海外では侍と持て囃されるが、本当の実態は


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001 2025/03/13(木) 22:03:09 ID:iBQXnQvHpE
どうなんだろう 過剰評価されてないか?

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002 2025/03/13(木) 22:08:37 ID:iBQXnQvHpE
映画やドラマで美化されすぎだろ、

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003 2025/03/13(木) 22:18:13 ID:0Cl..4Bn/Y
江戸時代の侍(武士)と戦国時代のそれとは違うだろうな。
今でいう(古い言葉だが)DQNみたいなのが跋扈してたんじゃない?

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004 2025/03/13(木) 22:22:01 ID:WnKFUDr5Cg
そもそも、江戸時代の武士は全人口の10数%。
それなのに、現代の日本人の全員が武士の末裔かのように
外国人も日本人も思い込んで、武士、サムライを持ちあげてんのバカみたい。
お前らのほとんどはドン百姓で、武士から搾取されてたのによ。
サムライジャパンとかやめろ、恥ずかしい。

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005 2025/03/13(木) 22:24:41 ID:te1EXPHBtE
識字率だよ
WW2時代でさえ一兵卒の日記なんかが残ってるのは日米欧だけ

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006 2025/03/13(木) 22:25:37 ID:WnKFUDr5Cg
2みたいに戦場で乱捕りしてんのは武士じゃないからな。
足軽、中間といった最下層の一兵卒は武士じゃないからな。
もちろん、名のあるれっきとした武士が乱捕りしなかったってわけじゃないけど。

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007 2025/03/13(木) 22:38:45 ID:iBQXnQvHpE
半農半士とか普段は農民 戦が起これば鍬を刀に持ち変え戦場で殺し合う、又、身分によっては武士の自覚もピンキリなのか

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008 2025/03/13(木) 22:42:22 ID:iBQXnQvHpE
サムライジャパンとかサムライ◯◯の呼び方が恥ずかしい時がある、

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009 2025/03/13(木) 23:16:47 ID:vwUTJ9XXs.
気にすんな
他も似たようなもんだ、脚色も、功罪も・・

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010 2025/03/13(木) 23:33:18 ID:jT6A5GOIUc
この絵巻で乱痴気してるのは在日韓国人だよ
日本人じゃない

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011 2025/03/14(金) 05:48:38 ID:D.taIWjnHA
Soldierと言ったら
外敵から国、国土、文化、伝統や
国の構成員たる個人の生命・身体・財産を守る
重要な仕事に従事している人のことでしょう
武士もウクライナのコサックも
同じように考えればいいんじゃないのかね・・・
Armyの最小単位がSoldier
それぞれのSoldierが恐ろしく強いというのだから
推して知るべし (^。^; )

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012 2025/03/14(金) 06:22:32 ID:rv/OKgno7Q
古代の世界史観では非常に温厚な民族集団であった縄文時代の日本
なぜそこに世界にも希にみるバーサーカーが出現したのか

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013 2025/03/14(金) 07:25:23 ID:UJnbbVg4lU
道が付く稽古事には物事を深く考えどう行動するべきかを探求する場である、習い事の上達のみならず道徳観をも考える日本人独特の修行の場である。武士である事よりその考えを追求する全ての日本人はやはり誇るべきだ

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014 2025/03/14(金) 07:37:52 ID:jPRK4QL7Fk
隣の国のドラマも大概酷いなと思うが、これは特に珍しくなく世界共通なんだな、映像作品では仕方ないか、

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015 2025/04/06(日) 13:12:54 ID:w3WBIwIxwk
こんな話は簡単に纏めろという方が無理で

ただ、日本は世界を見渡してもレア中なレアで「易姓革命」が起こらなかった。
どの時代でも、常に「朝臣」つまり天皇の臣下だった。
無茶苦茶な統治もなければカオスな社会情勢もなかったのは万民が天皇の臣下だったことが大きい。

とはいえ戦国以前、具体的には南北朝時代の戦と言えば熱した糞尿を掛け合う等々
また治承寿永の乱(いわゆる源平合戦)では東軍側が戦の不文律を破って「水主」に矢を射るなど
勝てばなんでも良いという野蛮で無作法な戦い方をしてきたのが「武士」

そして江戸期になって太平の世になったからこそ武士に道がついて「武士道」になった。
現実に生きるか死ぬかの世ではなくなったからこその余裕から道が付いたんだな。
剣術でも弓でもなんでも生きるか死ぬかの局面で「作法」など語ってられないから。
余裕ができたから「作法」が尊ばれ武士道が成立する。
(続く)

