元寇は鎌倉武士の実力勝ち


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001 2010/03/09(火) 10:22:30 ID:FBqpTU/2Fc
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ

八幡ノ蒙古記

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002 2010/03/09(火) 13:06:05 ID:8DCD6dE5SY
日本が中国のように長城以南は遮るものが何もない大平原だったら、
瞬殺だったと思うよ。海に浮かぶ山だらけの島だから攻める方は大変。

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003 2010/03/09(火) 13:36:18 ID:cHMob7gGh6
以下蒙古襲来絵詞と八幡ノ蒙古記、元史、高麗史など一次資料からの引用が延々と続く

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004 2010/03/09(火) 16:24:02 ID:ABJ85yvSzI
サハリン経由で攻めてきたらどうすべえ。

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005 2010/03/09(火) 19:04:17 ID:4v/XT94I1Q
>>2
日本が中国のように長城以南は遮るものが何もない大平原だったら

ってそれもう日本とは呼べないだろ

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006 2010/03/10(水) 00:06:40 ID:K5N9FlKKH.
>>2
日本が島国だから攻めにくいというのは錯覚。
同じ島国のイギリスなんて大陸から征服されまくってるじゃん。
モンゴルは騎馬部隊を中核とする4万もの大軍を九州に上陸させながら、僅か1日の鎌倉武士に惨敗した。
元寇は鎌倉武士の方がモンゴル軍よりも強かったから勝った。
ただそれだけ。

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007 2010/03/10(水) 06:38:41 ID:gspD2ppbK2
>>6
イギリスと大陸の距離は、台湾と中国大陸より近いからな。
対馬から朝鮮半島ぐらいの距離しかない。
イギリスは日本と違って、ほとんどまっ平らな土地だし。

山だらけの日本みたいな土地に住んでると君みたいに無知な島猿が出てくるよね。

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008 2010/03/10(水) 10:14:55 ID:g2S.eW4h4s
実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。
しかし、それに対する日本からの返答は、

「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。
我が国には、水沢の地や山海の洲にも
備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません
(来るなら来いよwwwボコボコにしてやんよwwww)」

という挑発的なものであった。
当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国を返り討ちにするほどの日本に、
自分が攻め込んでも勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。

明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」

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009 2010/03/11(木) 00:37:33 ID:cl1C6R.BpI
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
<訳> 
そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。
【広開土王碑】より


すべての準備が整った西暦202年10月、
この勇猛な女王は肥前の海岸から出航し、無事に新羅の海岸に上陸した。
新羅王はこの東国から来た精強な軍隊と巨大な船団を見て大いに驚愕した。
恐れおののいた新羅王は、直ちに服従の意を示した。
彼は自分の手を縛って女王に拝謁し、自分は日本の奴隷であると宣言した。
神功皇后は自分の矛を王宮の門に立て、新羅王の服従のしるしとした。
彼女は門に「新羅国の大王は日本の犬なり」と書いたとさえ言われている。
ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』より


なぜか日本から大陸への侵攻では日本海は障害になってないようで

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010 2010/03/11(木) 01:38:04 ID:ltsoWa1svA
昔から航海術に長けた民族なのかな?
日本人は

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011 2010/03/11(木) 02:29:15 ID:YxYxUoOxww
北東アジア人最強説

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012 2010/03/11(木) 02:30:14 ID:68e9KynxwU
航海術なら、世界各地域の海洋に面した国・島ごとに発達してる。
人智にそれほど差は無いだろう。
たまたま漁師の家に生まれた若者が船に乗り、潮流に詳しくなったり、
志のある冒険家が遠洋へ漕ぎ出したり、国家として権益を広げたり、
海洋権益を他国から守ったりするために海軍力を整備し、船舶が進歩
発達してきたのだと思う。

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013 2010/03/11(木) 12:49:42 ID:cl1C6R.BpI
どちらにせよ
橋頭保も確保できず戦略目標の大宰府どころか
水城が見えるところまですら到達できず
福岡平野沿岸部をうろうろしただけ
先駆けレベルの武士団だけで返り討ち
弘安に至っては上陸すらままならず数カ月も海上を逃げ回った蒙古・高麗軍

地形が山がどうの言う以前の段階で元軍は敗北している

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014 2010/03/11(木) 15:13:51 ID:uKjpIdlB6o
南宋の軍って軍人より移住希望の農民が多かったんでしょ。

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015 2010/03/11(木) 15:52:22 ID:CvKM34av22
>>14
全員、旧南宋兵から選抜され、移住希望の農民なんて含まれていなかったよ。

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016 2010/03/11(木) 16:24:26 ID:cl1C6R.BpI
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、
海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった
14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、
沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である
元朝は日本商船の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、
しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる
中国の歴史12 第5章 王勇

単に農民失っただけならこうはならんよね

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017 2010/03/11(木) 18:34:22 ID:xvigfc6UL6
学校の歴史の授業では台風で元の船が沈まなかったら日本終了だった、運が良かったな、みたいな感じで教えられたな。
実際は陸地に拠点を築けずに海に追い落とされてさまよってる間に台風に遭遇したみたいだが。

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018 2010/03/12(金) 01:22:30 ID:hevQghXyEw
モンゴル軍とはいえ、ほとんど半島+南宋軍だったんでしょ?

