近代東アジアを明治年号で鑑みるスレ


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001 2023/02/22(水) 04:01:10 ID:gUqleeTtgI
https://sekainorekisi.com/japanese_history/%E5%88%97%E5%...
明治元年は1868年1月25日 – 1869年2月10日
明治時代は海外ネタメインで、国内ネタは江戸時代(マイナス年号)や大正期~昭和20年あたりまで
なお 旧暦→明治改暦 とか 0年という年は存在しない 件もあるので1年ぐらいのズレは気にしない事にする

では最初に
明治-40年 化政文化 江戸時代後期に発展した町人文化:浮世絵、歌舞伎、天保の改革、遠山の金さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E6%94%BF%E6%96%...

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031 2023/03/30(木) 05:19:27 ID:sj5CXkd0wM
八重洲の地名の由来になったヤン・ヨーステンは、三浦按針とともに1600年豊後に漂着、五大老首座の家康にプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明し信任を得・・・
その頃からのオランダ
ベネルクス地方は神聖ローマ帝国の領域の一部で、毛織物産業や海上貿易により栄えていた。15世紀末からスペインを本拠とするハプスブルク家の領土(家領)となった。宗主国スペインによる重税政策に対する反発とともに、主に現在のオランダ地域を中心とするネーデルランド北部地方の宗教は利潤追求を求めるカルヴァン派が多数を占めていたため、カトリックを強制する宗主国スペインとの間で1568年にオランダ独立戦争が勃発した。しかし戦争の長期化により、カトリック教徒の多かった南部10州(現在のベルギーとルクセンブルク)は、独立戦争から脱落した。この八十年戦争の結果、1648年のヴェストファーレン条約で独立を承認された。17世紀初頭以来、ネーデルラント連邦共和国は東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪い、オランダ海上帝国を築いて黄金時代を迎えた。英蘭戦争に重なってオランダ侵略戦争が起こり、本土へ災禍をもたらした。しかしウィレム3世総督時代に、ルイ14世の出したフォンテーヌブローの勅令が中産ユグノーを共和国へ大挙亡命させた。彼らの力により、独立戦争からすでに卓越していた繊維・染料産業がさらに進歩した。加えてデルフトの陶器とアムステルダムのダイヤモンド加工も世界に知られた。ウィレム3世は名誉革命でイギリスへ渡った。フランス革命が勃発すると、革命軍が侵入しバタヴィア共和国が成立した。

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032 2023/03/30(木) 05:29:55 ID:sj5CXkd0wM
>>31続 バタヴィアは1806年、ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント(オランダ)王国に変えられた。さらに1810年フランスの直轄領として併合された。ナポレオン擁するフランスにより、オランダは一旦事実上の国体を失うが、1811年にイギリスがオランダ領東インドを制圧してから1815年にオランダが再独立を果たすまでの間、当時の商館長ドゥーフは出島のオランダ商館に旧オランダ国旗を掲げ続け「世界唯一のオランダ国」であったことでも知られる。1793年にネーデルラント連邦共和国がフランス革命軍に占領されて滅亡してから1815年ネーデルラント王国建国に至るまでの22年間、オランダの領土はこの地球上に存在していない。そのため1797年にオランダ東インド会社と傭船契約を結んだアメリカの船が出島に入港するようになり1799年にオランダ東インド会社が解散してもなおアメリカの船は1809年まで出島に入港して貿易を行った。ナポレオン戦争後のウィーン会議ではこれまでオーストリア領であった南ネーデルラント(現在のベルギー・ルクセンブルク)を含むネーデルラント王国が成立し、オラニエ=ナッサウ家が王位に就いた。オランダ全土の労働者人口と南ネーデルラント農民の大部分はカトリック信者であった。南ネーデルラントを統合しようとするとき、王に対しカトリックの聖職者はウィレム1世と憲法に反対した。オランダは残された東インド植民地(今日のインドネシア)で過酷な搾取を行った。1830年カトリックと自由主義者による独立戦争が起こる。1839年オランダはベルギーの独立を承認した。1873年(明治6年)には岩倉使節団がオランダを訪問。