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016 2025/04/06(日) 13:16:26 ID:w3WBIwIxwk
(続き)
諸外国と比べても日本の”美化”は上から数えて1番か2番というレベルで「マシ」で良い方。
中世の欧州貴族(騎士)なんて風呂は入らないわカニバル(人肉食)するわ黒歴史のオンパレード
中国は良い方で韓国史などは99%が捏造。そもそも今の半島の住民は朝鮮族ではない(女真族)。

あと江戸期で言えば藩士(家人)、幕臣、土豪、名字帯刀を併せても多くて3割。
残りは町民や農民なんだが、今でいう戸籍制度の存在と土地だけでなく人の統治も完璧に為されていたので
価値観や社会通念が共有され慣習や行動様式に共通項が多い。
欧州やアジアの他国(特にロシアの農奴や朝鮮の農奴)と違い人と人以下という社会的な分断が少ない。
百姓一揆の連判状を血判付きで書くなど百姓と言っても武士に近い価値観や行動様式が数多くある。

ま、一億総武士道でも十分に良いレベルだと思うぞ。

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017 2025/04/06(日) 13:45:55 ID:w3WBIwIxwk
画のような「傘連判状」は誰が首謀者か?明確にしないようにしたものだけど
傘状に限らず「百姓一揆の連判状」は枚挙に暇がないほど現存している。
ひとつは百姓と言えども字が書けた、字が読めたことに加え「行政手順を踏んでいた」こと。
(主に米の)打ち壊しでさえ事前に通達してから暴動を起こしていた。
諸外国のような正に「暴徒」ではなかった。

誰もが思い、感じるように「教育の賜物」なんだが、その過程において「武士の価値観」が大きく
影響していて農民の反乱・・・首謀者・実行犯の処刑・・・殉死
こんなことが末端の津々浦々にまで浸透し共有されていたのは日本くらいなもので
誤解を恐れずに言えば「武士道の国」と言っても過言ではないレベル。

江戸時代の初期の日本の総人口は1200~1400万人
大坂の陣に集まった浪人の数が2回合わせると約16万人
その他にも長曾我部や立花や福島など取り潰された家の家人だけでも約50万人
少なく見積もって(元)武士、足軽ではない(元)武士が人口割合としては20人に1人程度いた計算。
彼らの多くが帰農してコミュニティの長(おさ)になり社会通念や慣習や価値観を流布する。

島国であり他国の侵略を許さなかったちう地勢学的な利点と教育。
基準を緩めれば江戸期以降の日本国民に共通すると言っても過言ではないレベル<武士道
特に他国、特にお隣の半島国家などと比べると「一億総武士」と言いたくなるレベル(笑)

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018 2025/04/06(日) 14:11:27 ID:w3WBIwIxwk
因みに戦国時代の最盛期の戦場での死因、ていうか凶器というか
最も致死に貢献したのが弓、次に槍、次いで「鎧どおし」と言われる短刀。

現代風に言うと世帯主の家人は従者を複数名、引き連れていた。
戦場では、その従者が敵の馬乗り武士なら馬から落とし、歩兵なら引き倒し抑え込んだところを
世帯主が鎧どおしという短刀で喉元を突く。
これが本来的で標準的な戦場での戦いで刀(太刀)など殆ど使われなかった。

中世の騎士は別の意味で従者と「犬」を連れていた。
理由は一度倒れると起き上がれないから従者、その間に敵を寄せ付けない為の犬。
まぁ、あんな鎧は歩行さえも困難だけどね。

武士の従者は身分的には下位の下位だったけど前田利家の従者で最終的に家は加賀藩の家老職を
世襲した村井長頼のように主人と共に上り詰めるような人もいた。 

ま、何が言いたいか?といえば、少しは知見と知識を持って語った方が良いよ<<1

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019 2025/04/06(日) 21:16:00 ID:w3WBIwIxwk
江戸時代には町人や農民が武士の「株」を買って武士になる行為が横行した。
後に勝海舟を生む男谷家は10代将軍徳川家治の頃に農民出身の盲人で高利貸で
財を成した初代が旗本株を買い旗本になって後には代官や奉行を輩出する家になっているが
江戸期を通して御家人や旗本に同心株などは盛んに取引され累計だと数万人単位で
身分の流動性がみられる。

身分の流動でなくとも、かの土方歳三は農家の子で豪農が故に名字帯刀の家系ではあったが
幼少期から剣術道場に通い武道を窘めていたし、渋沢栄一も同じ。
要するに、江戸期の日本は農民や町人と武士の垣根が低く互いの行動様式が被っていた。
農村で村役(名主や庄屋から数えると3番手)でさえ役人と会う時には裃と袴を着用し
諸所の様式も武家流に従っていた。

