元寇は鎌倉武士の実力勝ち


▼ページ最下部
001 2010/03/09(火) 10:22:30 ID:FBqpTU/2Fc
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ

八幡ノ蒙古記

返信する

※省略されてます すべて表示...
242 2011/03/09(水) 23:09:33 ID:WJL0U3Vn6E
ここまで読んでみた感想をひとつ・・・
  
 
   
 
日教組は解体した方がいいな。
日本の為にならない。

返信する

243 2011/03/18(金) 15:41:16 ID:5FFPbBYFXA
雑誌とかで日本史上の名将ランキングとかの企画やっても、北条時宗をはじめ元寇に関係した人物が
ランクインすることってまず無いよね。
あのモンゴル帝国に一方的な勝利を収めたのに。
日本史上でこれ以上重要な勝利なんて無いのに。
そのくせ、世界史上の名将ランキングとかの企画やると、バイバルスや陳興道がモンゴル軍に勝った実績で
ランクインするんだぜ。
こいつらが勝ったモンゴル軍は元寇より規模が小さかったり、元寇ほど一方的な勝利じゃなかったりするのに。
だったら、北条時宗や少弐景資は世界史上屈指の名将と評価されないとおかしいだろ。

返信する

244 2011/05/29(日) 11:56:04 ID:Yflgfg5fzU:au
結局、どうしてユーラシア大陸を制覇した蒙古軍を撃退できたか? が分からないんだ。
神風、補給、戦意、作戦、どれをとっても要因ではあるが決め手にはなってない。
武具の性能はどうだったんだろうか。
弓:射程距離、破壊力、命中率。
甲冑:防御力。
刀剣:長さ、頑丈さ、切れ味。
仮に日本側が全てに勝ってたらワンサイドゲームになるとおもう。
アウトレンジ攻撃と最小限の被害で上陸侵略を許さず、海にプカプカさせといたら神風が吹いた、で得心出来る気がする。
証拠はないが…

返信する

245 2011/05/29(日) 13:16:21 ID:toOb4b3vkM
>>仮に日本側が全てに勝ってたらワンサイドゲームになるとおもう
仮にじゃなく実際ワンサイドゲームだっただよ
文永の役で3万で奇襲攻撃したが半日で副将討ち取られ逃げた。
当時3万クラスの兵力は中小国家潰せるぐらいの兵力。

>>武具の性能はどうだったんだろうか。
防具は日本の方が優れていて装備率も高かったはず、承久の乱以降武士社会になり
装備率は高い、対して蒙古は支配した国の寄せ集めなので防具の防御力と装備率は
貧弱
武器は遠距離攻撃の和弓は大きさは世界最大で有効射程距離でも蒙古に負けず、
命中率も武士は小さい頃から英才教育を受けてたので高い。
中距離攻撃の薙刀、近距離攻撃の日本刀とも優れた武器を武士は保有し有利に戦った

蒙古は騎馬戦で世界最強と思っていただろうけど日本へ攻めたらとんでもない
重装備騎馬兵が居てびっくらこいただろうなw

返信する

246 2011/05/29(日) 23:22:45 ID:MNqoRloY6I
元軍の副将は重傷を負ったけど死んではいないぞ

返信する

247 2011/05/30(月) 00:37:54 ID:qLrIjkm5Nw
>>246
討ち取る⇒殺す
射倒す⇒矢で負傷させる
討ち取るでなく射倒すですね、訂正します。

返信する

248 2011/05/30(月) 23:07:37 ID:ZsLArWvE7Q
文永の役の戦闘経過なら史料からかなり詳細にわかってる。
百道、姪浜付近に上陸したモンゴル軍は博多を目指して東進したが、赤坂で菊池武房に撃退され逃走。
それを追撃する日本軍と鳥飼潟塩浜で決戦となり、敗れたモンゴル軍は百道、姪浜に追い落とされて撤退。
結局、博多にも大宰府にも到達できずに1日で敗退だから、鎌倉武士のワンサイドゲームとしか言いようがない。

返信する

249 2011/05/31(火) 00:07:45 ID:XjnB/ZtHRk
当時の式目で、元寇以前から博多の防衛について
御達しがあったんだな。ネットや電話も無い時代なのに、
博多上陸より先に九州の武士たちが大宰府に集結し
撃退に成功してる。鎌倉時代の情報伝達力と機動は侮りがたい。
それに引き換え、今の政権の体たらくたるや。

返信する

250 2011/05/31(火) 00:14:33 ID:Ih8wvtvNQs
>>248

>>百道、姪浜付近に上陸したモンゴル軍は博多を目指して東進したが、赤坂で菊池武房に撃退され逃走。
>>それを追撃する日本軍と鳥飼潟塩浜で決戦となり、敗れたモンゴル軍は百道、姪浜に追い落とされて撤退。

これっていずれも局地戦で、全体としては日本軍側がじりじりと防衛線を後退させてたんじゃなかったか?まあ最終的に元軍は、大宰府攻略を断念して撤退したんだから日本側の勝利には変わりないが

返信する

251 2011/05/31(火) 00:57:34 ID:nYnKnrKQ8A
>>250
局地戦じゃないよ。
そこが文永の役の主戦場。
日本軍の主力は、おもいっきり防衛線を前進させてモンゴル軍に総攻撃を仕掛けたわけ。
最初は博多に布陣していた大友頼泰が進軍して鳥飼潟の合戦に加わっていたことを示す史料がある。

『蒙古人合戦の事、筑前国鳥飼濱陣に於いて、忠節を致し給わしめ候の次第、
すでに関東に注進し候いをはんぬ。仍って執達件の如し。
    文永十一年十二月七日      頼泰
  都甲左衛門五郎殿』

