元寇は鎌倉武士の実力勝ち


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001 2010/03/09(火) 10:22:30 ID:FBqpTU/2Fc
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ

八幡ノ蒙古記

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078 2010/04/12(月) 11:52:54 ID:gxbF.8fG1Q
単に研究がすすんで新しい説が出てきただけだろう
なんでもかんでも自虐教育のせいにするもんでもない

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079 2010/04/12(月) 13:37:26 ID:uhciB3TMrQ
>>78
いや、自虐教育のせいだよ。
鎌倉武士が実力で元軍を撃退したというのは「新しい説」じゃないから。

江戸時代の歴史書、『日本外史』に記された文永の役
「(文永)十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。地頭宗助国、これに死す。
転じて壱岐に至る。守護代平景隆、これに死す。事六波羅に報ず。鎮西の諸将をして、
赴き拒がしむ。少弐景資力戦し、射て虜の将劉復亨を殪す。虜兵乱れ奔る。」

戦前の昭和天皇の歴史教科書、『国史』に記された文永の役
「元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。」

比較すれば現在の歴史教科書がどれだけ自虐史観に毒されてるか一目瞭然だろ。

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080 2010/04/12(月) 14:09:28 ID:gxbF.8fG1Q
戦前の教科書を持ち出すなよw

「鉄砲三段撃ち」であるが、これは映画『影武者』のラストシーンにも登場した有名な戦法である。
しかし、実在は疑問視されている。
『信長公記』では鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとだけ書いてあり、具体的な戦法、つまり三段撃ちを行ったという記述はなく、最初の記述は江戸期に出版された通俗小説に見られる。
それを、明治期の陸軍が教科書に史実として記載したことから、一気に「三段撃ち」説が広まったものとされる(これは「大日本戦史」として1942年に出版されていたので、所蔵する図書館もある)。

戦前の教科書なんてこんなもん




『日本外史』wikiより
情熱的な文章であった為に広く愛読されたが、参考史料として軍記物語なども用いているため、歴史的事実に忠実であるとは言いがたい記事も散見する。
言い換えれば、史伝小説の源流の一つと言い得る。

だってさ

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081 2010/04/12(月) 14:31:19 ID:uhciB3TMrQ
>>80
それでも、戦後の歴史教科書よりも元寇に関する記述は遥かにマシ。
如何に現代の自虐教育が悲惨な状況かってことだろ。
戦前の記述を笑う資格なんてないよ。

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082 2010/04/12(月) 14:57:56 ID:oCp3PXgKMs

戦前は神風が元軍を撃退したという考えだよ。
外国を打ち払うという意味で新風特攻隊の語源になったほど。

戦前は、「すべては天皇陛下のおかげ(神風のおかげ)」

戦後は、「嵐が来て勝手に自滅した」

つくる会は、「神風(天皇)のおかげではない。武士の実力で追い払った」

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083 2010/04/12(月) 14:59:11 ID:gxbF.8fG1Q
戦前の教科書は天照大神からはじまってるし問題外だよ
元寇の記述に関してはGHQが変えたんだな
元寇に関してはGHQはやりすぎだとは思うけど日本史全体としてみれば戦前の神話を事実とするような皇国史観よりははるかにマシ

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084 2010/04/12(月) 15:15:16 ID:oCp3PXgKMs
訂正>>82
つくる会は暴風雨の影響も勝因としていた。すまん。

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085 2010/04/12(月) 15:31:49 ID:uhciB3TMrQ
>>82
戦前は、「すべては天皇陛下のおかげ(神風のおかげ)」というのも実は戦後広められた嘘だし。
戦前の元寇教育で一番強調されていたのは鎌倉武士の勇敢さだよ。

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086 2010/04/12(月) 15:49:01 ID:oCp3PXgKMs
昭和18年國定歴史教科書

 紀元一千九百四十一年、弘安四年五月に、まづ兵四万・艦船九百隻の東路軍(とうろぐん)が、朝鮮から博多へとせまりました。
河野通有(かうのみちあり)・菊池武房(きくちたけふさ)・竹崎季長(たけざきすゑなが)らの勇将は、石塁によつて、一歩も敵を上陸させません。
夜になると、闇にまぎれて小舟を進め、敵艦をおそつて火を放つたり、帆柱を倒して船中へ斬りこんだり、さんざん敵をなやましました。

 おそれ多くも亀山上皇は、皇大神宮に、御(おん)身を以て国難に代ることをお祈りになりました。
社という社、寺といふ寺には、真心こめた国民が満ちあふれました。七月になると、つひに兵十万・艦船三千五百隻の江南軍(かうなんぐん)が押し寄せて来ました。
さきに来た東路軍と合(がつ)して、敵艦は博多の湾をうづめつくしました。