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033 2023/03/31(金) 04:19:01 ID:mMSrVOdpKI
>>13
英緬戦争
19世紀は、まさに帝国主義が牙をむいた時期でした。18世紀の後半からイギリスを中心とした欧米諸国で産業革命が起き、工業力や国力が強くなっていきます。この国力を使い、欧米諸国はアジアに進出していき、最初に犠牲になったのはビルマ(現ミャンマー)でした。ビルマは中国では漢字で緬甸と書かれたので、略称は日本でも「緬」が用いられた。ビルマはイギリスと3度戦争をします。1回目が1824年~26年、2回目が約30年後の1852~53年、3回目がさらに30年後の1885年~86年です。この結果、コンバウン王朝はイギリスに徹底的にやられ、イギリス領インドに併合されました。ビルマは立派な国でしたが、完全に植民地になったのです。http://bbs58.meiwasuisan.com/world/1564840797/01...
 イギリスはフランスがビルマに進出しようとしていることに危機感をいだき、先手を打ってビルマを併合することを策した。1885年11月、イギリスは最後通牒を送ってイギリス=インド帝国の従属国となることを要求した。ビルマ王国がそれを拒否すると、ブレンダーガストの率いる1万人のインド兵をビルマ領内に侵入させ、11月28日にはビルマの首都マンダレーを占領し、翌1886年(明治19年)1月1日をもってビルマをイギリス=インド帝国に併合した。

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034 2023/03/31(金) 04:58:09 ID:mMSrVOdpKI
コーチシナ戦争 1858-1862
阮福暎(嘉隆帝)の全国制覇に貢献したフランス人宣教師ピニョー=ド=ベーヌ の活躍があり、ベトナム(阮朝)におけるフランスの優位は確立していた。しかし嘉隆帝の死後、阮朝は排外政策をとってキリスト教を迫害したため、フランスはスペイン人宣教師殺害事件を口実にスペインと共同で出兵、1858年にナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的として阮朝に遠征軍を派遣、まず中部のダナンに上陸し翌年サイゴンを急襲して武力占領。その後アロー戦争のために一時的な大規模撤兵があったが、1861年に再度フランス艦隊はサイゴンに上陸し、コーチシナ一帯を占領した。
1862年第1次サイゴン条約、コーチシナ総督府がフランスのベトナム侵略の拠点となる。
1874年(明治7年)第2次サイゴン条約でベトナムは事実上フランスの保護下に置かれることとなった。
一方、ベトナムに対する宗主権を主張する清朝は、阮朝・フランス間に結ばれた諸条約を承認せず、1884年清仏戦争となりフランスは勝利する>>16
1887年(明治20年)には新設のインドシナ総督の下で直轄領コーチシナ、保護国アンナン、保護領トンキンを含む仏領インドシナ(インドシナ連邦)が成立。

タイはラーマ5世の治世下、英仏の緩衝地帯として独立を保った。

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035 2023/04/04(火) 03:09:17 ID:vwcDaNjQ8c
ロシアは、13世紀半ばから200年あまりモンゴル勢力のキプチャク=ハンの支配下にありましたが、功績が認められて1328年に独立を果たしたのがモスクワ大公国でした。イヴァン3世(在位1462~1505年)が即位すると周辺諸国を次々に併合し15世紀にはキプチャク=ハンから自立を果たし「タタールのくびき」を終わらせます。1453年に滅亡したビザンツ帝国(東ローマ)の姪と結婚し、ビザンツ帝国の後継者を名乗るようになりツァーリという称号を使い始め、16世紀には国力も増し雷帝・イヴァン4世は恐怖政治を推し進め、ロシア型の絶対王政の基礎を築いていきます。またコサックの首領イェルマークにシベリア探検を命じ、シビル=ハンを征服します。(シビルはシベリアの語源)その後は帝国争い、農民反乱、ポーランドの侵入(ポーランド・モスクワ戦争(1605–1618)などがあり、この地は大混乱におちいりロシア人たちは結束し外敵に対抗するため全国会議を開き、皇帝に選ばれたのがイヴァン4世の姻戚にあたるミハイル・ロマノフで、ロマノフ朝(1613~1917年)が成立。次代アレクセイ、3代フョードル3世の下、国家の再建や失った国土を徐々に回復。1670年にはコサックの首領、ステンカ=ラージンが農奴政の強化に反発し、反乱を起しますが(ステンカ=ラージンの反乱)、ロマノフ朝はこれを鎮圧。その後にピョートル1世が1682年にツァーリ(皇帝)に即位。シベリアを東に向かい、先住民を支配下におき領土を広げ、1689年には清>>16と条約を結び、ユーラシア大陸東部の国境線を定めました。