都甲左衛門五郎が鳥飼で戦ったことの証人に大友頼泰がなってるってことは、大友頼泰自身もその時
鳥飼にいたってこと。
博多付近でも戦闘が行われたってのは嘘ね。
文永の役で博多の町が被害を受けたという話を裏付ける史料は一切無い。

返信する

252 2011/06/01(水) 03:51:49 ID:geK2iqy2AM
高麗王って征服されてからはモンゴル人になっていくんだねえ

返信する

253 2011/06/01(水) 09:45:22 ID:dFw/M2YGNM
もともと日本は海洋民族の国。
そんな風貌でなくなっているのは征服されたからではなく、寛容に渡来人(要するに難民みたいなもん)を受け入れ社会に取り入れて混血が進んできた結果。
そういう大らかなところが元々海洋民族にはあるように。
だから日本は東洋人のような風貌でありながら、目鼻立ちが南洋人のようにしている。
中国人は北方モンゴロイドと東南アジア人と西アジア人の混血体であり、朝鮮は少量の海洋民族と大多数の北方モンゴロイドの混血が長きにわたって近親婚をくりかえしてきた結果である。

返信する

254 2011/06/01(水) 14:25:42 ID:5T0g4gVDfs
「凶徒は麁原に陣を取りて、色々の旗を立て並べて、乱鉦暇無くして犇めき合ふ」 『蒙古襲来絵詞』
 
『蒙古襲来絵詞』を見れば、麁原のモンゴル軍は完璧に布陣を終えていて、上陸作戦の不利なんて
言い訳は通用しない。
しかも騎兵の比率が高い。
最前列に槍を持った歩兵が並んでるだけで、その後ろに控えているのは全員騎兵。
このモンゴル軍が正面から鎌倉武士と激突して完敗した。

「右、昨年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、
令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶)徒等、令懸落百路原」 『福田兼重申状』
(十月二十日に元軍と鳥飼塩浜に於いて合戦を行い、麁原山の凶徒が引き退いたので、百路原に戦って
追い払った)

「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡二軍ヲ出シ
姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」 『日田記』
(日田弥次郎永基は永十一年十月二十日に元軍と姪浜と百路原に於いて一日に二度合戦し、大勝利した)

返信する

255 2011/06/02(木) 06:14:20 ID:FiG4W9U.kw:au
義経の迂回奇襲ひよどり越え、謙信・信玄の一騎討ち、千早城、のような「華」がない。
ぶつかったら敵が逃げたので追いかけてやっつけました。で終わる気がしてしまうのは何故だろうか。
講釈師がサボってたか?
それともワンサイドゲームすぎるので講釈の題材にならなかったのか?

返信する

256 2011/06/02(木) 20:11:49 ID:rErqf2FuxA
それらしい場面といえば少弐景資がパルディアンショットで
劉復亨を射倒すところくらいかな

返信する

257 2011/06/02(木) 20:53:09 ID:yys4qJluAI
>>256
少弐景資はパルディアンショットで劉復亨を射倒したわけじゃないんだな。
後世の史料で文永の役と弘安の役がゴッチャになってるけど、少弐景資が劉復亨を射倒した場所は、
やっぱり百路原で他の史料と一致してる。
少弐景資は敗走する劉復亨を追撃して射倒したんだよ。

〔少弐系譜〕
景資、資能三男、初名三郎左衛門、後號豊前守、弘安四年於筑前百路原射殺蒙古大将

〔武藤系圖〕
(景資傳)弘安蒙古出来時、蒙古大将百道原射留ラル

〔筑紫系圖〕
弘安四年蒙古襲来之時、忠功一門、劉相公討捕、身丈七尺乗黒馬

返信する

258 2011/06/03(金) 13:16:12 ID:bAGAQiGjQY
>>255
いやあるにはあるが、戦国のほうが国内のことだから語りやすい。
モンゴルをやっつけた話を今更教科書にのせるより、外交交渉したほうが利益になる。
しかし事実として当時のことは生々しい話が残っている。

援軍を待っていられずに飛び込んでいった騎馬武者一行や、博多湾にせり出るようにして門を構える箱崎宮で篭城した僧兵達、そして炎上した本社。
なにより元を追い討った後始末は悲惨。 将と兵の区別なくひっとらえて、三笠川下流で言語道断に斬首。そのまま川になげこんだため、おびただしい首が折り重なってせき止めとなり、真っ赤な水がたまっていた。

題材にする商売人がいないだけで、話は結構残っている。
むしろ、それだけ話が残っているのに、神風の一言で終わる教育こそ本当ならもったいない。

返信する

259 2011/06/03(金) 13:32:06 ID:bAGAQiGjQY
元軍の押し寄せた対馬では悲惨な生き地獄が早速始まる。
対馬は郎党あげて討ち死に覚悟で応戦。元軍ひるんで思いのほか持ちこたえたが、しかし人海戦術にはかなわずやがて落城
逃げ場の無い島では島民のあぶり出しが始まった。
男はなぶり殺され、女はその場で輪姦、夜を徹して破壊の大宴会を繰り広げたあと、まだ生きている女は手に穴をほがされ鎖で数珠繋ぎにされた。そして船という船の外べりに数珠繋ぎの女子供をぶら下げて博多湾へ出港。
内海に入り込んできた異様な姿の大水軍を前に博多の街は騒然。
その夜には箱崎宮が炎上し、夜空を煌々と照らしていた。
元の上陸した博多の街を遠巻きに見守る地方の衛兵達。援軍の到来を待っていた。
待ちきれずに郎党を引き連れて出陣した日本の美しい武者姿達も化け物のように動く元の隊列に見る見るうちに呑み込まれて絶えて行く。
福岡平野の出入り口、防人時代からの関所「水城」の内側には三方を山に囲まれた軍事要塞、筑紫野城。 九州周辺からわらわらと集まってきた軍勢は相当数に登っていた。そして本州からの援軍も届き、いよいよ決戦が始まる。
侵入当初、燃え上がった箱崎宮、今その山門には「敵国降伏」の文字が高々と飾られている。