他方、お隣の韓国は?といえば両班、中人、奴婢が固定され奴隷である奴婢は法律上
1910年の日韓併合まで続いた。奴婢相互だけの通婚が認められ,その子も奴婢とされ
売り買いの対象として常に売買されていた。
実態としてはアメリカの黒人奴隷に勝るとも劣らない劣悪な社会制度が1910年まであったわけ。


我々のように実態が解らないものがモンゴルの草原を駆ける人々を見ると「蒼いオオカミの末裔」
と思うだろう。実際は部族、血縁を最優先する民族なのでヌルハチやチンギスカンの末裔か?否か
解らないけれどモンゴルの末裔だとか草原のオオカミのDNAを感じる等々・・・更には
モンゴルから来た力士を「蒼いオオカミ」に重ねたりもしている。

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020 2025/04/06(日) 21:17:46 ID:w3WBIwIxwk
欧州や中国に韓国などの実態からすれば日本はモンゴル以上に「全員がサムライに見える」のだよ。
で、事実、上に書いたように特に江戸期以降は武士と町民や農民の行動様式は非常に近似していて
韓国や中国のように交わることがない分断された社会ではなかったのよ。
現実問題としても北欧の民を見て「バイキングだあ」とかアメリカ人を見て「カウボーイだあ」とかと
比べても事実として日本人の方が「サムライ」に近い根拠があるわけ。

家長の下で正月を祝い、先祖累代の墓を守り等々
生まれて即、売りに出されて家族を持つという概念がない奴婢が多数を占めていた国を見た後に
日本を見ると「国民全員が武士に見える」も強ち不思議ではなかったわけ。

まぁ、実際には「悪代官」などいなかったし、武士が一方的に農民を搾取する国でもなかったし
もちろん例外的な事案は散見できるが、士農工商もさることながら搾取される農民とか
それこそ時代劇の見過ぎじゃないのか?(笑)

>>1に関しては、外国人が日本と日本人を見て
という事に限れば、エビデンスを伴う「日本人は全員がサムライに思える」根拠があるんだよ。

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021 2025/04/10(木) 03:48:14 ID:GychV2ac3s
>>15
「万民が天皇の臣下だった」歴史に詳しい人のようだけど、そのような事実は決して存在しない。
一口に武士(サムライ)と言っても、時代や身分によって性格が異なるが、いつの時代であっても
武士が忠誠を尽くすのは自分の主人、つまり同じ武士だ。その武士の頂点に立つのが将軍だ。その
意味では、すべての武士は将軍の臣下であるという理屈は成り立つが、武士が天皇の臣下であると
か、ましてや万民が天皇の臣下であるというような事実は、どんな歴史を探しても見当たらない。
そのような絵空事が事実と信じられるようになったのは、明治維新以降だ。

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022 2025/04/10(木) 04:44:15 ID:GychV2ac3s
日本史の特異な時代として、室町時代前期の南北朝時代というのがある。これは、天皇親政を
目指す後醍醐天皇と、実質的な政治の担い手である武士の政権を維持しようとする足利尊氏ら
が争った時代だ。両者の戦いは、表面上は天皇対武士だ。これを後世の歴史改竄や物語・小説
によって、あたかも天皇の統治を是とするか、武士の政権を是とするかの統治システムの是非
を巡る争い、すなわちイデオロギーの衝突であるかのような解釈が流布されることになるが、
もとより著しく誤った解釈だ。そもそも実際の戦いを行なうのは、武士達だ。武士同士がなぜ
命を懸けて戦うかと言えば、それは利害だ。最も端的な利害は、土地の所有権だ。仮に土地の
所有権をめぐる裁判や、或いは恩賞の多寡に関する不満があったとしても、鎌倉幕府盤石の時
代には、それを表立って問題にすることは難しかった。しかし、南北朝動乱の時代が到来する
や、南朝と呼ばれる後醍醐天皇側も、北朝と呼ばれる足利幕府側も、自らの戦いを有利に進め
るために、より好条件で武士達に参戦を求めた。馳せ参じた武士達も、自らの利権を守り、あ
わよくば新たな利権を獲得したいと願い、参戦した。これが、南北朝動乱の実態だ。