負けるわけないじゃん。

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019 2010/03/12(金) 11:05:23 ID:KxnU0A.Tpk
>>18
もともと元はそういう混成軍で他国との戦いに勝ってきてるんだがw

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020 2010/03/12(金) 11:13:41 ID:KxnU0A.Tpk
そもそも東路軍の内訳のうち
高麗軍はわずか1万だ
あとは水手1万5000
のこりは元軍1万5000

ほとんど半島とはいえない

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021 2010/03/12(金) 16:05:25 ID:YpkX7v/WgY
削除(by投稿者)

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022 2010/03/13(土) 12:49:27 ID:WdMeYCgXJQ
ところが日本史の教科書は、日本が助かったのは日本を侵略した張本人である高麗のお陰だとか書いてるんだよ。
狂ってるよね。
しかも、恐ろしいことに現代の日本人の大半は、子供のころから洗脳され続けた結果、この滅茶苦茶な歴史教育に何の疑問も持ってないんだぜ。

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023 2010/03/13(土) 15:08:59 ID:IOhR.9sAiA
それはおかしい話だね
もともと忠烈王が自身の出世のためにフビライに進言した話なのに

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024 2010/03/14(日) 02:18:09 ID:KtU7YNgnvM
削除(by投稿者)

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025 2010/03/14(日) 02:29:13 ID:KtU7YNgnvM
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026 2010/03/14(日) 11:51:39 ID:n7bIW82apc
 文永の役(第1次侵攻):退却を決定して逃げている最中に遭難
 弘安の役(第2次侵攻):6月上旬から約3ヶ月上陸を阻止され漂流、ついに遭難

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027 2010/03/14(日) 13:18:44 ID:n7bIW82apc
>>25
典型的土下座外交か

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028 2010/03/15(月) 16:20:10 ID:sYDgeKgHHA
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029 2010/03/17(水) 12:59:27 ID:IsP3HDR8zY
高麗史にある軍議の記述。文永の役の博多の戦闘後。
わずか1日で元軍戦意喪失。

元軍司令官「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」
高麗軍将軍「我が兵少なしといえども既に敵地に入っている。船を焼き背水の陣でまた決戦したい」
元軍司令官「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」

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030 2010/03/20(土) 03:38:01 ID:Ob.VBX40PQ
>>15
なんか募集かけたときのことを書いた資料があったはずだが
なんだったっけ?

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031 2010/03/20(土) 15:48:01 ID:HcBQEJ76y.
バグダードの戦いでの徹底的に破壊された歴史を知ると、日本は勝って本当に良かったと思うよ。
モンゴル帝国が侵略した所は、住民は大虐殺、女性は強姦、歴史的建造物は徹底的に破壊
知恵の館などの図書館に保存されていた貴重な文化財や学術書は全て燃やす。
当時、世界的に発展していた都市が完全に破壊され文化も消えてしまったのは恐ろしい。

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032 2010/03/20(土) 17:53:24 ID:BoCfsLvhqQ
>>30
これ?

元史 巻十一 世祖本紀八 至元十七年
七月戊辰、詔括前願従軍者及張世傑軍、使征日本。
八月戊寅、以前所括願従軍者爲軍、付茶忽領之、征日本。

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033 2010/03/20(土) 19:01:37 ID:BEuBVglMMs
削除(by投稿者)

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034 2010/03/20(土) 21:15:32 ID:owDl1Jvyo2
オレの考えが正しければ、ジンギスカンは義経。

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035 2010/03/23(火) 04:26:16 ID:7nSxdd3u2Y
【正論】筑波大学大学院教授・古田博司 国家の正統性確立に苦しむ韓国
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/091229/kor09122902...
 さて、日韓両政府の支援により2007(平成19)年に始まった「第2期日韓歴史共同研究委員会」がこのほど終了した。
筆者は今期から設けられた教科書小グループのチーフだったが、実に虚(むな)しい2年間を過ごした。
論争好きな彼らに引きずられテーマ設定に1年間を要し、いざ共同研究が始まると、韓国の委員は4、5冊、多くて10冊の教科書資料しか読んでこなかった。
「日本帝国主義」「右翼教科書」などという用語を使い、政争の観点しか持たない彼らを諄々(じゅんじゅん)と諭す以外にはなかったのである。
さらに韓国側が名指しで人身攻撃を行っても、日本側委員長はわれわれ委員を守ることがなかった。私は「恨」を感じた。(ふるた ひろし)

韓国側委員の態度は朝鮮出兵部会でも同様だが、問題は日本側委員の北島などは、政争の観点しか持たない彼らを諭すどころか、自身を良心的研究者と自称し、一緒になって政治的非難を行っていることだ。
一例を挙げると、朝鮮出兵の部会であるにも係わらず、韓国側委員は議題でない筈の神功皇后や任那日本府の否定論を長々と唱えるが、北島らは全く諭そうともせず同調するような言動を行っている。

