元寇は鎌倉武士の実力勝ち


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001 2010/03/09(火) 10:22:30 ID:FBqpTU/2Fc
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ

八幡ノ蒙古記

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※省略されてます すべて表示...
101 2010/04/18(日) 12:22:05 ID:wkGsR0JlCU
こいつらの思考回路はこんな感じだろ?

必ずしも武士が一方的にやられていたわけではない

↓これを飛躍させ美化

武士が実力で元軍を撃退した

神風が無くても撃退できた

神風があったのは疑わしい

だから武士が実力で元軍を撃退した。

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102 2010/04/18(日) 12:25:28 ID:AgEh0FoPRs
>ID:wkGsR0JlCU
弘安の役と文永の役すら区別がつかない人は
黙ってた方がいいよ

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103 2010/04/18(日) 12:59:44 ID:wkGsR0JlCU
>>102
お前の思考回路はこっちか?

必ずしも武士が一方的にやられていたわけではない


神風に一切触れずに武士のすごさだけを抜き出している箇所の大量のコピペが存在する

やっぱり神風は無かったし武士が実力で元軍を撃退した


日本すげー

オレ日本人

おれすげー

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104 2010/04/18(日) 13:51:25 ID:AgEh0FoPRs
ん?
つまり一応弘安の役でのことを言ってると解釈していいのかな?

神風なる「普通の台風」が来たことを一切触れないコピペなるものはどれのことだろう?

五月下旬に現れた元軍は
ことごとく武士に敗北し二か月以上海上を逃げ回った末、台風にあってるわけですな。
まあそれを神風とするのは別にかまわんとおもうよ

元軍は弾が出るまでロシアンルーレット強要されてたようなもんだね
涙目で震えながら引き金引いたら割と早い段階で弾が出ちゃったわけだ。

弾が出るのがもっと遅くなるかもしれなかったわけだから
早めに出たってことでまあ神風でもいいんじゃないのw

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105 2010/04/18(日) 13:55:55 ID:AgEh0FoPRs
>必ずしも武士が一方的にやられていたわけではない

どっちかっていうと一方的にやられていたのは元軍なので
擁護するなら
「必ずしも元軍が一方的にやられていたわけではない」にした方がいいんじゃないの?
対馬、壱岐では元軍も少数の武士相手に充分「奮戦」したようだしw

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106 2010/04/18(日) 23:02:13 ID:XKEAlxJkDo
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107 2010/04/19(月) 01:10:06 ID:x4no2jUtkY
>>105
戦闘での犠牲者数と台風の犠牲者数を混同してるだけだろ。

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108 2010/04/19(月) 04:06:20 ID:iA5Z5tiI76
犠牲者数だけで勝敗がきまるなら
ノモンハンは日本の勝ちになっちゃうなw
まーそれはおいといて

文永の役…武士の追い返され、夜逃げ同然に日本から逃げ出したのは元軍
弘安の役…何カ月も海上を逃げ回ったが、武士を振りきれず困っていたところへ台風。
部下を見殺しにしてごく一部の東路軍のみ日本からの脱出に成功。

ちなみに見殺しにされた江南軍は嵐の後も普通に平戸島など周辺の島々に取り残されて生きてました。
船が無くて逃げられなかっただけですね。
その後、日本軍に掃討されてしまったわけなので意外と台風以外の犠牲者数も多いんですよねー。

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109 2010/04/19(月) 08:46:51 ID:x9mGgT8c/s
弘安の役における元軍の戦闘犠牲者は10余万人で、台風の犠牲者を遥かに上回る。

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110 2010/04/20(火) 03:07:46 ID:vS0vkrLNeg
認めちゃえよw
日本にはまったく手も足も出ず勝てまへんでしたってw

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111 2010/04/20(火) 04:22:00 ID:wJiRLS3MJA
>>110
負けてたら、今頃はお前らと同じ支那の属国で、対馬は日本じゃないだろ。アホか。

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112 2010/04/20(火) 08:51:12 ID:idXQmuUWQI
>>>111
落ち着いて!110さんは味方よ!

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113 2010/04/20(火) 12:21:22 ID:idXQmuUWQI
■宋人から見た弘安の役
鄭思肖 鉄函心史
六月なかば、元の7000隻の軍船が日本(の博多湾)を襲った。
だが、追い返されて七月半ばに平戸島へ接岸、土砦を作って武士の迫撃に備える。
7月30日、暴風雨が来る。
船は大波にやられて沈没、上陸していなかった兵は海に沈んでしまった。
残った船は400隻余り。
十二万人ほどは平戸島にいたので助かったが、逃げ帰る船は無く、進軍してきた日本の武士達によってことごとく殺された

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114 2010/04/20(火) 12:29:14 ID:idXQmuUWQI
■モンゴル人から見た弘安の役
元史日本伝
七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために虜去せらる。
九日、八角島に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、
新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。
・・・十万の衆、還るを得たる者三人のみ