返信する

260 2011/06/04(土) 01:57:22 ID:NZ/cJuFV1I
>>259
>>その夜には箱崎宮が炎上し、夜空を煌々と照らしていた。
これおかしいな、戦闘は午前中は有利に戦ったが午後からは苦戦して船に引き返して
船の中で蒙古と高麗の士官が話し合って撤退を決断し夜に撤退してるはず。
博多を攻撃したって史料はあるの?
元史も高麗史もそんな記述ないけど?
水城から海岸まで直線距離で約10km実質13〜15kmだから馬で歩いて6〜8km/hだと
2時間半から3時間知らせを聞いて出陣してもやはり午後になる。

返信する

261 2011/06/04(土) 06:48:28 ID:RYnUqoorDY
>>260
いますぐはちょっとわからないけど
数年前に歴史の本で読んだし箱崎宮が炎上したのは知ってる人は普通に知ってるレベルなんだけど。
試しに今ググッてみたらネットでも出てくるし。
「その日のうち」だったかどうかを問題視したいのか何なのかよくわからん。

返信する

262 2011/06/04(土) 12:56:54 ID:p2nYjxucOI
>>261
文永の役の日に箱崎宮が炎上したのは事実だけど、元軍は無関係だと思うよ。
同時代史料では単なる火事としか扱われてないから。
箱崎宮は当時訴訟とかを抱えていて、1274年だけじゃなく1265年と1280年にも不審火で焼失してる。
元寇当日のこの地域は騒然としていたはずだから、放火には好都合なわけで。

返信する

263 2011/06/05(日) 12:12:42 ID:/yy0M8T82c
>>260
箱崎宮は海岸から500mほどの所にあるんですね当時は目立った建物だろうし
確かに真っ先に攻撃するだろうね。

返信する

264 2011/06/05(日) 13:17:58 ID:UreOuXaVdQ
>>263
海からは近いけど上陸地点からは10キロ以上離れてる。
元軍が百道、姪浜付近だから。
それに、元軍が本当に箱崎に上陸したのなら、すぐそば博多の町が全くの無傷だったのは何で?
ってことになる。

返信する

265 2011/06/05(日) 14:03:14 ID:4u9tyBJWu2
>>264
そういうのは高麗史とか元史より、戦災を受けた日本の郷土史料のほうが地名や戦況までこと細かに残ってるわけで、キミが実際に元史と高麗史どこまで熟読したのかもわからないわけで、、、
元寇については史料を検証したり添え書きしながら書かれた本も大きな本屋の奥のほうの歴史コーナーとかに少なからずあるから少し立ち読みでもしてくることをすすめる。
簡単なカラー雑誌や小説ではないから間違わないように。
ここまで基本ラインで、、、
んで、まあ、結局>>264は何を言いたいわけ?

返信する

266 2011/06/05(日) 14:19:25 ID:UreOuXaVdQ
>>265
箱崎宮が元軍の攻撃受けたってことは、史料上有り得ないって言ってるんだよ。
箱崎宮の火災は元軍と無関係。

それから、元寇については、戦前から今まで出版された著書のほとんどを読んでるし、
史料、論文も可能な限り読みあさってる。
書店に売られてるような本の元寇の記述を、全部史料に直接当たって検証し直したんだけど、
結果一から十まで嘘を並べてるだけだと分かって呆れたよ。

返信する

267 2011/06/05(日) 15:45:31 ID:Q031LAEhP2
随分、レベルが高い話になってるな・・・・
郷土史料?
そこまで、探して読み込む人がいるとは・・・
学者さんでもないアマチュアの方でしょう?

凄いな・・・・

返信する

268 2011/06/05(日) 16:42:17 ID:UreOuXaVdQ
>>267
別にレベル高くない。
18歳以上なら国会図書館使えば誰でも簡単にできるよ。

返信する

269 2011/06/05(日) 17:59:47 ID:T3WeGQdxUw
そう そのとおり。
興味さえあれば誰でも読める。
俺は中学生のころ大きな本屋で読み漁った。ずいぶん昔だけど・・・・。

返信する

270 2011/06/09(木) 23:07:39 ID:JM0e30589c
このスレまだあったのか

返信する

271 2011/06/09(木) 23:08:20 ID:JM0e30589c
720日も残るってw

返信する

272 2011/06/11(土) 00:17:56 ID:p3FZf6huZc
初めての書き込みですが。
弘安の役ってのは、上陸作戦で見た場合、近世以前では最大規模ではないですかねえ。
ペルシャ・ギリシャや、ローマ・カルタゴでもそんなに無いでしょ?
ノルマンジーや、沖縄並では。

あと質問ですが、文永の役の時の対馬上陸について詳しく書いた資料はどういうのがあるのでしょうか。

返信する

273 2011/06/11(土) 10:23:47 ID:r1yYIZ.f4w
>>272
ほぼ同規模の文禄の役があるけど、この2つが近世以前では最大規模だと思うよ。

あと、文永の役の時の対馬上陸について詳しく書いた資料は、全部江戸時代以降の史料なんだよね。
同時代史料という点では空白地帯。

返信する

274 2011/06/11(土) 13:01:37 ID:p3FZf6huZc
>>273
そうですか。斉藤資定の奮戦の話は、原資料がなんのか分からないので知りたかったのですが。
八幡愚童訓にもあっさりとしか書いてないし、宗家文書なのかなあ。