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036 2010/03/23(火) 11:15:23 ID:UOdrAWFNmY
削除(by投稿者)

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037 2010/03/25(木) 16:57:08 ID:x3Gukk.NoE
高麗の王世子・椹(後の忠烈王)
「惟んみるにかの日本、未だに聖化を蒙らず。
故に詔を発して軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須いる所あらん。
もし此事を以て臣に委ねなば王師を小助せん」

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038 2010/03/30(火) 17:53:54 ID:eyZatfNv4c
[YouTubeで再生]
○元寇 —— 鎌倉軍vs元軍
 「鎌倉幕府軍は●●で勝利していた」
○姉川の戦い —— 織田・徳川軍vs浅井・朝倉軍
 「姉川の戦いは●●●●の戦いの再現!?」
○第一次ノモンハン事件 —— 関東軍vsソ連軍
 「戦果は●●●●だった」
○満州事変 —— 関東軍vs張学良軍
 「●●●●張学良の軍隊」
○大東亜戦争〜ガダルカナル —— 日本陸海軍vsアメリカ海兵隊等
 「幻の●●●●●●にひきずられた陸軍」
○大東亜戦争〜沖縄戦 —— 沖縄守備隊(第32軍)vs米第10軍

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039 2010/03/31(水) 16:25:47 ID:qbPrw1ELns
■元寇・サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:海を越えての侵攻は難しいから元軍は負けて当然
Answer:日本→大陸では勝ち戦がありますが何か?
確かに渡航という行為は難しいのですが、その中で相対的に見れば対馬海峡はとりたてて難しいわけではありません。
日本から大陸への侵攻では過去何度も成功例※がありますし、
負けた言い訳とするにはちょっと苦しいのではないでしょうか?
そもそもこちらが頼んで来てもらったわけではありませんよね?
攻めてくるからには勝算があってのことでしょう。
その目算が外れたということは…まあ言わずもがなですよね。
ちなみにそんな程度の元軍でも各国に勝利してきています。
鎌倉武士は優秀だったということになりますね。
むしろ海がそんなに侵攻の障害になるならそんな障害をものともせず大陸や半島を震え上がらせる日本の兵站能力がますます強調されるだけですね

※すべての準備が整った西暦202年10月、
この勇猛な女王は肥前の海岸から出航し、無事に新羅の海岸に上陸した。
新羅王はこの東国から来た精強な軍隊と巨大な船団を見て大いに驚愕した。
恐れおののいた新羅王は、直ちに服従の意を示した。
彼は自分の手を縛って女王に拝謁し、自分は日本の奴隷であると宣言した。
神功皇后は自分の矛を王宮の門に立て、新羅王の服従のしるしとした。
彼女は門に「新羅国の大王は日本の犬なり」と書いたとさえ言われている。
ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』

※百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
<訳>そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、
百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。
【広開土王碑】

※自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息
<訳>我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった
『明史』

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040 2010/03/31(水) 17:50:33 ID:FBBNJKtBz.
日本は対馬、壱岐を瞬く間に占領され、博多を焼き払われている。
でも、日本の反撃も痛いものだったんだと思うよ。なにせ迎え撃った日本軍の
方が蒙古軍3万よりはるかに多いしね。追撃戦にも出ず、夜討ちを厭って
船に引き返しちゃったのが敗因。対馬海峡は高麗の大臣が、蒙古の死者に
巨済島から日本を見せたときに海の荒れ具合に肝をつぶしたぐらい荒れやすい
からね。

>>39
30年戦った韓国や、50万の大軍を追い払ったベトナムの方が凄い。
朝鮮半島、中国南部、ベトナムでの反乱が無く、第三次日本遠征があったら、
また運良く大風が吹いたとは限らないぞ。

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041 2010/03/31(水) 18:11:52 ID:RIaMOKwTkk
>>40
博多が焼き払われたなどという事実は無いぞ。
元軍は上陸地点の目前で、城壁に囲まれているわけでもない博多の町に
何の損害も与えることができなかった。
つまり、戦闘で鎌倉武士に全く歯が立たなかったということ。

それから、元軍が船に引き返したのは「夜討ちを厭って」などでは無く、
日本から撤退するため。
このことは、敵側史料である高麗史にちゃんと明記してある。
元軍は戦闘で鎌倉武士に敗れたから船に引き返したのであって、
船に引き返したのが敗因というのは根本的に間違い。

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042 2010/03/31(水) 18:18:23 ID:qbPrw1ELns
ベトナムの話を出すと自爆にしかならないぞ

1257年ウリャン・ハタイ率いる3000人のモンゴル軍に首都を破壊される。
その後、ベトナムにはダルガチが配備され、モンゴル帝国の属国に。

1284年、チャンパー攻撃のついでに侵攻したモンゴル軍にまたもや首都を制圧される。
聖宗の弟の昭国王陳益稷など陳朝の有力者が大量にモンゴル軍に投降。

1287年にベトナムが白藤江で勝った元の水軍は僅か500艘程。
何故なら、元の海軍はその前の弘安の役で3500艘の江南艦隊が壊滅するという大損害を
受けていたからである。