 大日本は神国であります。風はふたたび吹きすさび、さか巻く波は数千の敵艦をもみにもんで、かたはしから撃ちくだき、くつがへしました。
わが将士は、日ごろの勇気百倍して、残敵をおそひ、たちまちこれをみな殺しにしました。

 敵艦全滅の報は、ただちに太宰府(だざいふ)から京都へ鎌倉へと伝へられ、戦勝の喜びは、波紋のやうに、国々へひろがりました。
世に、これを弘安の役といひ、文永の役と合はせて、元寇と呼んでゐます。

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087 2010/04/12(月) 15:59:51 ID:oCp3PXgKMs

 思へば元寇は、国初以来最大の国難であり、前後三十余年にわたる長期の戦でありました。
かうした大難を、よく乗り越えることのできたのは、ひとへに、神国の然(しか)らしめたところであります。
時宗の勇気は、よくその重い務(つと)めにたヘ、武士の勇武は、
みごとに大敵をくじき、民草(たみくさ)もまた分に応じて、国のために働きました。

 まつたく国中が一体となつて、この国難に当り、これに打ちかつたのですが、
それといふのも、すべて御稜威(みいつ)にほかならないのであり、
神のまもりも、かうした上下一体の国がらなればこそ、くしくも現れるのであります。

 神のまもりをまのあたりに拝して、国民は、今さらのやうに、国がらの尊さを深く心に刻みつけました。
また、世界最強の国を撃ち退(しりぞ)けて、国民の意気は急に高まり、
海外へのびようとする心も、しだいに盛んになつて行きました。

 今、福岡の東(ひがし)公園をたづねて、亀山上皇の御尊像(ごそんざう)を仰ぎ、
はるかに玄海難(げんかいなだ)を見渡しますと、六百五十年の昔のことも、
今の世のことかと思はれて、深い深い感動に打たれるのであります。

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088 2010/04/12(月) 16:46:42 ID:oCp3PXgKMs
>>85
問一)上の文章を読んで一番強調されている部分は何か答えなさい。(国士様大学入試より)

イ、時宗の勇気
ロ、武士の勇武
ハ、民草(たみくさ)の分に応じた国のための働き
ニ、御稜威

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089 2010/04/12(月) 16:50:45 ID:uhciB3TMrQ
>>86
その教科書の文永の役

 文永十一年(紀元一千九百三十四年)、第九十一代後宇多(ごうだ)天皇が御位におつきになると、
その年の十月、果して元・高麗の兵約二万五千は、九百隻(せき)の艦船をつらね、朝鮮の南端から
攻め寄せて来ました。

 敵は世界最強をほこる元であり、従つてわが国としては、かつてためしのない大きな国難であります。
思へば鎌倉武士が、日夜ねりきたへた手なみを、御(み)国のためにあらはす時が束たのです。敵は
まづ対馬(つしま)をおそひました。宗助国(そうすけくに)が、わづかの兵でこれを防ぎ、ことごとく
壮烈(さうれつ)な戦死をとげました。

 そこで敵は、壱岐(いき)から博多湾へせまり、つひに上陸をあへてしました。筑紫の武士は、力のかぎり
戦ひましたが、敵のすぐれた兵器、変つた戦法になやまされて、なかなかの苦戦です。しかし、
日本武士の魂(たましひ)が、果して、かれらの進撃をゆるすでせうか。身を捨て命を捨てて、防ぎ戦ふ
わが軍のために、敵はじりじりと押し返されて行きます。

 この奮戦が神に通じ、博多の海に、波風が立ち始めました。敵は海上の船を心配したのか、それとも、
わが軍の夜討ちを恐れたのか、ひとまづ船へ引きあげて行きました。夜にはいつて、風はますます
はげしく、敵船は、次から次へと、くつがへりました。中には、逃げようとして、浅瀬に乗りあげた船も
あります。敵は、残つた船をやつと取りまとめ、命からがら逃げて行きました。これを、世に文永の役と
いひます。

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090 2010/04/12(月) 16:52:26 ID:uhciB3TMrQ
>>89を読めばわかるように、戦前の元寇教育で一番強調されていたのは鎌倉武士の勇敢さ。

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091 2010/04/12(月) 17:11:15 ID:GefXD2Y6Zs
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092 2010/04/12(月) 17:12:59 ID:oCp3PXgKMs
>>90
残念。
正解は、「ニ、御稜威」でした。
これ小学校の教科書だよ。しっかりしてくれよ。

小論文読んだ事あるでしょ?
>>87 は起承転結の結の部分。
時宗の勇気も、武士の勇武も、民草(たみくさ)の分に応じた国のための働きをまとめて評価して、
最後にそれらの働きはすべて御稜威(みいつ)にほかならないと手柄を独り占めにして教えているんだよ。
鎌倉幕府は天皇の敵なんだからそういう時代背景も考えなくちゃだめだよ。

