元寇は鎌倉武士の実力勝ち


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001 2010/03/09(火) 10:22:30 ID:FBqpTU/2Fc
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ

八幡ノ蒙古記

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343 2012/07/05(木) 18:55:37 ID:gbJSmfmsBM:au
そもそも八幡蒙古記の記述って竹崎季長の記述と矛盾しまくりだからな。

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344 2015/12/20(日) 14:18:19 ID:kGh6z8yK.g
おもしろい
良スレ

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345 2017/07/19(水) 23:56:11 ID:ZruFec2AXE
あーげときますかー

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346 2017/09/22(金) 12:31:15 ID:bR/EYieutI
新史料がいくつか見つかったお陰で、文永の役についての謎は解けた。

1274年10月20日、博多湾の早良郡から上陸したモンゴル軍は2手に分かれ、洪茶丘と金方慶が今津方面へ、忽敦と劉復亨が博多方面へ侵攻。
で、博多を目指してたモンゴル軍主力部隊は百道原付近で日本軍と交戦して完敗。
劉復亨は少弐景資に射られて重傷を負い、忽敦は「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん」と言って今津へ逃げ込む。
日本軍は勝ちに乗じて今津のモンゴル軍を攻め立てたが、日が暮れたので兵を引いた。
残されたモンゴル軍は軍議を行ったが、忽敦が「兵法に、「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。疲乏の兵を策して、日ごと滋すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と撤退を決断。
その夜、悪天候の中行われた撤退作業により戦艦の多くが岩に触れて座礁。
翌21日午前6時頃にモンゴル軍は博多湾から撤退したが、その後には所々に100余艘の漂着船が残されていた。

まさに日本軍の圧勝。
苦戦と呼べる要素などどこにもない。

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347 2017/11/01(水) 00:02:23 ID:yb4JI3.PK2
>>342
まあ戦術的な威力偵察ってのはよくあることだけど
戦略的な威力偵察なんて歴史上どこにも無いわけで

反日学者の言う「文永の役全部が偵察だー」とか軍事音痴丸出しなんだよね

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348 2019/12/08(日) 09:02:19 ID:jJygETun6Y
日本がいなかったらモンゴル軍は東南アジアも征圧してた。

鄭思肖『心史,雑文,大義略叙』
「辛巳六月, 韃兵由明州渉海,至倭口,遭大風雨作,人与船倶陥,叉大敗而回。 倭遣使責占城不戦而附韃 。占城有悟意,始背元韃。」
(1281年6月、モンゴル兵は明州から渡海したが、日本の入り口で大雨に遭って人も船も沈み、またしても大敗した。
日本はチャンパに使者を遣わして戦わずにモンゴルの属国でいることを責めた。チャンパはモンゴルに背く決意をした。)

ベトナムは日本に感謝にないといけないね。

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349 2021/07/10(土) 20:25:48 ID:yh/Ipxzpko
元寇にモンゴル兵はほとんどいなかったとか大嘘だった。
『元史』によれば元寇に参加したモンゴル兵は40万人。

『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本」

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350 2023/01/06(金) 01:07:45 ID:DA2ylb3.fc
今までの元寇研究が根本的に間違っていたのは、渡海侵攻では制海権の確保が死活問題だから、
元軍には陸戦部隊の他に「船師」「水軍」などと呼ばれる海戦部隊がいたことを理解してなかったこと。
よく考えないで、史料の「船師」「水軍」の数字が実数でその他の数字は誇張されたものなんて理解で
済ませてきた。
当然、海戦部隊は朝鮮人や中国人がほとんどになる。
でもその他に陸戦部隊としてモンゴル人部隊が存在したことを無視してきたんだ。

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351 2023/01/06(金) 10:29:18 ID:YHFonP7P66
具体的に言うと、文永の役の兵数について『元史』には、副官として従軍した劉復亨と洪俊奇の伝に、
それぞれ別々の数が書いてある。

巻一百五十二 列傳第三十九 劉通・附劉復亨
「遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本」

巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇
「與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本」

この場合、「軍四萬」が遠征軍の総数で「舟師二萬」がその内の海戦部隊の兵数だ。
ところが今までの研究者たちは「舟師二萬」を遠征軍の総数だと誤解し、「軍四萬」は誇張された数字だと
スルーしてきたんだ。
「舟師二萬」は海戦部隊だから、当然ほとんど朝鮮人になる。
それで元寇は朝鮮人が主力で、モンゴル兵はほとんどいなかったなんて間違った説明をしてきた。
残り2万人の陸戦部隊、本来こっちが主力でほとんどがモンゴル兵の方は無視されていたの。

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352 2024/01/15(月) 05:49:38 ID:tCDJ7zgs6Y
「舟師」とは海戦部隊、これを念頭に置くと弘安の役の実態は定説と全く違うものになる。
文永の役では遠征軍4万人の内半数が「舟師」だったが、弘安の役の東路軍は全軍が「舟師」だった。

『元史」巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇
「十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進」

一方、中国から出航した江南軍も「舟師」だった。

『元史」巻一百六十五 列傳第五十二 張禧
「時朝廷議征日本,禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞范文虎、左丞李庭同率舟師,泛海東征」

江南軍が海戦部隊であったことは、指揮官の范文虎が砲兵や騎兵の配備を要請した際、クビライから海戦に必要ないとの理由で却下されたことでも裏付けられる。
しかし、東路軍も江南軍も海戦部隊では、日本を征服することはできない。
東路軍と江南軍の他に陸戦部隊が存在しないと、作戦として成立しないんだよ。
で、史料の中には日本征服のための陸戦部隊がちゃんと存在する。

『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本,行次慶元,卒于軍中。」

この蒙古軍40万騎こそが弘安の役の真の主力部隊。
阿剌罕は弘安の役の総司令官だから、その指揮下に主力部隊があるのは当たり前。
この蒙古軍40万騎は弘安の役で壊滅しちゃったけど、それが無かったらマジでモンゴル帝国が全世界を征服していたかもね。

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