQ
>>82
戦前は、「すべては天皇陛下のおかげ(神風のおかげ)」というのも実は戦後広められた嘘だし。
戦前の元寇教育で一番強調されていたのは鎌倉武士の勇敢さだよ。

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086 2010/04/12(月) 15:49:01 ID:oCp3PXgKMs
昭和18年國定歴史教科書

 紀元一千九百四十一年、弘安四年五月に、まづ兵四万・艦船九百隻の東路軍(とうろぐん)が、朝鮮から博多へとせまりました。
河野通有(かうのみちあり)・菊池武房(きくちたけふさ)・竹崎季長(たけざきすゑなが)らの勇将は、石塁によつて、一歩も敵を上陸させません。
夜になると、闇にまぎれて小舟を進め、敵艦をおそつて火を放つたり、帆柱を倒して船中へ斬りこんだり、さんざん敵をなやましました。

 おそれ多くも亀山上皇は、皇大神宮に、御(おん)身を以て国難に代ることをお祈りになりました。
社という社、寺といふ寺には、真心こめた国民が満ちあふれました。七月になると、つひに兵十万・艦船三千五百隻の江南軍(かうなんぐん)が押し寄せて来ました。
さきに来た東路軍と合(がつ)して、敵艦は博多の湾をうづめつくしました。

 大日本は神国であります。風はふたたび吹きすさび、さか巻く波は数千の敵艦をもみにもんで、かたはしから撃ちくだき、くつがへしました。
わが将士は、日ごろの勇気百倍して、残敵をおそひ、たちまちこれをみな殺しにしました。

 敵艦全滅の報は、ただちに太宰府(だざいふ)から京都へ鎌倉へと伝へられ、戦勝の喜びは、波紋のやうに、国々へひろがりました。
世に、これを弘安の役といひ、文永の役と合はせて、元寇と呼んでゐます。

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087 2010/04/12(月) 15:59:51 ID:oCp3PXgKMs

 思へば元寇は、国初以来最大の国難であり、前後三十余年にわたる長期の戦でありました。
かうした大難を、よく乗り越えることのできたのは、ひとへに、神国の然(しか)らしめたところであります。
時宗の勇気は、よくその重い務(つと)めにたヘ、武士の勇武は、
みごとに大敵をくじき、民草(たみくさ)もまた分に応じて、国のために働きました。

 まつたく国中が一体となつて、この国難に当り、これに打ちかつたのですが、
それといふのも、すべて御稜威(みいつ)にほかならないのであり、
神のまもりも、かうした上下一体の国がらなればこそ、くしくも現れるのであります。

 神のまもりをまのあたりに拝して、国民は、今さらのやうに、国がらの尊さを深く心に刻みつけました。
また、世界最強の国を撃ち退(しりぞ)けて、国民の意気は急に高まり、
海外へのびようとする心も、しだいに盛んになつて行きました。

 今、福岡の東(ひがし)公園をたづねて、亀山上皇の御尊像(ごそんざう)を仰ぎ、
はるかに玄海難(げんかいなだ)を見渡しますと、六百五十年の昔のことも、
今の世のことかと思はれて、深い深い感動に打たれるのであります。

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088 2010/04/12(月) 16:46:42 ID:oCp3PXgKMs
>>85
問一)上の文章を読んで一番強調されている部分は何か答えなさい。(国士様大学入試より)

イ、時宗の勇気
ロ、武士の勇武
ハ、民草(たみくさ)の分に応じた国のための働き
ニ、御稜威

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089 2010/04/12(月) 16:50:45 ID:uhciB3TMrQ
>>86
その教科書の文永の役

 文永十一年(紀元一千九百三十四年)、第九十一代後宇多(ごうだ)天皇が御位におつきになると、
その年の十月、果して元・高麗の兵約二万五千は、九百隻(せき)の艦船をつらね、朝鮮の南端から
攻め寄せて来ました。

 敵は世界最強をほこる元であり、従つてわが国としては、かつてためしのない大きな国難であります。
思へば鎌倉武士が、日夜ねりきたへた手なみを、御(み)国のためにあらはす時が束たのです。敵は
まづ対馬(つしま)をおそひました。宗助国(そうすけくに)が、わづかの兵でこれを防ぎ、ことごとく
壮烈(さうれつ)な戦死をとげました。

 そこで敵は、壱岐(いき)から博多湾へせまり、つひに上陸をあへてしました。筑紫の武士は、力のかぎり
戦ひましたが、敵のすぐれた兵器、変つた戦法になやまされて、なかなかの苦戦です。しかし、
日本武士の魂(たましひ)が、果して、かれらの進撃をゆるすでせうか。身を捨て命を捨てて、防ぎ戦ふ
わが軍のために、敵はじりじりと押し返されて行きます。

 この奮戦が神に通じ、博多の海に、波風が立ち始めました。敵は海上の船を心配したのか、それとも、
わが軍の夜討ちを恐れたのか、ひとまづ船へ引きあげて行きました。夜にはいつて、風はますます
はげしく、敵船は、次から次へと、くつがへりました。中には、逃げようとして、浅瀬に乗りあげた船も
あります。敵は、残つた船をやつと取りまとめ、命からがら逃げて行きました。これを、世に文永の役と
いひます。

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090 2010/04/12(月) 16:52:26 ID:uhciB3TMrQ
>>89を読めばわかるように、戦前の元寇教育で一番強調されていたのは鎌倉武士の勇敢さ。

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091 2010/04/12(月) 17:11:15 ID:GefXD2Y6Zs
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092 2010/04/12(月) 17:12:59 ID:oCp3PXgKMs
>>90
残念。
正解は、「ニ、御稜威」でした。
これ小学校の教科書だよ。しっかりしてくれよ。

小論文読んだ事あるでしょ?
>>87 は起承転結の結の部分。
時宗の勇気も、武士の勇武も、民草(たみくさ)の分に応じた国のための働きをまとめて評価して、
最後にそれらの働きはすべて御稜威(みいつ)にほかならないと手柄を独り占めにして教えているんだよ。
鎌倉幕府は天皇の敵なんだからそういう時代背景も考えなくちゃだめだよ。

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093 2010/04/12(月) 17:47:48 ID:VTQRwBcxV6
鎌倉年代記裏書
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」

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094 2010/04/12(月) 17:48:21 ID:uhciB3TMrQ
まぁ、釣られておきながら今さら何だが、そもそも昭和18年は戦中であって戦前じゃないんだけどな。

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095 2010/04/12(月) 17:54:36 ID:VTQRwBcxV6
頼山陽 日本外史
十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。
地頭宗助国、これに死す。
転じて壱岐に至る。
守護代平景高、これに死す。
事六波羅に報ず。
鎮西の諸将をして、赴き拒がしむ。
少弐景資力戦し、射て慮の将劉復亨を殪す。
慮兵乱れ奔る。

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096 2010/04/15(木) 04:16:09 ID:ndCMM7WZxA
四百余州を挙る
十万余騎の敵
国難ここに見る
弘安四年夏の頃
なんぞ怖れんわれに
鎌倉男子あり
正義武断の名
一喝して世に示す

多々良浜辺の戎夷
そは何蒙古勢
傲慢無礼もの
倶に天を戴かず
いでや進みて忠義に
鍛えし我が腕
ここぞ国のため
日本刀を試しみん


こころ筑紫の海に
浪おしわけてゆく
ますら猛夫の身
仇を討ち帰らずば
死して護国の鬼と
誓いし箱崎の
神ぞ知ろし召す
大和魂いさぎよし

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097 2010/04/17(土) 10:29:04 ID:Tdu9Br6IDc
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』
白鳥倉吉【国史】

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098 2010/04/18(日) 01:07:32 ID:2G5V9LB99o
まるで自分の目で見たかのように偉そうに語る奴って何なのwww

かっこよく書かれたナンチャッテ歴史本に洗脳されたの?

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099 2010/04/18(日) 03:20:32 ID:AgEh0FoPRs
悔しそうですね

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100 2010/04/18(日) 10:34:45 ID:CMONfHPxGA
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101 2010/04/18(日) 12:22:05 ID:wkGsR0JlCU
こいつらの思考回路はこんな感じだろ?

必ずしも武士が一方的にやられていたわけではない

↓これを飛躍させ美化

武士が実力で元軍を撃退した

神風が無くても撃退できた

神風があったのは疑わしい

だから武士が実力で元軍を撃退した。

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102 2010/04/18(日) 12:25:28 ID:AgEh0FoPRs
>ID:wkGsR0JlCU
弘安の役と文永の役すら区別がつかない人は
黙ってた方がいいよ

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103 2010/04/18(日) 12:59:44 ID:wkGsR0JlCU
>>102
お前の思考回路はこっちか?

必ずしも武士が一方的にやられていたわけではない


神風に一切触れずに武士のすごさだけを抜き出している箇所の大量のコピペが存在する

やっぱり神風は無かったし武士が実力で元軍を撃退した


日本すげー

オレ日本人

おれすげー

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104 2010/04/18(日) 13:51:25 ID:AgEh0FoPRs
ん?
つまり一応弘安の役でのことを言ってると解釈していいのかな?

神風なる「普通の台風」が来たことを一切触れないコピペなるものはどれのことだろう?

五月下旬に現れた元軍は
ことごとく武士に敗北し二か月以上海上を逃げ回った末、台風にあってるわけですな。
まあそれを神風とするのは別にかまわんとおもうよ

元軍は弾が出るまでロシアンルーレット強要されてたようなもんだね
涙目で震えながら引き金引いたら割と早い段階で弾が出ちゃったわけだ。

弾が出るのがもっと遅くなるかもしれなかったわけだから
早めに出たってことでまあ神風でもいいんじゃないのw

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105 2010/04/18(日) 13:55:55 ID:AgEh0FoPRs
>必ずしも武士が一方的にやられていたわけではない

どっちかっていうと一方的にやられていたのは元軍なので
擁護するなら
「必ずしも元軍が一方的にやられていたわけではない」にした方がいいんじゃないの?
対馬、壱岐では元軍も少数の武士相手に充分「奮戦」したようだしw

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106 2010/04/18(日) 23:02:13 ID:XKEAlxJkDo
削除(by投稿者)

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107 2010/04/19(月) 01:10:06 ID:x4no2jUtkY
>>105
戦闘での犠牲者数と台風の犠牲者数を混同してるだけだろ。

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108 2010/04/19(月) 04:06:20 ID:iA5Z5tiI76
犠牲者数だけで勝敗がきまるなら
ノモンハンは日本の勝ちになっちゃうなw
まーそれはおいといて

文永の役…武士の追い返され、夜逃げ同然に日本から逃げ出したのは元軍
弘安の役…何カ月も海上を逃げ回ったが、武士を振りきれず困っていたところへ台風。
部下を見殺しにしてごく一部の東路軍のみ日本からの脱出に成功。

ちなみに見殺しにされた江南軍は嵐の後も普通に平戸島など周辺の島々に取り残されて生きてました。
船が無くて逃げられなかっただけですね。
その後、日本軍に掃討されてしまったわけなので意外と台風以外の犠牲者数も多いんですよねー。

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109 2010/04/19(月) 08:46:51 ID:x9mGgT8c/s
弘安の役における元軍の戦闘犠牲者は10余万人で、台風の犠牲者を遥かに上回る。

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110 2010/04/20(火) 03:07:46 ID:vS0vkrLNeg
認めちゃえよw
日本にはまったく手も足も出ず勝てまへんでしたってw

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111 2010/04/20(火) 04:22:00 ID:wJiRLS3MJA
>>110
負けてたら、今頃はお前らと同じ支那の属国で、対馬は日本じゃないだろ。アホか。

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112 2010/04/20(火) 08:51:12 ID:idXQmuUWQI
>>>111
落ち着いて!110さんは味方よ!

