元寇は鎌倉武士の実力勝ち


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001 2010/03/09(火) 10:22:30 ID:FBqpTU/2Fc
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ

八幡ノ蒙古記

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※省略されてます すべて表示...
304 2011/10/02(日) 14:48:34 ID:K7R744iTTQ
そうそう。つまり上陸に失敗したの。
上陸地点を確保できなかったわけだからね。

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305 2011/10/02(日) 15:03:42 ID:W4.gohO.kI
>>304
仮に陸続きでも結果は同じだね。
やっぱりモンゴル軍は野戦で鎌倉武士に負けて撤退するしかない。

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306 2011/10/02(日) 20:49:06 ID:K7R744iTTQ
いや陸続きとなると話は全然違うことになるだろうね。
まあ陸続きだとそれ以前の歴史も変ってしまうから話しても仕方がないだろうけど。

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307 2011/10/03(月) 00:00:17 ID:sODwOhmg3Y
>>306
いや、モンゴル軍が野戦で鎌倉武士に勝てない以上、陸続きでも結果は同じ。

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308 2011/10/03(月) 02:40:28 ID:mvvRVQDzBg
モンゴル軍っていっても高麗とか宋の連中じゃなかった?
ヨーロッパや中東まで侵攻した騎兵と同じなん?

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309 2011/10/03(月) 11:12:58 ID:4qEWdxOJHQ
陸続きなら日本独自の戦士階級とか封建社会とか生まれてないんじゃないか
もし陸続きだったらなんて仮定は無意味

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310 2011/10/03(月) 11:15:51 ID:4qEWdxOJHQ
>>308
モンゴル帝国の外征軍はだいたい諸民族混成軍だよ
日本遠征だけが特別だったわけじゃない
あと日本遠征の場合主力は蒙漢軍ね

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311 2011/10/03(月) 21:20:36 ID:QGt/RzXq0s
高麗のザコだろw

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312 2011/10/03(月) 21:39:23 ID:4qEWdxOJHQ
文永の役では蒙漢軍2万5千に高麗軍8千、
弘安の役でも蒙漢軍1万9千に高麗軍1万、江南軍10万なわけだが
高麗軍はボコられてた印象しかないし、ザコだったという点には同意するが

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313 2011/10/21(金) 20:56:24 ID:Wj/flcVZg2
モンゴルって宗教的にはなんなの
チベット仏教とか?

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314 2011/11/12(土) 16:32:34 ID:QlWhuKx2xQ
初カキコします。
最近このスレを見て元寇について興味を持ったのですが、少々疑問が湧いたので書き込みさせていただきます。
当時の日本の軍事水準が非常に高かったことが、防衛成功の決定的要因であることは
このスレを見て理解しました。しかし、あの元に圧勝したという事実に、まだ少し違和感があるのです。

当時の武士は軍人としてのレベルは高くとも、実戦経験では元側との間に大きな差があったのではないか?
またそこから来る集団戦法の練度においても、元側の方が優れていたのではないか?
当時の日本では禁じ手である毒矢や、新兵器のてつはうなどには苦しめられたのではないか?

史料などの結果論から言えば日本の勝利であったことは疑いようもないのでしょうが、
その勝利の内容についてはまだ疑問があるのです。上記の疑問は事実なのか。あるいは
事実として考えられる可能性があるのか否か、回答よろしくお願いします。

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315 2011/11/15(火) 17:47:33 ID:8pQlxbr.Cs
>>314
湾岸戦争の前もイラク軍は直前にイランイラク戦争経験してるから、
実戦経験ではアメリカ軍との間に大きな差があるって言われてたけどね。
元寇当時のユーラシア大陸での緩い実戦経験なんてあんまり意味無いよ。

あと、毒矢使用については確かな史料が無い。
海外ではモンゴル軍が毒矢を用いていたなんて話を一切聞かないし、
日本でも八幡愚童訓という信用度の低い文献にあるだけ。
つまりガセってこと。
それから、この時代の火器はまだ過渡期の兵器で戦局を有利にするような威力はない。
てつはうはむしろ弱者の兵器なんだよね。