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093 2010/04/12(月) 17:47:48 ID:VTQRwBcxV6
鎌倉年代記裏書
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」

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094 2010/04/12(月) 17:48:21 ID:uhciB3TMrQ
まぁ、釣られておきながら今さら何だが、そもそも昭和18年は戦中であって戦前じゃないんだけどな。

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095 2010/04/12(月) 17:54:36 ID:VTQRwBcxV6
頼山陽 日本外史
十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。
地頭宗助国、これに死す。
転じて壱岐に至る。
守護代平景高、これに死す。
事六波羅に報ず。
鎮西の諸将をして、赴き拒がしむ。
少弐景資力戦し、射て慮の将劉復亨を殪す。
慮兵乱れ奔る。

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096 2010/04/15(木) 04:16:09 ID:ndCMM7WZxA
四百余州を挙る
十万余騎の敵
国難ここに見る
弘安四年夏の頃
なんぞ怖れんわれに
鎌倉男子あり
正義武断の名
一喝して世に示す

多々良浜辺の戎夷
そは何蒙古勢
傲慢無礼もの
倶に天を戴かず
いでや進みて忠義に
鍛えし我が腕
ここぞ国のため
日本刀を試しみん


こころ筑紫の海に
浪おしわけてゆく
ますら猛夫の身
仇を討ち帰らずば
死して護国の鬼と
誓いし箱崎の
神ぞ知ろし召す
大和魂いさぎよし

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097 2010/04/17(土) 10:29:04 ID:Tdu9Br6IDc
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』
白鳥倉吉【国史】

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098 2010/04/18(日) 01:07:32 ID:2G5V9LB99o
まるで自分の目で見たかのように偉そうに語る奴って何なのwww

かっこよく書かれたナンチャッテ歴史本に洗脳されたの?

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099 2010/04/18(日) 03:20:32 ID:AgEh0FoPRs
悔しそうですね

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100 2010/04/18(日) 10:34:45 ID:CMONfHPxGA
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101 2010/04/18(日) 12:22:05 ID:wkGsR0JlCU
こいつらの思考回路はこんな感じだろ?

必ずしも武士が一方的にやられていたわけではない

↓これを飛躍させ美化

武士が実力で元軍を撃退した

神風が無くても撃退できた

神風があったのは疑わしい

だから武士が実力で元軍を撃退した。

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102 2010/04/18(日) 12:25:28 ID:AgEh0FoPRs
>ID:wkGsR0JlCU
弘安の役と文永の役すら区別がつかない人は
黙ってた方がいいよ

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103 2010/04/18(日) 12:59:44 ID:wkGsR0JlCU
>>102
お前の思考回路はこっちか?

必ずしも武士が一方的にやられていたわけではない


神風に一切触れずに武士のすごさだけを抜き出している箇所の大量のコピペが存在する

やっぱり神風は無かったし武士が実力で元軍を撃退した


日本すげー

オレ日本人

おれすげー

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104 2010/04/18(日) 13:51:25 ID:AgEh0FoPRs
ん?
つまり一応弘安の役でのことを言ってると解釈していいのかな?

神風なる「普通の台風」が来たことを一切触れないコピペなるものはどれのことだろう?

五月下旬に現れた元軍は
ことごとく武士に敗北し二か月以上海上を逃げ回った末、台風にあってるわけですな。
まあそれを神風とするのは別にかまわんとおもうよ

元軍は弾が出るまでロシアンルーレット強要されてたようなもんだね
涙目で震えながら引き金引いたら割と早い段階で弾が出ちゃったわけだ。

弾が出るのがもっと遅くなるかもしれなかったわけだから
早めに出たってことでまあ神風でもいいんじゃないのw

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105 2010/04/18(日) 13:55:55 ID:AgEh0FoPRs
>必ずしも武士が一方的にやられていたわけではない

どっちかっていうと一方的にやられていたのは元軍なので
擁護するなら
「必ずしも元軍が一方的にやられていたわけではない」にした方がいいんじゃないの?
対馬、壱岐では元軍も少数の武士相手に充分「奮戦」したようだしw

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106 2010/04/18(日) 23:02:13 ID:XKEAlxJkDo
削除(by投稿者)

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107 2010/04/19(月) 01:10:06 ID:x4no2jUtkY
>>105
戦闘での犠牲者数と台風の犠牲者数を混同してるだけだろ。

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108 2010/04/19(月) 04:06:20 ID:iA5Z5tiI76
犠牲者数だけで勝敗がきまるなら
ノモンハンは日本の勝ちになっちゃうなw
まーそれはおいといて