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113 2010/04/20(火) 12:21:22 ID:idXQmuUWQI
■宋人から見た弘安の役
鄭思肖 鉄函心史
六月なかば、元の7000隻の軍船が日本(の博多湾)を襲った。
だが、追い返されて七月半ばに平戸島へ接岸、土砦を作って武士の迫撃に備える。
7月30日、暴風雨が来る。
船は大波にやられて沈没、上陸していなかった兵は海に沈んでしまった。
残った船は400隻余り。
十二万人ほどは平戸島にいたので助かったが、逃げ帰る船は無く、進軍してきた日本の武士達によってことごとく殺された

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114 2010/04/20(火) 12:29:14 ID:idXQmuUWQI
■モンゴル人から見た弘安の役
元史日本伝
七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために虜去せらる。
九日、八角島に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、
新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。
・・・十万の衆、還るを得たる者三人のみ

現代語訳
『(台風が去った後)七日、日本人と交戦、ことごとくやられ、二、三万人は捕まってしまった。
九日、(元軍最後の砦である)八角島(平戸島)にまで日本軍が侵攻、
蒙古高麗漢人は全て殺され、唐人は日本と国交があったので助命された。
結局10万人を越えるわが軍の内、帰還できたのは三人(日本軍が送り返してやった奴らね)だけだった』

結論としては敗北した当事者達は台風に関係なく実力で負けたことを認識していた様子だね

返信する

115 2010/04/21(水) 02:03:36 ID:3msMl8kYlM
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.htm...
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.htm...
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.htm...
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.htm...
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。

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116 2010/04/22(木) 01:09:58 ID:wFvYtOucFI
神風というのは季節的にどうなのかな。
とにかく元軍は夜になるといちいち船に戻ったらしいから橋頭堡すら築けていない。
鎌倉武士は善戦していたと思うよ。

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117 2010/04/22(木) 02:04:58 ID:lhLeGqptXs
>>116
「元軍は夜になるといちいち船に戻った」なんて馬鹿なことが本当にあるわけない。
元軍は日本から撤退するために船に戻り、そのまま逃げ帰ったんだよ。
そのことは、ちゃんと元軍側の史料に明記してあるの。

『忽敦、曰く「兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり」と。疲乏の兵を策して、
日ごとに滋すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。
〔劉〕復亨、流矢に中(あた)る。先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。』
【高麗史】

鎌倉武士は善戦していたとかじゃなく、普通に勝ってるの。
でも自虐史観に憑かれた戦後の学者連中は、日本が勝ったということを認めたく無いから、
史料を無視して「撤退」を「一旦船に戻った」に置き換える逆大本営発表をやってるわけ。
狂ってるんだよ。

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118 2010/04/22(木) 03:21:31 ID:hnNJ6KOiVQ
削除(by投稿者)

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119 2010/04/22(木) 04:47:17 ID:FLrJXKSxvU
「文永の役」「弘安の役」どちらも「博多湾上陸の試行」は一回だけといってもよさげだよ
文永は上陸そのものは成功、というか武士は阻止してない
初めから福岡平野で迎え撃つつもりだったから

弘安の役では本土上陸すらできてない
志賀島以外はね

したがって「いちいち船に戻る」というのはありえない
ただ、116も単に言葉のあやで言っただけで深い意味はないと思うけど

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120 2010/04/22(木) 11:44:29 ID:znVaiWwnpA
削除(by投稿者)

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121 2010/04/22(木) 12:07:46 ID:sxwGK0K7EU
やっぱり九州のサムライは強いのう。

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122 2010/04/22(木) 13:32:12 ID:FLrJXKSxvU
弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」
史実では、文永の役において対馬で玉砕した宗助国の軍勢の中に
肥前(佐賀・長崎県)や阿波(徳島県)の御家人がいたことが記録されている。
本土からの増援兵力が僅かながらも差し向けられていた訳である。

また弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」が島民と共に粘り強く戦っている。
出身地も広範囲で、
陸奥・出羽(東北地方)、
上野(群馬県)、
下野(栃木県)、
信濃(長野県)、
三河・尾張(愛知県)、
遠江(静岡県)、
近江(滋賀県)、
丹波(京都府)、
備前(岡山県)、
筑前(福岡県)、
日向(宮崎県)、
肥前(佐賀・長崎県)、
豊後(大分県)
と、日本全土に及んでいる(『対馬島誌』)。

http://homepage3.nifty.com/rokuen/China12-3.ht...

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123 2010/04/23(金) 16:02:48 ID:VY7aWAki52
[YouTubeで再生]
>>113>>114の内容とよく似てるな

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124 2010/04/24(土) 19:26:23 ID:xwUh1DSzQs

「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本至壱岐、戦敗、軍不還者萬三千五百餘人」
高麗史表

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125 2010/04/25(日) 14:01:57 ID:U8gdv7wlLI
帝王編年記 「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」


『大宰府より飛脚が到着した。先月二十日の蒙古軍と武士との戦いの報告書が届く。
逃げ遅れた元の船を一隻捕まえたそうだ。残りの蒙古軍は追い払ったそうだ』

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126 2010/04/26(月) 10:54:51 ID:rAHFwA2Mdo
圧勝に近いな

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127 2010/04/26(月) 20:53:37 ID:/hK/aU95A2
もうサヨも在日もこなくなったなwやっと負けを認めたんだなw

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128 2010/04/28(水) 20:44:05 ID:.MT8CnXaFU
歴史は負けとか勝ちとかでくくるものではない。
重要なのは正確か不正確かだけだ

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129 2010/04/29(木) 14:37:02 ID:.9.rA72.KE
高麗の敗北は確かだな

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130 2010/05/02(日) 02:03:58 ID:2ycAQ2rJaM
[YouTubeで再生]
02:00
いまだにこんな扱いかよ┐(´ー`)┌

文永の役は季節風関係ないし
弘安の役もあってもなくてもさほどかわらんというのに

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131 2010/05/03(月) 12:59:37 ID:NOgEgQOem2
■元寇・サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:元寇を防げたのは二度とも偶然ふいた神風のおかげでしょ?
Answer:いいえ。ちがいます。
まず文永の役。
高麗史によれば風雨によって被害を受けたという記載があるのは日本でボロ負けした後、逃げ出した後のこととなっています。
一方、日本側の「当事者たちの」記録には風雨に関して全く記載がありません。
つまり高麗史を信用するなら、風雨は日本からかなり離れた後のことでしょう。
また。一説には日本との戦いでの損害をごまかすため風雨を言い訳にした、という見方もできるそうです。

次に弘安の役。
まず、元軍はそれ以前の5月から日本と交戦していた点を忘れてはいけません。
元軍は日本軍に追い落とされ、海上を数ヶ月間逃げ回っていたところに台風が来たわけです。
そもそもそんな長い間上陸を阻止し続け、海上を追い回した、日本軍の防衛能力の高さも評価されるべきでしょう。
さらに言えば元軍の大半は嵐の後も生き残っていました。
一部の元軍は残存する船とともに逃げのびましたが、10万近い兵が鷹島、平戸などに取り残されておりました。
これらの残党は日本軍との交戦によって滅ぼされています。
結論から言えば、台風はあってもなくても元軍敗北の事実は変わらなかったことになります。

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132 2010/05/08(土) 13:04:42 ID:HHigVoVKD.
自虐史観の代表例だよね

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133 2010/05/08(土) 17:53:01 ID:u46FUUAam6
自虐史観というか皇国史観というか

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134 2010/05/08(土) 20:44:23 ID:7CPJb.H0No
自虐史観と皇国史観が一致した稀有な例だよな
目的は正反対ではあるけど

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135 2010/05/09(日) 14:31:44 ID:0g4pxRQojo
>>128
日教組にもいってやってくらさい

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136 2010/05/11(火) 12:23:03 ID:7Ch4yiIi.Y
〔菊池系圖〕別本 有隆赤星三郎
人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、

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137 2010/05/12(水) 01:57:08 ID:dbHhKJyqF.
歴史の先生から朝鮮が手抜きして作った船を
供給したから台風でことごとく沈没したってきいたけど。
もっとも朝鮮は嫌々やってただけで、
日本を助けるつもりはなかったらしい。

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138 2010/05/12(水) 05:19:52 ID:k1f2iVopxg
嘘が多すぎ

1.台風の被害で沈んだ船の大半は江南軍…つまり朝鮮の船はさほど沈んでない
2.朝鮮はやる気十分。そもそも日本侵略の言いだしっぺが朝鮮

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139 2010/05/12(水) 09:51:46 ID:ul/0cunb5g
削除(by投稿者)

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140 2010/05/12(水) 15:59:01 ID:opfw93o2co
削除(by投稿者)

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141 2010/05/12(水) 16:14:24 ID:opfw93o2co
[YouTubeで再生]
NHK教育の韓国人ディレクターの番組、日本と朝鮮半島2000年とやらでも
高麗マンセーかつ反日自虐な感じで番組が作られてたらしいけど。

北条時宗でも酷かったけど
毎回毎回、犬HKの薄ら寒い
歴史捏造反戦サヨ反日自虐思想には虫唾が走るなんてもんじゃない

そんなの日本の歴史に対する冒涜であり
過去の日本人や武士に対する冒涜だよ


まっ奴らが内部に入り込んで番組作ってる以上確信犯的にやってるんだろうがな。

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142 2010/05/13(木) 01:23:05 ID:JTg7hPpwWo
「惟んみるにかの日本、未だに聖化を蒙らず。
故に詔を発して軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須いる所あらん。
もし此事を以て臣に委ねなば王師を小助せん」

こんなこと言ってるぐらいで
朝鮮はノリノリですよ

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143 2010/05/16(日) 04:12:32 ID:xIB7dW0rx2
忠烈王が日本侵略を進言した

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144 2010/05/26(水) 02:38:22 ID:YtjdbgnUjY
5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 潰走する元軍を島津長久軍+松浦党らが迫撃
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北

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145 2010/05/26(水) 16:49:48 ID:50Ei2yDpcw
源平の合戦でも南北朝の戦いでも馬って普通に船で海を輸送されてるんだよな。
韓国の済州島は馬の産地として有名だけど、この島に牧場作ったのはモンゴルなんだぜ。
当時、馬は日常的に船で海を輸送されてたってことじゃん。
蒙古襲来絵詞にもモンゴル騎兵が描かれてるし。
「元寇は渡洋作戦だからモンゴル軍は騎馬部隊を使えなかった」なんてデマを、
誰も疑問視しなかったのは不思議。。。

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146 2010/05/27(木) 03:41:40 ID:A6n23dNi3E
渡洋作戦だからモンゴル軍は騎馬部隊を使えなかった X

水際で武士に上陸阻止されたんで騎馬部隊を使えなかった ○
あるいは
当時の元は混成部隊で戦うのが普通なのでイメージよりは騎馬の比率が低かった ○
(船に馬を積めるかどうかとは無関係)

なんだよね

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147 2010/05/27(木) 19:47:48 ID:J7pxZcyGPw
148 2010/05/28(金) 14:10:37 ID:S4AXoRYqDw
騎馬に関しては
5人乗りの車に1人しか乗らなかったら
「この車は一人乗りだ」
といわれるようなもんだな

船に乗らないから騎馬が少なかったわけではなく
むしろ元(大元)=騎馬部隊という方が幻想
創生期の小規模な遊牧民族時代じゃないんだから。

当時の元軍としては必要十分なだけの騎馬は積んでた。
その上で歩兵も多かったというだけ。

その混成軍で各国を撃破してきてるんだから
騎馬部隊が多かろうと少なかろうと日本に負けた言い訳にはならないんだよね。

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149 2010/05/31(月) 16:08:18 ID:S4w8pP3f1U
『日本外史』 頼山陽・著
文永十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。
地頭宗助国、これに死す。転じて壱岐に至る。
守護代平景隆、これに死す。事六波羅に報ず。
鎮西の諸将をして、赴き拒がしむ。
少弐景資力戦し、射て虜の将劉復亨を殪す。虜兵乱れ奔る。

弘安四年七月、水城に抵る。
舳艫相ひ銜む。
実政の将草野七郎、潜に兵艦二艘を以て、志賀島に邀へ撃つ。
虜の二十余級を斬首す。虜、大艦を列ね、鉄鎖にてこれを聯ね、弩をその上にはる。
我が兵近づくを得ず。河野道有奮つて前む。
矢、その左の肘に中る。
道有益々前み、帆柱を倒し虜艦に架して、これに登り、虜の将の王冠せる者を擒にす。
安達次郎・大友蔵人、踵ぎ進む。
虜、終に岸に上る能はず。
収めて鷹島に拠る。
時宗、宇都宮貞綱を遣して、兵に将として実政を援けしむ。
未だ到らず。
閏月、大風雷あり、虜艦敗壊す。
少弐景資ら、因つて奮撃し、虜兵を鏖にす。

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150 2010/06/01(火) 02:33:20 ID:L0ES65s93o
ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、
おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、
勝負をけつし、家のこ、らうとう等、多くうたれにけり、いかしたりけん、
菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、
頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ
八幡ノ蒙古記

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151 2010/06/02(水) 08:59:45 ID:3HWDCJnA4g
義経の時代にすでに集団戦いっぱいやってるのに
元寇だけ急に一騎打ちとか言い出すのって
矛盾してるよね

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152 2010/06/02(水) 16:22:34 ID:74aa7uKS/I
>>151
本来なら、モンゴル軍自身が「官軍整わず」を文永の役敗退の最大要因に挙げてるんだから、
集団戦法においてモンゴル軍が鎌倉武士より優っていたと考える理由なんて無いんだよ。
当時のユーラシア大陸は、組織戦術の進歩が日本より遅れていたってこと。

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153 2010/06/03(木) 18:41:54 ID:GdnXuWVzho
ジンギスカンは義経でし!

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154 2010/06/04(金) 02:34:22 ID:GXMXKrSKuE
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.htm...
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.htm...
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.htm...
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.htm...
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
恩賞貰うために作ったなどというウソを信じ込まされている人もいるかもしれんが、
 この絵詞が作られた時にはとっくに恩賞は貰い終わっている。

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155 2010/06/06(日) 04:18:13 ID:EuxfO/a3Ps
>>152
たしかに

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156 2010/06/07(月) 14:34:45 ID:.lDp3ofzDY
鄭思肖 鉄函心史
『六月なかば、元の7000隻の軍船が日本を襲った。
だが、追い返されて七月半ばに平戸島へ接岸、土砦を作って武士の迫撃に備える。
7月30日、暴風雨が来る。
船は大波にやられて沈没、上陸していなかった兵は海に沈んでしまった。
残った船は400隻余り。
十二万人ほどは平戸島にいたので助かったが、逃げ帰る船は無く、進軍してきた日本の武士達によってことごとく殺された』

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157 2010/06/09(水) 16:13:07 ID:iC6DziOFJ2
>>141
北条時宗大河は最悪だったな

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158 2010/06/10(木) 15:40:37 ID:6CoPm.ypig
高麗史金方慶伝
忽敦曰く
兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり
疲乏の兵を策して
日ごとに滋すの衆に敵するは
完計に非ざるなり
軍を回すに若かず
劉復享、流矢に中る
先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。

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159 2010/06/11(金) 08:21:35 ID:IUS8Vvy4I.
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢」 金剛仏子叡尊感身学正記
『十月五日、蒙古人が対馬を襲う、二十日、博多を襲う、しかし即座に追い払う』

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160 2010/06/17(木) 10:20:13 ID:nVqeyGfVDk
自虐史観もたいがいにというところだね

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161 2010/06/20(日) 12:03:08 ID:dj5iPvKJEk
橋頭保も確保できず戦略目標の大宰府どころか
水城が見えるところまですら到達できず
福岡平野沿岸部をうろうろしただけ
先駆けレベルの武士団だけで返り討ち
弘安に至っては上陸すらままならず数カ月も海上を逃げ回った蒙古・高麗軍

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162 2010/06/21(月) 09:23:59 ID:3GxkOZ.sPc
情報格差?