現代語訳
『(台風が去った後)七日、日本人と交戦、ことごとくやられ、二、三万人は捕まってしまった。
九日、(元軍最後の砦である)八角島(平戸島)にまで日本軍が侵攻、
蒙古高麗漢人は全て殺され、唐人は日本と国交があったので助命された。
結局10万人を越えるわが軍の内、帰還できたのは三人(日本軍が送り返してやった奴らね)だけだった』

結論としては敗北した当事者達は台風に関係なく実力で負けたことを認識していた様子だね

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115 2010/04/21(水) 02:03:36 ID:3msMl8kYlM
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.htm...
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.htm...
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.htm...
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.htm...
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。

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116 2010/04/22(木) 01:09:58 ID:wFvYtOucFI
神風というのは季節的にどうなのかな。
とにかく元軍は夜になるといちいち船に戻ったらしいから橋頭堡すら築けていない。
鎌倉武士は善戦していたと思うよ。

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117 2010/04/22(木) 02:04:58 ID:lhLeGqptXs
>>116
「元軍は夜になるといちいち船に戻った」なんて馬鹿なことが本当にあるわけない。
元軍は日本から撤退するために船に戻り、そのまま逃げ帰ったんだよ。
そのことは、ちゃんと元軍側の史料に明記してあるの。

『忽敦、曰く「兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり」と。疲乏の兵を策して、
日ごとに滋すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。
〔劉〕復亨、流矢に中(あた)る。先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。』
【高麗史】

鎌倉武士は善戦していたとかじゃなく、普通に勝ってるの。
でも自虐史観に憑かれた戦後の学者連中は、日本が勝ったということを認めたく無いから、
史料を無視して「撤退」を「一旦船に戻った」に置き換える逆大本営発表をやってるわけ。
狂ってるんだよ。

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118 2010/04/22(木) 03:21:31 ID:hnNJ6KOiVQ
削除(by投稿者)

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119 2010/04/22(木) 04:47:17 ID:FLrJXKSxvU
「文永の役」「弘安の役」どちらも「博多湾上陸の試行」は一回だけといってもよさげだよ
文永は上陸そのものは成功、というか武士は阻止してない
初めから福岡平野で迎え撃つつもりだったから

弘安の役では本土上陸すらできてない
志賀島以外はね

したがって「いちいち船に戻る」というのはありえない
ただ、116も単に言葉のあやで言っただけで深い意味はないと思うけど

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120 2010/04/22(木) 11:44:29 ID:znVaiWwnpA
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121 2010/04/22(木) 12:07:46 ID:sxwGK0K7EU
やっぱり九州のサムライは強いのう。

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122 2010/04/22(木) 13:32:12 ID:FLrJXKSxvU
弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」
史実では、文永の役において対馬で玉砕した宗助国の軍勢の中に
肥前(佐賀・長崎県)や阿波(徳島県)の御家人がいたことが記録されている。
本土からの増援兵力が僅かながらも差し向けられていた訳である。

また弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」が島民と共に粘り強く戦っている。
出身地も広範囲で、
陸奥・出羽(東北地方)、
上野(群馬県)、
下野(栃木県)、
信濃(長野県)、
三河・尾張(愛知県)、
遠江(静岡県)、
近江(滋賀県)、
丹波(京都府)、
備前(岡山県)、
筑前(福岡県)、
日向(宮崎県)、
肥前(佐賀・長崎県)、
豊後(大分県)
と、日本全土に及んでいる(『対馬島誌』)。

http://homepage3.nifty.com/rokuen/China12-3.ht...

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123 2010/04/23(金) 16:02:48 ID:VY7aWAki52
[YouTubeで再生]
>>113>>114の内容とよく似てるな

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124 2010/04/24(土) 19:26:23 ID:xwUh1DSzQs

「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本至壱岐、戦敗、軍不還者萬三千五百餘人」
高麗史表

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125 2010/04/25(日) 14:01:57 ID:U8gdv7wlLI
帝王編年記 「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」


『大宰府より飛脚が到着した。先月二十日の蒙古軍と武士との戦いの報告書が届く。
逃げ遅れた元の船を一隻捕まえたそうだ。残りの蒙古軍は追い払ったそうだ』

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126 2010/04/26(月) 10:54:51 ID:rAHFwA2Mdo
圧勝に近いな

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127 2010/04/26(月) 20:53:37 ID:/hK/aU95A2
もうサヨも在日もこなくなったなwやっと負けを認めたんだなw

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128 2010/04/28(水) 20:44:05 ID:.MT8CnXaFU
歴史は負けとか勝ちとかでくくるものではない。
重要なのは正確か不正確かだけだ

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129 2010/04/29(木) 14:37:02 ID:.9.rA72.KE
高麗の敗北は確かだな