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036 2023/04/04(火) 03:58:41 ID:vwcDaNjQ8c
>>35続 そして 北方戦争 はスウェーデンとの戦争で21年間も続くことになります。ピョートル1世はバルト海海域の覇権を持ち海の交易ルートを確保したかったのですね。この戦争のために基盤づくりとして行政改革や西欧化、海軍の創設なども行われ,勝利すると皇帝にあたる称号であるインペラトールを議会に要求し、以降ロシアは「ロシア帝国」を名乗るようになりました。ドイツ生まれの啓蒙思想の崇拝者エカチェリーナ2世(在位1762~1796、ピョートル3世の皇后→クーデタによって女帝)は近代化諸政策とロシアの南下政策を展開。1768年にロシア=トルコ戦争(第1次)を開始し、1774年にキュチュク=カイナルジャ条約でクリム=ハン国の保護権を獲得、次いで1783年にはクリム=ハン国を併合し、クリミア半島を領有した。1787年にはロシア=トルコ戦争(第2次)を再開してオスマン帝国と戦い、クリミア併合を承認、黒海はロシアの内海となる。また西側では1772年に第1回ポーランド分割に加わり、領土の拡張を図った。英植民地でアメリカ独立戦争が起こると、イギリスを圧迫するために1780年武装中立同盟を提唱してアメリカを助けた。東方にも関心を持ち続け、日本人漂流民大黒屋光太夫を送還するため1792年にラクスマンを根室に派遣、江戸幕府に開国を迫った>>3。1773年プガチョフの大農民反乱1775年に鎮圧。フランス革命勃発で農奴改革放棄。1793年対仏大同盟(第1回)に加わりフランス革命に干渉。また同年ポーランドで共和政的憲法が成立すると、大軍を派遣して介入しコシューシコらの民族運動を弾圧し、第2回ポーランド分割を強行した。

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037 2023/04/04(火) 04:01:08 ID:vwcDaNjQ8c
>>36続 19世紀オスマン帝国の混乱>>6の中で、帝国に支配されていたギリシア人やスラヴ人、アラブ人、エジプトなどでの民族独立が起きると、露英仏などの欧州列強が介入、ウィーン体制>>4を脅かす 東方問題 となる。1804セルビアの独立運動、1821ギリシア独立戦争、1831エジプト=トルコ戦争、1853クリミア戦争、1877露土戦争などが起こったが、19世紀後半に急速に力をつけたドイツのビスマルク>>22が調停した1878年のベルリン会議で一応の終結を見る。

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038 2023/04/14(金) 03:57:02 ID:bgefs8TQVI
パンデミック
中世の黒死病(腺ペスト) 14世紀-19世紀 おそらくは元末の中国からシルクロード経由でヨーロッパ全体に拡大
1813年 紅斑熱(リケッチア)ナポレオン大陸軍はロシア遠征から撤退した1813 年の秋,マインツに停泊中に流行。
1817年 コレラ最初のパンデミック インドで発生しアジア全域からアフリカに達し、1823年まで続いた。その一部は長崎から侵入し日本にも及んだ。2回目のパンデミックは1826年から1837年まで流行し、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。以降1840-1860、1863-1879、1881-1896、1899-1923と、計6回にわたるアジア型コレラの大流行があった。
1847年 腸チフス(サルモネラチフス)はカナダでの伝染病はアイルランド大飢饉による移民によって流行した。1899年にも南アフリカで流行
1862年 天然痘 北アメリカの太平洋岸で大流行、1870年には普仏戦争後のドイツで流行
1889年 ロシア風邪 ウズベキスタンのブハラで発生し、カナダのアサバスカやグリーンランド、サンクトペテルブルク、その後ヨーロッパ全域、アメリカ合衆国へと僅か4ヶ月で地球を一周。日本では1890年に流行し、お染かぜと呼ばれた
1894年 ポリオ バーモントのラトランドでアメリカ最初のポリオ流行。FDルーズベルト第32代米大統領は1927年ウォームスプリングスにリハビリセンターを設立