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163 2010/06/25(金) 15:35:45 ID:UGUxr4wsJE
164 2010/06/26(土) 15:58:34 ID:uKu6cbqwZw
凶悪な連中によく勝てたもんだ

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165 2010/06/27(日) 02:09:51 ID:Giw1n4PqL.
重装甲の長弓騎射を中心とした武士の伝統的な戦い方がうまく機能したね

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166 2010/06/29(火) 00:45:45 ID:Cv23S9pCdY
騎射が流鏑馬ぐらいしか残ってないのが残念

返信する

167 2010/07/02(金) 10:17:49 ID:lm//sOFDmI
筑波大学大学院教授・古田博司 国家の正統性確立に苦しむ韓国
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/091229/kor09122902...
 さて、日韓両政府の支援により2007(平成19)年に始まった「第2期日韓歴史共同研究委員会」がこのほど終了した。
筆者は今期から設けられた教科書小グループのチーフだったが、実に虚(むな)しい2年間を過ごした。
論争好きな彼らに引きずられテーマ設定に1年間を要し、いざ共同研究が始まると、韓国の委員は4、5冊、多くて10冊の教科書資料しか読んでこなかった。
「日本帝国主義」「右翼教科書」などという用語を使い、政争の観点しか持たない彼らを諄々(じゅんじゅん)と諭す以外にはなかったのである。
さらに韓国側が名指しで人身攻撃を行っても、日本側委員長はわれわれ委員を守ることがなかった。私は「恨」を感じた。(ふるた ひろし)

韓国側委員の態度は朝鮮出兵部会でも同様だが、問題は日本側委員の北島などは、政争の観点しか持たない彼らを諭すどころか、自身を良心的研究者と自称し、一緒になって政治的非難を行っていることだ。
一例を挙げると、朝鮮出兵の部会であるにも係わらず、韓国側委員は議題でない筈の神功皇后や任那日本府の否定論を長々と唱えるが、北島らは全く諭そうともせず同調するような言動を行っている。

返信する

168 2010/07/02(金) 18:50:58 ID:26SMAwUoBI
「文永の役威力偵察説」を唱える連中って、根拠として侵攻に先んじて威力偵察を行うのは
モンゴル軍の常套手段だって言うじゃん。
でも、現実のモンゴル軍は、数年かけて準備した数万人規模の威力偵察を行い、
その数年後に改めて侵攻し直すなんてアホみたいに非効率的な作戦を、常套手段どころか
一度もやったことないわけ。
じゃあ、「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは一体何かっていうと、
モンゴル軍の部隊編成では本隊のおよそ70マイル(約113キロ)先んじて威力偵察部隊が侵攻。
この威力偵察部隊が敵と接触すると、相手が弱ければそのまま撃破し、強ければ偽装退却して
本隊の所まで敵を誘導し、包囲殲滅するってのを常套手段としてたわけ。
要するに「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは戦術レベルの話なの。
日本史研究者って呆れるほど軍事オンチの連中だから、戦術レベルの話である威力偵察を、
文永の役みたいな作戦レベルの話とゴッチャにしてるんだよ。

返信する

169 2010/07/03(土) 02:16:11 ID:h4wFyP0QlQ
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ


圧倒的すぎる…
組打術で海へ投げ飛ばし引き上げてはとどめを刺し
首を取っては投げ捨てる

元軍にとっては地獄絵図ですね…

返信する

170 2010/07/05(月) 13:11:33 ID:n7I.ZFzg6Q
ちょっと気になったんだけど、幕府の軍隊の補給ってどうなってたの?

返信する

171 2010/07/06(火) 01:55:08 ID:fZVM.m2xuQ
「元寇」を教えない対馬と九州の教育
http://tafu.iza.ne.jp/blog/entry/744565...

返信する

172 2010/07/08(木) 12:17:11 ID:YOI17ZaBV.
その時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、
八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、
究竟の馬廻に、弓の上手ありしかは、
それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、
かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、
一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、 おちたりけれ

返信する

173 2010/07/10(土) 19:42:58 ID:wIBSu3rqqA
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』
白鳥倉吉【国史】

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174 2010/07/15(木) 01:18:33 ID:YP1x3EVpLs
>>170
幕府は有事になると、「一国平均役」といって普段は権限の及ばない荘園や公領からも、
一律に兵糧米を調達できるようになる。
実際、元寇の際に兵糧米が全国で徴発されていた記録も残ってるし。
幕府は元寇に備えて10年以上前から補給体制の整備に着手してたし、万全の状態だったよ。

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175 2010/07/15(木) 23:13:53 ID:7qX4W2RBX6
>>168
そういうトリック好きだよね連中

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176 2010/07/19(月) 17:18:28 ID:qSR.pMiC4I
ごく少数だけど、まともな日本史研究者もいるんだよね。

『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法 中村学園大学・佐藤鉄太郎

「蒙古襲来は日本歴史上の大事件であったために後世色々な話が作られて誤り伝えられてきた。
例えば文永の役に於いて蒙古軍の集団戦法に対して日本の武士達は一騎打ちの戦法で戦った、
博多は蒙古軍によって焼き打ちにされた等である。しかし、日本の武士達は一騎打ちの戦法で
蒙古軍と戦ったことはなく、絵五に描かれているように騎馬隊を中心とした集団で突撃する戦法を
とっていたのである。また、文永の役に於いて蒙古軍と日本の武士達が正面から衝突した戦いは、
赤坂と鳥飼潟の塩屋で行われた合戦である。これらの戦いに敗北した蒙古軍は博多を攻略する
ことに失敗し、撤退してしまった。文永の役に於いて鳥飼潟の戦いは日本の武士達が総力をあげた
戦いであり、日本の武士達が勝利した戦いであったのである。」

問題は、こういうまともな研究者がきちんと史料に基づいた研究成果を発表しても、その他大勢の
頭のおかしな日本史研究者たちによって黙殺されてしまうこと・・・

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177 2010/07/19(月) 18:11:21 ID:zSYb6xvlto
これなんか見てもそうだけど
歴史を単なる政治の道具にしか考えてないとこがあるよね

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178 2010/07/22(木) 08:39:04 ID:WskQWpM3CA
>>176
こういう人がもっと増えないとね

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179 2010/07/23(金) 05:24:07 ID:Ez5oSQuA1Y
このスレの上のほうにもいたけど
文永の役にも神風吹いたと思ってるおバカさんがいる位だからなぁ

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180 2010/07/27(火) 23:20:41 ID:Rgi7bxPARA
「文永の役威力偵察説」と並ぶインチキ学説に、「元寇は対南宋戦の側面作戦説」がある。
要するに、クビライは日本なんかどうでもよかったが、南宋を孤立化させるために攻めて来ただけって説ね。
勿論、史料的根拠なんて一切無し。
それどころか、クビライ自身が「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ」と明言してることも完全無視。
南宋を孤立化させるためにしては文永の役のタイミングが遅すぎるし、南宋征服後に行われた弘安の役は
一体何なんだ?なんてことも気にしない。
更に滅茶苦茶なのは、多くの学者連中が「文永の役威力偵察説」と「元寇は対南宋戦の側面作戦説」を
同時に採用してること。
ちょっと考えればわかるけど、「文永の役威力偵察説」と「元寇は対南宋戦の側面作戦説」って絶対に
両方同時には成立しない。
結局のところ、連中は日本がモンゴル帝国に勝ったことを認めたくない一心で、思考停止状態なんだよね。

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181 2010/08/04(水) 00:26:27 ID:qnwCLicQ8Y
「『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法」を読めばわかるけど、佐藤鉄太郎氏は『蒙古襲来絵詞』だけを
根拠にしてるわけじゃない。
実は『蒙古襲来絵詞』の記述と一致する、『大友頼泰覆勘状写』『福田兼重申状』という史料が存在する。
『大友頼泰覆勘状写』は、豊後国御家人都甲惟親が鳥飼浜で蒙古軍と合戦したため、守護の大友頼泰覆から
与えられた書状。
『福田兼重申状』は、肥前国御家人福田兼重が鳥飼塩浜で合戦して蒙古軍を百道原に駆け落とし、
宇木江六、江浦小太郎、江浦宗澄を証人に申し立てた書状。
どちらもバリバリの一次史料で、疑いを挟む余地が無い。
更に佐藤鉄太郎氏は、少弐景資が竹崎季長に、大友頼泰が都甲惟親にそれぞれ戦功を記録する書下を
与えていることから、少弐景資と大友頼泰も鳥飼潟の戦いに加わっていたとしている。
文永の役で少弐景資と大友頼泰は、定説のように博多・筥崎を棄てて水城に撤退したのではなく、
博多・筥崎から敗走する蒙古軍を追って鳥飼潟へ進軍していた。

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182 2010/08/10(火) 11:12:12 ID:Odq/YZES8g
元高麗弱いな。

「四十余年が間本朝大に乱れて外国暫くも静ならず。
此動乱に事を寄せて、山路には山賊ありて、旅客緑林の陰を過ぎ得ず。
海上には海賊多くして、舟人白浪の難を去りかねたり。
欲心強盛の溢者其類を以て集りしかば、浦々島々多く盗賊に押し取られて、駅路に駅屋の長もなく、
関屋に関守る人を替えたり。
結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、
官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく
荒れにけり。」
【太平記】

これってホラ話なんかじゃないぞ。
【明州繋年録】など元側の史料でも、1309年に日本人の襲撃によって明州城中の官府・故家・民居が
ほとんど焼き払われたと記されている。

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183 2010/08/22(日) 13:23:50 ID:pG7F5N8y3Y
>>175
トリックといえば、三別抄絡みでも悪質なトリックが使われてる。
学者さんたちの説明では、三別抄が日本に救援要請をした時、日本側は半島情勢に無知だったため、
要請の意味が理解できなかったことになってるじゃん。
この「要請の意味が理解できなかった」ってのの根拠は、『吉続記』など公家が残した記録なんだけど、
公家たちが何故理解できなかったかといえば、朝廷から外交権を奪った鎌倉幕府が対外関係の情報を
独占してたからなんだよね。
つまり、公家が理解できなかったことを根拠に、いつの間にか情報を独占していた鎌倉幕府まで一緒に
半島情勢に無知だったことにしちゃうのは完全なイカサマなわけ。

この時期の鎌倉幕府が半島情勢に精通していたことには、史料的裏付けがある。
元史本紀・至元九年三月乙丑条によれば、対日交渉に当たっていた元使の趙良弼が、
「半島の金州に駐屯してる元軍が日本側の不審を招いているので移動させてほしい」と要請し、
それに対して本国の安童が
「もう日本側にバレてしまってるのに今さら移動させれば、かえって不審を強めるだけだから、
あれは三別抄討伐の軍だと説明するように」と返答したとされてる。
鎌倉幕府は半島への元軍配備状況も把握していたってことだし、三別抄の乱のことを理解してなかったら
元側がそれを言い訳に利用しようとするはずもない。
鎌倉幕府は半島情勢をきちんと把握した上で、外交的駆け引きを繰り広げていたんだよ。

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184 2010/08/22(日) 13:58:14 ID:q3BiUO/vxA
>>183
そういう「日本人は国際状況分かってないキチ○イで、身のほどわきまえず戦った」としたがる人っているよね
戦後左巻きってことなんだろうけど

話は変わるけど秀吉評価なんかもそういうところがおおいにある
イスパニアらが中国進出を画策していたことや、秀吉が日本人奴隷を買っていってたイスパニアを敵視していたことを思えば
誇大妄想でもなんでもない。明の首都の北京の位置を考えたら、秀吉が死んでなけりゃ落としてた可能性が高い。
既に朝鮮半島に倭城で固めておいそれと奪還できないよう足場を固め、
九州には伊達・徳川の本隊ともいうべき部隊が出陣待ち。
ヌルハチより確実に秀吉軍のほうが強いだろってはなしでな。秀吉は狂ってなんかいないよ。

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185 2010/09/09(木) 00:15:04 ID:ICM69CwHhY
元軍の劉復亨って博多から撤退する日本軍を追撃中に水城付近で少弐景資に射られたとされてるじゃん。
でも、少弐氏関連の史料では射られた場所が百道原ってことになってるんだよね。

〔少弐系譜〕
景資、資能三男、初名三郎左衛門、後號豊前守、弘安四年於筑前百路原射殺蒙古大将

〔武藤系圖〕
(景資傳)弘安蒙古出来時、蒙古大将百道原射留ラル

〔筑紫系圖〕
弘安四年蒙古襲来之時、忠功一門、劉相公討捕、身丈七尺乗黒馬

成立したのが元寇の随分後だったり、文永の役と弘安の役を混同してたりで史料としては弱いんだけど、
他の一次史料から日本軍が鳥飼で元軍を撃破した戦闘に少弐景資が加わっていたと考えられるのなら、
話は別だよね。
劉復亨は元軍が鳥飼から撤退中に百道原で追撃する少弐景資によって射られた。

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186 2010/09/09(木) 05:50:24 ID:syvPu7k/ps
>>184
>戦後左巻きってことなんだろうけど

あの「とにかく日本はダメ。元寇にしても、たまたま気象の影響で防げたにすぎないし、
秀吉は晩年の狂気から半島に出兵した」って史観、
やっぱり敗戦のショックが大きかったからだろうか?
文献を詳細にあたれば、そんな史観に辿り着かないんだけどね。

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187 2010/09/09(木) 08:29:34 ID:ICM69CwHhY
>>186
戦後、朝鮮半島と関わる歴史事項の研究はタブーだからね。
文献を詳細にあたることなんてないし、議論もない。
あるのは自分たちのイデオロギーに合致してるかどうかだけ。
支離滅裂のトンデモ説でも日本を叩いていれば即採用。

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188 2010/09/28(火) 15:23:17 ID:F1u3Jwk9QM
外交の世界は友好だけじゃ通用しない。
恫喝してくる相手に妥協したら付け込まれるだけ。
鎌倉幕府の方が菅内閣よりも遥かに世界情勢を把握してたし、外交も的確だった。
それなのに平和ボケした戦後の研究者どもはそのことが理解できず、今までずっと鎌倉幕府を
「世界情勢に疎い」「外交オンチ」なんて批判してたんだからお笑いだよね。

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189 2010/09/28(火) 19:48:59 ID:JQrUuQpBh.
尖閣の一件でよくわかったわ
近代兵器もない時代に、中華王朝の侵略を退けた鎌倉幕府は凄い

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190 2010/10/26(火) 21:20:53 ID:pK/9ubAUwY
元軍は陸上侵攻では強かったが、海上侵攻だと東南アジアでも負けてる。
相互の戦力を比較したら、馬が小さく、複合短弓に対し、馬上から長弓を使うのでは厳しいかと思う。

瀬戸際防衛が破られて、橋頭堡を確保されたと仮定したら、果たして?