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316 2011/11/17(木) 01:35:24 ID:Y0wWSk0TgA
てつはうが弱者の兵器ってことについて捕捉すると、当時は基本的に弓の方が火器よりも
実戦だと圧倒的に有効。
でも弓兵を育てるには幼いころからの訓練が必須で数を揃えるのが中々大変なんだよね。
それで中国とかが錬度の低い兵に火器を持たせて遊牧民の弓に対抗しようとしたわけ。
まあ対抗しきれなかったからモンゴルに征服されちゃったんだけど、それによってモンゴル軍内にも
火器を使うような兵が加わるようになった。
で、てつはうなんかを武器に生粋の弓騎兵である鎌倉武士と戦ったら当然ボロ負けするよな。

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317 2011/11/17(木) 11:06:35 ID:tY185ETMSA
>>314
確かに当時の日本には大規模な戦争こそなかったけど
宝治合戦、二月騒動、霜月騒動、岩戸合戦など起こっているし
現代とは比較にならないほど殺伐としていたと思うよ
土地争いとかの小競り合いは日常的にあっただろうし
武士たちに実戦経験が全く無かったわけではないと思う

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318 2011/11/18(金) 18:18:43 ID:2XooCrKC16
>>314
集団戦法だけど、武士は大将首やいい首を狙ってたでしょ
手柄の申告や文永の副将や弘安の志賀島で明らか。
集団戦法は小隊長が討ち取られたら小隊ごと中隊長なら中隊ごと機能しなくなる。
高麗史に「官軍不整」と集団戦法が機能喪失したことが書いてある。

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319 2011/11/19(土) 10:53:16 ID:IJnv7FJ/oA
>>314
日教組による嘘の歴史教育を受けてるので、島国日本は侵略を受けずに
平和に暮らした思うだろうが、これは大嘘。
何度も侵略を受けことごとく排除した。

663年白村江の戦いでの敗戦で日本は大きく変化し軍事力強化へと向かう
今まで直刀(いわゆる剣)がだんだん湾曲し日本刀の出現し始めたのは
この戦い以降だといわれている。
http://www.youtube.com/watch?v=rvyl8TvlIjk&feature=re...

800〜1000年 新羅の入寇
弘仁の韓寇  貞観の韓寇 寛平の韓寇 長徳の入寇

1013年 刀伊の入寇

1274年1281年 元寇
文永の役 日本2000〜5000人 VS 蒙古、漢、高麗軍 30000人
弘安の役 日本九州部隊(4万)中国部隊(2万5千)京都(6万)VS蒙古漢高麗(14万)
 
1419年 応永の外寇 
日本800人 VS 李氏朝鮮17885人(ほぼ総力戦か?) 

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320 2011/11/19(土) 11:40:55 ID:YsSV2UVCBc
文永の役の日本軍二千〜五千はちょっと少なくね?
防衛省だかの推定では総兵力五千〜一万くらいだった気が

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321 2011/11/19(土) 18:21:25 ID:IJnv7FJ/oA
>>320
なんかの本で5千との記憶していたがググってみると5千〜1万人が有力ですね。
後2千〜にしたのは博多の浜辺から水城まで直線で約13Km程あるので
全員が戦闘に参加していないと思ったので戦ったのは5千の内2〜3千位だろう
と思ったから。

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322 2011/11/21(月) 02:13:30 ID:LVeoqckBho
ヒャッホー!鎌倉武士最強だぜ!!!

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323 2011/11/21(月) 23:34:11 ID:riKAzF/Hh6
削除(by投稿者)

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324 2011/11/22(火) 00:22:05 ID:wcehCCR2kw
たくさんのレスをくださり、ありがとうございます。
すみません。自分の中で色々整理していたら、レスを返すのが遅くなってしまいました。


>>315
言われてみれば当時アジアで元が戦っていたのは南宋くらいでしたけど、その南宋との戦闘も
攻城戦がメインだったんですよね。大規模な騎馬戦もほとんどなかったようですし。
毒矢はネットで調べてみても、詳細どころか概要も分からなかったのですが…
…なるほど。ガセだった訳ですか。てつはうも意外と弱かったのですね。
確かに日本以外での戦争で、てつはうが劇的な戦果を上げたという話はあまり聞かないんですよね。

>>316
連射が効かない、射程距離が微妙。
てつはうも弱点というか、扱い難い点が結構ありそうですよね。
運用の仕方によっては有効的な兵器となるのでしょうけど、
野戦においては遠距離攻撃が可能な弓の方が確かに有利ですよね。