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039 2023/11/19(日) 01:56:41 ID:Xooq8DTAhs
040 2024/04/12(金) 23:55:39 ID:tSAud3pnts
明清交替1618-1683
明末期には、洪水、蝗害、飢餓、経済的混乱が見られ、陝西省では財政の失政により軍事駐留の撤去と重税に悩まされていた住民は盗賊や反乱に向かう
1618年、建州女真族の成り上がり指導者ヌルハチが満州の部族を統一し、明に宣戦布告し万里の長城を突破…
ー中略ー
1636年、後金が国名を清に改める。

1644年徳川家光の時代に南明からの救援の要請が日本にも来た。いずれも幕府は要請には応えなかったが情報収集が行われ、長崎奉行は唐船から集めた情報を唐船風説書という記録にまとめて幕府に報告した。

朝鮮は明と冊封関係にあったが、後金が明と戦う際には障害となった。解決策として後金は朝鮮を攻撃して明との関係を変更させた。

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042 2024/04/13(土) 18:50:56 ID:L/RVDJQPRo
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万暦帝  1572 - 1620
明末期の皇帝 10歳で皇帝となり、始めの十年は名宰相張居正の改革によって財政再建に成功し、国庫は潤うことになったが、その死後は再び放漫な宮廷財政に逆戻りし、たちまち国庫は底をついてしまった。
また、宦官の政治への介入が激しくなり官僚の反宦官派である東林派との激しい党争が始まった。周辺の諸民族の反乱、朝鮮半島への日本の豊臣秀吉の侵略(平秀吉・抗倭援朝戦争)に対する出兵など対外的な問題に加え、国内では抗租、奴変、民変などの社会問題が表面化し内外の困難が生じ、明の衰退がはっきりとしてくる時期であった。万暦帝のとき、1580年代から普及した、新しい税制である一条鞭法もそのような社会の変化に対応するものであった。

マテオ=リッチ/利瑪竇 1552 - 1610
イタリア人のイエズス会宣教師。明末に北京でカトリックの布教にあたり、西洋の科学技術を紹介
中国初の世界地図「坤輿万国全図」を作成し当時の中国人の世界観に大きな影響を与えた。

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043 2024/04/14(日) 00:38:52 ID:xPUF6C9Pak
[YouTubeで再生]
李 自成(1606-1645)は、明末の農民反乱の指導者。明に対して李自成の乱と呼ばれる反乱を起こして首都の北京を陥落させ、明を滅ぼした。順王朝(大順)を建国して皇帝を称したが、すぐに清に滅ぼされた。
李自成は餃子を毎日のように食べたという。「餃」の文字は「交」に通じ、「末永く」という意味を持っていた。そのため歴代皇帝たちは社稷が「細く長く」続くよう、春節にしか餃子を食べなかった。しかし李自成はそのしきたりを破り、毎日餃子を食べ続けたため、順朝はすぐに滅んでしまった。

少数派の異民族である満洲人の支配を、中国文明圏で圧倒的大多数を占める漢人が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐したという大義名分を得たことがあげられる。また、自殺に追いやられた崇禎帝の陵墓を整備し、科挙などの明の制度を存続させるなど、あくまで明の衣鉢を継ぐ正当(正統)な中華帝国であることを前面に出していた事も考えられる。

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044 2024/04/14(日) 00:45:40 ID:xPUF6C9Pak
満洲(マンジュ)とは女真が自らの民族名を言っていたことに始まる
清朝は故地である満洲の地を神聖なものと定め、後金後金時代の皇居(瀋陽故宮)がある満洲地域を特別扱いし、奉天府を置いて治めた。

