>>86 その教科書の文永の役
文永十一年(紀元一千九百三十四年)、第九十一代後宇多(ごうだ)天皇が御位におつきになると、
その年の十月、果して元・高麗の兵約二万五千は、九百隻(せき)の艦船をつらね、朝鮮の南端から
攻め寄せて来ました。
敵は世界最強をほこる元であり、従つてわが国としては、かつてためしのない大きな国難であります。
思へば鎌倉武士が、日夜ねりきたへた手なみを、御(み)国のためにあらはす時が束たのです。敵は
まづ対馬(つしま)をおそひました。宗助国(そうすけくに)が、わづかの兵でこれを防ぎ、ことごとく
壮烈(さうれつ)な戦死をとげました。
そこで敵は、壱岐(いき)から博多湾へせまり、つひに上陸をあへてしました。筑紫の武士は、力のかぎり
戦ひましたが、敵のすぐれた兵器、変つた戦法になやまされて、なかなかの苦戦です。しかし、
日本武士の魂(たましひ)が、果して、かれらの進撃をゆるすでせうか。身を捨て命を捨てて、防ぎ戦ふ
わが軍のために、敵はじりじりと押し返されて行きます。
この奮戦が神に通じ、博多の海に、波風が立ち始めました。敵は海上の船を心配したのか、それとも、
わが軍の夜討ちを恐れたのか、ひとまづ船へ引きあげて行きました。夜にはいつて、風はますます
はげしく、敵船は、次から次へと、くつがへりました。中には、逃げようとして、浅瀬に乗りあげた船も
あります。敵は、残つた船をやつと取りまとめ、命からがら逃げて行きました。これを、世に文永の役と
いひます。
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