>>317
今の平和ボケしている日本とはまるで違ったとw
でも確かに鎌倉時代は大きな戦がないのに、江戸時代の平和とは
また違った印象があるんですよね。武断政治のイメージが強いというか。

>>318
なんとも圧倒的ですね…。
隊長が真っ先に狙われることは、元側だって分かっていたはずでしょうに…。

>>319
なるほど。対外的な緊張は常にあったと。
そういう話が教科書にあれば、防人の重要性とかもわかっていいんですけどねぇ。
というかその人数で勝ったのですか。防城戦ならともかく、野戦でその人数差を覆すとは…。

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325 2011/11/24(木) 14:55:11 ID:nyPro6g7gM
箱崎宮は元軍が焼き払ったの?
当時の記録では単なる火事としか扱われていないとも聞いたけど、
どの文献に載っているんだろう

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326 2012/01/05(木) 11:24:17 ID:01rBnU6UsY
>>324
後世のものなんだがフロイスの『日本史』に朝鮮に関する情報として

・彼らはトルコ人のような小弓を巧みに操り、毒を入れた小箱を使用するという。

とあるから、もしかしたら高麗の兵が使ったのかもしれない。『八幡愚童訓』以外が
出していないのは戦局に影響を与えるような効果がなかったからじゃないかな?

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327 2012/01/06(金) 21:22:29 ID:.MPoGXSWCY
馬を船に乗せ、博多湾から上陸し、大宰府を攻略する。
これって中世の軍隊でもそれほど難易度高い軍事作戦じゃないよね。
だって元寇の300年以上前に藤原純友が成功してるじゃん。
承平天慶の乱当時の大宰府だって半島の海賊に備えるため、それなりに防衛体制整ってたのに。
ちゃんと成功した前例があるのに元軍の失敗を作戦の難易度のせいにするなんておかしい。

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328 2012/01/07(土) 20:15:24 ID:9zORllGRik
多分、三国志も大したことないぜw相当盛ってるわw

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329 2012/01/08(日) 11:25:35 ID:BQCxIp0EC2
元寇も応永のも朝鮮半島からの侵略だものなあ。謝罪と賠償請求したほうがいいw

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330 2012/01/08(日) 21:12:20 ID:g.6iXfrzaY
>>329
元寇のそもそものきっかけが高麗の忠烈王の進言だもんなあw

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331 2012/01/10(火) 17:46:44 ID:ewtGZaN6FM:au
元寇と応永の外寇の共通点:大軍で押し寄せ、惨敗した。

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332 2012/03/25(日) 15:10:15 ID:O92RKoYP5s:au
>>325
日本との戦闘後に「四方を略奪して引き上げる」と向こうの史料にあったから
おそらく元側は軍議により撤退を決めてから、箱崎の辺りを燃やして引き上げたんだと思う。
夜間での撤退だから、近隣を燃やせば明かり代わりになるし。
この時武士達は水城に引き上げてたから、ただでさえ数の上で不利だからこれを追撃するのは難しい。
八幡蒙古記は箱崎八幡宮の関係者が書いたものだけど
この中で武士達が一部除いて情けなくやられたように書かれてるのは
多分この時「なんで俺らの神社燃やされてる時に来てくれなかったんだよ!」
っていう私怨がかなり入ってるんだと思うw

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333 2012/03/28(水) 19:04:24 ID:VP4P5dgq4.
>>332
「四方」じゃなくて「四境」だよ。
「四境」って国境のことで、つまり対馬壱岐。
しかも「唯四境」って対馬壱岐に限定してるわけで、元軍は九州では略奪とかしていない。

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334 2012/03/29(木) 23:58:52 ID:frzBqXvcpI:au
そうなると、益々もって八幡蒙古記の記述は宛てにならないな。
やたら詳しく書かれているから信じてしまいがちだが
日蓮が書いた宗教書と似たようなもんだと思えばいいのか?