当初は遼東招民開墾令をはじめとする勧民招墾の諸法令を公布し漢族の満洲植民を奨励していたが、1740年以降は封禁政策を取り漢民族が移入することを禁じた。
一方、17世紀以降、ロシア・ツァーリ国(のちロシア帝国)の東漸運動が顕著になり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が数度起きた(清露国境紛争)

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045 2024/04/14(日) 00:59:10 ID:xPUF6C9Pak
>>16
間島問題
満州と朝鮮の国境地域にあたり、満州を故地としていた清朝は同地への外地からの移住を禁止する「封禁」を宣言して、1712年に正式に自国領に編入した。ところが朝鮮人が李氏朝鮮の統治下の朝鮮半島から同地に移住して開拓していった。清朝は1882年に漢民族の同地への移住を許可すると、同地にあった朝鮮人の所有地の扱いを巡って清朝と李氏朝鮮(後の大韓帝国)が互いに領有を宣言して対立した。そこに沿海州に進出したロシア帝国、日露戦争後に大韓帝国を保護国化した日本も間島進出を図ったために問題が複雑化 →間島省

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046 2024/04/15(月) 00:13:55 ID:Utkjn8UEms
苦力(クーリー)は西洋の植民地アジア人奴隷。殆どの華僑、印僑の祖先
17世紀からアジアの労働者の輸入が始まりもともとインド人のそれを指す言葉であったクーリーは「苦力」の文字があてられて次第に中国人労働者を指す言葉となった。

1833 年に大英帝国全土で奴隷制度が廃止され、最終的に他のヨーロッパ諸国もこれに追随した。ヨーロッパの植民地でのプランテーションや鉱山などの労働集約的な仕事は、安価な労働力の供給源がないまま放置されていたが、この需要を満たすために、主にインド人と中国人の年季奉公労働者の大規模な貿易が1820年代に始まった。中国ではアヘン戦争の結果として締結された1842年の南京条約によって開国し、外国との自由貿易が始まり、さらにアロー戦争(第2次アヘン戦争)の結果として1860年に清朝がイギリス・フランスと締結した北京条約で、中国人の海外渡航が解禁となり中国人は安価な労働力として海外に出て行くこととなった。
アメリカ合衆国で黒人奴隷制が廃止され奴隷売買が出来なくなった後に、発展期に入った鉱工業や鉄道建設で労働力となったのが苦力(クーリー)で特に中国人移民が多かった。このような移民労働の流れは第一次世界大戦まで続きました。

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047 2024/04/15(月) 00:17:01 ID:Utkjn8UEms
アメリカ人の船長と現地代理人によって運営されるクーリー奴隷貿易は、主に債務奴隷制から成り、その生活条件が家畜と変わらなかったため、「豚貿易」と呼ばれ一部の船ではクーリーの40%が途中で死亡した。外国商人は、アヘン戦争後に清政府と西側諸国との間で取り交わされた不平等条約と、その結果として生じた政治的・経済的不安定を利用して、「契約」労働者の取引を仲介した。英語圏の資本家たちはアヘン貿易と中国人の捕虜労働を「毒と豚」と呼んだ。

1872年マリア=ルース号事件
明治5年、横浜に入港したペルー船から苦力が逃亡。日本側はペルー船の出港を禁止し中国人奴隷を解放した。開国間もない日本が直面した、最初の国際裁判の事例となった事件。

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048 2024/04/25(木) 23:22:52 ID:ldGrRieqfA
1858愛琿条約/アイグン条約
>>16 ネルチンスク条約以来、清国領だったアムール川の北側と沿海州に対し
アヘン戦争以降の清国内の混乱に乗じ、ロシアは軍艦で脅し外満洲を獲得

ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフが強く清朝に迫り、アロー戦争で窮地に立つ清は屈辱的な内容を呑まざるを得なかった。
清は後にこの条約を否認したが、1860年の北京条約で内容を追認し、さらに領土を失うこととなる。

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049 2024/04/25(木) 23:47:58 ID:ldGrRieqfA
1858年に締結されたアイグン条約では、清の領土だったアムール川左岸の外満洲はロシアに割譲されたが、黒河の対岸の「江東六十四屯」と呼ばれる地域には大勢の中国人居留民がいたため、アムール川左岸でもこの部分だけはロシア領ながら清の管理下に置かれることになった。

