近代東アジアを明治年号で鑑みるスレ
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001 2023/02/22(水) 04:01:10 ID:gUqleeTtgI
097 2026/01/23(金) 04:03:27 ID:zetRnKPRD6
>>96 台湾は1949年から約40年間にわたる戒厳令(国民党による一党独裁)という権威主義体制から、平和的かつ段階的に民主化を達成した世界的にも稀有な事例。
1980年代中頃から蒋経国が自由化路線に転じ1987年の戒厳令解除に至る道を開き、美麗島事件(1979年)などを経て、民間の民主化要求が強まり、1986年には反体制派が民主進歩党(民進党)を結成しました。
蒋経国の死去後、初の台湾人総統となった李登輝が、平和的に憲法改正や議会改革を推し進め、1996年には中華民国史上初の総統直接選挙が実施され、民主化が本格化しました。
フィリピンのエドゥサ革命 大規模なデモや市民の非暴力抵抗によって民衆運動が権威主義政権を退陣させました。
ベトナムは 1986年から続く「ドイモイ(Doi Moi)」政策で 共産党独裁ですが市場経済・国際協調」に完全に入れ替え米国と和解し、経済制裁を解除させることで、国民に「豊かな生活」という実利を提供
しかし政治的な民主化(複数政党制など)は行っていません。
インドネシアはスハルト独裁体制下でしたが1998年の民主化運動(レフォルマシ)後に軍の二重機能(政治・軍事)を廃止し軍を純粋な国防組織に再編しました。
急進的な破壊ではなく、数年かけて段階的に軍の利権を剥奪しつつ、プロフェッショナルな軍隊としての誇りを持たせました。しかし近年は2024年の大統領選を経て発足したプラボウォ政権下で、縁故主義や司法の独立性の低下が懸念されています。
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098 2026/01/23(金) 04:21:44 ID:zetRnKPRD6
>>97 南米の事例
ブラジルの軍事政権(1964-1985)は 軍部自ら「緩やかな開放(アベルトゥーラ)」を宣言し、数年かけて段階的に文民へ権力を移譲
アルゼンチンは軍事政権が経済失政とフォークランド紛争の敗北で一気に崩壊し、旧軍部による弾圧(汚い戦争)の責任追及が激しく行われ、社会に深い亀裂を残しました。
チリは軍事独裁下でシカゴ学派による経済改革が行われ、経済は成長しましたが、政治的自由はありませんでした。
経済成長によって育った「近代的で教育水準の高い市民が、最終的に国民投票でピノチェトを退場させました。
他の南米諸国は「軍・イデオロギー・経済利権」の三すくみを打破するための、より過激な教訓(成功と失敗の両極端)が揃っており、「一歩間違えればこうなる」と恐れるリスクのカタログでもあります。
グローバルサウス諸国の「共通の成功法則」
「外圧」を「内政改革」の追い風に変えた: 制裁や孤立を「チャンス」に変えるため、旧勢力(藩)に妥協を迫った。
軍・特権階級に「新しい役割」を与えた: 単に追い出すのではなく、経済発展の担い手や専門的な国防組織としての「再雇用(在庫整理)」先を用意した。
「中間層の台頭」を認めた: 経済発展によって育った近代的な市民の声を、少しずつ政治に反映させる仕組みを作った。
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099 2026/01/23(金) 04:25:54 ID:zetRnKPRD6
>>98 ベトナムは「経済」だけを近代化した。
インドネシアは「制度」を近代化したが、運用に苦労している。
エチオピアは「統合」を急ぎ、混乱に陥った。
エチオピア:地方軍閥から「国家連合」への模索 アフリカのグローバルサウスのリーダー格であるエチオピアも、古い軍事政権の解体と近代化に挑んでいます。
アビィ・アハメド首相による「繁栄党」の結成と、地方軍閥の統合。 民族ごとに「藩」のように分かれていた武装組織を、一つの国民政党と国軍に統合しようとする試みです(現在も途上ですが、大きな転換点です)。「過去の対立」を精算し、周辺国(エリトリア)との和解を進めることで、エネルギーを国内開発に集中させ、「民主化の希望」と呼ばれましたが、現在は厳しい現実に直面しており 2026年6月に総選挙を控えていますが、ティグレ、アムハラ、オロミアといった各地方での内戦や混乱が続いており、「自由で公正な選挙」が行えるか極めて危うい状況です。
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100 2026/01/27(火) 05:08:36 ID:ArSg7X6EdU

第一次世界大戦って何で起きたの?