ただ、蒙古襲来絵詞と元史と高麗伝と武士達の勘状だとどれも書かれてる事が断片的だから
元軍の上陸地点や戦闘経緯が今一つ全容が分かりづらいんだよな。
高麗伝なんて壱岐や対馬での虐殺劇はやたら詳しく書いてる癖に
九州での戦闘は殆ど書かずに例の軍議のシーンだ。

取り敢えず、元軍が初戦で橋頭堡を築くのを断念した程消耗したのは確実だろう。
もし、仮に高麗伝や八幡蒙古記に書かれてるように
元軍が武士を一方的に敗走させたんなら水城や太宰府まで追撃しているはず。
やはり実際は元軍は戦闘終了の時点で作戦続行不可能な程被害を出したのか
或いは蒙古襲来絵詞や福田文書にあるように武士達との戦闘で敗れて撃退されたのだろう。

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335 2012/03/31(土) 06:39:46 ID:x8NmMH9ZU.
筥崎宮に放火した疑いが一番濃厚なのって筥崎宮関係者だよ。
中世史では為政者と揉めた神社仏閣が関係者の放火で焼失ってかなり頻発してるんよ。
燃やしても再建義務があるのは為政者の方だし、宗教関係者からすれば神様仏様を
人質にとってるようなもん。
筥崎宮も当時土地の領有を巡って係争中で、何度も火災焼失をくり返していた。

そもそも八幡蒙古記よく読めば、筥崎宮って元軍の放火の被害者とは書かれてないし。
自ら出火してその炎で元軍を撃退した勝利の最大功労者として記述されてる。
「文永の役で勝てたのは筥崎宮が燃えたおかげなんだから、お前らもっと御布施しろよ」
って主張してる文献が八幡蒙古記。

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336 2012/03/31(土) 10:33:45 ID:ej.lMlAT6s:au
八幡蒙古記の中で武士達が一方的にやられてるように書きながらも
少弐や菊池など一部は善戦してるように書いたのは
あんまし全部が全部、自分達八幡宮のおかげとするには
流石に後ろめたさがあったから、せめてもの良心のつもりなのかな?w

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337 2012/04/03(火) 09:30:49 ID:urZ6n.WjIM
寺社関係者の恩賞クレクレが凄かったようだしな。

関幸彦『神風の武士像』(吉川弘文館)
・真夜中に箱崎宮から八幡大菩薩の使である白装束の者三千人が突如立ち現れ、おびただしい
矢を蒙古軍に放ったという。その光景は「身ノ毛モ竪テ怖シク」なるほどで、「波ノ中ヨリ猛火」が
あって、これがために蒙古軍は肝を潰し敗走したという(『八幡愚童訓』)。まさしく「神軍ノ威勢」だった。
 同様の報告は各地から届けられた。紀伊国高野山金剛峯寺の鎮守丹生明神の場合もそうだった。
弘安合戦に際し、日本国の神々も蒙古に発向することになった。天野明神(丹生明神)は第一陣として
四月二十八日丑刻(午前二時)と決し、それにむけて不動火界呪を修して神の威光を増すべし、
そうすれば、六・七月中には本朝安全なるべし、との霊托の旨が報ぜられた(『紀伊興山寺文書』
正応六年三月二十八日「太政官牒」)。

・この異国との戦争で神慮なり神威なりが、いやがうえにも高められた。日本国中の神仏を総動員しての
異国撃退の祈願、それはあたかも武士達の警護番役に対応するかのようであった。春日・住吉・日吉・
祇園の各社が、各月を分担し異国降伏の祈祷をした。
 神や仏も動員され、加持祈祷という世界で戦った。当然ながら、諸国でのこうした神々の
軍忠状に対し、武士と同様に恩賞の要求も激しかった。

・肥前国武雄社の場合もそうであった。(中略)文永合戦のときには神殿から発せられた鏑矢が賊船を射ぬき、
これがために敵は撤退したこと、弘安合戦では紫の幟が異国の船の方向に飛び去り、大風を起こしたこと、
などが述べられていた。こうした神の軍忠にもかかわらず行賞に漏れたことは、堪え難しとするものであった。

・異国合戦での神々の参陣は神の戦争を演出することで、神威を高めることにつながった。
 すでにふれた弘安七年(一二八四)の神領興行令を含め、以後の三度にわたる神領の復興運動は、神の戦争と
その軍忠に対しての当然の恩賞だった。

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338 2012/04/04(水) 02:35:16 ID:JTXpiL41i6:au
文永の役は撤退中に台風が来たわけだがそもそも元軍が優勢だったら
わざわざ台風が近づいてる夜なんかに撤退なんて真似はしないでしょw
元軍にはこのままでは間違い無く殲滅されるという焦りがあったんじゃないの?