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191 2010/10/26(火) 22:57:29 ID:Y2uP999lTY
仮定の話は意味が無い。

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192 2010/10/26(火) 23:51:43 ID:qrUvXeWOOc
>>190
文永の役は瀬戸際防衛じゃないから。
普通に上陸して鳥飼に橋頭保を築いた元軍を陸戦で圧倒して1日で撃退。
鎌倉武士の馬は蒙古馬と同じ大きさで別に小さくないし、弓の威力でも日本側が優っていた。
だから、どんな仮定をしようが鎌倉武士が勝つ。

あと、元軍は海上侵攻だと強くないってのも完全な誤解。
三別抄の乱は海上侵攻で鎮圧してるしね。
東南アジアのジャワだって、僅か5000人の兵力で首都クディリを占領し、クルタナガラ王を殺害。
戦闘では圧倒的な強さだったよ。

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193 2010/10/27(水) 23:51:02 ID:p/sANecTXY
モンゴル軍は鎌倉武士に2回続けて空前のボロ負けしてるわけで、双方の軍事力の差は
ちょっとシチュエーション変えたぐらいじゃ埋まらねーよ

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194 2010/11/02(火) 20:43:25 ID:3F5svBSmjY
文永の役では、侵攻と言うよりは威力偵察程度じゃないかと。
要するにそもそもが、本気の侵攻じゃない。

弘安では、水際で防御出来た事が大きい。

そして、台風の季節に助けられた。

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195 2010/11/03(水) 00:15:25 ID:0/EzSZg11U
威力偵察の規模は軽く超えてるだろw
二千や三千ならともかく

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196 2010/11/03(水) 10:18:24 ID:MSdeTO75BU
そもそも威力偵察説には根拠となる資料も文献もまったく見当たらないんだけどな。
事前に長い年月準備して高麗に大量の軍船作らせて、総勢四万の大軍を送り込んどいて
「本気じゃなかった」「威力偵察だった」はねえだろw

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197 2010/11/03(水) 16:00:28 ID:.b7vjZ/6wE
弘安の役の敗戦の後、元のクビライは汚名を削ぐため、持てる戦力の全てを投入して第3次日本遠征を計画。
しかし、劉宣が「再び日本を攻めたりしたら元朝は滅びてしまいます。とても勝ち目はありません。」と諌め、
隋が高句麗に3度侵攻して3度大敗し、そのことが命取りとなって滅亡した故事を持ち出すと、
さすがのクビライも日本遠征の中止を表明するしかなかった。。。
文永の役も弘安の役も普通に元の国家基盤を揺るがす大敗北と認識されてるってことね。

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198 2010/11/03(水) 21:01:59 ID:6UB7Djeo6k
削除(by投稿者)

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199 2010/11/04(木) 14:11:55 ID:8fLZPH2Bbw
日本って考えたらすごくね?

モンゴル帝国
大明帝国
大清帝国
ロシア帝国
アメリカ合衆国
大英帝国

名だたる大帝国と戦ってきて。
しかも、国が本当に滅びる決定的な敗北にはいたっていないというね。

海に守られた日本列島だったから、とかいう人がいるけど。
実際には、サムライがいたから、抑止力になって日本は守られていたんだろうね。


今は?…。

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200 2010/11/04(木) 17:48:31 ID:4fqP94K6RA
太平洋戦争は決定的な敗北ではありませぬか

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201 2010/11/04(木) 19:10:46 ID:ECd9rDGGdc
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202 2010/11/04(木) 19:19:47 ID:3EKpEpY1WQ
自国の過去を一生懸命美化したがるのは、日本もお隣も同じ心理ですな。

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203 2010/11/04(木) 19:46:45 ID:pa03XZ9AN6
>>202
まだ、洗脳が解けてないみたいだな。
この歳になるまで、鎌倉武士は一騎打ち戦法しか知らなかったとか、
モンゴル帝国が日本だけは侵略せずに友好関係結ぶつもりだったとか、
当時は馬を船で輸送することができなかったとか、
4万人もの大兵力投入した文永の役が威力偵察だったとか、
アホな話を事実だと信じ込んでいたんだろ?
それって滅茶苦茶ヤバいぞ。
今まで完全に思考停止状態だったってことじゃん。

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204 2010/11/04(木) 22:46:12 ID:9bb6EpXv.c
>>202
同じだというところまでは認めるようになったのかw
むかしは日本だけが一方的に美化していると言われてたもんだが

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205 2010/11/17(水) 18:18:46 ID:Z9lxIxnyb6
>>199
海に守られた日本列島って本当に酷い勘違いだよ。
実際には日本列島を取り巻く海は危険に満ちていたのに。
9世紀には新羅の海賊が九州などを頻繁に襲撃してる。
あと、あまり知られてないけど、沿岸地域に住む東女真って強力な海軍を持っていて、
高麗なんて海から襲撃されまくりだった。
刀伊の入寇を撃退したことは、本来ならもっと評価されるべき。
そして、レパントの海戦のオスマン艦隊やアルマダの海戦のスペイン艦隊を遥かに上回る
大艦隊が攻めて来た元寇。。。
その後は、アジアの海で日本が一番危険な存在になっちまったけど。

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206 2010/11/17(水) 21:20:02 ID:irVo9G.O3k
>>200

目が節穴だな

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207 2010/11/17(水) 21:31:13 ID:zHLkIP3Lo.
いや海に守られてるのは間違いが無いでしょ
海の歴史なんてのもあるけども
大規模な侵攻をやりにくいってのは確かだし
現在でもそれは変わらない

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208 2010/11/18(木) 05:45:37 ID:kBKI8roZCk
>>207
全く逆。
海の方が大規模な侵攻やりやすいんだよ。
大規模な侵攻を支える大規模な物資運搬は唯一船でしかできないから。
前近代では兵站なんて水運なくして成立しない。
だから現実に元寇は当時指折りの大規模な侵攻なわけ。

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209 2010/11/18(木) 15:58:39 ID:EYU3rww30s
削除(by投稿者)

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210 2010/11/18(木) 16:02:28 ID:EYU3rww30s
削除(by投稿者)

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211 2010/11/18(木) 16:48:09 ID:UhsPD0Ye9s
元寇くらいの兵力の侵攻は大陸ではたくさんあったけども
日本へは二回しかないじゃん
コストかさむしやりにくいでしょ普通に

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212 2010/11/18(木) 17:59:38 ID:tIQzWV4xLE
日本人なら日本語が通じるってのが、勘違い。

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213 2010/11/18(木) 19:07:55 ID:kBKI8roZCk
>>211
大陸で元寇くらいの兵力の侵攻が簡単にできるわけないじゃん。
モンゴル軍の侵攻で弘安の役より兵力が多いのなんて、クビライの南宋侵攻ぐらい。
南宋侵攻に何で大兵力を投入できたかといえば、至元7年以降9000艘近い大造船をおこなって、
大河に沿って「水陸並進」で侵攻したからなんだよ。
結局、船の輸送力に全面的に依存した侵攻作戦だったってこと。
それが現実なのよ。

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214 2010/11/19(金) 01:06:05 ID:OoGRMg9n6A
水運と海運・・・・・。

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215 2010/11/19(金) 01:06:45 ID:OoGRMg9n6A
削除(by投稿者)

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216 2010/11/19(金) 02:06:48 ID:SFAtOAMFCM
>>214
水運と海運って実は元朝でも比較検討されてる。
で、結果は経済効率で海運が水運を圧倒。
元朝では江南から大都までの糧食輸送を全面的に海運で行うことになりましたとさ。

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217 2010/11/19(金) 09:26:17 ID:J2WjvFa3nA
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218 2010/11/19(金) 10:06:14 ID:J2WjvFa3nA
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219 2010/11/26(金) 12:02:03 ID:jWgAYle2oI
日本史の根幹に関わることなのに、「日本列島は海に守られてた」みたいな安易なコピーで、
簡単に納得しちゃダメだよね。
そこから更に掘り下げるなり、何か疑問を持つなりしないと。

東アジアや欧州の事例だけじゃ物足りなかったんで、ちょっと元寇と同時代のインド洋についても
調べてみたんだけど、11世紀以後ダウ船を使ってペルシア湾から南インドに輸出されていた
商品の中心は馬なんだって。
インド洋でも馬は船で運ばれまくりってこと。
それから、スリランカは1247年にマレー半島の国ターンブリンガのチャンドラバーヌ王の侵攻を受け、
島の北部を占領されてる。
さらに、1258年には南インドの国バーンディアがスリランカに侵攻。
島国はどこも大変だな。

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220 2010/11/26(金) 15:15:34 ID:Z8.c1yP1Gg
半島まではモンゴル来ちゃったものねえ
海がなけりゃあもっと楽に侵略されちゃったろうねえ
良かったね

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221 2010/11/26(金) 15:44:40 ID:WlVVzm81z2
>>220
モンゴルは九州まで来てるじゃん。
そこでボロ負けしただけで。
海は関係なかったな。

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222 2010/11/26(金) 16:49:32 ID:yBxOC9W1A6
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223 2010/11/26(金) 18:58:37 ID:jWgAYle2oI
>>222
本当に地続きだった朝鮮半島にモンゴル軍は1万も投入できていない。
地続きだったら撃退はもっと余裕だろ。

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224 2010/11/26(金) 20:11:06 ID:Qpg3f2WlTI
島国だから日本という国が形成されてきたわけで
もし陸続きだったらとかいう仮定はそもそも無意味

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225 2010/11/26(金) 23:00:07 ID:uwdm72xP1Y
陸続きで万単位でモンゴルが何度も攻めてきたら・・・
おそろしい話だな

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226 2010/11/26(金) 23:35:34 ID:jWgAYle2oI
>>225
実際に万単位で攻めて来て鎌倉武士に全く歯が立たなかったモンゴルのどこが恐ろしいの?

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227 2010/11/27(土) 00:29:59 ID:2HGD788Zak
>>224
たしかに陸続きだったらえらい違いだろうねえ
文化とかいろんな意味でも。島国でよかったw

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228 2010/11/27(土) 00:31:36 ID:ad1.DDy/qE
>>227
結局、モンゴルの何が恐ろしいか説明できないんでしょ?

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229 2010/12/07(火) 12:06:00 ID:IC5NJStVBI
地続きだったら撃退はもっと余裕だったとか日本美化しすぎて頭おかしい人間より恐ろしいレベル。

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230 2010/12/07(火) 14:37:09 ID:42P/f5lLE2
>>229
だったら、きちんと説明しないと。
地続きだったら何が大変になるの?
ちゃんとした理屈も無いのに、地続きだったらえらいことになってたって言い張る方が
頭おかしい人間より恐ろしいレベルでしょ?

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231 2010/12/07(火) 15:00:53 ID:Lh0yxFPpxI
地続きの半島の歴史をみりゃ
だれでも海があったほうがいいって言うだろw

返信する

232 2010/12/07(火) 15:29:06 ID:42P/f5lLE2
>>231
半島は間に海がある日本からだって何度も侵略されてるし。
地続きかどうかの問題じゃなく、単に弱小民族だから悲惨な歴史を歩んだだけだろ。
日清戦争や日露戦争で半島と地続きの清やロシアが、間に海がある日本に負けたのは何なのさ?

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233 2010/12/07(火) 16:40:25 ID:IC5NJStVBI
>>232
単純な理由だよ。有利なだけ。絶対ではない。
まけた事例を持ってきて喜んでみせて「ほれみろ海隔てても有利じゃないぞ!」ってか?
本気で言ってんのあんた?