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130 2010/05/02(日) 02:03:58 ID:2ycAQ2rJaM
[YouTubeで再生]
02:00
いまだにこんな扱いかよ┐(´ー`)┌

文永の役は季節風関係ないし
弘安の役もあってもなくてもさほどかわらんというのに

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131 2010/05/03(月) 12:59:37 ID:NOgEgQOem2
■元寇・サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:元寇を防げたのは二度とも偶然ふいた神風のおかげでしょ?
Answer:いいえ。ちがいます。
まず文永の役。
高麗史によれば風雨によって被害を受けたという記載があるのは日本でボロ負けした後、逃げ出した後のこととなっています。
一方、日本側の「当事者たちの」記録には風雨に関して全く記載がありません。
つまり高麗史を信用するなら、風雨は日本からかなり離れた後のことでしょう。
また。一説には日本との戦いでの損害をごまかすため風雨を言い訳にした、という見方もできるそうです。

次に弘安の役。
まず、元軍はそれ以前の5月から日本と交戦していた点を忘れてはいけません。
元軍は日本軍に追い落とされ、海上を数ヶ月間逃げ回っていたところに台風が来たわけです。
そもそもそんな長い間上陸を阻止し続け、海上を追い回した、日本軍の防衛能力の高さも評価されるべきでしょう。
さらに言えば元軍の大半は嵐の後も生き残っていました。
一部の元軍は残存する船とともに逃げのびましたが、10万近い兵が鷹島、平戸などに取り残されておりました。
これらの残党は日本軍との交戦によって滅ぼされています。
結論から言えば、台風はあってもなくても元軍敗北の事実は変わらなかったことになります。

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132 2010/05/08(土) 13:04:42 ID:HHigVoVKD.
自虐史観の代表例だよね

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133 2010/05/08(土) 17:53:01 ID:u46FUUAam6
自虐史観というか皇国史観というか

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134 2010/05/08(土) 20:44:23 ID:7CPJb.H0No
自虐史観と皇国史観が一致した稀有な例だよな
目的は正反対ではあるけど

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135 2010/05/09(日) 14:31:44 ID:0g4pxRQojo
>>128
日教組にもいってやってくらさい

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136 2010/05/11(火) 12:23:03 ID:7Ch4yiIi.Y
〔菊池系圖〕別本 有隆赤星三郎
人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、

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137 2010/05/12(水) 01:57:08 ID:dbHhKJyqF.
歴史の先生から朝鮮が手抜きして作った船を
供給したから台風でことごとく沈没したってきいたけど。
もっとも朝鮮は嫌々やってただけで、
日本を助けるつもりはなかったらしい。

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138 2010/05/12(水) 05:19:52 ID:k1f2iVopxg
嘘が多すぎ

1.台風の被害で沈んだ船の大半は江南軍…つまり朝鮮の船はさほど沈んでない
2.朝鮮はやる気十分。そもそも日本侵略の言いだしっぺが朝鮮

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139 2010/05/12(水) 09:51:46 ID:ul/0cunb5g
削除(by投稿者)

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140 2010/05/12(水) 15:59:01 ID:opfw93o2co
削除(by投稿者)

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141 2010/05/12(水) 16:14:24 ID:opfw93o2co
[YouTubeで再生]
NHK教育の韓国人ディレクターの番組、日本と朝鮮半島2000年とやらでも
高麗マンセーかつ反日自虐な感じで番組が作られてたらしいけど。

北条時宗でも酷かったけど
毎回毎回、犬HKの薄ら寒い
歴史捏造反戦サヨ反日自虐思想には虫唾が走るなんてもんじゃない

そんなの日本の歴史に対する冒涜であり
過去の日本人や武士に対する冒涜だよ


まっ奴らが内部に入り込んで番組作ってる以上確信犯的にやってるんだろうがな。

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142 2010/05/13(木) 01:23:05 ID:JTg7hPpwWo
「惟んみるにかの日本、未だに聖化を蒙らず。
故に詔を発して軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須いる所あらん。
もし此事を以て臣に委ねなば王師を小助せん」

こんなこと言ってるぐらいで
朝鮮はノリノリですよ

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143 2010/05/16(日) 04:12:32 ID:xIB7dW0rx2
忠烈王が日本侵略を進言した

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144 2010/05/26(水) 02:38:22 ID:YtjdbgnUjY
5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 潰走する元軍を島津長久軍+松浦党らが迫撃
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北

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145 2010/05/26(水) 16:49:48 ID:50Ei2yDpcw
源平の合戦でも南北朝の戦いでも馬って普通に船で海を輸送されてるんだよな。
韓国の済州島は馬の産地として有名だけど、この島に牧場作ったのはモンゴルなんだぜ。
当時、馬は日常的に船で海を輸送されてたってことじゃん。
蒙古襲来絵詞にもモンゴル騎兵が描かれてるし。
「元寇は渡洋作戦だからモンゴル軍は騎馬部隊を使えなかった」なんてデマを、
誰も疑問視しなかったのは不思議。。。