文永の役…武士の追い返され、夜逃げ同然に日本から逃げ出したのは元軍
弘安の役…何カ月も海上を逃げ回ったが、武士を振りきれず困っていたところへ台風。
部下を見殺しにしてごく一部の東路軍のみ日本からの脱出に成功。

ちなみに見殺しにされた江南軍は嵐の後も普通に平戸島など周辺の島々に取り残されて生きてました。
船が無くて逃げられなかっただけですね。
その後、日本軍に掃討されてしまったわけなので意外と台風以外の犠牲者数も多いんですよねー。

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109 2010/04/19(月) 08:46:51 ID:x9mGgT8c/s
弘安の役における元軍の戦闘犠牲者は10余万人で、台風の犠牲者を遥かに上回る。

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110 2010/04/20(火) 03:07:46 ID:vS0vkrLNeg
認めちゃえよw
日本にはまったく手も足も出ず勝てまへんでしたってw

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111 2010/04/20(火) 04:22:00 ID:wJiRLS3MJA
>>110
負けてたら、今頃はお前らと同じ支那の属国で、対馬は日本じゃないだろ。アホか。

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112 2010/04/20(火) 08:51:12 ID:idXQmuUWQI
>>>111
落ち着いて!110さんは味方よ!

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113 2010/04/20(火) 12:21:22 ID:idXQmuUWQI
■宋人から見た弘安の役
鄭思肖 鉄函心史
六月なかば、元の7000隻の軍船が日本(の博多湾)を襲った。
だが、追い返されて七月半ばに平戸島へ接岸、土砦を作って武士の迫撃に備える。
7月30日、暴風雨が来る。
船は大波にやられて沈没、上陸していなかった兵は海に沈んでしまった。
残った船は400隻余り。
十二万人ほどは平戸島にいたので助かったが、逃げ帰る船は無く、進軍してきた日本の武士達によってことごとく殺された

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114 2010/04/20(火) 12:29:14 ID:idXQmuUWQI
■モンゴル人から見た弘安の役
元史日本伝
七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために虜去せらる。
九日、八角島に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、
新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。
・・・十万の衆、還るを得たる者三人のみ

現代語訳
『(台風が去った後)七日、日本人と交戦、ことごとくやられ、二、三万人は捕まってしまった。
九日、(元軍最後の砦である)八角島(平戸島)にまで日本軍が侵攻、
蒙古高麗漢人は全て殺され、唐人は日本と国交があったので助命された。
結局10万人を越えるわが軍の内、帰還できたのは三人(日本軍が送り返してやった奴らね)だけだった』

結論としては敗北した当事者達は台風に関係なく実力で負けたことを認識していた様子だね

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115 2010/04/21(水) 02:03:36 ID:3msMl8kYlM
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.htm...
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.htm...
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.htm...
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.htm...
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。

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116 2010/04/22(木) 01:09:58 ID:wFvYtOucFI
神風というのは季節的にどうなのかな。
とにかく元軍は夜になるといちいち船に戻ったらしいから橋頭堡すら築けていない。
鎌倉武士は善戦していたと思うよ。

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117 2010/04/22(木) 02:04:58 ID:lhLeGqptXs
>>116
「元軍は夜になるといちいち船に戻った」なんて馬鹿なことが本当にあるわけない。
元軍は日本から撤退するために船に戻り、そのまま逃げ帰ったんだよ。
そのことは、ちゃんと元軍側の史料に明記してあるの。

『忽敦、曰く「兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり」と。疲乏の兵を策して、
日ごとに滋すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。
〔劉〕復亨、流矢に中(あた)る。先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。』
【高麗史】

鎌倉武士は善戦していたとかじゃなく、普通に勝ってるの。
でも自虐史観に憑かれた戦後の学者連中は、日本が勝ったということを認めたく無いから、
史料を無視して「撤退」を「一旦船に戻った」に置き換える逆大本営発表をやってるわけ。
狂ってるんだよ。

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118 2010/04/22(木) 03:21:31 ID:hnNJ6KOiVQ
削除(by投稿者)

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119 2010/04/22(木) 04:47:17 ID:FLrJXKSxvU
「文永の役」「弘安の役」どちらも「博多湾上陸の試行」は一回だけといってもよさげだよ
文永は上陸そのものは成功、というか武士は阻止してない
初めから福岡平野で迎え撃つつもりだったから

弘安の役では本土上陸すらできてない
志賀島以外はね

したがって「いちいち船に戻る」というのはありえない
ただ、116も単に言葉のあやで言っただけで深い意味はないと思うけど

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120 2010/04/22(木) 11:44:29 ID:znVaiWwnpA
削除(by投稿者)

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121 2010/04/22(木) 12:07:46 ID:sxwGK0K7EU
やっぱり九州のサムライは強いのう。