海は天然の要塞なんだよ。
こういう当たり前の知識は人に聞かずに自分で調べればいくらでも出てくる。
逆に陸続きの方が容易だという理論は調べても全く見つからないからお前が教えてくれ。

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234 2010/12/07(火) 17:07:39 ID:42P/f5lLE2
>>233
ほら、やっぱり陸続きの方が容易だという理論なんて見つからないだろw

例えば、ちょっと半島の歴史調べただけでも、唐が地続きの高句麗よりも、
わざわざ海を越えなくちゃいけない百済を先に滅ぼしたりしてるし。
侵略者にとって海は天然の要塞どころか、天然のハイウェイなんだよ。

返信する

235 2010/12/07(火) 17:15:26 ID:GFxkdVqb8A
と思ってたら大時化がww

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236 2010/12/07(火) 17:21:36 ID:wmiddCJvGw
地続きだったら文化も風習も戦法もまるで違ったものに発展していただろうし
それはもう日本とは呼べないだろ。

地続きだったらヤバかったとか有利だったとかあまりにも不毛な議論

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237 2010/12/07(火) 19:52:00 ID:IC5NJStVBI
>>234
じゃあまとめるよ。
不毛な議論だから終わりにするよ。

このスレに生息する生き物たちのレベル。

「海を越えて攻める事は陸続きに攻める事より容易である」
「海を隔てて守るよりも陸続きに守る方が有利である」

これでいいよ。
素晴らしい説だ。歴史的な発見だな。

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238 2010/12/09(木) 02:03:26 ID:t83rMGJ7Dw
現実は、モンゴルが日本に手も足も出なかったことが解ったから
今度はもし日本が大陸と地続きだったら?ってフィクション作ってまで
日本が弱いと言いたい連中ってバカすぎだなw

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239 2010/12/09(木) 03:02:00 ID:XH7Kbb4CbY
モンゴル帝国も海という天然の要塞で守られてたはずなのに・・・

日本側の史料:『太平記』
「結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、
官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく
荒れにけり。」

モンゴル帝国側の史料:『論倭』
「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。むかしは「至弱」と雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。
いわんや今は険を恃んで、その強さはまさにむかしの十倍に当たる。さきに慶元より航海して来り、
艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たさなければ、
城郭を燔焫して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。」

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240 2011/01/29(土) 10:54:36 ID:UvgntEpGwo
3月にNHK教育の知楽遊学シリーズ「歴史は眠らない」で、東京大学大学院人文社会系研究科教授の
村井章介が「海がつないだニッポン」ってテーマの講義をやるんだけど、何故か今回は元寇に触れないんだよ。
今までこういうテーマでは、元寇に絡めて日本を叩くのがこいつの十八番だったのに。。。
ちょっとはネットの声も届いてるってことか?
ちなみに、村井章介ってこんなこと書いてる奴ね。

村井章介著 北条時宗と蒙古襲来 P118
『先にあげた諸例のなかで、予定された戦争は「異国征伐(発向)」「高麗征伐(発向)」と呼ばれている。
攻撃目標は本源地であるモンゴルではなく、朝鮮半島だった。ここには、戦役に疲れた高麗の弱みに
つけこんだ冒険的侵略主義以外のものは認めがたい』

こいつは、高麗が日本を侵略した元寇については「戦役」って言葉を使うくせに、日本がその報復を
しようとすると「侵略主義」のレッテル貼るわけ。
先に相手が手を出した以上、もし鎌倉幕府が「異国征伐」を実行したとしても、それは自衛権の発動で
常識的には「侵略主義」なんて呼ばないよね。
日本が100%侵略の被害者だった元寇でまで、日本を「侵略主義」と叩かずにいられないなんて、
狂ってるとしか思えないだろ。

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241 2011/02/16(水) 03:46:41 ID:xiPdUL9zNc
鎌倉幕府って元寇の後すぐに滅んじゃったから日本側に記録が残ってないけど、元や高麗の史料読むと、
かなり活発な外交や調略をやってたんだよね。
例えば、1272年に使節団を元の首都大都に派遣してる。
あと、高麗内部の切り崩しをやってた形跡もある。
三別抄とも濃密な交流があった。
南宋とも文永の役の前に同盟が成立してたりする。
学者連中は鎌倉幕府が外交オンチだったという結論ありきで、こういう史料を一切無視してるけどね。

「異国征伐」って実は同盟結んでた南宋の側面支援が目的だった可能性もあるの。
でも、文永の役で勝利した日本と違い、南宋はボロ負け続きで救援なんてもう非現実的な状態だった。
だから、「異国征伐」を諦めて、日本単独で元と戦うために元寇防塁建築に専念することにしたって感じかな。

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242 2011/03/09(水) 23:09:33 ID:WJL0U3Vn6E
ここまで読んでみた感想をひとつ・・・
  
 
   
 
日教組は解体した方がいいな。
日本の為にならない。

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243 2011/03/18(金) 15:41:16 ID:5FFPbBYFXA
雑誌とかで日本史上の名将ランキングとかの企画やっても、北条時宗をはじめ元寇に関係した人物が
ランクインすることってまず無いよね。
あのモンゴル帝国に一方的な勝利を収めたのに。
日本史上でこれ以上重要な勝利なんて無いのに。
そのくせ、世界史上の名将ランキングとかの企画やると、バイバルスや陳興道がモンゴル軍に勝った実績で
ランクインするんだぜ。
こいつらが勝ったモンゴル軍は元寇より規模が小さかったり、元寇ほど一方的な勝利じゃなかったりするのに。
だったら、北条時宗や少弐景資は世界史上屈指の名将と評価されないとおかしいだろ。

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244 2011/05/29(日) 11:56:04 ID:Yflgfg5fzU:au
結局、どうしてユーラシア大陸を制覇した蒙古軍を撃退できたか? が分からないんだ。
神風、補給、戦意、作戦、どれをとっても要因ではあるが決め手にはなってない。
武具の性能はどうだったんだろうか。
弓:射程距離、破壊力、命中率。
甲冑:防御力。
刀剣:長さ、頑丈さ、切れ味。
仮に日本側が全てに勝ってたらワンサイドゲームになるとおもう。
アウトレンジ攻撃と最小限の被害で上陸侵略を許さず、海にプカプカさせといたら神風が吹いた、で得心出来る気がする。
証拠はないが…

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245 2011/05/29(日) 13:16:21 ID:toOb4b3vkM
>>仮に日本側が全てに勝ってたらワンサイドゲームになるとおもう
仮にじゃなく実際ワンサイドゲームだっただよ
文永の役で3万で奇襲攻撃したが半日で副将討ち取られ逃げた。
当時3万クラスの兵力は中小国家潰せるぐらいの兵力。

>>武具の性能はどうだったんだろうか。
防具は日本の方が優れていて装備率も高かったはず、承久の乱以降武士社会になり
装備率は高い、対して蒙古は支配した国の寄せ集めなので防具の防御力と装備率は
貧弱
武器は遠距離攻撃の和弓は大きさは世界最大で有効射程距離でも蒙古に負けず、
命中率も武士は小さい頃から英才教育を受けてたので高い。
中距離攻撃の薙刀、近距離攻撃の日本刀とも優れた武器を武士は保有し有利に戦った

蒙古は騎馬戦で世界最強と思っていただろうけど日本へ攻めたらとんでもない
重装備騎馬兵が居てびっくらこいただろうなw

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246 2011/05/29(日) 23:22:45 ID:MNqoRloY6I
元軍の副将は重傷を負ったけど死んではいないぞ

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247 2011/05/30(月) 00:37:54 ID:qLrIjkm5Nw
>>246
討ち取る⇒殺す
射倒す⇒矢で負傷させる
討ち取るでなく射倒すですね、訂正します。

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248 2011/05/30(月) 23:07:37 ID:ZsLArWvE7Q
文永の役の戦闘経過なら史料からかなり詳細にわかってる。
百道、姪浜付近に上陸したモンゴル軍は博多を目指して東進したが、赤坂で菊池武房に撃退され逃走。
それを追撃する日本軍と鳥飼潟塩浜で決戦となり、敗れたモンゴル軍は百道、姪浜に追い落とされて撤退。
結局、博多にも大宰府にも到達できずに1日で敗退だから、鎌倉武士のワンサイドゲームとしか言いようがない。

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249 2011/05/31(火) 00:07:45 ID:XjnB/ZtHRk
当時の式目で、元寇以前から博多の防衛について
御達しがあったんだな。ネットや電話も無い時代なのに、
博多上陸より先に九州の武士たちが大宰府に集結し
撃退に成功してる。鎌倉時代の情報伝達力と機動は侮りがたい。
それに引き換え、今の政権の体たらくたるや。

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250 2011/05/31(火) 00:14:33 ID:Ih8wvtvNQs
>>248

>>百道、姪浜付近に上陸したモンゴル軍は博多を目指して東進したが、赤坂で菊池武房に撃退され逃走。
>>それを追撃する日本軍と鳥飼潟塩浜で決戦となり、敗れたモンゴル軍は百道、姪浜に追い落とされて撤退。

これっていずれも局地戦で、全体としては日本軍側がじりじりと防衛線を後退させてたんじゃなかったか?まあ最終的に元軍は、大宰府攻略を断念して撤退したんだから日本側の勝利には変わりないが

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251 2011/05/31(火) 00:57:34 ID:nYnKnrKQ8A
>>250
局地戦じゃないよ。
そこが文永の役の主戦場。
日本軍の主力は、おもいっきり防衛線を前進させてモンゴル軍に総攻撃を仕掛けたわけ。
最初は博多に布陣していた大友頼泰が進軍して鳥飼潟の合戦に加わっていたことを示す史料がある。

『蒙古人合戦の事、筑前国鳥飼濱陣に於いて、忠節を致し給わしめ候の次第、
すでに関東に注進し候いをはんぬ。仍って執達件の如し。
    文永十一年十二月七日      頼泰
  都甲左衛門五郎殿』

都甲左衛門五郎が鳥飼で戦ったことの証人に大友頼泰がなってるってことは、大友頼泰自身もその時
鳥飼にいたってこと。
博多付近でも戦闘が行われたってのは嘘ね。
文永の役で博多の町が被害を受けたという話を裏付ける史料は一切無い。

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252 2011/06/01(水) 03:51:49 ID:geK2iqy2AM
高麗王って征服されてからはモンゴル人になっていくんだねえ

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253 2011/06/01(水) 09:45:22 ID:dFw/M2YGNM
もともと日本は海洋民族の国。
そんな風貌でなくなっているのは征服されたからではなく、寛容に渡来人(要するに難民みたいなもん)を受け入れ社会に取り入れて混血が進んできた結果。
そういう大らかなところが元々海洋民族にはあるように。
だから日本は東洋人のような風貌でありながら、目鼻立ちが南洋人のようにしている。
中国人は北方モンゴロイドと東南アジア人と西アジア人の混血体であり、朝鮮は少量の海洋民族と大多数の北方モンゴロイドの混血が長きにわたって近親婚をくりかえしてきた結果である。

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254 2011/06/01(水) 14:25:42 ID:5T0g4gVDfs
「凶徒は麁原に陣を取りて、色々の旗を立て並べて、乱鉦暇無くして犇めき合ふ」 『蒙古襲来絵詞』
 
『蒙古襲来絵詞』を見れば、麁原のモンゴル軍は完璧に布陣を終えていて、上陸作戦の不利なんて
言い訳は通用しない。
しかも騎兵の比率が高い。
最前列に槍を持った歩兵が並んでるだけで、その後ろに控えているのは全員騎兵。
このモンゴル軍が正面から鎌倉武士と激突して完敗した。

「右、昨年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、
令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶)徒等、令懸落百路原」 『福田兼重申状』
(十月二十日に元軍と鳥飼塩浜に於いて合戦を行い、麁原山の凶徒が引き退いたので、百路原に戦って
追い払った)

「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡二軍ヲ出シ
姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」 『日田記』
(日田弥次郎永基は永十一年十月二十日に元軍と姪浜と百路原に於いて一日に二度合戦し、大勝利した)

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255 2011/06/02(木) 06:14:20 ID:FiG4W9U.kw:au
義経の迂回奇襲ひよどり越え、謙信・信玄の一騎討ち、千早城、のような「華」がない。
ぶつかったら敵が逃げたので追いかけてやっつけました。で終わる気がしてしまうのは何故だろうか。
講釈師がサボってたか?
それともワンサイドゲームすぎるので講釈の題材にならなかったのか?