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146 2010/05/27(木) 03:41:40 ID:A6n23dNi3E
渡洋作戦だからモンゴル軍は騎馬部隊を使えなかった X

水際で武士に上陸阻止されたんで騎馬部隊を使えなかった ○
あるいは
当時の元は混成部隊で戦うのが普通なのでイメージよりは騎馬の比率が低かった ○
(船に馬を積めるかどうかとは無関係)

なんだよね

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147 2010/05/27(木) 19:47:48 ID:J7pxZcyGPw
148 2010/05/28(金) 14:10:37 ID:S4AXoRYqDw
騎馬に関しては
5人乗りの車に1人しか乗らなかったら
「この車は一人乗りだ」
といわれるようなもんだな

船に乗らないから騎馬が少なかったわけではなく
むしろ元(大元)=騎馬部隊という方が幻想
創生期の小規模な遊牧民族時代じゃないんだから。

当時の元軍としては必要十分なだけの騎馬は積んでた。
その上で歩兵も多かったというだけ。

その混成軍で各国を撃破してきてるんだから
騎馬部隊が多かろうと少なかろうと日本に負けた言い訳にはならないんだよね。

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149 2010/05/31(月) 16:08:18 ID:S4w8pP3f1U
『日本外史』 頼山陽・著
文永十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。
地頭宗助国、これに死す。転じて壱岐に至る。
守護代平景隆、これに死す。事六波羅に報ず。
鎮西の諸将をして、赴き拒がしむ。
少弐景資力戦し、射て虜の将劉復亨を殪す。虜兵乱れ奔る。

弘安四年七月、水城に抵る。
舳艫相ひ銜む。
実政の将草野七郎、潜に兵艦二艘を以て、志賀島に邀へ撃つ。
虜の二十余級を斬首す。虜、大艦を列ね、鉄鎖にてこれを聯ね、弩をその上にはる。
我が兵近づくを得ず。河野道有奮つて前む。
矢、その左の肘に中る。
道有益々前み、帆柱を倒し虜艦に架して、これに登り、虜の将の王冠せる者を擒にす。
安達次郎・大友蔵人、踵ぎ進む。
虜、終に岸に上る能はず。
収めて鷹島に拠る。
時宗、宇都宮貞綱を遣して、兵に将として実政を援けしむ。
未だ到らず。
閏月、大風雷あり、虜艦敗壊す。
少弐景資ら、因つて奮撃し、虜兵を鏖にす。

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150 2010/06/01(火) 02:33:20 ID:L0ES65s93o
ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、
おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、
勝負をけつし、家のこ、らうとう等、多くうたれにけり、いかしたりけん、
菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、
頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ
八幡ノ蒙古記

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151 2010/06/02(水) 08:59:45 ID:3HWDCJnA4g
義経の時代にすでに集団戦いっぱいやってるのに
元寇だけ急に一騎打ちとか言い出すのって
矛盾してるよね

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152 2010/06/02(水) 16:22:34 ID:74aa7uKS/I
>>151
本来なら、モンゴル軍自身が「官軍整わず」を文永の役敗退の最大要因に挙げてるんだから、
集団戦法においてモンゴル軍が鎌倉武士より優っていたと考える理由なんて無いんだよ。
当時のユーラシア大陸は、組織戦術の進歩が日本より遅れていたってこと。

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153 2010/06/03(木) 18:41:54 ID:GdnXuWVzho
ジンギスカンは義経でし!

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154 2010/06/04(金) 02:34:22 ID:GXMXKrSKuE
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.htm...
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.htm...
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.htm...
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.htm...
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
恩賞貰うために作ったなどというウソを信じ込まされている人もいるかもしれんが、
 この絵詞が作られた時にはとっくに恩賞は貰い終わっている。

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155 2010/06/06(日) 04:18:13 ID:EuxfO/a3Ps
>>152
たしかに

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156 2010/06/07(月) 14:34:45 ID:.lDp3ofzDY
鄭思肖 鉄函心史
『六月なかば、元の7000隻の軍船が日本を襲った。
だが、追い返されて七月半ばに平戸島へ接岸、土砦を作って武士の迫撃に備える。
7月30日、暴風雨が来る。
船は大波にやられて沈没、上陸していなかった兵は海に沈んでしまった。
残った船は400隻余り。
十二万人ほどは平戸島にいたので助かったが、逃げ帰る船は無く、進軍してきた日本の武士達によってことごとく殺された』

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157 2010/06/09(水) 16:13:07 ID:iC6DziOFJ2
>>141
北条時宗大河は最悪だったな

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158 2010/06/10(木) 15:40:37 ID:6CoPm.ypig
高麗史金方慶伝
忽敦曰く
兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり
疲乏の兵を策して
日ごとに滋すの衆に敵するは
完計に非ざるなり
軍を回すに若かず
劉復享、流矢に中る
先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。