返信する

275 2011/06/12(日) 12:06:33 ID:g2RNwdNH7o:au
大東亜戦争の最大動員数:人口の5%
弘安の役:4%(25万/600万)
こりゃ幕府倒れるわ。
倒れたけど。

返信する

276 2011/06/12(日) 14:38:42 ID:UipuJ5tjWI
>>275
弘安の役が1281年で、幕府が倒れたのが1333年でしょ。
52年後。
ただ鎌倉幕府はモンゴル帝国に勝ちました、で話を終わらせたくないってことなんだろうけど、
例えるならバブル経済崩壊は大東亜戦争が原因っていうような話なんだよね。

返信する

277 2011/06/12(日) 15:29:16 ID:2JFHEUwfx6
>>273
自己解決しました。
江戸時代の「宗氏家譜」に記載されてるらしいです。
原典を示さずに引用する人が多いんで困る。ずっと謎だったんです。
しかし、置いてる図書館は、えらく限られていて、検索した限りでは、
都立中央図書館と、国会図書館のみ、千葉にはなし、ということでした。

返信する

278 2011/06/29(水) 18:06:13 ID:GChJ9YSXjg
じゃあ、なんであれっぽっちの黒船には完敗して開国したのw

返信する

279 2011/06/29(水) 18:18:54 ID:/rsGzSRIk2
鎖国のなかで世界標準の兵器に遅れをとっていため。
しかも江戸市民を戦火から守る意識もあった。

返信する

280 2011/06/29(水) 20:00:52 ID:2Ew.MeDEr2
いきなり6世紀も隔たった時代を持ち出すとは
明和にも珍しいほどのアホだな

返信する

281 2011/06/30(木) 01:10:52 ID:HZ45Bn7Ws.
日本史の教科書では、元寇の時に鎌倉武士は一騎打ち戦法しか知らなかったことになってるけど、
幾ら調べてもその根拠がわからない。

鎌倉武士の主力武器は弓だけど、弓による一騎打ちは数ある中世史料の中で『今昔物語集』に
僅か一例あるのみという超レアケースなんだよね。
『平家物語』とかにも一騎打ちの場面があるけど、これって組み打ちなどで行われていて、
要するに乱戦の中のアクシデントとして描かれてるんだよ。
その他圧倒的多数の場面では、合戦が集団戦法で行われていて、史料を読む限り鎌倉武士が
一騎打ち戦法で戦っていたとは考えられない。

そもそも、『平家物語』みたいな軍記物語に一騎打ちが登場することを拡大解釈して、それがスタンダード
だと主張すること自体おかしい。
だって、中国の演義モノや西洋の騎士道物語にも一騎打ちは登場するわけで、そんなこと言い出したら
世界中の合戦が一騎打ち戦法で行われてたことになっちまう。
現代のマンガや映画、小説だって、物語を盛り上げるため一騎打ちはお約束じゃん。

更に言えば、『蒙古襲来絵詞』という実際に元寇で戦った武士が監修した史料では、鎌倉武士が
一騎打ち戦法でなんて戦っていないって問題もある。
普通に史料調べる限り、日本には最初から一騎打ち戦法なんて存在しなかったという結論しか
でないわけで、教科書書いてる偉い学者さんたちは本当に真面目に史料読んだり、考えたりしてるの?
って感じ。

返信する

282 2011/06/30(木) 04:38:59 ID:qXdEroZiF.
あの「一騎打ち」って、感動的に物語を演出するための物だろうね。
平家物語でも、「 一の谷合戦」なんて騎馬集団の奇襲攻撃だし。
弾き語りの演出として必要とされたのが、名乗って一騎打ちするってやり方なんだろうと思う。
物語にはメリハリが必要だもんね。

返信する

283 2011/07/01(金) 14:22:05 ID:9H94.ZovCU
この一騎打ち戦法云々は本当に酷い話で、日本人は本気で怒るべき。
学術書とか学術論文読めばわかるけど、通常なら細かく(註)が付いてて必ず根拠なり引用文献なりが
提示してなければならないモノなんだよ。
こんな一切根拠のない話が戦後半世紀以上放置され、どの元寇関連文献にも載ってること自体、
日本史研究の真面目さを問われるレベル。
中世史の研究者全員呼びだして、「お前ら今まで一体何してたんだ?」って詰問したい感じ。

しかも、これって学校の日本史では下線とか引いてあって必修項目として扱われてるんだぜ。
戦後の日本史の教師たちが、一番力を入れて授業をやるのもここ。
「やあやあ我こそは・・・」とか勝手な演出付けて、十代の生徒たちに昔の日本人が如何に間抜けだったか
刷り込むわけだ。
何の根拠も無い、完全な作り話なのに・・・
滅茶苦茶過ぎるだろ。

返信する

284 2011/07/01(金) 20:32:47 ID:yOBY311RCA:au
うん。
私も刷り込まれた。
一人づつ「我こそは」をやってたら一人づつ射たれて日本全滅になるにちがいない。
以来、歴史の教科書の嘘を捜すのが面白くなった。

返信する

285 2011/07/02(土) 20:49:42 ID:N5JHudxCeQ
平安時代あたりなら、戦をするにあたって、お互いの軍の使者同士が打ち合わせして、場所を決めて、いざ戦が始まると最初は一騎打ちが何度か続いて、やがて大将同士が一騎打ちをやって、
勝負がついた後で勝った大将の軍が負けた大将の軍を取り囲んでそれから集団戦闘になって、どちらかの兵数が相手の半数以下になったら勝負ありになる。
なんていうルールがあったなんて子供の頃に読んだ記憶がある。運動会かよ!なんて突っ込んだっけなw
たとえ、仮に本当に元寇の時点では一騎打ちで闘うつもりだったとしても、相手軍が集団で突っ込んでくるのにいつまでも一騎打ちにこだわる程日本軍は馬鹿じゃあるまいてw
「あいつら、一騎打ちなんかやる気ないんだ、ならこっちも一斉攻撃だ、攻めろ!!」
になるわな普通w

返信する

286 2011/07/02(土) 20:54:22 ID:N5JHudxCeQ
ところで、開戦にあたって日本軍が、日本でのしきたり通り、
音の出る鏑矢を飛ばして、
元軍がそれを見て爆笑した話は本当なんかね?