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256 2011/06/02(木) 20:11:49 ID:rErqf2FuxA
それらしい場面といえば少弐景資がパルディアンショットで
劉復亨を射倒すところくらいかな

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257 2011/06/02(木) 20:53:09 ID:yys4qJluAI
>>256
少弐景資はパルディアンショットで劉復亨を射倒したわけじゃないんだな。
後世の史料で文永の役と弘安の役がゴッチャになってるけど、少弐景資が劉復亨を射倒した場所は、
やっぱり百路原で他の史料と一致してる。
少弐景資は敗走する劉復亨を追撃して射倒したんだよ。

〔少弐系譜〕
景資、資能三男、初名三郎左衛門、後號豊前守、弘安四年於筑前百路原射殺蒙古大将

〔武藤系圖〕
(景資傳)弘安蒙古出来時、蒙古大将百道原射留ラル

〔筑紫系圖〕
弘安四年蒙古襲来之時、忠功一門、劉相公討捕、身丈七尺乗黒馬

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258 2011/06/03(金) 13:16:12 ID:bAGAQiGjQY
>>255
いやあるにはあるが、戦国のほうが国内のことだから語りやすい。
モンゴルをやっつけた話を今更教科書にのせるより、外交交渉したほうが利益になる。
しかし事実として当時のことは生々しい話が残っている。

援軍を待っていられずに飛び込んでいった騎馬武者一行や、博多湾にせり出るようにして門を構える箱崎宮で篭城した僧兵達、そして炎上した本社。
なにより元を追い討った後始末は悲惨。 将と兵の区別なくひっとらえて、三笠川下流で言語道断に斬首。そのまま川になげこんだため、おびただしい首が折り重なってせき止めとなり、真っ赤な水がたまっていた。

題材にする商売人がいないだけで、話は結構残っている。
むしろ、それだけ話が残っているのに、神風の一言で終わる教育こそ本当ならもったいない。

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259 2011/06/03(金) 13:32:06 ID:bAGAQiGjQY
元軍の押し寄せた対馬では悲惨な生き地獄が早速始まる。
対馬は郎党あげて討ち死に覚悟で応戦。元軍ひるんで思いのほか持ちこたえたが、しかし人海戦術にはかなわずやがて落城
逃げ場の無い島では島民のあぶり出しが始まった。
男はなぶり殺され、女はその場で輪姦、夜を徹して破壊の大宴会を繰り広げたあと、まだ生きている女は手に穴をほがされ鎖で数珠繋ぎにされた。そして船という船の外べりに数珠繋ぎの女子供をぶら下げて博多湾へ出港。
内海に入り込んできた異様な姿の大水軍を前に博多の街は騒然。
その夜には箱崎宮が炎上し、夜空を煌々と照らしていた。
元の上陸した博多の街を遠巻きに見守る地方の衛兵達。援軍の到来を待っていた。
待ちきれずに郎党を引き連れて出陣した日本の美しい武者姿達も化け物のように動く元の隊列に見る見るうちに呑み込まれて絶えて行く。
福岡平野の出入り口、防人時代からの関所「水城」の内側には三方を山に囲まれた軍事要塞、筑紫野城。 九州周辺からわらわらと集まってきた軍勢は相当数に登っていた。そして本州からの援軍も届き、いよいよ決戦が始まる。
侵入当初、燃え上がった箱崎宮、今その山門には「敵国降伏」の文字が高々と飾られている。

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260 2011/06/04(土) 01:57:22 ID:NZ/cJuFV1I
>>259
>>その夜には箱崎宮が炎上し、夜空を煌々と照らしていた。
これおかしいな、戦闘は午前中は有利に戦ったが午後からは苦戦して船に引き返して
船の中で蒙古と高麗の士官が話し合って撤退を決断し夜に撤退してるはず。
博多を攻撃したって史料はあるの?
元史も高麗史もそんな記述ないけど?
水城から海岸まで直線距離で約10km実質13〜15kmだから馬で歩いて6〜8km/hだと
2時間半から3時間知らせを聞いて出陣してもやはり午後になる。

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261 2011/06/04(土) 06:48:28 ID:RYnUqoorDY
>>260
いますぐはちょっとわからないけど
数年前に歴史の本で読んだし箱崎宮が炎上したのは知ってる人は普通に知ってるレベルなんだけど。
試しに今ググッてみたらネットでも出てくるし。
「その日のうち」だったかどうかを問題視したいのか何なのかよくわからん。

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262 2011/06/04(土) 12:56:54 ID:p2nYjxucOI
>>261
文永の役の日に箱崎宮が炎上したのは事実だけど、元軍は無関係だと思うよ。
同時代史料では単なる火事としか扱われてないから。
箱崎宮は当時訴訟とかを抱えていて、1274年だけじゃなく1265年と1280年にも不審火で焼失してる。
元寇当日のこの地域は騒然としていたはずだから、放火には好都合なわけで。

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263 2011/06/05(日) 12:12:42 ID:/yy0M8T82c
>>260
箱崎宮は海岸から500mほどの所にあるんですね当時は目立った建物だろうし
確かに真っ先に攻撃するだろうね。

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264 2011/06/05(日) 13:17:58 ID:UreOuXaVdQ
>>263
海からは近いけど上陸地点からは10キロ以上離れてる。
元軍が百道、姪浜付近だから。
それに、元軍が本当に箱崎に上陸したのなら、すぐそば博多の町が全くの無傷だったのは何で?
ってことになる。

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265 2011/06/05(日) 14:03:14 ID:4u9tyBJWu2
>>264
そういうのは高麗史とか元史より、戦災を受けた日本の郷土史料のほうが地名や戦況までこと細かに残ってるわけで、キミが実際に元史と高麗史どこまで熟読したのかもわからないわけで、、、
元寇については史料を検証したり添え書きしながら書かれた本も大きな本屋の奥のほうの歴史コーナーとかに少なからずあるから少し立ち読みでもしてくることをすすめる。
簡単なカラー雑誌や小説ではないから間違わないように。
ここまで基本ラインで、、、
んで、まあ、結局>>264は何を言いたいわけ?

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266 2011/06/05(日) 14:19:25 ID:UreOuXaVdQ
>>265
箱崎宮が元軍の攻撃受けたってことは、史料上有り得ないって言ってるんだよ。
箱崎宮の火災は元軍と無関係。

それから、元寇については、戦前から今まで出版された著書のほとんどを読んでるし、
史料、論文も可能な限り読みあさってる。
書店に売られてるような本の元寇の記述を、全部史料に直接当たって検証し直したんだけど、
結果一から十まで嘘を並べてるだけだと分かって呆れたよ。

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267 2011/06/05(日) 15:45:31 ID:Q031LAEhP2
随分、レベルが高い話になってるな・・・・
郷土史料?
そこまで、探して読み込む人がいるとは・・・
学者さんでもないアマチュアの方でしょう?

凄いな・・・・

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268 2011/06/05(日) 16:42:17 ID:UreOuXaVdQ
>>267
別にレベル高くない。
18歳以上なら国会図書館使えば誰でも簡単にできるよ。

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269 2011/06/05(日) 17:59:47 ID:T3WeGQdxUw
そう そのとおり。
興味さえあれば誰でも読める。
俺は中学生のころ大きな本屋で読み漁った。ずいぶん昔だけど・・・・。

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270 2011/06/09(木) 23:07:39 ID:JM0e30589c
このスレまだあったのか

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271 2011/06/09(木) 23:08:20 ID:JM0e30589c
720日も残るってw

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272 2011/06/11(土) 00:17:56 ID:p3FZf6huZc
初めての書き込みですが。
弘安の役ってのは、上陸作戦で見た場合、近世以前では最大規模ではないですかねえ。
ペルシャ・ギリシャや、ローマ・カルタゴでもそんなに無いでしょ?
ノルマンジーや、沖縄並では。

あと質問ですが、文永の役の時の対馬上陸について詳しく書いた資料はどういうのがあるのでしょうか。

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273 2011/06/11(土) 10:23:47 ID:r1yYIZ.f4w
>>272
ほぼ同規模の文禄の役があるけど、この2つが近世以前では最大規模だと思うよ。

あと、文永の役の時の対馬上陸について詳しく書いた資料は、全部江戸時代以降の史料なんだよね。
同時代史料という点では空白地帯。

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274 2011/06/11(土) 13:01:37 ID:p3FZf6huZc
>>273
そうですか。斉藤資定の奮戦の話は、原資料がなんのか分からないので知りたかったのですが。
八幡愚童訓にもあっさりとしか書いてないし、宗家文書なのかなあ。

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275 2011/06/12(日) 12:06:33 ID:g2RNwdNH7o:au
大東亜戦争の最大動員数:人口の5%
弘安の役:4%(25万/600万)
こりゃ幕府倒れるわ。
倒れたけど。

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276 2011/06/12(日) 14:38:42 ID:UipuJ5tjWI
>>275
弘安の役が1281年で、幕府が倒れたのが1333年でしょ。
52年後。
ただ鎌倉幕府はモンゴル帝国に勝ちました、で話を終わらせたくないってことなんだろうけど、
例えるならバブル経済崩壊は大東亜戦争が原因っていうような話なんだよね。

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277 2011/06/12(日) 15:29:16 ID:2JFHEUwfx6
>>273
自己解決しました。
江戸時代の「宗氏家譜」に記載されてるらしいです。
原典を示さずに引用する人が多いんで困る。ずっと謎だったんです。
しかし、置いてる図書館は、えらく限られていて、検索した限りでは、
都立中央図書館と、国会図書館のみ、千葉にはなし、ということでした。

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278 2011/06/29(水) 18:06:13 ID:GChJ9YSXjg
じゃあ、なんであれっぽっちの黒船には完敗して開国したのw

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279 2011/06/29(水) 18:18:54 ID:/rsGzSRIk2
鎖国のなかで世界標準の兵器に遅れをとっていため。
しかも江戸市民を戦火から守る意識もあった。

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280 2011/06/29(水) 20:00:52 ID:2Ew.MeDEr2
いきなり6世紀も隔たった時代を持ち出すとは
明和にも珍しいほどのアホだな

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281 2011/06/30(木) 01:10:52 ID:HZ45Bn7Ws.
日本史の教科書では、元寇の時に鎌倉武士は一騎打ち戦法しか知らなかったことになってるけど、
幾ら調べてもその根拠がわからない。

鎌倉武士の主力武器は弓だけど、弓による一騎打ちは数ある中世史料の中で『今昔物語集』に
僅か一例あるのみという超レアケースなんだよね。
『平家物語』とかにも一騎打ちの場面があるけど、これって組み打ちなどで行われていて、
要するに乱戦の中のアクシデントとして描かれてるんだよ。
その他圧倒的多数の場面では、合戦が集団戦法で行われていて、史料を読む限り鎌倉武士が
一騎打ち戦法で戦っていたとは考えられない。

そもそも、『平家物語』みたいな軍記物語に一騎打ちが登場することを拡大解釈して、それがスタンダード
だと主張すること自体おかしい。
だって、中国の演義モノや西洋の騎士道物語にも一騎打ちは登場するわけで、そんなこと言い出したら
世界中の合戦が一騎打ち戦法で行われてたことになっちまう。
現代のマンガや映画、小説だって、物語を盛り上げるため一騎打ちはお約束じゃん。

更に言えば、『蒙古襲来絵詞』という実際に元寇で戦った武士が監修した史料では、鎌倉武士が
一騎打ち戦法でなんて戦っていないって問題もある。
普通に史料調べる限り、日本には最初から一騎打ち戦法なんて存在しなかったという結論しか
でないわけで、教科書書いてる偉い学者さんたちは本当に真面目に史料読んだり、考えたりしてるの?
って感じ。

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282 2011/06/30(木) 04:38:59 ID:qXdEroZiF.
あの「一騎打ち」って、感動的に物語を演出するための物だろうね。
平家物語でも、「 一の谷合戦」なんて騎馬集団の奇襲攻撃だし。
弾き語りの演出として必要とされたのが、名乗って一騎打ちするってやり方なんだろうと思う。
物語にはメリハリが必要だもんね。

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283 2011/07/01(金) 14:22:05 ID:9H94.ZovCU
この一騎打ち戦法云々は本当に酷い話で、日本人は本気で怒るべき。
学術書とか学術論文読めばわかるけど、通常なら細かく(註)が付いてて必ず根拠なり引用文献なりが
提示してなければならないモノなんだよ。
こんな一切根拠のない話が戦後半世紀以上放置され、どの元寇関連文献にも載ってること自体、
日本史研究の真面目さを問われるレベル。
中世史の研究者全員呼びだして、「お前ら今まで一体何してたんだ?」って詰問したい感じ。

しかも、これって学校の日本史では下線とか引いてあって必修項目として扱われてるんだぜ。
戦後の日本史の教師たちが、一番力を入れて授業をやるのもここ。
「やあやあ我こそは・・・」とか勝手な演出付けて、十代の生徒たちに昔の日本人が如何に間抜けだったか
刷り込むわけだ。
何の根拠も無い、完全な作り話なのに・・・
滅茶苦茶過ぎるだろ。

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284 2011/07/01(金) 20:32:47 ID:yOBY311RCA:au
うん。
私も刷り込まれた。
一人づつ「我こそは」をやってたら一人づつ射たれて日本全滅になるにちがいない。
以来、歴史の教科書の嘘を捜すのが面白くなった。

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285 2011/07/02(土) 20:49:42 ID:N5JHudxCeQ
平安時代あたりなら、戦をするにあたって、お互いの軍の使者同士が打ち合わせして、場所を決めて、いざ戦が始まると最初は一騎打ちが何度か続いて、やがて大将同士が一騎打ちをやって、
勝負がついた後で勝った大将の軍が負けた大将の軍を取り囲んでそれから集団戦闘になって、どちらかの兵数が相手の半数以下になったら勝負ありになる。
なんていうルールがあったなんて子供の頃に読んだ記憶がある。運動会かよ!なんて突っ込んだっけなw
たとえ、仮に本当に元寇の時点では一騎打ちで闘うつもりだったとしても、相手軍が集団で突っ込んでくるのにいつまでも一騎打ちにこだわる程日本軍は馬鹿じゃあるまいてw
「あいつら、一騎打ちなんかやる気ないんだ、ならこっちも一斉攻撃だ、攻めろ!!」
になるわな普通w

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286 2011/07/02(土) 20:54:22 ID:N5JHudxCeQ
ところで、開戦にあたって日本軍が、日本でのしきたり通り、
音の出る鏑矢を飛ばして、
元軍がそれを見て爆笑した話は本当なんかね?