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159 2010/06/11(金) 08:21:35 ID:IUS8Vvy4I.
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢」 金剛仏子叡尊感身学正記
『十月五日、蒙古人が対馬を襲う、二十日、博多を襲う、しかし即座に追い払う』

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160 2010/06/17(木) 10:20:13 ID:nVqeyGfVDk
自虐史観もたいがいにというところだね

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161 2010/06/20(日) 12:03:08 ID:dj5iPvKJEk
橋頭保も確保できず戦略目標の大宰府どころか
水城が見えるところまですら到達できず
福岡平野沿岸部をうろうろしただけ
先駆けレベルの武士団だけで返り討ち
弘安に至っては上陸すらままならず数カ月も海上を逃げ回った蒙古・高麗軍

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162 2010/06/21(月) 09:23:59 ID:3GxkOZ.sPc
情報格差?

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163 2010/06/25(金) 15:35:45 ID:UGUxr4wsJE
164 2010/06/26(土) 15:58:34 ID:uKu6cbqwZw
凶悪な連中によく勝てたもんだ

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165 2010/06/27(日) 02:09:51 ID:Giw1n4PqL.
重装甲の長弓騎射を中心とした武士の伝統的な戦い方がうまく機能したね

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166 2010/06/29(火) 00:45:45 ID:Cv23S9pCdY
騎射が流鏑馬ぐらいしか残ってないのが残念

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167 2010/07/02(金) 10:17:49 ID:lm//sOFDmI
筑波大学大学院教授・古田博司 国家の正統性確立に苦しむ韓国
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/091229/kor09122902...
 さて、日韓両政府の支援により2007(平成19)年に始まった「第2期日韓歴史共同研究委員会」がこのほど終了した。
筆者は今期から設けられた教科書小グループのチーフだったが、実に虚(むな)しい2年間を過ごした。
論争好きな彼らに引きずられテーマ設定に1年間を要し、いざ共同研究が始まると、韓国の委員は4、5冊、多くて10冊の教科書資料しか読んでこなかった。
「日本帝国主義」「右翼教科書」などという用語を使い、政争の観点しか持たない彼らを諄々(じゅんじゅん)と諭す以外にはなかったのである。
さらに韓国側が名指しで人身攻撃を行っても、日本側委員長はわれわれ委員を守ることがなかった。私は「恨」を感じた。(ふるた ひろし)

韓国側委員の態度は朝鮮出兵部会でも同様だが、問題は日本側委員の北島などは、政争の観点しか持たない彼らを諭すどころか、自身を良心的研究者と自称し、一緒になって政治的非難を行っていることだ。
一例を挙げると、朝鮮出兵の部会であるにも係わらず、韓国側委員は議題でない筈の神功皇后や任那日本府の否定論を長々と唱えるが、北島らは全く諭そうともせず同調するような言動を行っている。

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168 2010/07/02(金) 18:50:58 ID:26SMAwUoBI
「文永の役威力偵察説」を唱える連中って、根拠として侵攻に先んじて威力偵察を行うのは
モンゴル軍の常套手段だって言うじゃん。
でも、現実のモンゴル軍は、数年かけて準備した数万人規模の威力偵察を行い、
その数年後に改めて侵攻し直すなんてアホみたいに非効率的な作戦を、常套手段どころか
一度もやったことないわけ。
じゃあ、「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは一体何かっていうと、
モンゴル軍の部隊編成では本隊のおよそ70マイル(約113キロ)先んじて威力偵察部隊が侵攻。
この威力偵察部隊が敵と接触すると、相手が弱ければそのまま撃破し、強ければ偽装退却して
本隊の所まで敵を誘導し、包囲殲滅するってのを常套手段としてたわけ。
要するに「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは戦術レベルの話なの。
日本史研究者って呆れるほど軍事オンチの連中だから、戦術レベルの話である威力偵察を、
文永の役みたいな作戦レベルの話とゴッチャにしてるんだよ。

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169 2010/07/03(土) 02:16:11 ID:h4wFyP0QlQ
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ


圧倒的すぎる…
組打術で海へ投げ飛ばし引き上げてはとどめを刺し
首を取っては投げ捨てる

元軍にとっては地獄絵図ですね…

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170 2010/07/05(月) 13:11:33 ID:n7I.ZFzg6Q
ちょっと気になったんだけど、幕府の軍隊の補給ってどうなってたの?

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171 2010/07/06(火) 01:55:08 ID:fZVM.m2xuQ
「元寇」を教えない対馬と九州の教育
http://tafu.iza.ne.jp/blog/entry/744565...