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122 2010/04/22(木) 13:32:12 ID:FLrJXKSxvU
弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」
史実では、文永の役において対馬で玉砕した宗助国の軍勢の中に
肥前(佐賀・長崎県)や阿波(徳島県)の御家人がいたことが記録されている。
本土からの増援兵力が僅かながらも差し向けられていた訳である。

また弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」が島民と共に粘り強く戦っている。
出身地も広範囲で、
陸奥・出羽(東北地方)、
上野(群馬県)、
下野(栃木県)、
信濃(長野県)、
三河・尾張(愛知県)、
遠江(静岡県)、
近江(滋賀県)、
丹波(京都府)、
備前(岡山県)、
筑前(福岡県)、
日向(宮崎県)、
肥前(佐賀・長崎県)、
豊後(大分県)
と、日本全土に及んでいる(『対馬島誌』)。

http://homepage3.nifty.com/rokuen/China12-3.ht...

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123 2010/04/23(金) 16:02:48 ID:VY7aWAki52
[YouTubeで再生]
>>113>>114の内容とよく似てるな

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124 2010/04/24(土) 19:26:23 ID:xwUh1DSzQs

「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本至壱岐、戦敗、軍不還者萬三千五百餘人」
高麗史表

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125 2010/04/25(日) 14:01:57 ID:U8gdv7wlLI
帝王編年記 「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」


『大宰府より飛脚が到着した。先月二十日の蒙古軍と武士との戦いの報告書が届く。
逃げ遅れた元の船を一隻捕まえたそうだ。残りの蒙古軍は追い払ったそうだ』

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126 2010/04/26(月) 10:54:51 ID:rAHFwA2Mdo
圧勝に近いな

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127 2010/04/26(月) 20:53:37 ID:/hK/aU95A2
もうサヨも在日もこなくなったなwやっと負けを認めたんだなw

返信する

128 2010/04/28(水) 20:44:05 ID:.MT8CnXaFU
歴史は負けとか勝ちとかでくくるものではない。
重要なのは正確か不正確かだけだ

返信する

129 2010/04/29(木) 14:37:02 ID:.9.rA72.KE
高麗の敗北は確かだな

返信する

130 2010/05/02(日) 02:03:58 ID:2ycAQ2rJaM
[YouTubeで再生]
02:00
いまだにこんな扱いかよ┐(´ー`)┌

文永の役は季節風関係ないし
弘安の役もあってもなくてもさほどかわらんというのに

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131 2010/05/03(月) 12:59:37 ID:NOgEgQOem2
■元寇・サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:元寇を防げたのは二度とも偶然ふいた神風のおかげでしょ?
Answer:いいえ。ちがいます。
まず文永の役。
高麗史によれば風雨によって被害を受けたという記載があるのは日本でボロ負けした後、逃げ出した後のこととなっています。
一方、日本側の「当事者たちの」記録には風雨に関して全く記載がありません。
つまり高麗史を信用するなら、風雨は日本からかなり離れた後のことでしょう。
また。一説には日本との戦いでの損害をごまかすため風雨を言い訳にした、という見方もできるそうです。

次に弘安の役。
まず、元軍はそれ以前の5月から日本と交戦していた点を忘れてはいけません。
元軍は日本軍に追い落とされ、海上を数ヶ月間逃げ回っていたところに台風が来たわけです。
そもそもそんな長い間上陸を阻止し続け、海上を追い回した、日本軍の防衛能力の高さも評価されるべきでしょう。
さらに言えば元軍の大半は嵐の後も生き残っていました。
一部の元軍は残存する船とともに逃げのびましたが、10万近い兵が鷹島、平戸などに取り残されておりました。
これらの残党は日本軍との交戦によって滅ぼされています。
結論から言えば、台風はあってもなくても元軍敗北の事実は変わらなかったことになります。

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132 2010/05/08(土) 13:04:42 ID:HHigVoVKD.
自虐史観の代表例だよね

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133 2010/05/08(土) 17:53:01 ID:u46FUUAam6
自虐史観というか皇国史観というか

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134 2010/05/08(土) 20:44:23 ID:7CPJb.H0No
自虐史観と皇国史観が一致した稀有な例だよな
目的は正反対ではあるけど

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135 2010/05/09(日) 14:31:44 ID:0g4pxRQojo
>>128
日教組にもいってやってくらさい

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136 2010/05/11(火) 12:23:03 ID:7Ch4yiIi.Y
〔菊池系圖〕別本 有隆赤星三郎
人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、

返信する

137 2010/05/12(水) 01:57:08 ID:dbHhKJyqF.
歴史の先生から朝鮮が手抜きして作った船を
供給したから台風でことごとく沈没したってきいたけど。
もっとも朝鮮は嫌々やってただけで、
日本を助けるつもりはなかったらしい。