返信する

287 2011/07/03(日) 00:38:18 ID:lY9j65VeRQ
歴史認識に付いてはNHKの大河ドラマも酷いよな
特に北条時宗なんか
今の子なんかあれ見て歴史勉強しているのも多すぎるし
どうして時宗が先に死んで時輔が生き残るんだよw

返信する

288 2011/07/03(日) 12:26:29 ID:QIO.9dwRLU:au
鏑矢翔ばすのはあり得ると思う。
自分の指揮下にある兵士に攻撃目標を知らせるには良い方法。
それ見た蒙古側が「へ!?」で笑うのもあり得る。異文化同士の合戦だから。

返信する

289 2011/07/30(土) 11:20:07 ID:XCV4NGGgik
ここ最近の動き見てると元寇がここまで歪められた最大要因ってやっぱ朝鮮との絡みなんだろうな

返信する

290 2011/07/30(土) 14:26:54 ID:LFlLs6dHtc
確かに高麗絡みの記述になると酷いな
高麗王が元に対して執拗に日本侵略を進言してたのに
日本が救われたのは高麗の抵抗のおかげとか頭にウジ湧いてんのかとw

返信する

291 2011/07/31(日) 10:19:37 ID:bIdNcOIoZk:au
頭にウジはわかんだろ。頭に湧くのは虱。

返信する

292 2011/08/06(土) 01:31:05 ID:R/d0TwD/YY
高麗は日本を侵略したんだものな

返信する

293 2011/08/06(土) 01:33:07 ID:R/d0TwD/YY
大河がひどいといえば豊臣秀吉だなあ
ただの狂った人間に仕立てられてる
あのキャラでどうして天下統一できるんだw

返信する

294 2011/08/06(土) 10:34:16 ID:N02YlQooic
大河といえば2000年度の「北条時宗」では
文永の役威力偵察説を採用してたな
四万の軍勢で単なる威力偵察なんかしねえっつーのw

返信する

295 2011/09/18(日) 09:26:21 ID:KRg0T7/2wM:au
四万の軍勢で間に合うとは考えてたんだ。

返信する

296 2011/09/19(月) 08:46:38 ID:/GD6AuFPS6
>>295
そりゃ当然考えるだろ。
四万の軍勢で征服できない国なんて当時の世界にはほとんど無かったから。

返信する

297 2011/09/30(金) 02:05:57 ID:LbTTjFgShs
高麗国王って元に征服されてからは
代々モンゴルの妃と結婚を繰り返してるからほとんどモンゴル人なのな
全然知らなかったけど
名前までモンゴルだ

返信する

298 2011/09/30(金) 02:07:35 ID:LbTTjFgShs
まあ上陸がうまくいって橋頭堡を築かれたら
九州の北半分とられても全然不思議じゃないわな

返信する

299 2011/09/30(金) 03:44:49 ID:cCKYSoZh2c
>>298
文永の役で上陸は問題なくうまくいった。
その後の野戦でモンゴル軍が鎌倉武士に全く歯が立たないのが誤算だった。

返信する

300 2011/10/01(土) 03:03:46 ID:YHDYZTz1SI
海に引き返してるんだからうまくいってないだろw

返信する

301 2011/10/01(土) 14:02:43 ID:/uPRHyl6PI
>>300
海に引き返したのは野戦で鎌倉武士にボロ負けしたからで、上陸はまったく問題なかったよ。

返信する

302 2011/10/01(土) 23:08:54 ID:YHDYZTz1SI
それを上陸失敗と言う

返信する

303 2011/10/02(日) 11:49:08 ID:W4.gohO.kI
>>302
それなら、上陸がうまくいって九州の半分とられる可能性なんて最初からゼロだったってことじゃん。
どういう作戦で上陸しても結局は野戦で負けて海に引き返すことになるんだから。

返信する

304 2011/10/02(日) 14:48:34 ID:K7R744iTTQ
そうそう。つまり上陸に失敗したの。
上陸地点を確保できなかったわけだからね。

返信する

305 2011/10/02(日) 15:03:42 ID:W4.gohO.kI
>>304
仮に陸続きでも結果は同じだね。
やっぱりモンゴル軍は野戦で鎌倉武士に負けて撤退するしかない。

返信する

306 2011/10/02(日) 20:49:06 ID:K7R744iTTQ
いや陸続きとなると話は全然違うことになるだろうね。
まあ陸続きだとそれ以前の歴史も変ってしまうから話しても仕方がないだろうけど。

返信する

307 2011/10/03(月) 00:00:17 ID:sODwOhmg3Y
>>306
いや、モンゴル軍が野戦で鎌倉武士に勝てない以上、陸続きでも結果は同じ。

返信する

308 2011/10/03(月) 02:40:28 ID:mvvRVQDzBg
モンゴル軍っていっても高麗とか宋の連中じゃなかった?
ヨーロッパや中東まで侵攻した騎兵と同じなん?