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172 2010/07/08(木) 12:17:11 ID:YOI17ZaBV.
その時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、
八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、
究竟の馬廻に、弓の上手ありしかは、
それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、
かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、
一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、 おちたりけれ

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173 2010/07/10(土) 19:42:58 ID:wIBSu3rqqA
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』
白鳥倉吉【国史】

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174 2010/07/15(木) 01:18:33 ID:YP1x3EVpLs
>>170
幕府は有事になると、「一国平均役」といって普段は権限の及ばない荘園や公領からも、
一律に兵糧米を調達できるようになる。
実際、元寇の際に兵糧米が全国で徴発されていた記録も残ってるし。
幕府は元寇に備えて10年以上前から補給体制の整備に着手してたし、万全の状態だったよ。

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175 2010/07/15(木) 23:13:53 ID:7qX4W2RBX6
>>168
そういうトリック好きだよね連中

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176 2010/07/19(月) 17:18:28 ID:qSR.pMiC4I
ごく少数だけど、まともな日本史研究者もいるんだよね。

『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法 中村学園大学・佐藤鉄太郎

「蒙古襲来は日本歴史上の大事件であったために後世色々な話が作られて誤り伝えられてきた。
例えば文永の役に於いて蒙古軍の集団戦法に対して日本の武士達は一騎打ちの戦法で戦った、
博多は蒙古軍によって焼き打ちにされた等である。しかし、日本の武士達は一騎打ちの戦法で
蒙古軍と戦ったことはなく、絵五に描かれているように騎馬隊を中心とした集団で突撃する戦法を
とっていたのである。また、文永の役に於いて蒙古軍と日本の武士達が正面から衝突した戦いは、
赤坂と鳥飼潟の塩屋で行われた合戦である。これらの戦いに敗北した蒙古軍は博多を攻略する
ことに失敗し、撤退してしまった。文永の役に於いて鳥飼潟の戦いは日本の武士達が総力をあげた
戦いであり、日本の武士達が勝利した戦いであったのである。」

問題は、こういうまともな研究者がきちんと史料に基づいた研究成果を発表しても、その他大勢の
頭のおかしな日本史研究者たちによって黙殺されてしまうこと・・・

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177 2010/07/19(月) 18:11:21 ID:zSYb6xvlto
これなんか見てもそうだけど
歴史を単なる政治の道具にしか考えてないとこがあるよね

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178 2010/07/22(木) 08:39:04 ID:WskQWpM3CA
>>176
こういう人がもっと増えないとね

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179 2010/07/23(金) 05:24:07 ID:Ez5oSQuA1Y
このスレの上のほうにもいたけど
文永の役にも神風吹いたと思ってるおバカさんがいる位だからなぁ

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180 2010/07/27(火) 23:20:41 ID:Rgi7bxPARA
「文永の役威力偵察説」と並ぶインチキ学説に、「元寇は対南宋戦の側面作戦説」がある。
要するに、クビライは日本なんかどうでもよかったが、南宋を孤立化させるために攻めて来ただけって説ね。
勿論、史料的根拠なんて一切無し。
それどころか、クビライ自身が「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ」と明言してることも完全無視。
南宋を孤立化させるためにしては文永の役のタイミングが遅すぎるし、南宋征服後に行われた弘安の役は
一体何なんだ?なんてことも気にしない。
更に滅茶苦茶なのは、多くの学者連中が「文永の役威力偵察説」と「元寇は対南宋戦の側面作戦説」を
同時に採用してること。
ちょっと考えればわかるけど、「文永の役威力偵察説」と「元寇は対南宋戦の側面作戦説」って絶対に
両方同時には成立しない。
結局のところ、連中は日本がモンゴル帝国に勝ったことを認めたくない一心で、思考停止状態なんだよね。

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181 2010/08/04(水) 00:26:27 ID:qnwCLicQ8Y
「『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法」を読めばわかるけど、佐藤鉄太郎氏は『蒙古襲来絵詞』だけを
根拠にしてるわけじゃない。
実は『蒙古襲来絵詞』の記述と一致する、『大友頼泰覆勘状写』『福田兼重申状』という史料が存在する。
『大友頼泰覆勘状写』は、豊後国御家人都甲惟親が鳥飼浜で蒙古軍と合戦したため、守護の大友頼泰覆から
与えられた書状。
『福田兼重申状』は、肥前国御家人福田兼重が鳥飼塩浜で合戦して蒙古軍を百道原に駆け落とし、
宇木江六、江浦小太郎、江浦宗澄を証人に申し立てた書状。
どちらもバリバリの一次史料で、疑いを挟む余地が無い。
更に佐藤鉄太郎氏は、少弐景資が竹崎季長に、大友頼泰が都甲惟親にそれぞれ戦功を記録する書下を
与えていることから、少弐景資と大友頼泰も鳥飼潟の戦いに加わっていたとしている。
文永の役で少弐景資と大友頼泰は、定説のように博多・筥崎を棄てて水城に撤退したのではなく、
博多・筥崎から敗走する蒙古軍を追って鳥飼潟へ進軍していた。