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043 2010/03/31(水) 18:25:45 ID:qbPrw1ELns
■元寇・サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:文永の役は元軍の勝ち。博多焼いたし。
Answer:仮に焼いたとしても武士がいないうえ戦略上なんの価値もないところを焼いても勝ったことにはなりません。そもそも、本当に焼いたかどうかが怪しい。
「博多が被災した」と明記された一次史料がありません。
そんな無駄なことしてる暇があるなら武士が食事をとっている水城へ夜襲をかければよかったではないですか?

>対馬、壱岐を瞬く間に占領?
これはおかしいw
たった80騎たらずしかいない離島を数万の蒙古高麗軍で陥落させるのに一昼夜かかっちゃうようで瞬く間?

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044 2010/03/31(水) 18:40:16 ID:qbPrw1ELns
>また運良く大風が吹いたとは限らないぞ

実は大風が吹いて運がよかったのは蒙古軍のほう
もし台風が無ければ、日本近海を逃げ回る蒙古高麗軍は撤退することもできず徐々に日本軍にすり潰され壊滅していただろう。

台風のおかげで日本軍の包囲をぬけ、一部でも逃げ出すことに成功できた。

5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 潰走する元軍を島津長久軍+松浦党らが迫撃
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北

6月初旬から夏まで元軍はろくな攻撃もできずひたすら逃げ回っている。
江南軍と合流してもなおろくな反撃もできずやられっぱなし。
要するに日本から離脱したくても武士のにらみが利いていてできなかったんだろう。

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045 2010/03/31(水) 18:50:50 ID:FBBNJKtBz.
>>41
黙れ!バカウヨ!

蒙古軍が上陸の夕刻には、日本軍は博多から、大宰府近くの水城へ退却。
博多から箱崎にかけては箱崎宮をはじめ、多くの建物を焼く炎で空は赤く
染まった。

しかし、その夜大風が吹いたと、日本側の記録「勘仲記」にも書いてある
だろうが。

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046 2010/03/31(水) 19:21:47 ID:e7Q3GdvtPk
>>45
「勘仲記」って京の公卿が伝聞情報で書いた日記だろ。
果たして一次資料と言えるものなんかね?

まあ、仮にその話が本当だったとしても、
当初の戦略目標であった大宰府にたどり着けもせず撤退したんだから、
元軍の事実上の敗退だろ。

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047 2010/03/31(水) 19:25:55 ID:v2wqc.SKKw
>>45
追撃を指揮していた元軍の副将(劉復亨)が武士に馬上から射落とされ、
その傷が原因で死んでる事を忘れてはならない。
これにより高麗軍に動揺が走り、追撃は中止された。

ところで大風の記述は高麗史じゃないのか?

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048 2010/03/31(水) 19:35:52 ID:0H9GCoIoN6
>>45
「勘仲記」には日本軍が退却したなんて記述は無いし、
博多が焼けたとも書いてないんだが。。。

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049 2010/04/01(木) 01:54:06 ID:H1DjG5xOWA
都合が悪くなるとすぐ馬鹿とかなんとか人格攻撃に走るのはサヨクの悪い癖だな

どの道、文永の役では台風なんぞきてないよw

まとめると戦略目標であった大宰府にまったく到達できず
それどころか手前の水城にすら到達できなかった元軍。

文永の役での元軍の進路と交戦状況は
今津沖→息の浜
百道原→赤坂

どっちの元軍も返り討ちにあっている


元軍は…なんというかプールサイドであがってくるたび何度もプールに突き落とされる出川哲郎先生のような状態だな

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050 2010/04/01(木) 02:33:21 ID:AYY/xq/p4s
一つ言っておく。
博多炎上は”NHK”大河ドラマの北条時宗にあったw
まぁそういうことだ。

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051 2010/04/01(木) 03:34:50 ID:xJHGbGdyhA
元寇で思い出すのは、モンゴルの使者が2回とも首を刎ねられた話。
初回はともかく2回目は殺されそうだってわかってたはず。
そういう役回りはしたくないなあ。

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052 2010/04/01(木) 05:00:27 ID:H1DjG5xOWA
モンゴルの使者は各国でもぶち殺されてるしなw

それに比べれば初回の使者を丁重に扱って生きて返した日本は優しいな

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053 2010/04/01(木) 06:54:59 ID:FMFqtNvLE.
まぁ当時の船は帆船なので風に乗ってくる必要があり
南から来るためには、当然それ相当の風が必要で
...また、その風が吹く時期は「台風シーズン」に重なるわけで
そう考えると当時の武士は、ある程度、海岸線で食い止めてれば
「台風」が来るというのを予測してたんじゃないだろうか!?