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023 2025/04/10(木) 05:34:54 ID:GychV2ac3s
>>1>>2
絵の中の武士は足軽と呼ばれる傭兵だ。最も身分の低い武士で、特に戦乱が続いた室町時代
には傭兵が盛ん行われた。戦乱の時代と相まって、モラルの低い連中が多かった。戦乱期の
足軽に武士の性格を象徴させるのは、いささか無理がありそうだ。「名こそ惜しけれ」という
言葉は既に鎌倉時代に存在したらしい。改めて説明するまでもなく、この言葉の意味すると
ころは、名誉をことのほか重んじる武士気質だ。ただし、一方でこの名誉を重んじる気風は、
時に実利とも結びついた。戦場で勇敢に戦い手柄を挙げれば、個人の名声を得ることが出来
るのはもちろんだが、同時に一族郎党の繫栄にもつながった。名誉に対する執着が戦場での
手柄から、主人に対する無償の奉仕に変質するのは、戦乱が終局し天下泰平の時代を迎える
江戸時代に入ってからだ。

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025 2025/04/10(木) 19:40:17 ID:8dlP0mMFgE
>>21
バカですかあ?
個別事案を示しても理解する知見はないようだから割愛するが
>すべての武士は将軍の臣下であるという理屈は成り立つが
その征夷大将軍は天皇が任命し天皇の臣下で
そもそも武士自体が律令制度の下で活動していたわけで
まさしく武士(武家)は天皇の臣下である証なんだな。
頼朝は右兵衛権佐という官位を関東武士団を束ねる際の拠り所にしたし
しかも右兵衛権佐は従五位上という下級貴族相当の立場。
徳川家康も織田信長も皆、天皇に従属することを誓い官位を得た。
豊臣秀吉に至っては関白という正に天皇の臣下になった。
家康は内府=内大臣、信長は弾正(時に織田弾正と呼ばれる所以)、
と武士(武家)はいつの時代も天皇を頂点とする律令制下の太政官制に
基づき臣下(有体に言えば家来)になりたがり、そのために様々な労力を費やしている。

ただ一人だけ例外がいる。
室町幕府3代将軍の義満は天皇と同列に並ぶことを画策した。
が、結果は歴史が示す通り成就しなかった。
ま、>>21程度の知見だと知り由もないだろうが

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026 2025/04/10(木) 19:48:53 ID:8dlP0mMFgE
日本の歴史上の常なんだが
最も分かり易い例を挙げると
江戸幕府には直参制度という制度があり旗本(直参ではない御家人も含む)や大名は
幕臣(または直臣)と呼ばれた。幕府の直接の臣下という意味でね。
他方、大名家の家臣は陪臣と呼ばれた。臣下である者の、そのまた臣下という意味。

我が国では一度たりとも易姓革命が起きていない。
我が国の歴史は常に天皇が統治し臣下である貴族や武家が治世を行って来た。
全国民が天皇の直臣または陪臣なんだよ。

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028 2025/04/10(木) 20:07:45 ID:8dlP0mMFgE
武士や貴族に限らず、また時代を問わず
人が人を率いる際の要因、理由は
・経済力や武力など
・(儒教思想に基づく)年長者
・人徳
・(会社など)組織の中での立場

頼朝が蜂起した際の状況を考えると、流浪の身である頼朝に経済力や武力はない。
束ねた東国武将の構成からしても年長者ではない。
人徳は定かではないが(笑)
天皇を頂点とする律令制下の太政官制という、いわば巨大な会社の中での役職
これこそが頼朝を求心力を与えたわけ。

近年、源平合戦ではなく治承寿永の乱と呼ばれる理由として東軍は頼朝の一家以外は
千葉氏も三浦氏も北条氏も熊谷氏も畠山氏も・・・すべて平氏だったから。
東軍の9割以上が平氏なので敢えて言うならば源平ではなく平平合戦が正しい。
よって源平合戦とは言われなくなっている。

そんな中で武家の棟梁とはいうものの単に源氏のなかの一派の棟梁に過ぎない。
武家の棟梁は平氏にもいる。
そこで正当性を示すのが官位だったわけ。大きな大きな会社組織の中での役職ね。
千葉氏も三浦氏も北条氏も熊谷氏も畠山氏もすべて頼朝よりも下の役職だったから
頼朝につき従ったと。で、その会社の社長は天皇で会長は上皇だったわけ。

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029 2025/04/10(木) 21:50:28 ID:s.Op1PioAg
>>25
>>21よりも>>25の方が説得力がある。
武士も含めて全国民が天子様の臣下で間違いないと思う。
が、それとは別に>>22-23がいう武士道を構成する
重要な要素である忠義についてはどうなの?

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