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182 2010/08/10(火) 11:12:12 ID:Odq/YZES8g
元高麗弱いな。

「四十余年が間本朝大に乱れて外国暫くも静ならず。
此動乱に事を寄せて、山路には山賊ありて、旅客緑林の陰を過ぎ得ず。
海上には海賊多くして、舟人白浪の難を去りかねたり。
欲心強盛の溢者其類を以て集りしかば、浦々島々多く盗賊に押し取られて、駅路に駅屋の長もなく、
関屋に関守る人を替えたり。
結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、
官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく
荒れにけり。」
【太平記】

これってホラ話なんかじゃないぞ。
【明州繋年録】など元側の史料でも、1309年に日本人の襲撃によって明州城中の官府・故家・民居が
ほとんど焼き払われたと記されている。

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183 2010/08/22(日) 13:23:50 ID:pG7F5N8y3Y
>>175
トリックといえば、三別抄絡みでも悪質なトリックが使われてる。
学者さんたちの説明では、三別抄が日本に救援要請をした時、日本側は半島情勢に無知だったため、
要請の意味が理解できなかったことになってるじゃん。
この「要請の意味が理解できなかった」ってのの根拠は、『吉続記』など公家が残した記録なんだけど、
公家たちが何故理解できなかったかといえば、朝廷から外交権を奪った鎌倉幕府が対外関係の情報を
独占してたからなんだよね。
つまり、公家が理解できなかったことを根拠に、いつの間にか情報を独占していた鎌倉幕府まで一緒に
半島情勢に無知だったことにしちゃうのは完全なイカサマなわけ。

この時期の鎌倉幕府が半島情勢に精通していたことには、史料的裏付けがある。
元史本紀・至元九年三月乙丑条によれば、対日交渉に当たっていた元使の趙良弼が、
「半島の金州に駐屯してる元軍が日本側の不審を招いているので移動させてほしい」と要請し、
それに対して本国の安童が
「もう日本側にバレてしまってるのに今さら移動させれば、かえって不審を強めるだけだから、
あれは三別抄討伐の軍だと説明するように」と返答したとされてる。
鎌倉幕府は半島への元軍配備状況も把握していたってことだし、三別抄の乱のことを理解してなかったら
元側がそれを言い訳に利用しようとするはずもない。
鎌倉幕府は半島情勢をきちんと把握した上で、外交的駆け引きを繰り広げていたんだよ。

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184 2010/08/22(日) 13:58:14 ID:q3BiUO/vxA
>>183
そういう「日本人は国際状況分かってないキチ○イで、身のほどわきまえず戦った」としたがる人っているよね
戦後左巻きってことなんだろうけど

話は変わるけど秀吉評価なんかもそういうところがおおいにある
イスパニアらが中国進出を画策していたことや、秀吉が日本人奴隷を買っていってたイスパニアを敵視していたことを思えば
誇大妄想でもなんでもない。明の首都の北京の位置を考えたら、秀吉が死んでなけりゃ落としてた可能性が高い。
既に朝鮮半島に倭城で固めておいそれと奪還できないよう足場を固め、
九州には伊達・徳川の本隊ともいうべき部隊が出陣待ち。
ヌルハチより確実に秀吉軍のほうが強いだろってはなしでな。秀吉は狂ってなんかいないよ。

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185 2010/09/09(木) 00:15:04 ID:ICM69CwHhY
元軍の劉復亨って博多から撤退する日本軍を追撃中に水城付近で少弐景資に射られたとされてるじゃん。
でも、少弐氏関連の史料では射られた場所が百道原ってことになってるんだよね。

〔少弐系譜〕
景資、資能三男、初名三郎左衛門、後號豊前守、弘安四年於筑前百路原射殺蒙古大将

〔武藤系圖〕
(景資傳)弘安蒙古出来時、蒙古大将百道原射留ラル

〔筑紫系圖〕
弘安四年蒙古襲来之時、忠功一門、劉相公討捕、身丈七尺乗黒馬

成立したのが元寇の随分後だったり、文永の役と弘安の役を混同してたりで史料としては弱いんだけど、
他の一次史料から日本軍が鳥飼で元軍を撃破した戦闘に少弐景資が加わっていたと考えられるのなら、
話は別だよね。
劉復亨は元軍が鳥飼から撤退中に百道原で追撃する少弐景資によって射られた。

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186 2010/09/09(木) 05:50:24 ID:syvPu7k/ps
>>184
>戦後左巻きってことなんだろうけど

あの「とにかく日本はダメ。元寇にしても、たまたま気象の影響で防げたにすぎないし、
秀吉は晩年の狂気から半島に出兵した」って史観、
やっぱり敗戦のショックが大きかったからだろうか?
文献を詳細にあたれば、そんな史観に辿り着かないんだけどね。