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138 2010/05/12(水) 05:19:52 ID:k1f2iVopxg
嘘が多すぎ

1.台風の被害で沈んだ船の大半は江南軍…つまり朝鮮の船はさほど沈んでない
2.朝鮮はやる気十分。そもそも日本侵略の言いだしっぺが朝鮮

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139 2010/05/12(水) 09:51:46 ID:ul/0cunb5g
削除(by投稿者)

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140 2010/05/12(水) 15:59:01 ID:opfw93o2co
削除(by投稿者)

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141 2010/05/12(水) 16:14:24 ID:opfw93o2co
[YouTubeで再生]
NHK教育の韓国人ディレクターの番組、日本と朝鮮半島2000年とやらでも
高麗マンセーかつ反日自虐な感じで番組が作られてたらしいけど。

北条時宗でも酷かったけど
毎回毎回、犬HKの薄ら寒い
歴史捏造反戦サヨ反日自虐思想には虫唾が走るなんてもんじゃない

そんなの日本の歴史に対する冒涜であり
過去の日本人や武士に対する冒涜だよ


まっ奴らが内部に入り込んで番組作ってる以上確信犯的にやってるんだろうがな。

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142 2010/05/13(木) 01:23:05 ID:JTg7hPpwWo
「惟んみるにかの日本、未だに聖化を蒙らず。
故に詔を発して軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須いる所あらん。
もし此事を以て臣に委ねなば王師を小助せん」

こんなこと言ってるぐらいで
朝鮮はノリノリですよ

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143 2010/05/16(日) 04:12:32 ID:xIB7dW0rx2
忠烈王が日本侵略を進言した

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144 2010/05/26(水) 02:38:22 ID:YtjdbgnUjY
5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 潰走する元軍を島津長久軍+松浦党らが迫撃
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北

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145 2010/05/26(水) 16:49:48 ID:50Ei2yDpcw
源平の合戦でも南北朝の戦いでも馬って普通に船で海を輸送されてるんだよな。
韓国の済州島は馬の産地として有名だけど、この島に牧場作ったのはモンゴルなんだぜ。
当時、馬は日常的に船で海を輸送されてたってことじゃん。
蒙古襲来絵詞にもモンゴル騎兵が描かれてるし。
「元寇は渡洋作戦だからモンゴル軍は騎馬部隊を使えなかった」なんてデマを、
誰も疑問視しなかったのは不思議。。。

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146 2010/05/27(木) 03:41:40 ID:A6n23dNi3E
渡洋作戦だからモンゴル軍は騎馬部隊を使えなかった X

水際で武士に上陸阻止されたんで騎馬部隊を使えなかった ○
あるいは
当時の元は混成部隊で戦うのが普通なのでイメージよりは騎馬の比率が低かった ○
(船に馬を積めるかどうかとは無関係)

なんだよね

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147 2010/05/27(木) 19:47:48 ID:J7pxZcyGPw
148 2010/05/28(金) 14:10:37 ID:S4AXoRYqDw
騎馬に関しては
5人乗りの車に1人しか乗らなかったら
「この車は一人乗りだ」
といわれるようなもんだな

船に乗らないから騎馬が少なかったわけではなく
むしろ元(大元)=騎馬部隊という方が幻想
創生期の小規模な遊牧民族時代じゃないんだから。

当時の元軍としては必要十分なだけの騎馬は積んでた。
その上で歩兵も多かったというだけ。

その混成軍で各国を撃破してきてるんだから
騎馬部隊が多かろうと少なかろうと日本に負けた言い訳にはならないんだよね。

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149 2010/05/31(月) 16:08:18 ID:S4w8pP3f1U
『日本外史』 頼山陽・著
文永十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。
地頭宗助国、これに死す。転じて壱岐に至る。
守護代平景隆、これに死す。事六波羅に報ず。
鎮西の諸将をして、赴き拒がしむ。
少弐景資力戦し、射て虜の将劉復亨を殪す。虜兵乱れ奔る。

弘安四年七月、水城に抵る。
舳艫相ひ銜む。
実政の将草野七郎、潜に兵艦二艘を以て、志賀島に邀へ撃つ。
虜の二十余級を斬首す。虜、大艦を列ね、鉄鎖にてこれを聯ね、弩をその上にはる。
我が兵近づくを得ず。河野道有奮つて前む。
矢、その左の肘に中る。
道有益々前み、帆柱を倒し虜艦に架して、これに登り、虜の将の王冠せる者を擒にす。
安達次郎・大友蔵人、踵ぎ進む。
虜、終に岸に上る能はず。
収めて鷹島に拠る。
時宗、宇都宮貞綱を遣して、兵に将として実政を援けしむ。
未だ到らず。
閏月、大風雷あり、虜艦敗壊す。
少弐景資ら、因つて奮撃し、虜兵を鏖にす。