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054 2010/04/01(木) 12:39:21 ID:GEA6InicWo
削除(by投稿者)

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055 2010/04/01(木) 15:05:55 ID:H1DjG5xOWA
>>50
つまりソースは無しってことだな

>>53
それはどうかな

文永の役…10月
弘安の役…6月

どちらも日本へ現れた時は台風シーズンじゃないからなぁ
弘安の役なんて実際台風が来たのは二か月後だしw
大風が吹いて運がよかったのは蒙古軍のほう
もし台風が無ければ、日本近海を逃げ回る蒙古高麗軍は完全撤退することもできず徐々に日本軍にすり潰され壊滅していただろう。
台風のおかげで日本軍の包囲をぬけ、一部でも逃げ出すことに成功できた。

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056 2010/04/01(木) 15:28:13 ID:RNRWmA.DLE
>>49
日本側の記録「勘仲記」、敵側の記録「高麗史」双方に大風に関する記述が
あるから、台風でないにしても、局地的低気圧による突風でも吹いたのは
間違いない。

風が吹かなかったというのは、いつものバカウヨの希望的観測に過ぎない。

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057 2010/04/01(木) 16:03:47 ID:H1DjG5xOWA
>>56
問題はどこで吹いたか、いつ吹いたかだろ

文永の役では武士との戦いに敗れ日本を離れた後の帰路にて風雨があったとする記録が高麗史にあるなんてのはこっちはとっくに知ってるってのw

当事者である武士は逃げ出した後の元軍が風雨にあってたなんて全く知らんかったんだからw

勘仲記は後日無関係な素人がこんな伝聞を聞いたって記録で問題外

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058 2010/04/01(木) 16:14:00 ID:H1DjG5xOWA
すでに蒙古高麗軍敗走という結果が出た後、言ってみれば文永の役終結後の風雨。
勝利者であり当事者である武士の認識外での風雨を蒙古高麗軍敗北の言い訳にするとか
サヨクの頭の中はよくわからん

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059 2010/04/01(木) 20:25:56 ID:xJHGbGdyhA
神風説は、朝廷や幕府の祈祷が効いたっていう勢力争いのひとつかと。
もともと手柄を立てた御家人たちに与える土地も金数ももちあわせてないし、
神風のせいにすれば、幕府も朝廷も宗教界も三方一両得。損は御家人ばかりなり

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060 2010/04/01(木) 22:11:41 ID:X2FRxdBhKo
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061 2010/04/02(金) 02:37:02 ID:CLa8MhUeOY
文永の役の前に1268年から1272年までに四回送られてきた使者たち
はみんな生きて返してた

文永の役が終わった後1275年に送られてきた使者は斬首してる
日本はむしろ使者に甘すぎたぐらいだったね

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062 2010/04/02(金) 11:36:55 ID:wQIcVYXFW6
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063 2010/04/02(金) 11:39:51 ID:wQIcVYXFW6
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064 2010/04/02(金) 15:20:52 ID:7SAMXNrhv6
↓中国語が出来る人、↓さかんに中国の掲示板に↓書き込んでくれない?↓

キモヨナを最終プレゼンターに使った
冬季五輪誘致がもし万一成功すれば、
中国はそのあと20年ぐらい、
「中国初の冬季五輪開催」ができません。同じアジアだから。
中国は発展著しく、
そういう風に可能性が閉ざされるのはいやでしょう。
キモヨナ潰しは国益のため。今回の韓国招致は潰すべし。
中国、韓国冬季五輪を、潰しにかかったほうがいい!
アフリカ票を大量に支配して、韓国五輪を潰しておこう!
国力が中国>>韓国だから、
中国が先に冬季五輪を開くべきだ!
2018年はドイツにやらせて、2022年は楽に中国のものだ。
2018年に韓国でやらせることは阻止の一手だ!

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065 2010/04/02(金) 18:16:54 ID:CLa8MhUeOY
ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、
おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、
勝負をけつし、家のこ、らうとう等、多くうたれにけり、いかしたりけん、
菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、
頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ
八幡ノ蒙古記

武士つええ

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066 2010/04/03(土) 02:04:23 ID:BnyRrtm5m.
Excuse:30年戦った高麗の方が凄い。
Answer:戦ってません。単に民を捨てて逃げ出しただけです。

1232年以降、高麗の為政者は江華島に引きこもり、モンゴル軍が朝鮮半島全土を蹂躙するのを放置してただけ。
だからモンゴル軍は30年間にわたって思う存分高麗で奴隷狩りを満喫できたわけです。
一回の奴隷狩りで高麗人20万6800余人お持ち帰りなんてのを、許しておいて、「30年戦った?」
普通の感覚なら恥ずかしくてそんなこと言えないですよね。