返信する

309 2011/10/03(月) 11:12:58 ID:4qEWdxOJHQ
陸続きなら日本独自の戦士階級とか封建社会とか生まれてないんじゃないか
もし陸続きだったらなんて仮定は無意味

返信する

310 2011/10/03(月) 11:15:51 ID:4qEWdxOJHQ
>>308
モンゴル帝国の外征軍はだいたい諸民族混成軍だよ
日本遠征だけが特別だったわけじゃない
あと日本遠征の場合主力は蒙漢軍ね

返信する

311 2011/10/03(月) 21:20:36 ID:QGt/RzXq0s
高麗のザコだろw

返信する

312 2011/10/03(月) 21:39:23 ID:4qEWdxOJHQ
文永の役では蒙漢軍2万5千に高麗軍8千、
弘安の役でも蒙漢軍1万9千に高麗軍1万、江南軍10万なわけだが
高麗軍はボコられてた印象しかないし、ザコだったという点には同意するが

返信する

313 2011/10/21(金) 20:56:24 ID:Wj/flcVZg2
モンゴルって宗教的にはなんなの
チベット仏教とか?

返信する

314 2011/11/12(土) 16:32:34 ID:QlWhuKx2xQ
初カキコします。
最近このスレを見て元寇について興味を持ったのですが、少々疑問が湧いたので書き込みさせていただきます。
当時の日本の軍事水準が非常に高かったことが、防衛成功の決定的要因であることは
このスレを見て理解しました。しかし、あの元に圧勝したという事実に、まだ少し違和感があるのです。

当時の武士は軍人としてのレベルは高くとも、実戦経験では元側との間に大きな差があったのではないか?
またそこから来る集団戦法の練度においても、元側の方が優れていたのではないか?
当時の日本では禁じ手である毒矢や、新兵器のてつはうなどには苦しめられたのではないか?

史料などの結果論から言えば日本の勝利であったことは疑いようもないのでしょうが、
その勝利の内容についてはまだ疑問があるのです。上記の疑問は事実なのか。あるいは
事実として考えられる可能性があるのか否か、回答よろしくお願いします。

返信する

315 2011/11/15(火) 17:47:33 ID:8pQlxbr.Cs
>>314
湾岸戦争の前もイラク軍は直前にイランイラク戦争経験してるから、
実戦経験ではアメリカ軍との間に大きな差があるって言われてたけどね。
元寇当時のユーラシア大陸での緩い実戦経験なんてあんまり意味無いよ。

あと、毒矢使用については確かな史料が無い。
海外ではモンゴル軍が毒矢を用いていたなんて話を一切聞かないし、
日本でも八幡愚童訓という信用度の低い文献にあるだけ。
つまりガセってこと。
それから、この時代の火器はまだ過渡期の兵器で戦局を有利にするような威力はない。
てつはうはむしろ弱者の兵器なんだよね。

返信する

316 2011/11/17(木) 01:35:24 ID:Y0wWSk0TgA
てつはうが弱者の兵器ってことについて捕捉すると、当時は基本的に弓の方が火器よりも
実戦だと圧倒的に有効。
でも弓兵を育てるには幼いころからの訓練が必須で数を揃えるのが中々大変なんだよね。
それで中国とかが錬度の低い兵に火器を持たせて遊牧民の弓に対抗しようとしたわけ。
まあ対抗しきれなかったからモンゴルに征服されちゃったんだけど、それによってモンゴル軍内にも
火器を使うような兵が加わるようになった。
で、てつはうなんかを武器に生粋の弓騎兵である鎌倉武士と戦ったら当然ボロ負けするよな。

返信する

317 2011/11/17(木) 11:06:35 ID:tY185ETMSA
>>314
確かに当時の日本には大規模な戦争こそなかったけど
宝治合戦、二月騒動、霜月騒動、岩戸合戦など起こっているし
現代とは比較にならないほど殺伐としていたと思うよ
土地争いとかの小競り合いは日常的にあっただろうし
武士たちに実戦経験が全く無かったわけではないと思う

返信する

318 2011/11/18(金) 18:18:43 ID:2XooCrKC16
>>314
集団戦法だけど、武士は大将首やいい首を狙ってたでしょ
手柄の申告や文永の副将や弘安の志賀島で明らか。
集団戦法は小隊長が討ち取られたら小隊ごと中隊長なら中隊ごと機能しなくなる。
高麗史に「官軍不整」と集団戦法が機能喪失したことが書いてある。

返信する

319 2011/11/19(土) 10:53:16 ID:IJnv7FJ/oA
>>314
日教組による嘘の歴史教育を受けてるので、島国日本は侵略を受けずに
平和に暮らした思うだろうが、これは大嘘。
何度も侵略を受けことごとく排除した。

663年白村江の戦いでの敗戦で日本は大きく変化し軍事力強化へと向かう
今まで直刀(いわゆる剣)がだんだん湾曲し日本刀の出現し始めたのは
この戦い以降だといわれている。
http://www.youtube.com/watch?v=rvyl8TvlIjk&feature=re...

800〜1000年 新羅の入寇
弘仁の韓寇  貞観の韓寇 寛平の韓寇 長徳の入寇

1013年 刀伊の入寇

1274年1281年 元寇
文永の役 日本2000〜5000人 VS 蒙古、漢、高麗軍 30000人
弘安の役 日本九州部隊(4万)中国部隊(2万5千)京都(6万)VS蒙古漢高麗(14万)
 
1419年 応永の外寇 
日本800人 VS 李氏朝鮮17885人(ほぼ総力戦か?) 

返信する

320 2011/11/19(土) 11:40:55 ID:YsSV2UVCBc
文永の役の日本軍二千〜五千はちょっと少なくね?
防衛省だかの推定では総兵力五千〜一万くらいだった気が

返信する

321 2011/11/19(土) 18:21:25 ID:IJnv7FJ/oA
>>320
なんかの本で5千との記憶していたがググってみると5千〜1万人が有力ですね。
後2千〜にしたのは博多の浜辺から水城まで直線で約13Km程あるので
全員が戦闘に参加していないと思ったので戦ったのは5千の内2〜3千位だろう
と思ったから。

返信する

322 2011/11/21(月) 02:13:30 ID:LVeoqckBho
ヒャッホー!鎌倉武士最強だぜ!!!