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339 2012/04/09(月) 13:21:55 ID:5ptOQQJtNA
元軍の副将は重傷を負い、その日の内に撤退。
一方の日本軍は大した損害もなく博多や大宰府も無事。
これを苦戦だと言い張り続ける意味が分からない。
素直に「武士が強かったから文永の役は圧勝でした」って歴史の教科書に書けばいいのに。

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340 2012/04/09(月) 21:46:16 ID:Q6ldgrMarU
武士が
船に乗り込んで
逃げ惑う船員乗員たちを切りつけて
パニック状態だったとpか 
かいてなかった_?

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341 2012/04/10(火) 22:44:22 ID:w1SsjZccnk:au
それは二回目の弘安の役。

一回目は上陸して戦闘するんだが
数で圧倒的に劣る武士団に対して、緒戦で侵攻継続不可能な
レベルにまで消耗してる時点で元の負けだよ。
アホな歴史学者どもは屁理屈こねて武士の負けにしたいようだが。

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342 2012/04/13(金) 13:36:02 ID:5VkZ9fijhg
アホな歴史学者どもは言ってることが適当過ぎる。

開戦前⇒「元の目的は南宋。日本侵攻は南宋を孤立化させるための側面作戦に過ぎない」
文永の役で元が負けると⇒「文永の役は威力偵察。弘安の役が本番」
弘安の役でも元が負けると⇒「弘安の役は旧南宋兵の棄民。挙句に旧南宋兵は弱兵で
              武器の代わりに農器具を持っていた」

これ、言ってることが全部矛盾してるじゃん。
だって弘安の役は南宋滅亡後に行われてるわけで、南宋侵攻と同時に行われた文永の役が
弘安の役のための偵察だとしたら、元の目的は南宋孤立化なんかじゃなくて日本征服
そのものにあったってことでしょ。
それに弘安の役の目的が旧南宋兵の棄民だったら、わざわざその前に偵察する必要無いし。
そもそも旧南宋兵はほっとくと危険だから棄民するって話なのに、武器を持たず農機具
持った弱兵なんて言い出したら、棄民の必要性無くなっちゃうじゃん。
さらに凄いのは、こうした説に史料の裏付けが皆無なこと。
結局、日本の勝利を認めたくない一心で口から出任せを書き連ねただけなんだよね。

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343 2012/07/05(木) 18:55:37 ID:gbJSmfmsBM:au
そもそも八幡蒙古記の記述って竹崎季長の記述と矛盾しまくりだからな。

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344 2015/12/20(日) 14:18:19 ID:kGh6z8yK.g
おもしろい
良スレ

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345 2017/07/19(水) 23:56:11 ID:ZruFec2AXE
あーげときますかー

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346 2017/09/22(金) 12:31:15 ID:bR/EYieutI
新史料がいくつか見つかったお陰で、文永の役についての謎は解けた。

1274年10月20日、博多湾の早良郡から上陸したモンゴル軍は2手に分かれ、洪茶丘と金方慶が今津方面へ、忽敦と劉復亨が博多方面へ侵攻。
で、博多を目指してたモンゴル軍主力部隊は百道原付近で日本軍と交戦して完敗。
劉復亨は少弐景資に射られて重傷を負い、忽敦は「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん」と言って今津へ逃げ込む。
日本軍は勝ちに乗じて今津のモンゴル軍を攻め立てたが、日が暮れたので兵を引いた。
残されたモンゴル軍は軍議を行ったが、忽敦が「兵法に、「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。疲乏の兵を策して、日ごと滋すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と撤退を決断。
その夜、悪天候の中行われた撤退作業により戦艦の多くが岩に触れて座礁。
翌21日午前6時頃にモンゴル軍は博多湾から撤退したが、その後には所々に100余艘の漂着船が残されていた。

まさに日本軍の圧勝。
苦戦と呼べる要素などどこにもない。

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347 2017/11/01(水) 00:02:23 ID:yb4JI3.PK2
>>342
まあ戦術的な威力偵察ってのはよくあることだけど
戦略的な威力偵察なんて歴史上どこにも無いわけで