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150 2010/06/01(火) 02:33:20 ID:L0ES65s93o
ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、
おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、
勝負をけつし、家のこ、らうとう等、多くうたれにけり、いかしたりけん、
菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、
頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ
八幡ノ蒙古記

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151 2010/06/02(水) 08:59:45 ID:3HWDCJnA4g
義経の時代にすでに集団戦いっぱいやってるのに
元寇だけ急に一騎打ちとか言い出すのって
矛盾してるよね

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152 2010/06/02(水) 16:22:34 ID:74aa7uKS/I
>>151
本来なら、モンゴル軍自身が「官軍整わず」を文永の役敗退の最大要因に挙げてるんだから、
集団戦法においてモンゴル軍が鎌倉武士より優っていたと考える理由なんて無いんだよ。
当時のユーラシア大陸は、組織戦術の進歩が日本より遅れていたってこと。

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153 2010/06/03(木) 18:41:54 ID:GdnXuWVzho
ジンギスカンは義経でし!

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154 2010/06/04(金) 02:34:22 ID:GXMXKrSKuE
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.htm...
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.htm...
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.htm...
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.htm...
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
恩賞貰うために作ったなどというウソを信じ込まされている人もいるかもしれんが、
 この絵詞が作られた時にはとっくに恩賞は貰い終わっている。

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155 2010/06/06(日) 04:18:13 ID:EuxfO/a3Ps
>>152
たしかに

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156 2010/06/07(月) 14:34:45 ID:.lDp3ofzDY
鄭思肖 鉄函心史
『六月なかば、元の7000隻の軍船が日本を襲った。
だが、追い返されて七月半ばに平戸島へ接岸、土砦を作って武士の迫撃に備える。
7月30日、暴風雨が来る。
船は大波にやられて沈没、上陸していなかった兵は海に沈んでしまった。
残った船は400隻余り。
十二万人ほどは平戸島にいたので助かったが、逃げ帰る船は無く、進軍してきた日本の武士達によってことごとく殺された』

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157 2010/06/09(水) 16:13:07 ID:iC6DziOFJ2
>>141
北条時宗大河は最悪だったな

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158 2010/06/10(木) 15:40:37 ID:6CoPm.ypig
高麗史金方慶伝
忽敦曰く
兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり
疲乏の兵を策して
日ごとに滋すの衆に敵するは
完計に非ざるなり
軍を回すに若かず
劉復享、流矢に中る
先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。

返信する

159 2010/06/11(金) 08:21:35 ID:IUS8Vvy4I.
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢」 金剛仏子叡尊感身学正記
『十月五日、蒙古人が対馬を襲う、二十日、博多を襲う、しかし即座に追い払う』

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160 2010/06/17(木) 10:20:13 ID:nVqeyGfVDk
自虐史観もたいがいにというところだね

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161 2010/06/20(日) 12:03:08 ID:dj5iPvKJEk
橋頭保も確保できず戦略目標の大宰府どころか
水城が見えるところまですら到達できず
福岡平野沿岸部をうろうろしただけ
先駆けレベルの武士団だけで返り討ち
弘安に至っては上陸すらままならず数カ月も海上を逃げ回った蒙古・高麗軍

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162 2010/06/21(月) 09:23:59 ID:3GxkOZ.sPc
情報格差?

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163 2010/06/25(金) 15:35:45 ID:UGUxr4wsJE
164 2010/06/26(土) 15:58:34 ID:uKu6cbqwZw
凶悪な連中によく勝てたもんだ

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165 2010/06/27(日) 02:09:51 ID:Giw1n4PqL.
重装甲の長弓騎射を中心とした武士の伝統的な戦い方がうまく機能したね

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166 2010/06/29(火) 00:45:45 ID:Cv23S9pCdY
騎射が流鏑馬ぐらいしか残ってないのが残念

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167 2010/07/02(金) 10:17:49 ID:lm//sOFDmI
筑波大学大学院教授・古田博司 国家の正統性確立に苦しむ韓国
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/091229/kor09122902...
 さて、日韓両政府の支援により2007(平成19)年に始まった「第2期日韓歴史共同研究委員会」がこのほど終了した。
筆者は今期から設けられた教科書小グループのチーフだったが、実に虚(むな)しい2年間を過ごした。
論争好きな彼らに引きずられテーマ設定に1年間を要し、いざ共同研究が始まると、韓国の委員は4、5冊、多くて10冊の教科書資料しか読んでこなかった。
「日本帝国主義」「右翼教科書」などという用語を使い、政争の観点しか持たない彼らを諄々(じゅんじゅん)と諭す以外にはなかったのである。
さらに韓国側が名指しで人身攻撃を行っても、日本側委員長はわれわれ委員を守ることがなかった。私は「恨」を感じた。(ふるた ひろし)