三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア) ドイツがフランスを孤立させるために結んだ、軍事的な相互援助体制
三国協商(イギリス・フランス・ロシア) ドイツの急速な台頭(海軍力の強化や植民地拡大)を恐れた3か国が、協力して対抗するために結成
帝国主義時代はアフリカやアジアなどの植民地をめぐっても激しく対立していた世界規模の利権争い
もし一国が戦争を始めたら、同盟国として参戦せざるを得ない」という連鎖ができていたため、サラエボという一地方の事件が大戦へと発展
(お互いに攻撃受けたら絶対に参戦しますよって約束で本来ならこれで戦争は抑止出来たけどどっちが先に手出したかよく分からん紛争を切っ掛けに戦争が始まってしまい他の国も同盟だからしゃーないって参加することになって他の連中も全員同盟の参戦ルールが発動して世界レベルの戦争になった)
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101 2026/01/27(火) 05:10:51 ID:ArSg7X6EdU
>>100 当初、イタリアはドイツ・オーストリアと「三国同盟」を結んでいましたが、開戦時(1914年)には「この戦争は同盟義務が生じる防衛戦争ではない」として中立を宣言し「未回収のイタリア」問題の為に翌年宣戦布告し連合国の一員として多大な犠牲を払って戦いましたが、1919年のパリ講和会議で米大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」の原則が優先され、イタリアの期待は裏切られ領土獲得は認められませんでした。国民はこれを「裏切られた勝利」と呼び、政府への不満を募らせました。この社会不安が、ファシズムを掲げるムッソリーニの台頭を招く直接的な原因となりました。
日本は日英同盟に基づき、開戦直後に連合国側として参戦しました。これは、ヨーロッパの主戦場から離れた東アジアや太平洋におけるドイツの権益(青島や南洋諸島)を獲得することが主な目的でした。
当初は中立だったオスマン帝国とブルガリアは同盟国側への参加し、アメリカ合衆国も当初は中立を保っていましたが、ドイツによる無制限潜水艦作戦(中立国や民間の船も無差別に攻撃する)や、メキシコにアメリカへの攻撃を促す「ツィンメルマン電報事件」をきっかけに、1917年に連合国側として参戦し、戦局を決定づけました。
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103 2026/01/31(土) 16:11:40 ID:3AQDLyqgfc
>>92 薩摩長州土佐肥前といった藩閥による独裁政治だった当時
1873年(明治6年)の徴兵令の告諭の中に「血税」という言葉があったため、当時の人々は「本当に生身から血を絞り取られる」と誤解し、西日本を中心に「血税一揆」と呼ばれる激しい暴動が起こりました。
士族(元武士): 「農民と同じ兵隊になれるか」という特権意識から徴兵制に反対し、これが士族反乱(西南戦争など)の一因にもなりました。
平民(農民): 働き盛りの若者を数年間も奪われるのは、家計にとって大打撃でした
日清戦争(1894年)初の大規模な近代戦争での勝利により、兵役を「国民の栄誉」とする価値観が浸透し始めました
日露戦争(1904年)で「国民皆兵」が定着するまでには、約30年にわたる政府と国民の攻防がありました。
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104 2026/02/11(水) 18:35:25 ID:cCGAO.nHXs
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