返信する

323 2011/11/21(月) 23:34:11 ID:riKAzF/Hh6
削除(by投稿者)

返信する

324 2011/11/22(火) 00:22:05 ID:wcehCCR2kw
たくさんのレスをくださり、ありがとうございます。
すみません。自分の中で色々整理していたら、レスを返すのが遅くなってしまいました。


>>315
言われてみれば当時アジアで元が戦っていたのは南宋くらいでしたけど、その南宋との戦闘も
攻城戦がメインだったんですよね。大規模な騎馬戦もほとんどなかったようですし。
毒矢はネットで調べてみても、詳細どころか概要も分からなかったのですが…
…なるほど。ガセだった訳ですか。てつはうも意外と弱かったのですね。
確かに日本以外での戦争で、てつはうが劇的な戦果を上げたという話はあまり聞かないんですよね。

>>316
連射が効かない、射程距離が微妙。
てつはうも弱点というか、扱い難い点が結構ありそうですよね。
運用の仕方によっては有効的な兵器となるのでしょうけど、
野戦においては遠距離攻撃が可能な弓の方が確かに有利ですよね。

>>317
今の平和ボケしている日本とはまるで違ったとw
でも確かに鎌倉時代は大きな戦がないのに、江戸時代の平和とは
また違った印象があるんですよね。武断政治のイメージが強いというか。

>>318
なんとも圧倒的ですね…。
隊長が真っ先に狙われることは、元側だって分かっていたはずでしょうに…。

>>319
なるほど。対外的な緊張は常にあったと。
そういう話が教科書にあれば、防人の重要性とかもわかっていいんですけどねぇ。
というかその人数で勝ったのですか。防城戦ならともかく、野戦でその人数差を覆すとは…。

返信する

325 2011/11/24(木) 14:55:11 ID:nyPro6g7gM
箱崎宮は元軍が焼き払ったの?
当時の記録では単なる火事としか扱われていないとも聞いたけど、
どの文献に載っているんだろう

返信する

326 2012/01/05(木) 11:24:17 ID:01rBnU6UsY
>>324
後世のものなんだがフロイスの『日本史』に朝鮮に関する情報として

・彼らはトルコ人のような小弓を巧みに操り、毒を入れた小箱を使用するという。

とあるから、もしかしたら高麗の兵が使ったのかもしれない。『八幡愚童訓』以外が
出していないのは戦局に影響を与えるような効果がなかったからじゃないかな?

返信する

327 2012/01/06(金) 21:22:29 ID:.MPoGXSWCY
馬を船に乗せ、博多湾から上陸し、大宰府を攻略する。
これって中世の軍隊でもそれほど難易度高い軍事作戦じゃないよね。
だって元寇の300年以上前に藤原純友が成功してるじゃん。
承平天慶の乱当時の大宰府だって半島の海賊に備えるため、それなりに防衛体制整ってたのに。
ちゃんと成功した前例があるのに元軍の失敗を作戦の難易度のせいにするなんておかしい。

返信する

328 2012/01/07(土) 20:15:24 ID:9zORllGRik
多分、三国志も大したことないぜw相当盛ってるわw

返信する

329 2012/01/08(日) 11:25:35 ID:BQCxIp0EC2
元寇も応永のも朝鮮半島からの侵略だものなあ。謝罪と賠償請求したほうがいいw

返信する

330 2012/01/08(日) 21:12:20 ID:g.6iXfrzaY
>>329
元寇のそもそものきっかけが高麗の忠烈王の進言だもんなあw

返信する

331 2012/01/10(火) 17:46:44 ID:ewtGZaN6FM:au
元寇と応永の外寇の共通点:大軍で押し寄せ、惨敗した。

返信する

332 2012/03/25(日) 15:10:15 ID:O92RKoYP5s:au
>>325
日本との戦闘後に「四方を略奪して引き上げる」と向こうの史料にあったから
おそらく元側は軍議により撤退を決めてから、箱崎の辺りを燃やして引き上げたんだと思う。
夜間での撤退だから、近隣を燃やせば明かり代わりになるし。
この時武士達は水城に引き上げてたから、ただでさえ数の上で不利だからこれを追撃するのは難しい。
八幡蒙古記は箱崎八幡宮の関係者が書いたものだけど
この中で武士達が一部除いて情けなくやられたように書かれてるのは
多分この時「なんで俺らの神社燃やされてる時に来てくれなかったんだよ!」
っていう私怨がかなり入ってるんだと思うw

返信する

333 2012/03/28(水) 19:04:24 ID:VP4P5dgq4.
>>332
「四方」じゃなくて「四境」だよ。
「四境」って国境のことで、つまり対馬壱岐。
しかも「唯四境」って対馬壱岐に限定してるわけで、元軍は九州では略奪とかしていない。

返信する

334 2012/03/29(木) 23:58:52 ID:frzBqXvcpI:au
そうなると、益々もって八幡蒙古記の記述は宛てにならないな。
やたら詳しく書かれているから信じてしまいがちだが
日蓮が書いた宗教書と似たようなもんだと思えばいいのか?