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067 2010/04/04(日) 17:59:14 ID:XdPUVdDyEE
麗しき御賀の儀、いかばかりの事にてか有んずらんと覚えしに、蒙古国とかやより牒状を奉る。
高麗の牒を相副たり。宰府よりまづ関東へつげて、関東より二月六日牒状をまゐらせたり。
これに依て御賀止めらる。
公私本意なき御事也。蒙古国もとは契丹の所属、韃靼国也。年比契丹国已下の近辺の諸国打とる。
大宋国も、三百余州のうち大略皆討とられて、僅に六十余州残れり。高麗も同せめおとされて、
臣として蒙古の朝につかふる由、牒状にも載たり。牒使には趙良弼と云ものわたれり。
高麗の使を副たり。牒状二通あり。一通は高麗の牒也。蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。
至元三年と載たり。高麗国、同彼年号をうけて至元となせり。去年八月の状也。
数多の方物を相副て、正月一日大宰府に着たり。
【五大帝王物語】

牒状が届いた時、日本人は大陸情勢に無知で蒙古が如何に強国かを理解してなかったという通説は、
嘘だよね。
実際には、当時の日本人は蒙古についてかなり詳細な知識を持っていた。

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068 2010/04/05(月) 00:31:12 ID:jFBafCkRDg
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069 2010/04/07(水) 03:45:22 ID:RVejM5VU6g
それどころかモンゴルに尻尾を振って
日本侵略を提案

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070 2010/04/07(水) 09:42:04 ID:6GA8lRa19Q
元寇は、朝鮮など東アジアの国々による日本への侵略戦争だったこと。
そして、その侵略戦争に日本が見事勝利したこと。
という二重の意味で戦後の自虐史観にとってタブーだった。
だから、元寇は目の敵にされ、徹底的に歪められた。
どんなトンデモ説でも、それが日本に不利な内容なら史料の有無なんか無関係に
定説化しちまうんだから酷い話だよ。

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071 2010/04/08(木) 03:12:19 ID:DWDpjKOHpQ
>>70
そういうやつこのスレにも一人いたなw
ことごとく論破されて消えたけど

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072 2010/04/09(金) 01:05:13 ID:EuxfO/a3Ps
>>70
してもいない「敵前で名乗りを上げて一騎打ち」を理由に武士が苦戦していたとか
平気でそういう嘘つくからな

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073 2010/04/09(金) 21:18:23 ID:sh.IiMi5VE
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074 2010/04/10(土) 20:28:54 ID:0g4pxRQojo
八幡愚童記正応本
其中に高麗の兵船四五百艘壱岐対馬より上りて
見かくる者を打ころしらうせきす
国民ささへかねて妻子を引具し深山に逃かくれにけり
さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり

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075 2010/04/11(日) 05:10:20 ID:JVdwyBk1NU
Excuse:一騎打ちしか知らない武士は蒙古軍の集団戦法に苦戦したんだから蒙古の勝ち
Answer:武士も集団戦にて戦っていました。

まず、当時の武士が一騎打ちを行っていたとする根拠がありません。
唯一の根拠として八幡愚童訓の写本の一つ『菊大路本』があげられることがありますが、
そもそも八幡愚童訓は後世の宗教書ですので信憑性に疑問があります。
さらにいえば該当箇所も実際のところただの書き間違いです。

八幡ノ蒙古記
「高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に」

菊大路本
「高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処」

要するに元寇のとき武士が一騎打ちしていたなどというソースはどこにも存在しません。

次に元寇の詳細を記録した資料として信憑性が高いとされている蒙古襲来絵詞には武士が集団で元軍と戦い、元軍を蹴散らしている図が示されています。
総勢百騎などと注釈が付けられており、相当の規模での集団騎射戦が可能だったようです。

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076 2010/04/12(月) 00:11:21 ID:iAz/uvEhLY
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077 2010/04/12(月) 10:40:06 ID:VTQRwBcxV6
日教組はどうしようもないな

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078 2010/04/12(月) 11:52:54 ID:gxbF.8fG1Q
単に研究がすすんで新しい説が出てきただけだろう
なんでもかんでも自虐教育のせいにするもんでもない

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079 2010/04/12(月) 13:37:26 ID:uhciB3TMrQ
>>78
いや、自虐教育のせいだよ。
鎌倉武士が実力で元軍を撃退したというのは「新しい説」じゃないから。

江戸時代の歴史書、『日本外史』に記された文永の役
「(文永)十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。地頭宗助国、これに死す。
転じて壱岐に至る。守護代平景隆、これに死す。事六波羅に報ず。鎮西の諸将をして、
赴き拒がしむ。少弐景資力戦し、射て虜の将劉復亨を殪す。虜兵乱れ奔る。」

戦前の昭和天皇の歴史教科書、『国史』に記された文永の役
「元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。」

比較すれば現在の歴史教科書がどれだけ自虐史観に毒されてるか一目瞭然だろ。

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080 2010/04/12(月) 14:09:28 ID:gxbF.8fG1Q
戦前の教科書を持ち出すなよw

「鉄砲三段撃ち」であるが、これは映画『影武者』のラストシーンにも登場した有名な戦法である。
しかし、実在は疑問視されている。
『信長公記』では鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとだけ書いてあり、具体的な戦法、つまり三段撃ちを行ったという記述はなく、最初の記述は江戸期に出版された通俗小説に見られる。
それを、明治期の陸軍が教科書に史実として記載したことから、一気に「三段撃ち」説が広まったものとされる(これは「大日本戦史」として1942年に出版されていたので、所蔵する図書館もある)。