韓国側委員の態度は朝鮮出兵部会でも同様だが、問題は日本側委員の北島などは、政争の観点しか持たない彼らを諭すどころか、自身を良心的研究者と自称し、一緒になって政治的非難を行っていることだ。
一例を挙げると、朝鮮出兵の部会であるにも係わらず、韓国側委員は議題でない筈の神功皇后や任那日本府の否定論を長々と唱えるが、北島らは全く諭そうともせず同調するような言動を行っている。

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168 2010/07/02(金) 18:50:58 ID:26SMAwUoBI
「文永の役威力偵察説」を唱える連中って、根拠として侵攻に先んじて威力偵察を行うのは
モンゴル軍の常套手段だって言うじゃん。
でも、現実のモンゴル軍は、数年かけて準備した数万人規模の威力偵察を行い、
その数年後に改めて侵攻し直すなんてアホみたいに非効率的な作戦を、常套手段どころか
一度もやったことないわけ。
じゃあ、「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは一体何かっていうと、
モンゴル軍の部隊編成では本隊のおよそ70マイル(約113キロ)先んじて威力偵察部隊が侵攻。
この威力偵察部隊が敵と接触すると、相手が弱ければそのまま撃破し、強ければ偽装退却して
本隊の所まで敵を誘導し、包囲殲滅するってのを常套手段としてたわけ。
要するに「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは戦術レベルの話なの。
日本史研究者って呆れるほど軍事オンチの連中だから、戦術レベルの話である威力偵察を、
文永の役みたいな作戦レベルの話とゴッチャにしてるんだよ。

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169 2010/07/03(土) 02:16:11 ID:h4wFyP0QlQ
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ


圧倒的すぎる…
組打術で海へ投げ飛ばし引き上げてはとどめを刺し
首を取っては投げ捨てる

元軍にとっては地獄絵図ですね…

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170 2010/07/05(月) 13:11:33 ID:n7I.ZFzg6Q
ちょっと気になったんだけど、幕府の軍隊の補給ってどうなってたの?

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171 2010/07/06(火) 01:55:08 ID:fZVM.m2xuQ
「元寇」を教えない対馬と九州の教育
http://tafu.iza.ne.jp/blog/entry/744565...

返信する

172 2010/07/08(木) 12:17:11 ID:YOI17ZaBV.
その時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、
八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、
究竟の馬廻に、弓の上手ありしかは、
それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、
かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、
一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、 おちたりけれ

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173 2010/07/10(土) 19:42:58 ID:wIBSu3rqqA
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』
白鳥倉吉【国史】

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174 2010/07/15(木) 01:18:33 ID:YP1x3EVpLs
>>170
幕府は有事になると、「一国平均役」といって普段は権限の及ばない荘園や公領からも、
一律に兵糧米を調達できるようになる。
実際、元寇の際に兵糧米が全国で徴発されていた記録も残ってるし。
幕府は元寇に備えて10年以上前から補給体制の整備に着手してたし、万全の状態だったよ。

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175 2010/07/15(木) 23:13:53 ID:7qX4W2RBX6
>>168
そういうトリック好きだよね連中

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176 2010/07/19(月) 17:18:28 ID:qSR.pMiC4I
ごく少数だけど、まともな日本史研究者もいるんだよね。

『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法 中村学園大学・佐藤鉄太郎

「蒙古襲来は日本歴史上の大事件であったために後世色々な話が作られて誤り伝えられてきた。
例えば文永の役に於いて蒙古軍の集団戦法に対して日本の武士達は一騎打ちの戦法で戦った、
博多は蒙古軍によって焼き打ちにされた等である。しかし、日本の武士達は一騎打ちの戦法で
蒙古軍と戦ったことはなく、絵五に描かれているように騎馬隊を中心とした集団で突撃する戦法を
とっていたのである。また、文永の役に於いて蒙古軍と日本の武士達が正面から衝突した戦いは、
赤坂と鳥飼潟の塩屋で行われた合戦である。これらの戦いに敗北した蒙古軍は博多を攻略する
ことに失敗し、撤退してしまった。文永の役に於いて鳥飼潟の戦いは日本の武士達が総力をあげた
戦いであり、日本の武士達が勝利した戦いであったのである。」

問題は、こういうまともな研究者がきちんと史料に基づいた研究成果を発表しても、その他大勢の
頭のおかしな日本史研究者たちによって黙殺されてしまうこと・・・

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177 2010/07/19(月) 18:11:21 ID:zSYb6xvlto
これなんか見てもそうだけど
歴史を単なる政治の道具にしか考えてないとこがあるよね

返信する


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