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187 2010/09/09(木) 08:29:34 ID:ICM69CwHhY
>>186
戦後、朝鮮半島と関わる歴史事項の研究はタブーだからね。
文献を詳細にあたることなんてないし、議論もない。
あるのは自分たちのイデオロギーに合致してるかどうかだけ。
支離滅裂のトンデモ説でも日本を叩いていれば即採用。

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188 2010/09/28(火) 15:23:17 ID:F1u3Jwk9QM
外交の世界は友好だけじゃ通用しない。
恫喝してくる相手に妥協したら付け込まれるだけ。
鎌倉幕府の方が菅内閣よりも遥かに世界情勢を把握してたし、外交も的確だった。
それなのに平和ボケした戦後の研究者どもはそのことが理解できず、今までずっと鎌倉幕府を
「世界情勢に疎い」「外交オンチ」なんて批判してたんだからお笑いだよね。

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189 2010/09/28(火) 19:48:59 ID:JQrUuQpBh.
尖閣の一件でよくわかったわ
近代兵器もない時代に、中華王朝の侵略を退けた鎌倉幕府は凄い

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190 2010/10/26(火) 21:20:53 ID:pK/9ubAUwY
元軍は陸上侵攻では強かったが、海上侵攻だと東南アジアでも負けてる。
相互の戦力を比較したら、馬が小さく、複合短弓に対し、馬上から長弓を使うのでは厳しいかと思う。

瀬戸際防衛が破られて、橋頭堡を確保されたと仮定したら、果たして?

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191 2010/10/26(火) 22:57:29 ID:Y2uP999lTY
仮定の話は意味が無い。

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192 2010/10/26(火) 23:51:43 ID:qrUvXeWOOc
>>190
文永の役は瀬戸際防衛じゃないから。
普通に上陸して鳥飼に橋頭保を築いた元軍を陸戦で圧倒して1日で撃退。
鎌倉武士の馬は蒙古馬と同じ大きさで別に小さくないし、弓の威力でも日本側が優っていた。
だから、どんな仮定をしようが鎌倉武士が勝つ。

あと、元軍は海上侵攻だと強くないってのも完全な誤解。
三別抄の乱は海上侵攻で鎮圧してるしね。
東南アジアのジャワだって、僅か5000人の兵力で首都クディリを占領し、クルタナガラ王を殺害。
戦闘では圧倒的な強さだったよ。

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193 2010/10/27(水) 23:51:02 ID:p/sANecTXY
モンゴル軍は鎌倉武士に2回続けて空前のボロ負けしてるわけで、双方の軍事力の差は
ちょっとシチュエーション変えたぐらいじゃ埋まらねーよ

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194 2010/11/02(火) 20:43:25 ID:3F5svBSmjY
文永の役では、侵攻と言うよりは威力偵察程度じゃないかと。
要するにそもそもが、本気の侵攻じゃない。

弘安では、水際で防御出来た事が大きい。

そして、台風の季節に助けられた。

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195 2010/11/03(水) 00:15:25 ID:0/EzSZg11U
威力偵察の規模は軽く超えてるだろw
二千や三千ならともかく

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196 2010/11/03(水) 10:18:24 ID:MSdeTO75BU
そもそも威力偵察説には根拠となる資料も文献もまったく見当たらないんだけどな。
事前に長い年月準備して高麗に大量の軍船作らせて、総勢四万の大軍を送り込んどいて
「本気じゃなかった」「威力偵察だった」はねえだろw

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197 2010/11/03(水) 16:00:28 ID:.b7vjZ/6wE
弘安の役の敗戦の後、元のクビライは汚名を削ぐため、持てる戦力の全てを投入して第3次日本遠征を計画。
しかし、劉宣が「再び日本を攻めたりしたら元朝は滅びてしまいます。とても勝ち目はありません。」と諌め、
隋が高句麗に3度侵攻して3度大敗し、そのことが命取りとなって滅亡した故事を持ち出すと、
さすがのクビライも日本遠征の中止を表明するしかなかった。。。
文永の役も弘安の役も普通に元の国家基盤を揺るがす大敗北と認識されてるってことね。

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198 2010/11/03(水) 21:01:59 ID:6UB7Djeo6k
削除(by投稿者)

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199 2010/11/04(木) 14:11:55 ID:8fLZPH2Bbw
日本って考えたらすごくね?

モンゴル帝国
大明帝国
大清帝国
ロシア帝国
アメリカ合衆国
大英帝国

名だたる大帝国と戦ってきて。
しかも、国が本当に滅びる決定的な敗北にはいたっていないというね。

海に守られた日本列島だったから、とかいう人がいるけど。
実際には、サムライがいたから、抑止力になって日本は守られていたんだろうね。


今は?…。

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200 2010/11/04(木) 17:48:31 ID:4fqP94K6RA
太平洋戦争は決定的な敗北ではありませぬか

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スレッドタイトル:元寇は鎌倉武士の実力勝ち

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