戦前の教科書なんてこんなもん




『日本外史』wikiより
情熱的な文章であった為に広く愛読されたが、参考史料として軍記物語なども用いているため、歴史的事実に忠実であるとは言いがたい記事も散見する。
言い換えれば、史伝小説の源流の一つと言い得る。

だってさ

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081 2010/04/12(月) 14:31:19 ID:uhciB3TMrQ
>>80
それでも、戦後の歴史教科書よりも元寇に関する記述は遥かにマシ。
如何に現代の自虐教育が悲惨な状況かってことだろ。
戦前の記述を笑う資格なんてないよ。

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082 2010/04/12(月) 14:57:56 ID:oCp3PXgKMs

戦前は神風が元軍を撃退したという考えだよ。
外国を打ち払うという意味で新風特攻隊の語源になったほど。

戦前は、「すべては天皇陛下のおかげ(神風のおかげ)」

戦後は、「嵐が来て勝手に自滅した」

つくる会は、「神風(天皇)のおかげではない。武士の実力で追い払った」

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083 2010/04/12(月) 14:59:11 ID:gxbF.8fG1Q
戦前の教科書は天照大神からはじまってるし問題外だよ
元寇の記述に関してはGHQが変えたんだな
元寇に関してはGHQはやりすぎだとは思うけど日本史全体としてみれば戦前の神話を事実とするような皇国史観よりははるかにマシ

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084 2010/04/12(月) 15:15:16 ID:oCp3PXgKMs
訂正>>82
つくる会は暴風雨の影響も勝因としていた。すまん。

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085 2010/04/12(月) 15:31:49 ID:uhciB3TMrQ
>>82
戦前は、「すべては天皇陛下のおかげ(神風のおかげ)」というのも実は戦後広められた嘘だし。
戦前の元寇教育で一番強調されていたのは鎌倉武士の勇敢さだよ。

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086 2010/04/12(月) 15:49:01 ID:oCp3PXgKMs
昭和18年國定歴史教科書

 紀元一千九百四十一年、弘安四年五月に、まづ兵四万・艦船九百隻の東路軍(とうろぐん)が、朝鮮から博多へとせまりました。
河野通有(かうのみちあり)・菊池武房(きくちたけふさ)・竹崎季長(たけざきすゑなが)らの勇将は、石塁によつて、一歩も敵を上陸させません。
夜になると、闇にまぎれて小舟を進め、敵艦をおそつて火を放つたり、帆柱を倒して船中へ斬りこんだり、さんざん敵をなやましました。

 おそれ多くも亀山上皇は、皇大神宮に、御(おん)身を以て国難に代ることをお祈りになりました。
社という社、寺といふ寺には、真心こめた国民が満ちあふれました。七月になると、つひに兵十万・艦船三千五百隻の江南軍(かうなんぐん)が押し寄せて来ました。
さきに来た東路軍と合(がつ)して、敵艦は博多の湾をうづめつくしました。

 大日本は神国であります。風はふたたび吹きすさび、さか巻く波は数千の敵艦をもみにもんで、かたはしから撃ちくだき、くつがへしました。
わが将士は、日ごろの勇気百倍して、残敵をおそひ、たちまちこれをみな殺しにしました。

 敵艦全滅の報は、ただちに太宰府(だざいふ)から京都へ鎌倉へと伝へられ、戦勝の喜びは、波紋のやうに、国々へひろがりました。
世に、これを弘安の役といひ、文永の役と合はせて、元寇と呼んでゐます。

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087 2010/04/12(月) 15:59:51 ID:oCp3PXgKMs

 思へば元寇は、国初以来最大の国難であり、前後三十余年にわたる長期の戦でありました。
かうした大難を、よく乗り越えることのできたのは、ひとへに、神国の然(しか)らしめたところであります。
時宗の勇気は、よくその重い務(つと)めにたヘ、武士の勇武は、
みごとに大敵をくじき、民草(たみくさ)もまた分に応じて、国のために働きました。

 まつたく国中が一体となつて、この国難に当り、これに打ちかつたのですが、
それといふのも、すべて御稜威(みいつ)にほかならないのであり、
神のまもりも、かうした上下一体の国がらなればこそ、くしくも現れるのであります。

 神のまもりをまのあたりに拝して、国民は、今さらのやうに、国がらの尊さを深く心に刻みつけました。
また、世界最強の国を撃ち退(しりぞ)けて、国民の意気は急に高まり、
海外へのびようとする心も、しだいに盛んになつて行きました。

 今、福岡の東(ひがし)公園をたづねて、亀山上皇の御尊像(ごそんざう)を仰ぎ、
はるかに玄海難(げんかいなだ)を見渡しますと、六百五十年の昔のことも、
今の世のことかと思はれて、深い深い感動に打たれるのであります。