ただ、蒙古襲来絵詞と元史と高麗伝と武士達の勘状だとどれも書かれてる事が断片的だから
元軍の上陸地点や戦闘経緯が今一つ全容が分かりづらいんだよな。
高麗伝なんて壱岐や対馬での虐殺劇はやたら詳しく書いてる癖に
九州での戦闘は殆ど書かずに例の軍議のシーンだ。

取り敢えず、元軍が初戦で橋頭堡を築くのを断念した程消耗したのは確実だろう。
もし、仮に高麗伝や八幡蒙古記に書かれてるように
元軍が武士を一方的に敗走させたんなら水城や太宰府まで追撃しているはず。
やはり実際は元軍は戦闘終了の時点で作戦続行不可能な程被害を出したのか
或いは蒙古襲来絵詞や福田文書にあるように武士達との戦闘で敗れて撃退されたのだろう。

返信する

335 2012/03/31(土) 06:39:46 ID:x8NmMH9ZU.
筥崎宮に放火した疑いが一番濃厚なのって筥崎宮関係者だよ。
中世史では為政者と揉めた神社仏閣が関係者の放火で焼失ってかなり頻発してるんよ。
燃やしても再建義務があるのは為政者の方だし、宗教関係者からすれば神様仏様を
人質にとってるようなもん。
筥崎宮も当時土地の領有を巡って係争中で、何度も火災焼失をくり返していた。

そもそも八幡蒙古記よく読めば、筥崎宮って元軍の放火の被害者とは書かれてないし。
自ら出火してその炎で元軍を撃退した勝利の最大功労者として記述されてる。
「文永の役で勝てたのは筥崎宮が燃えたおかげなんだから、お前らもっと御布施しろよ」
って主張してる文献が八幡蒙古記。

返信する

336 2012/03/31(土) 10:33:45 ID:ej.lMlAT6s:au
八幡蒙古記の中で武士達が一方的にやられてるように書きながらも
少弐や菊池など一部は善戦してるように書いたのは
あんまし全部が全部、自分達八幡宮のおかげとするには
流石に後ろめたさがあったから、せめてもの良心のつもりなのかな?w

返信する

337 2012/04/03(火) 09:30:49 ID:urZ6n.WjIM
寺社関係者の恩賞クレクレが凄かったようだしな。

関幸彦『神風の武士像』(吉川弘文館)
・真夜中に箱崎宮から八幡大菩薩の使である白装束の者三千人が突如立ち現れ、おびただしい
矢を蒙古軍に放ったという。その光景は「身ノ毛モ竪テ怖シク」なるほどで、「波ノ中ヨリ猛火」が
あって、これがために蒙古軍は肝を潰し敗走したという(『八幡愚童訓』)。まさしく「神軍ノ威勢」だった。
 同様の報告は各地から届けられた。紀伊国高野山金剛峯寺の鎮守丹生明神の場合もそうだった。
弘安合戦に際し、日本国の神々も蒙古に発向することになった。天野明神(丹生明神)は第一陣として
四月二十八日丑刻(午前二時)と決し、それにむけて不動火界呪を修して神の威光を増すべし、
そうすれば、六・七月中には本朝安全なるべし、との霊托の旨が報ぜられた(『紀伊興山寺文書』
正応六年三月二十八日「太政官牒」)。

・この異国との戦争で神慮なり神威なりが、いやがうえにも高められた。日本国中の神仏を総動員しての
異国撃退の祈願、それはあたかも武士達の警護番役に対応するかのようであった。春日・住吉・日吉・
祇園の各社が、各月を分担し異国降伏の祈祷をした。
 神や仏も動員され、加持祈祷という世界で戦った。当然ながら、諸国でのこうした神々の
軍忠状に対し、武士と同様に恩賞の要求も激しかった。

・肥前国武雄社の場合もそうであった。(中略)文永合戦のときには神殿から発せられた鏑矢が賊船を射ぬき、
これがために敵は撤退したこと、弘安合戦では紫の幟が異国の船の方向に飛び去り、大風を起こしたこと、
などが述べられていた。こうした神の軍忠にもかかわらず行賞に漏れたことは、堪え難しとするものであった。

・異国合戦での神々の参陣は神の戦争を演出することで、神威を高めることにつながった。
 すでにふれた弘安七年(一二八四)の神領興行令を含め、以後の三度にわたる神領の復興運動は、神の戦争と
その軍忠に対しての当然の恩賞だった。

返信する

338 2012/04/04(水) 02:35:16 ID:JTXpiL41i6:au
文永の役は撤退中に台風が来たわけだがそもそも元軍が優勢だったら
わざわざ台風が近づいてる夜なんかに撤退なんて真似はしないでしょw
元軍にはこのままでは間違い無く殲滅されるという焦りがあったんじゃないの?

返信する

339 2012/04/09(月) 13:21:55 ID:5ptOQQJtNA
元軍の副将は重傷を負い、その日の内に撤退。
一方の日本軍は大した損害もなく博多や大宰府も無事。
これを苦戦だと言い張り続ける意味が分からない。
素直に「武士が強かったから文永の役は圧勝でした」って歴史の教科書に書けばいいのに。

返信する

340 2012/04/09(月) 21:46:16 ID:Q6ldgrMarU
武士が
船に乗り込んで
逃げ惑う船員乗員たちを切りつけて
パニック状態だったとpか 
かいてなかった_?

返信する

341 2012/04/10(火) 22:44:22 ID:w1SsjZccnk:au
それは二回目の弘安の役。

一回目は上陸して戦闘するんだが
数で圧倒的に劣る武士団に対して、緒戦で侵攻継続不可能な
レベルにまで消耗してる時点で元の負けだよ。
アホな歴史学者どもは屁理屈こねて武士の負けにしたいようだが。

返信する


▲ページ最上部

ログサイズ:197 KB 有効レス数:352 削除レス数:0





歴史掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

スレッドタイトル:元寇は鎌倉武士の実力勝ち

レス投稿

未ログイン (ログイン

↑画像ファイル(jpg,gif,png)