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287 2011/07/03(日) 00:38:18 ID:lY9j65VeRQ
歴史認識に付いてはNHKの大河ドラマも酷いよな
特に北条時宗なんか
今の子なんかあれ見て歴史勉強しているのも多すぎるし
どうして時宗が先に死んで時輔が生き残るんだよw

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288 2011/07/03(日) 12:26:29 ID:QIO.9dwRLU:au
鏑矢翔ばすのはあり得ると思う。
自分の指揮下にある兵士に攻撃目標を知らせるには良い方法。
それ見た蒙古側が「へ!?」で笑うのもあり得る。異文化同士の合戦だから。

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289 2011/07/30(土) 11:20:07 ID:XCV4NGGgik
ここ最近の動き見てると元寇がここまで歪められた最大要因ってやっぱ朝鮮との絡みなんだろうな

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290 2011/07/30(土) 14:26:54 ID:LFlLs6dHtc
確かに高麗絡みの記述になると酷いな
高麗王が元に対して執拗に日本侵略を進言してたのに
日本が救われたのは高麗の抵抗のおかげとか頭にウジ湧いてんのかとw

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291 2011/07/31(日) 10:19:37 ID:bIdNcOIoZk:au
頭にウジはわかんだろ。頭に湧くのは虱。

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292 2011/08/06(土) 01:31:05 ID:R/d0TwD/YY
高麗は日本を侵略したんだものな

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293 2011/08/06(土) 01:33:07 ID:R/d0TwD/YY
大河がひどいといえば豊臣秀吉だなあ
ただの狂った人間に仕立てられてる
あのキャラでどうして天下統一できるんだw

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294 2011/08/06(土) 10:34:16 ID:N02YlQooic
大河といえば2000年度の「北条時宗」では
文永の役威力偵察説を採用してたな
四万の軍勢で単なる威力偵察なんかしねえっつーのw

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295 2011/09/18(日) 09:26:21 ID:KRg0T7/2wM:au
四万の軍勢で間に合うとは考えてたんだ。

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296 2011/09/19(月) 08:46:38 ID:/GD6AuFPS6
>>295
そりゃ当然考えるだろ。
四万の軍勢で征服できない国なんて当時の世界にはほとんど無かったから。

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297 2011/09/30(金) 02:05:57 ID:LbTTjFgShs
高麗国王って元に征服されてからは
代々モンゴルの妃と結婚を繰り返してるからほとんどモンゴル人なのな
全然知らなかったけど
名前までモンゴルだ

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298 2011/09/30(金) 02:07:35 ID:LbTTjFgShs
まあ上陸がうまくいって橋頭堡を築かれたら
九州の北半分とられても全然不思議じゃないわな

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299 2011/09/30(金) 03:44:49 ID:cCKYSoZh2c
>>298
文永の役で上陸は問題なくうまくいった。
その後の野戦でモンゴル軍が鎌倉武士に全く歯が立たないのが誤算だった。

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300 2011/10/01(土) 03:03:46 ID:YHDYZTz1SI
海に引き返してるんだからうまくいってないだろw

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301 2011/10/01(土) 14:02:43 ID:/uPRHyl6PI
>>300
海に引き返したのは野戦で鎌倉武士にボロ負けしたからで、上陸はまったく問題なかったよ。

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302 2011/10/01(土) 23:08:54 ID:YHDYZTz1SI
それを上陸失敗と言う

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303 2011/10/02(日) 11:49:08 ID:W4.gohO.kI
>>302
それなら、上陸がうまくいって九州の半分とられる可能性なんて最初からゼロだったってことじゃん。
どういう作戦で上陸しても結局は野戦で負けて海に引き返すことになるんだから。

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304 2011/10/02(日) 14:48:34 ID:K7R744iTTQ
そうそう。つまり上陸に失敗したの。
上陸地点を確保できなかったわけだからね。

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305 2011/10/02(日) 15:03:42 ID:W4.gohO.kI
>>304
仮に陸続きでも結果は同じだね。
やっぱりモンゴル軍は野戦で鎌倉武士に負けて撤退するしかない。

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306 2011/10/02(日) 20:49:06 ID:K7R744iTTQ
いや陸続きとなると話は全然違うことになるだろうね。
まあ陸続きだとそれ以前の歴史も変ってしまうから話しても仕方がないだろうけど。

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307 2011/10/03(月) 00:00:17 ID:sODwOhmg3Y
>>306
いや、モンゴル軍が野戦で鎌倉武士に勝てない以上、陸続きでも結果は同じ。

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308 2011/10/03(月) 02:40:28 ID:mvvRVQDzBg
モンゴル軍っていっても高麗とか宋の連中じゃなかった?
ヨーロッパや中東まで侵攻した騎兵と同じなん?

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309 2011/10/03(月) 11:12:58 ID:4qEWdxOJHQ
陸続きなら日本独自の戦士階級とか封建社会とか生まれてないんじゃないか
もし陸続きだったらなんて仮定は無意味

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310 2011/10/03(月) 11:15:51 ID:4qEWdxOJHQ
>>308
モンゴル帝国の外征軍はだいたい諸民族混成軍だよ
日本遠征だけが特別だったわけじゃない
あと日本遠征の場合主力は蒙漢軍ね

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311 2011/10/03(月) 21:20:36 ID:QGt/RzXq0s
高麗のザコだろw

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312 2011/10/03(月) 21:39:23 ID:4qEWdxOJHQ
文永の役では蒙漢軍2万5千に高麗軍8千、
弘安の役でも蒙漢軍1万9千に高麗軍1万、江南軍10万なわけだが
高麗軍はボコられてた印象しかないし、ザコだったという点には同意するが

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313 2011/10/21(金) 20:56:24 ID:Wj/flcVZg2
モンゴルって宗教的にはなんなの
チベット仏教とか?

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314 2011/11/12(土) 16:32:34 ID:QlWhuKx2xQ
初カキコします。
最近このスレを見て元寇について興味を持ったのですが、少々疑問が湧いたので書き込みさせていただきます。
当時の日本の軍事水準が非常に高かったことが、防衛成功の決定的要因であることは
このスレを見て理解しました。しかし、あの元に圧勝したという事実に、まだ少し違和感があるのです。

当時の武士は軍人としてのレベルは高くとも、実戦経験では元側との間に大きな差があったのではないか?
またそこから来る集団戦法の練度においても、元側の方が優れていたのではないか?
当時の日本では禁じ手である毒矢や、新兵器のてつはうなどには苦しめられたのではないか?

史料などの結果論から言えば日本の勝利であったことは疑いようもないのでしょうが、
その勝利の内容についてはまだ疑問があるのです。上記の疑問は事実なのか。あるいは
事実として考えられる可能性があるのか否か、回答よろしくお願いします。

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315 2011/11/15(火) 17:47:33 ID:8pQlxbr.Cs
>>314
湾岸戦争の前もイラク軍は直前にイランイラク戦争経験してるから、
実戦経験ではアメリカ軍との間に大きな差があるって言われてたけどね。
元寇当時のユーラシア大陸での緩い実戦経験なんてあんまり意味無いよ。

あと、毒矢使用については確かな史料が無い。
海外ではモンゴル軍が毒矢を用いていたなんて話を一切聞かないし、
日本でも八幡愚童訓という信用度の低い文献にあるだけ。
つまりガセってこと。
それから、この時代の火器はまだ過渡期の兵器で戦局を有利にするような威力はない。
てつはうはむしろ弱者の兵器なんだよね。

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316 2011/11/17(木) 01:35:24 ID:Y0wWSk0TgA
てつはうが弱者の兵器ってことについて捕捉すると、当時は基本的に弓の方が火器よりも
実戦だと圧倒的に有効。
でも弓兵を育てるには幼いころからの訓練が必須で数を揃えるのが中々大変なんだよね。
それで中国とかが錬度の低い兵に火器を持たせて遊牧民の弓に対抗しようとしたわけ。
まあ対抗しきれなかったからモンゴルに征服されちゃったんだけど、それによってモンゴル軍内にも
火器を使うような兵が加わるようになった。
で、てつはうなんかを武器に生粋の弓騎兵である鎌倉武士と戦ったら当然ボロ負けするよな。

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317 2011/11/17(木) 11:06:35 ID:tY185ETMSA
>>314
確かに当時の日本には大規模な戦争こそなかったけど
宝治合戦、二月騒動、霜月騒動、岩戸合戦など起こっているし
現代とは比較にならないほど殺伐としていたと思うよ
土地争いとかの小競り合いは日常的にあっただろうし
武士たちに実戦経験が全く無かったわけではないと思う

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318 2011/11/18(金) 18:18:43 ID:2XooCrKC16
>>314
集団戦法だけど、武士は大将首やいい首を狙ってたでしょ
手柄の申告や文永の副将や弘安の志賀島で明らか。
集団戦法は小隊長が討ち取られたら小隊ごと中隊長なら中隊ごと機能しなくなる。
高麗史に「官軍不整」と集団戦法が機能喪失したことが書いてある。

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319 2011/11/19(土) 10:53:16 ID:IJnv7FJ/oA
>>314
日教組による嘘の歴史教育を受けてるので、島国日本は侵略を受けずに
平和に暮らした思うだろうが、これは大嘘。
何度も侵略を受けことごとく排除した。

663年白村江の戦いでの敗戦で日本は大きく変化し軍事力強化へと向かう
今まで直刀(いわゆる剣)がだんだん湾曲し日本刀の出現し始めたのは
この戦い以降だといわれている。
http://www.youtube.com/watch?v=rvyl8TvlIjk&feature=re...

800〜1000年 新羅の入寇
弘仁の韓寇  貞観の韓寇 寛平の韓寇 長徳の入寇

1013年 刀伊の入寇

1274年1281年 元寇
文永の役 日本2000〜5000人 VS 蒙古、漢、高麗軍 30000人
弘安の役 日本九州部隊(4万)中国部隊(2万5千)京都(6万)VS蒙古漢高麗(14万)
 
1419年 応永の外寇 
日本800人 VS 李氏朝鮮17885人(ほぼ総力戦か?) 

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320 2011/11/19(土) 11:40:55 ID:YsSV2UVCBc
文永の役の日本軍二千〜五千はちょっと少なくね?
防衛省だかの推定では総兵力五千〜一万くらいだった気が

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321 2011/11/19(土) 18:21:25 ID:IJnv7FJ/oA
>>320
なんかの本で5千との記憶していたがググってみると5千〜1万人が有力ですね。
後2千〜にしたのは博多の浜辺から水城まで直線で約13Km程あるので
全員が戦闘に参加していないと思ったので戦ったのは5千の内2〜3千位だろう
と思ったから。

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322 2011/11/21(月) 02:13:30 ID:LVeoqckBho
ヒャッホー!鎌倉武士最強だぜ!!!

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323 2011/11/21(月) 23:34:11 ID:riKAzF/Hh6
削除(by投稿者)

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324 2011/11/22(火) 00:22:05 ID:wcehCCR2kw
たくさんのレスをくださり、ありがとうございます。
すみません。自分の中で色々整理していたら、レスを返すのが遅くなってしまいました。


>>315
言われてみれば当時アジアで元が戦っていたのは南宋くらいでしたけど、その南宋との戦闘も
攻城戦がメインだったんですよね。大規模な騎馬戦もほとんどなかったようですし。
毒矢はネットで調べてみても、詳細どころか概要も分からなかったのですが…
…なるほど。ガセだった訳ですか。てつはうも意外と弱かったのですね。
確かに日本以外での戦争で、てつはうが劇的な戦果を上げたという話はあまり聞かないんですよね。

>>316
連射が効かない、射程距離が微妙。
てつはうも弱点というか、扱い難い点が結構ありそうですよね。
運用の仕方によっては有効的な兵器となるのでしょうけど、
野戦においては遠距離攻撃が可能な弓の方が確かに有利ですよね。

>>317
今の平和ボケしている日本とはまるで違ったとw
でも確かに鎌倉時代は大きな戦がないのに、江戸時代の平和とは
また違った印象があるんですよね。武断政治のイメージが強いというか。

>>318
なんとも圧倒的ですね…。
隊長が真っ先に狙われることは、元側だって分かっていたはずでしょうに…。

>>319
なるほど。対外的な緊張は常にあったと。
そういう話が教科書にあれば、防人の重要性とかもわかっていいんですけどねぇ。
というかその人数で勝ったのですか。防城戦ならともかく、野戦でその人数差を覆すとは…。

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325 2011/11/24(木) 14:55:11 ID:nyPro6g7gM
箱崎宮は元軍が焼き払ったの?
当時の記録では単なる火事としか扱われていないとも聞いたけど、
どの文献に載っているんだろう

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326 2012/01/05(木) 11:24:17 ID:01rBnU6UsY
>>324
後世のものなんだがフロイスの『日本史』に朝鮮に関する情報として

・彼らはトルコ人のような小弓を巧みに操り、毒を入れた小箱を使用するという。

とあるから、もしかしたら高麗の兵が使ったのかもしれない。『八幡愚童訓』以外が
出していないのは戦局に影響を与えるような効果がなかったからじゃないかな?

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327 2012/01/06(金) 21:22:29 ID:.MPoGXSWCY
馬を船に乗せ、博多湾から上陸し、大宰府を攻略する。
これって中世の軍隊でもそれほど難易度高い軍事作戦じゃないよね。
だって元寇の300年以上前に藤原純友が成功してるじゃん。
承平天慶の乱当時の大宰府だって半島の海賊に備えるため、それなりに防衛体制整ってたのに。
ちゃんと成功した前例があるのに元軍の失敗を作戦の難易度のせいにするなんておかしい。

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328 2012/01/07(土) 20:15:24 ID:9zORllGRik
多分、三国志も大したことないぜw相当盛ってるわw

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329 2012/01/08(日) 11:25:35 ID:BQCxIp0EC2
元寇も応永のも朝鮮半島からの侵略だものなあ。謝罪と賠償請求したほうがいいw

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330 2012/01/08(日) 21:12:20 ID:g.6iXfrzaY
>>329
元寇のそもそものきっかけが高麗の忠烈王の進言だもんなあw

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331 2012/01/10(火) 17:46:44 ID:ewtGZaN6FM:au
元寇と応永の外寇の共通点:大軍で押し寄せ、惨敗した。

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332 2012/03/25(日) 15:10:15 ID:O92RKoYP5s:au
>>325
日本との戦闘後に「四方を略奪して引き上げる」と向こうの史料にあったから
おそらく元側は軍議により撤退を決めてから、箱崎の辺りを燃やして引き上げたんだと思う。
夜間での撤退だから、近隣を燃やせば明かり代わりになるし。
この時武士達は水城に引き上げてたから、ただでさえ数の上で不利だからこれを追撃するのは難しい。
八幡蒙古記は箱崎八幡宮の関係者が書いたものだけど
この中で武士達が一部除いて情けなくやられたように書かれてるのは
多分この時「なんで俺らの神社燃やされてる時に来てくれなかったんだよ!」
っていう私怨がかなり入ってるんだと思うw

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333 2012/03/28(水) 19:04:24 ID:VP4P5dgq4.
>>332
「四方」じゃなくて「四境」だよ。
「四境」って国境のことで、つまり対馬壱岐。
しかも「唯四境」って対馬壱岐に限定してるわけで、元軍は九州では略奪とかしていない。

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334 2012/03/29(木) 23:58:52 ID:frzBqXvcpI:au
そうなると、益々もって八幡蒙古記の記述は宛てにならないな。
やたら詳しく書かれているから信じてしまいがちだが
日蓮が書いた宗教書と似たようなもんだと思えばいいのか?