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088 2010/04/12(月) 16:46:42 ID:oCp3PXgKMs
>>85
問一)上の文章を読んで一番強調されている部分は何か答えなさい。(国士様大学入試より)

イ、時宗の勇気
ロ、武士の勇武
ハ、民草(たみくさ)の分に応じた国のための働き
ニ、御稜威

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089 2010/04/12(月) 16:50:45 ID:uhciB3TMrQ
>>86
その教科書の文永の役

 文永十一年(紀元一千九百三十四年)、第九十一代後宇多(ごうだ)天皇が御位におつきになると、
その年の十月、果して元・高麗の兵約二万五千は、九百隻(せき)の艦船をつらね、朝鮮の南端から
攻め寄せて来ました。

 敵は世界最強をほこる元であり、従つてわが国としては、かつてためしのない大きな国難であります。
思へば鎌倉武士が、日夜ねりきたへた手なみを、御(み)国のためにあらはす時が束たのです。敵は
まづ対馬(つしま)をおそひました。宗助国(そうすけくに)が、わづかの兵でこれを防ぎ、ことごとく
壮烈(さうれつ)な戦死をとげました。

 そこで敵は、壱岐(いき)から博多湾へせまり、つひに上陸をあへてしました。筑紫の武士は、力のかぎり
戦ひましたが、敵のすぐれた兵器、変つた戦法になやまされて、なかなかの苦戦です。しかし、
日本武士の魂(たましひ)が、果して、かれらの進撃をゆるすでせうか。身を捨て命を捨てて、防ぎ戦ふ
わが軍のために、敵はじりじりと押し返されて行きます。

 この奮戦が神に通じ、博多の海に、波風が立ち始めました。敵は海上の船を心配したのか、それとも、
わが軍の夜討ちを恐れたのか、ひとまづ船へ引きあげて行きました。夜にはいつて、風はますます
はげしく、敵船は、次から次へと、くつがへりました。中には、逃げようとして、浅瀬に乗りあげた船も
あります。敵は、残つた船をやつと取りまとめ、命からがら逃げて行きました。これを、世に文永の役と
いひます。

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090 2010/04/12(月) 16:52:26 ID:uhciB3TMrQ
>>89を読めばわかるように、戦前の元寇教育で一番強調されていたのは鎌倉武士の勇敢さ。

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091 2010/04/12(月) 17:11:15 ID:GefXD2Y6Zs
削除(by投稿者)

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092 2010/04/12(月) 17:12:59 ID:oCp3PXgKMs
>>90
残念。
正解は、「ニ、御稜威」でした。
これ小学校の教科書だよ。しっかりしてくれよ。

小論文読んだ事あるでしょ?
>>87 は起承転結の結の部分。
時宗の勇気も、武士の勇武も、民草(たみくさ)の分に応じた国のための働きをまとめて評価して、
最後にそれらの働きはすべて御稜威(みいつ)にほかならないと手柄を独り占めにして教えているんだよ。
鎌倉幕府は天皇の敵なんだからそういう時代背景も考えなくちゃだめだよ。

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093 2010/04/12(月) 17:47:48 ID:VTQRwBcxV6
鎌倉年代記裏書
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」

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094 2010/04/12(月) 17:48:21 ID:uhciB3TMrQ
まぁ、釣られておきながら今さら何だが、そもそも昭和18年は戦中であって戦前じゃないんだけどな。

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095 2010/04/12(月) 17:54:36 ID:VTQRwBcxV6
頼山陽 日本外史
十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。
地頭宗助国、これに死す。
転じて壱岐に至る。
守護代平景高、これに死す。
事六波羅に報ず。
鎮西の諸将をして、赴き拒がしむ。
少弐景資力戦し、射て慮の将劉復亨を殪す。
慮兵乱れ奔る。

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096 2010/04/15(木) 04:16:09 ID:ndCMM7WZxA
四百余州を挙る
十万余騎の敵
国難ここに見る
弘安四年夏の頃
なんぞ怖れんわれに
鎌倉男子あり
正義武断の名
一喝して世に示す

多々良浜辺の戎夷
そは何蒙古勢
傲慢無礼もの
倶に天を戴かず
いでや進みて忠義に
鍛えし我が腕
ここぞ国のため
日本刀を試しみん


こころ筑紫の海に
浪おしわけてゆく
ますら猛夫の身
仇を討ち帰らずば
死して護国の鬼と
誓いし箱崎の
神ぞ知ろし召す
大和魂いさぎよし

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097 2010/04/17(土) 10:29:04 ID:Tdu9Br6IDc
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』
白鳥倉吉【国史】

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098 2010/04/18(日) 01:07:32 ID:2G5V9LB99o
まるで自分の目で見たかのように偉そうに語る奴って何なのwww

かっこよく書かれたナンチャッテ歴史本に洗脳されたの?

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099 2010/04/18(日) 03:20:32 ID:AgEh0FoPRs
悔しそうですね

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100 2010/04/18(日) 10:34:45 ID:CMONfHPxGA
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