反日学者の言う「文永の役全部が偵察だー」とか軍事音痴丸出しなんだよね

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348 2019/12/08(日) 09:02:19 ID:jJygETun6Y
日本がいなかったらモンゴル軍は東南アジアも征圧してた。

鄭思肖『心史,雑文,大義略叙』
「辛巳六月, 韃兵由明州渉海,至倭口,遭大風雨作,人与船倶陥,叉大敗而回。 倭遣使責占城不戦而附韃 。占城有悟意,始背元韃。」
(1281年6月、モンゴル兵は明州から渡海したが、日本の入り口で大雨に遭って人も船も沈み、またしても大敗した。
日本はチャンパに使者を遣わして戦わずにモンゴルの属国でいることを責めた。チャンパはモンゴルに背く決意をした。)

ベトナムは日本に感謝にないといけないね。

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349 2021/07/10(土) 20:25:48 ID:yh/Ipxzpko
元寇にモンゴル兵はほとんどいなかったとか大嘘だった。
『元史』によれば元寇に参加したモンゴル兵は40万人。

『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本」

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350 2023/01/06(金) 01:07:45 ID:DA2ylb3.fc
今までの元寇研究が根本的に間違っていたのは、渡海侵攻では制海権の確保が死活問題だから、
元軍には陸戦部隊の他に「船師」「水軍」などと呼ばれる海戦部隊がいたことを理解してなかったこと。
よく考えないで、史料の「船師」「水軍」の数字が実数でその他の数字は誇張されたものなんて理解で
済ませてきた。
当然、海戦部隊は朝鮮人や中国人がほとんどになる。
でもその他に陸戦部隊としてモンゴル人部隊が存在したことを無視してきたんだ。

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351 2023/01/06(金) 10:29:18 ID:YHFonP7P66
具体的に言うと、文永の役の兵数について『元史』には、副官として従軍した劉復亨と洪俊奇の伝に、
それぞれ別々の数が書いてある。

巻一百五十二 列傳第三十九 劉通・附劉復亨
「遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本」

巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇
「與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本」

この場合、「軍四萬」が遠征軍の総数で「舟師二萬」がその内の海戦部隊の兵数だ。
ところが今までの研究者たちは「舟師二萬」を遠征軍の総数だと誤解し、「軍四萬」は誇張された数字だと
スルーしてきたんだ。
「舟師二萬」は海戦部隊だから、当然ほとんど朝鮮人になる。
それで元寇は朝鮮人が主力で、モンゴル兵はほとんどいなかったなんて間違った説明をしてきた。
残り2万人の陸戦部隊、本来こっちが主力でほとんどがモンゴル兵の方は無視されていたの。

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352 2024/01/15(月) 05:49:38 ID:tCDJ7zgs6Y
「舟師」とは海戦部隊、これを念頭に置くと弘安の役の実態は定説と全く違うものになる。
文永の役では遠征軍4万人の内半数が「舟師」だったが、弘安の役の東路軍は全軍が「舟師」だった。

『元史」巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇
「十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進」

一方、中国から出航した江南軍も「舟師」だった。

『元史」巻一百六十五 列傳第五十二 張禧
「時朝廷議征日本,禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞范文虎、左丞李庭同率舟師,泛海東征」

江南軍が海戦部隊であったことは、指揮官の范文虎が砲兵や騎兵の配備を要請した際、クビライから海戦に必要ないとの理由で却下されたことでも裏付けられる。
しかし、東路軍も江南軍も海戦部隊では、日本を征服することはできない。
東路軍と江南軍の他に陸戦部隊が存在しないと、作戦として成立しないんだよ。
で、史料の中には日本征服のための陸戦部隊がちゃんと存在する。

『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本,行次慶元,卒于軍中。」

この蒙古軍40万騎こそが弘安の役の真の主力部隊。
阿剌罕は弘安の役の総司令官だから、その指揮下に主力部隊があるのは当たり前。
この蒙古軍40万騎は弘安の役で壊滅しちゃったけど、それが無かったらマジでモンゴル帝国が全世界を征服していたかもね。

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スレッドタイトル:元寇は鎌倉武士の実力勝ち

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