ただ、蒙古襲来絵詞と元史と高麗伝と武士達の勘状だとどれも書かれてる事が断片的だから
元軍の上陸地点や戦闘経緯が今一つ全容が分かりづらいんだよな。
高麗伝なんて壱岐や対馬での虐殺劇はやたら詳しく書いてる癖に
九州での戦闘は殆ど書かずに例の軍議のシーンだ。

取り敢えず、元軍が初戦で橋頭堡を築くのを断念した程消耗したのは確実だろう。
もし、仮に高麗伝や八幡蒙古記に書かれてるように
元軍が武士を一方的に敗走させたんなら水城や太宰府まで追撃しているはず。
やはり実際は元軍は戦闘終了の時点で作戦続行不可能な程被害を出したのか
或いは蒙古襲来絵詞や福田文書にあるように武士達との戦闘で敗れて撃退されたのだろう。

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335 2012/03/31(土) 06:39:46 ID:x8NmMH9ZU.
筥崎宮に放火した疑いが一番濃厚なのって筥崎宮関係者だよ。
中世史では為政者と揉めた神社仏閣が関係者の放火で焼失ってかなり頻発してるんよ。
燃やしても再建義務があるのは為政者の方だし、宗教関係者からすれば神様仏様を
人質にとってるようなもん。
筥崎宮も当時土地の領有を巡って係争中で、何度も火災焼失をくり返していた。

そもそも八幡蒙古記よく読めば、筥崎宮って元軍の放火の被害者とは書かれてないし。
自ら出火してその炎で元軍を撃退した勝利の最大功労者として記述されてる。
「文永の役で勝てたのは筥崎宮が燃えたおかげなんだから、お前らもっと御布施しろよ」
って主張してる文献が八幡蒙古記。

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336 2012/03/31(土) 10:33:45 ID:ej.lMlAT6s:au
八幡蒙古記の中で武士達が一方的にやられてるように書きながらも
少弐や菊池など一部は善戦してるように書いたのは
あんまし全部が全部、自分達八幡宮のおかげとするには
流石に後ろめたさがあったから、せめてもの良心のつもりなのかな?w

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337 2012/04/03(火) 09:30:49 ID:urZ6n.WjIM
寺社関係者の恩賞クレクレが凄かったようだしな。

関幸彦『神風の武士像』(吉川弘文館)
・真夜中に箱崎宮から八幡大菩薩の使である白装束の者三千人が突如立ち現れ、おびただしい
矢を蒙古軍に放ったという。その光景は「身ノ毛モ竪テ怖シク」なるほどで、「波ノ中ヨリ猛火」が
あって、これがために蒙古軍は肝を潰し敗走したという(『八幡愚童訓』)。まさしく「神軍ノ威勢」だった。
 同様の報告は各地から届けられた。紀伊国高野山金剛峯寺の鎮守丹生明神の場合もそうだった。
弘安合戦に際し、日本国の神々も蒙古に発向することになった。天野明神(丹生明神)は第一陣として
四月二十八日丑刻(午前二時)と決し、それにむけて不動火界呪を修して神の威光を増すべし、
そうすれば、六・七月中には本朝安全なるべし、との霊托の旨が報ぜられた(『紀伊興山寺文書』
正応六年三月二十八日「太政官牒」)。

・この異国との戦争で神慮なり神威なりが、いやがうえにも高められた。日本国中の神仏を総動員しての
異国撃退の祈願、それはあたかも武士達の警護番役に対応するかのようであった。春日・住吉・日吉・
祇園の各社が、各月を分担し異国降伏の祈祷をした。
 神や仏も動員され、加持祈祷という世界で戦った。当然ながら、諸国でのこうした神々の
軍忠状に対し、武士と同様に恩賞の要求も激しかった。

・肥前国武雄社の場合もそうであった。(中略)文永合戦のときには神殿から発せられた鏑矢が賊船を射ぬき、
これがために敵は撤退したこと、弘安合戦では紫の幟が異国の船の方向に飛び去り、大風を起こしたこと、
などが述べられていた。こうした神の軍忠にもかかわらず行賞に漏れたことは、堪え難しとするものであった。

・異国合戦での神々の参陣は神の戦争を演出することで、神威を高めることにつながった。
 すでにふれた弘安七年(一二八四)の神領興行令を含め、以後の三度にわたる神領の復興運動は、神の戦争と
その軍忠に対しての当然の恩賞だった。

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338 2012/04/04(水) 02:35:16 ID:JTXpiL41i6:au
文永の役は撤退中に台風が来たわけだがそもそも元軍が優勢だったら
わざわざ台風が近づいてる夜なんかに撤退なんて真似はしないでしょw
元軍にはこのままでは間違い無く殲滅されるという焦りがあったんじゃないの?

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339 2012/04/09(月) 13:21:55 ID:5ptOQQJtNA
元軍の副将は重傷を負い、その日の内に撤退。
一方の日本軍は大した損害もなく博多や大宰府も無事。
これを苦戦だと言い張り続ける意味が分からない。
素直に「武士が強かったから文永の役は圧勝でした」って歴史の教科書に書けばいいのに。

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340 2012/04/09(月) 21:46:16 ID:Q6ldgrMarU
武士が
船に乗り込んで
逃げ惑う船員乗員たちを切りつけて
パニック状態だったとpか 
かいてなかった_?

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341 2012/04/10(火) 22:44:22 ID:w1SsjZccnk:au
それは二回目の弘安の役。

一回目は上陸して戦闘するんだが
数で圧倒的に劣る武士団に対して、緒戦で侵攻継続不可能な
レベルにまで消耗してる時点で元の負けだよ。
アホな歴史学者どもは屁理屈こねて武士の負けにしたいようだが。

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342 2012/04/13(金) 13:36:02 ID:5VkZ9fijhg
アホな歴史学者どもは言ってることが適当過ぎる。

開戦前⇒「元の目的は南宋。日本侵攻は南宋を孤立化させるための側面作戦に過ぎない」
文永の役で元が負けると⇒「文永の役は威力偵察。弘安の役が本番」
弘安の役でも元が負けると⇒「弘安の役は旧南宋兵の棄民。挙句に旧南宋兵は弱兵で
              武器の代わりに農器具を持っていた」

これ、言ってることが全部矛盾してるじゃん。
だって弘安の役は南宋滅亡後に行われてるわけで、南宋侵攻と同時に行われた文永の役が
弘安の役のための偵察だとしたら、元の目的は南宋孤立化なんかじゃなくて日本征服
そのものにあったってことでしょ。
それに弘安の役の目的が旧南宋兵の棄民だったら、わざわざその前に偵察する必要無いし。
そもそも旧南宋兵はほっとくと危険だから棄民するって話なのに、武器を持たず農機具
持った弱兵なんて言い出したら、棄民の必要性無くなっちゃうじゃん。
さらに凄いのは、こうした説に史料の裏付けが皆無なこと。
結局、日本の勝利を認めたくない一心で口から出任せを書き連ねただけなんだよね。

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343 2012/07/05(木) 18:55:37 ID:gbJSmfmsBM:au
そもそも八幡蒙古記の記述って竹崎季長の記述と矛盾しまくりだからな。

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344 2015/12/20(日) 14:18:19 ID:kGh6z8yK.g
おもしろい
良スレ

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345 2017/07/19(水) 23:56:11 ID:ZruFec2AXE
あーげときますかー

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346 2017/09/22(金) 12:31:15 ID:bR/EYieutI
新史料がいくつか見つかったお陰で、文永の役についての謎は解けた。

1274年10月20日、博多湾の早良郡から上陸したモンゴル軍は2手に分かれ、洪茶丘と金方慶が今津方面へ、忽敦と劉復亨が博多方面へ侵攻。
で、博多を目指してたモンゴル軍主力部隊は百道原付近で日本軍と交戦して完敗。
劉復亨は少弐景資に射られて重傷を負い、忽敦は「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん」と言って今津へ逃げ込む。
日本軍は勝ちに乗じて今津のモンゴル軍を攻め立てたが、日が暮れたので兵を引いた。
残されたモンゴル軍は軍議を行ったが、忽敦が「兵法に、「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。疲乏の兵を策して、日ごと滋すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と撤退を決断。
その夜、悪天候の中行われた撤退作業により戦艦の多くが岩に触れて座礁。
翌21日午前6時頃にモンゴル軍は博多湾から撤退したが、その後には所々に100余艘の漂着船が残されていた。

まさに日本軍の圧勝。
苦戦と呼べる要素などどこにもない。

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347 2017/11/01(水) 00:02:23 ID:yb4JI3.PK2
>>342
まあ戦術的な威力偵察ってのはよくあることだけど
戦略的な威力偵察なんて歴史上どこにも無いわけで

反日学者の言う「文永の役全部が偵察だー」とか軍事音痴丸出しなんだよね

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348 2019/12/08(日) 09:02:19 ID:jJygETun6Y
日本がいなかったらモンゴル軍は東南アジアも征圧してた。

鄭思肖『心史,雑文,大義略叙』
「辛巳六月, 韃兵由明州渉海,至倭口,遭大風雨作,人与船倶陥,叉大敗而回。 倭遣使責占城不戦而附韃 。占城有悟意,始背元韃。」
(1281年6月、モンゴル兵は明州から渡海したが、日本の入り口で大雨に遭って人も船も沈み、またしても大敗した。
日本はチャンパに使者を遣わして戦わずにモンゴルの属国でいることを責めた。チャンパはモンゴルに背く決意をした。)

ベトナムは日本に感謝にないといけないね。

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349 2021/07/10(土) 20:25:48 ID:yh/Ipxzpko
元寇にモンゴル兵はほとんどいなかったとか大嘘だった。
『元史』によれば元寇に参加したモンゴル兵は40万人。

『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本」

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350 2023/01/06(金) 01:07:45 ID:DA2ylb3.fc
今までの元寇研究が根本的に間違っていたのは、渡海侵攻では制海権の確保が死活問題だから、
元軍には陸戦部隊の他に「船師」「水軍」などと呼ばれる海戦部隊がいたことを理解してなかったこと。
よく考えないで、史料の「船師」「水軍」の数字が実数でその他の数字は誇張されたものなんて理解で
済ませてきた。
当然、海戦部隊は朝鮮人や中国人がほとんどになる。
でもその他に陸戦部隊としてモンゴル人部隊が存在したことを無視してきたんだ。

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351 2023/01/06(金) 10:29:18 ID:YHFonP7P66
具体的に言うと、文永の役の兵数について『元史』には、副官として従軍した劉復亨と洪俊奇の伝に、
それぞれ別々の数が書いてある。

巻一百五十二 列傳第三十九 劉通・附劉復亨
「遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本」

巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇
「與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本」

この場合、「軍四萬」が遠征軍の総数で「舟師二萬」がその内の海戦部隊の兵数だ。
ところが今までの研究者たちは「舟師二萬」を遠征軍の総数だと誤解し、「軍四萬」は誇張された数字だと
スルーしてきたんだ。
「舟師二萬」は海戦部隊だから、当然ほとんど朝鮮人になる。
それで元寇は朝鮮人が主力で、モンゴル兵はほとんどいなかったなんて間違った説明をしてきた。
残り2万人の陸戦部隊、本来こっちが主力でほとんどがモンゴル兵の方は無視されていたの。

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352 2024/01/15(月) 05:49:38 ID:tCDJ7zgs6Y
「舟師」とは海戦部隊、これを念頭に置くと弘安の役の実態は定説と全く違うものになる。
文永の役では遠征軍4万人の内半数が「舟師」だったが、弘安の役の東路軍は全軍が「舟師」だった。

『元史」巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇
「十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進」

一方、中国から出航した江南軍も「舟師」だった。

『元史」巻一百六十五 列傳第五十二 張禧
「時朝廷議征日本,禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞范文虎、左丞李庭同率舟師,泛海東征」

江南軍が海戦部隊であったことは、指揮官の范文虎が砲兵や騎兵の配備を要請した際、クビライから海戦に必要ないとの理由で却下されたことでも裏付けられる。
しかし、東路軍も江南軍も海戦部隊では、日本を征服することはできない。
東路軍と江南軍の他に陸戦部隊が存在しないと、作戦として成立しないんだよ。
で、史料の中には日本征服のための陸戦部隊がちゃんと存在する。

『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本,行次慶元,卒于軍中。」

この蒙古軍40万騎こそが弘安の役の真の主力部隊。
阿剌罕は弘安の役の総司令官だから、その指揮下に主力部隊があるのは当たり前。
この蒙古軍40万騎は弘安の役で壊滅しちゃったけど、それが無かったらマジでモンゴル帝国が全世界を征服していたかもね。

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スレッドタイトル:元寇は鎌倉武士の実力勝ち

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