1900 庚子露難
義和団の乱と列強とを相手にしている清国側は満洲情勢に関わる余裕がないと考えたロシアは江東六十四屯の清国人居留民を一掃、清の支配は失われる
これらの事件と、これに続くロシアの東三省占領>>50
三国干渉以来高まっていた日本での対ロシア警戒感を一層高めることとなった。
江東六十四屯の崩壊は『アムール川の流血や』という題名の旧制第一高等学校の寮歌にも歌われることとなった。

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050 2024/04/26(金) 00:11:03 ID:IW.09JKOJQ
1902満洲還付条約
山東省から起こった義和団の勢力は、1900年6月以降は北京をこえて満洲方面にも拡大し、ロシアが1896年の露清密約で敷設権を得た東清鉄道への攻撃もなされるようになった。ロシアはこれに即座に反応し、皇帝ニコライ2世が進軍を命令、鉄道を守るため5万を超える兵士を派遣
帝政ロシアは7月3日、黒竜江に臨むロシア領ブラゴヴェシチェンスクにおける軽微な発砲事件を口実に戦闘を開始し、清国軍の抵抗を各地で撃破、(露清戦争)
8月3日にハルビン、8月27日にチチハル、9月28日に遼陽、10月2日に奉天をそれぞれ制圧し、またたく間に満洲全土を占領→ 1900満洲に関する露清協定
 義和団の乱後も満洲に駐兵を継続したことについて、他の列強や清国から批判を受けたロシアが、満洲からの撤退を3度にわたっておこなうことなどを清国との間で取り決めた条約。

ロシアの満洲占領に対し、日本は相互に満洲と韓国の完全確保を認め合う「満韓交換論/日露協商論」を考えるようになったが、仮に日露協商が成立しても長続きせずロシア側がこれを破棄することは確実で→1902年日英同盟
1903年8月、日本はロシアに満韓交換論を提示したが、軍事的に勝るロシアはこれを拒否したばかりでなく、エヴゲーニイ・アレクセーエフ極東総督らは、朝鮮半島を南北に分け、南側を日本の勢力下に、北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案を突きつけてきた。
翌1904年日本はロシアと国交を断絶。満韓交換論は完全に消滅し、日露戦争へと向かうこととなった。

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052 2024/04/27(土) 13:43:16 ID:tSAud3pnts
>>10
後金社会の3つの主要な民族以外に、シベ族、ダウール族、ナナイ族、エヴェンキ族(ソロンなど)など、他にも多くの小規模な民族グループがありました。
清朝以前は、各グループは著しく異なる文化と言語/方言を持っていました。

添付図は G. ルチンスキー16 世紀地図

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053 2024/05/09(木) 23:46:36 ID:e44F4bCe9A
科学的人種差別(奴隷制の正当性根拠)
WW2後、理論と行動における科学的人種差別は、特にユネスコの初期の反人種差別声明「人種問題」(1950年)で正式に非難された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Scientific_racis...

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054 2024/05/17(金) 09:03:29 ID:ud.5wMrxYI
>>46
土客械闘(とかくかいとう)とは客家と本地人との対立を指す。広東省・広西省・福建省・江西省・湖南省・台湾などで発生した。類似の対立構造は明朝中期から見受けられるが、衝突の大部分は清末に発生した。>>8
 珠江デルタの客家人たちは、清軍による天地会蜂起の鎮圧に協力した。清軍は蜂起の参加者を完全に掃討するため、本地人の村を襲撃することを決定。これにより客家と本地人の対立は一層激化し、本地人たちは復讐のために客家人の村を襲撃した。村は守りを強化し、男たちは敵との戦いに集結した。戦闘は大規模な紛争に発展した。本地人の人口が客家を圧倒していたために、客家側の被害は甚大であった。清は矛盾の解決のために客家を分離する政策を取り、客家を広西省に再移住させた。その結果、五邑の客家の割合は3%にまで落ち込んだ。また敗北した客家人たちは、香港とマカオを経由して南アメリカやキューバに向けた苦力として人身売買の対象となった。客家と本地人の対立は、海外の華人社会では20世紀前半まで見受けることができた。

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